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加護のない私は溺愛を知らない  作者: 月雅


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第3話「石を積む手」

早朝の水路に、細い水音が響いていた。


三番水路の修復工事、三日目。地盤の突き固めが終わり、今日から石組みに入る。夜明け前に現場に着いて、砕石の排水層の仕上がりを確認した。指先で石の隙間を探る。均一に詰まっている。昨日、河原から運んだ砕石を自分の手で敷き詰めた甲斐があった。


「さて」


腰を伸ばして、空を見上げた。東の空が白み始めている。もうすぐ職人たちが来る。


カルムの石工は三人。それに、ラシード技師長が手配した人足が五人。小さな現場だ。前世の市役所時代なら、この規模の工事は業者に丸投げして書類仕事だけをしていた。ここでは自分が現場に立つ。


職人たちが到着したのは、日が昇ってからだった。


石工の親方らしき男が、現場を一瞥して足を止めた。顎髭の太い男で、腕が丸太のように太い。私を見て、それから水路の掘削面を見て、鼻を鳴らした。


「これを外国の小娘が設計したのか」


隣の石工に向けた声は、聞こえるように言っている。


「排水層は悪くないが、この接合の角度はどうだ。五分被せるって、紙の上ではなんとでも書けるわな」


返事はしなかった。


代わりに、積んであった石材の山から一つを選んで持ち上げた。前世の現場経験で、石の目は見分けられる。層理に沿った面を上にして、接合部の最初の一段目に据えた。


水準器を当てる。水平を確認する。隣の石との隙間に楔を差し込んで微調整する。


黙って、手を動かした。


親方が腕を組んで見ている。隣の石工も足を止めている。


二段目の石を持ち上げた。これは重い。両手で抱えて、一段目の上に据える。噛み合わせの角度を確認して、木槌で軽く叩いて位置を決める。水準器。水平。


三段目。四段目。


「……おい」


親方の声が降ってきた。手を止めず、石を据えた。


「その楔の入れ方、どこで覚えた」


「現場です」


短く答えて、五段目の石を持ち上げた。腕が震える。石工のように毎日石を扱っているわけではないから、体がついていかない。


でも手順は合っている。石の目、噛み合わせ、水平の取り方。前世で何度も見た。図面を引くだけでなく、現場の職人の手元を見ていた。あの頃は自分でやる機会はなかったけれど、目で覚えた手順が指先に残っている。


六段目を据えたところで、親方が動いた。


黙って隣に来て、石材の山から石を一つ選んだ。私が据えた列の続きに、自分の石を据え始めた。


何も言わなかった。ただ、隣で石を積み始めた。


それだけだった。それだけで充分だった。


昼を過ぎて、日差しが強くなった。


オスマン町長が現場に来た。水路の縁に立って、工事の進捗を眺めている。背筋の伸びた大柄な体が、午後の日差しの中で影を落とす。


「オスマン町長、進捗をご報告いたします。排水層の施工が完了し、本日から石組みに入りました。接合部の施工精度は計画通りです」


オスマン町長は水路を見下ろしたまま、しばらく黙っていた。


「この規模の修繕で、本当に水量が戻るのか」


低い声だった。疑問なのか、試しているのか、判断がつかない。


「水理計算上は、勾配修正と断面の拡幅で元の流量の九割まで回復する見込みです。残りの一割は、上流の分岐部の調整で補います」


「見込み、か」


それだけ言って、オスマン町長は踵を返した。振り返らなかった。


「結果を出せ」という意味なのか、「期待していない」という意味なのか。読めない。この人はいつもそうだ。二年半、何を考えているのかわからない。


ナディアさんが水筒を持って現場に来た。


「オスマン町長、怖くなかったですか?」


「怖い、というか……何を考えているかわからないのが、少し」


「あの人、いつもああですよ。でも見てないようで見てるんです。町の数字、全部頭に入ってるから」


ナディアさんは水筒を差し出しながら、現場を見回した。


「石工の親方、一緒に積んでくれてるじゃないですか。朝は文句言ってたのに」


「文句というか、当然の懐疑ですよ。紙の上の設計を信用しろと言われても、現場の人は手を動かすまでわからないですから」


「それで自分で石を積んだんですね、ルイーゼさん」


「……たまたまです。最初の一段を据えておきたかっただけで」


たまたまではない。わかっていて手を動かした。言葉で説得するより、手で見せるほうが早い。前世の現場で学んだことだ。口だけの設計者は信用されない。


でもナディアさんには、そう言えなかった。「計算してやった」と言うのは、なんだか違う気がした。


日が傾き始めた頃、工房に戻って帳面を整理した。


石組みの進捗、使った資材の量、明日の段取り。鉛筆で帳面に書き込んでいく。前世では表計算ソフトでやっていた作業を、全部手書きでやる。時間はかかるが、数字の感覚が手に残る分、こちらのほうが性に合っている。


実母が残してくれたものも、もう手元にはない。


ふと、鉛筆が止まった。帳面に向かっていたはずの目が、宙を見ていた。


持参金のことだ。実母が遺してくれた持参金は、継母エルザが管理していた。明細を見せてほしいと言ったことはない。言える立場ではなかった。出国する時、手元にあったのは使用人たちの繕い物で貯めた小銭だけだった。


実母の遺したものがどうなったのか、今となっては確かめようがない。確かめたいとも思わない。あの家のことは、もう関係ない。


鉛筆を握り直して、帳面に戻った。明日の資材手配の数字を書き込む。


工房の奥で、かすかに灯りが動いた。


ラシード技師長の作業場だ。まだ残っている。この人は私より遅くまで工房にいることが多い。王室技師長としてカルムだけでなく、公国各地のインフラ事業を統括している。書類の量は相当なはずだ。


日が完全に落ちた。工房の中が暗くなる。手元の帳面が見えにくい。


作業灯に手を伸ばしたとき、灯りが横からすっと近づいた。


ラシード技師長が、油の入った小瓶を持って立っていた。私の作業灯の油壺の蓋を開けて、黙って油を注ぎ足した。


「あの、ラシード技師長、ご自分の作業灯は」


「足りている」


一言だけ。油を注ぎ終えると、自分の作業場に戻っていった。


背中を見送った。暗い工房の中で、奥の作業場の灯りがぽつりと灯っている。


油を足してくれた。それだけのことだ。上司が部下の作業環境を整えるのは、普通のことだ。この国ではそうなのかもしれない。


芯を調整して、灯りを明るくした。帳面の数字がくっきり見える。


手を動かした。計算して、書き込んで、明日の段取りを整えた。


工房を出たのは、夜も更けてからだった。


宿舎に向かう道で、交易路の脇にある酒場の前を通りかかった。商人風の男が二人、戸口の前で立ち話をしている。カルムの町に寄る旅商人だ。交易路の整備が進めば、こういう人たちの往来も増える。


通り過ぎようとしたとき、会話の断片が耳に入った。


「ブレヒト伯爵家、知ってるか。最近、来客の段取りがひどいらしい」


足が止まりかけた。


「帳簿も合わないって話だ。前は何とかなってたらしいが、ここ一、二年で急にな」


「誰かいなくなったのか?」


「さあな。使用人の入れ替わりか何かだろう。地方伯爵家のことなんぞ、たいした話じゃない」


商人たちは笑って、酒場の中に消えた。


ブレヒト伯爵家。


私がいた家だ。


帳簿の管理も、来客の段取りも、私がやっていた。使用人扱いだったから、使用人の仕事を全部引き受けていた。出国してから二年半。引き継ぎなんてしていない。する相手もいなかった。


継母エルザは、そういう実務には興味がなかった。義弟フェリクスは十七歳で、帳簿の付け方も知らないだろう。


崩れているのだろうか、あの家は。


考えて、すぐに頭を振った。あの家のことは、もう私の問題ではない。水路を直す。明日も石を積む。今やるべきことは、それだけだ。


宿舎の自室に入って、寝台に腰を下ろした。


手を見た。石を積んだ手だ。指先が粉で白くなっている。爪の間に砂が入り込んでいる。


前世では、こういう手にはならなかった。市役所の事務机で図面を引いていただけだ。現場に出ても、見ているだけだった。


今は違う。自分の手で石を選んで、自分の手で据える。職人の隣に立って、同じ重さの石を持ち上げる。言葉が通じなくても、手を動かせば通じることがある。


石を積む。計算する。繰り返す。目の前のことに手を動かし続ける。それが、この場所で自分にできる唯一のことだ。


灯りを消して、目を閉じた。明日の段取りが頭の中に浮かぶ。接合部の七段目から先は、曲線部に入る。内壁の高さを変える区間だ。間違えれば越水する。


体は疲れていた。でも頭は冴えている。数字が回っている。止まらない。


前世もこうだった。体が限界を訴えているのに、頭が計算をやめない。あの時は、止め方を知らないまま倒れた。


今も、止め方は知らない。

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