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加護のない私は溺愛を知らない  作者: 月雅


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第2話「水路の歪み」

「あの道具箱、技師長の私物ですよ!」


朝一番、工房に入るなりナディアさんが叫んだ。棚の整理をしていた手を止めて、こちらに向き直っている。


「……おはようございます、ナディアさん」


「おはようございます! じゃなくて、聞いてます? あの道具箱ですよ、ルイーゼさんの作業台にあるやつ」


ナディアさんが指さした先に、使い込まれた革張りの道具箱がある。昨日と同じ場所に、昨日と同じように置かれている。


「あれは工房の備品では……」


「だから違うって言ったじゃないですか! 工房の備品は全部倉庫管理です。備品番号が刻んであるの見たことないでしょう? あの道具箱にはないんですよ」


言われてみれば、確かに。倉庫から持ち出す備品には小さな番号が焼き印で入っている。あの道具箱には、ない。二年半、毎日使っていたのに気づかなかった。


「二年半ですよ? 二年半もここにいて、自分の作業台に誰かの私物が置いてあるのに気づかないって、どういう神経してるんですか!」


「いえ、その……赴任した日から当たり前にあったので」


「だからおかしいんですって! 赴任初日に、新入りの技師の作業台にわざわざ私物の道具箱を置くなんて、普通しないでしょう?」


ナディアさんの声が工房に響く。奥のラシード技師長の作業場にも届いているはずだが、反応はない。


「……で、誰の私物なんですか」


「あたしの口からは言いません。自分で聞いてください」


そう言って、ナディアさんはにやりと笑い、棚に向き直った。


聞いてください、と言われても。二年半黙って使っていた道具箱の持ち主に、今さら「あなたのですか」と聞くのは気が引ける。


それに今は水路のほうが先だ。昨日ラシード技師長に承認された修復計画を、具体的な施工手順に落とし込まなければならない。


道具箱を手に取った。中から巻き尺と水準器を出す。誰のものであっても、道具は道具だ。使わせてもらう。


午前中、三番水路の現場に出た。


ラシード技師長が先に来ていた。水路の縁に片膝をつき、石組みの隙間に手を差し込んでいる。


「ラシード技師長、測量を始めてよろしいでしょうか」


頷きが返った。


私は巻き尺を伸ばして、水路の全長を区間ごとに測り直した。二年半の補修記録は手元にあるが、全体の勾配を通しで測ったのは赴任時以来だ。


水準器を当てる。数値を読む。帳面に書き込む。


「……ここ、沈下してる」


独り言が漏れた。三番水路の中間地点、商人通りの裏手。石組みの基礎が地盤ごと数センチ沈んでいる。部分補修ではどうにもならない。基礎から組み直すしかない。


前世なら、こういう場合は地盤改良から入る。セメント系の固化材を注入して地盤を安定させてから、暗渠を敷設する。でもこの世界にセメントはない。


「粘土層を突き固めて、砕石で排水層を作って、その上に石組み」


声に出して手順を組み立てた。前世の道路工事で見た工法の応用だ。材料はこの土地にあるもので代替する。粘土はカルムの東の丘陵から採れる。砕石は水路沿いの河原で調達できる。


問題は石組みだった。この世界の石工の技術は高い。だがカルムは辺境の町で、熟練の石工が少ない。今の人員で、どこまでの精度が出せるか。


図面を地面に広げて、施工手順を書き込んでいく。鉛筆が速くなる。


ふと気配を感じて顔を上げると、ラシード技師長が隣に立っていた。私の図面を見下ろしている。


「この断面、どう思われますか。排水層の厚さをもう少し取ったほうがいいでしょうか」


図面を差し出した。ラシード技師長は受け取らず、しゃがみ込んで地面に広がった図面に目を落とした。


「排水層はこれでいい。問題は接合部だ」


急に言葉が増えた。


「既存の石組みと新設部分の接合。ここに段差が出ると水が滞留する。滞留した水は石組みの裏側に回る。凍結と融解を繰り返せば、三年で同じ沈下が起きる」


右手が図面の上を走る。接合部の断面を、指先で描いてみせる。


「接合面を斜めに切って、噛み合わせにしろ。上流側の石を下流側に五分、被せる形で」


声が低く、速い。前世の上司は設計会議で怒鳴るばかりだったが、この人は違う。指先が図面をなぞるたび、構造の道理がそのまま言葉になって出てくる。


「それと、ここの曲線部。流速が変わる。内側の壁を十五センチ高く積め。越水を防ぐ」


「曲線部の内側を上げるんですね。流体が遠心力で外側に寄る分、内側に余裕を持たせる」


「……ああ」


ラシード技師長が一瞬止まった。こちらを見た。


「遠心力、という言い方は初めて聞いた」


しまった。前世の用語が出た。


「あの、水の流れが曲がるところで外側に力がかかる、という意味で……この地方では別の言い方がありますか」


「いや。意味はわかる」


短く答えて、また図面に目を落とした。表情は読めない。ただ、さっきまでの饒舌が途切れた。


私は鉛筆で接合部の詳細図を描き足した。ラシード技師長の指摘通り、斜めの噛み合わせ。上流側を被せる。曲線部の内壁を高く。


描き終えた図面をラシード技師長に見せた。


「……ああ」


頷き一つ。それ以上は何も言わなかった。


私は図面を丸め直して、現場の測量を続けた。ラシード技師長は水路の下流側を一人で歩き始めた。背中が遠ざかっていく。


技術の話をしている時だけ、この人は長く喋る。それ以外は沈黙に戻る。二年半一緒に働いてきて、変わらない。


でも今日、あの人が私の図面にしゃがみ込んで指を走らせた時間は、二年半で一番長かった気がする。


図面を見て、頷いてもらえた。


昨日の承認とは違う。今日は同じ地面にしゃがんで、同じ図面を見て、技術の話をした。それだけだ。それだけのことが、少しだけ嬉しい。


嬉しい、と思ってから、自分で驚いた。前世でも今世でも、仕事で「嬉しい」と感じたことはあまりなかった。


夕方、工房に戻って施工計画書をまとめた。


日が落ちてから、工房の食堂で夕食を取った。招聘制度で提供される宿舎と食堂は、工房の裏手にある。質素だが温かい食事が一日二回出る。月給から差し引かれるわけではなく、制度の一部として提供される。


食堂には工房の職人が数人いた。カルムの町の人たちだ。


私が席に着くと、会話が少し途切れた。二年半いても、こういうことはある。外国の技師で、女で、しかもほとんど喋らない。距離があるのは仕方がない。


敵意はない。ただ関心もない。ヴェルトハイムの伯爵家にいた頃と同じだ。


違うのは、ここでは仕事がある。仕事で手を動かせる。それだけで充分だった。


ナディアさんが向かいの席に座った。盆の上に皿を並べながら、声を落とした。


「ルイーゼさん、前にいた国の話って、あんまりしないですよね」


「……あまり話すことがないので」


「でも、伯爵家のお嬢様だったんですよね? この前の書類で見ちゃったんですけど」


経歴書か。招聘制度の応募時に提出した書類に、出身家門の記載がある。


「名前だけです。実態は使用人みたいなものでした」


自分で言って、声が平坦なのに気づいた。怒りもない。悲しみもない。そういうものだった、というだけだ。


「加護がなかったので。あの国では、加護が社会的な信用を決めます。加護のない伯爵令嬢は、いないのと同じです」


「……それで、婚約も?」


「ええ。退屈な女だと言われました」


ナディアさんのスプーンが止まった。


「退屈って……ルイーゼさんが? あの図面を引く人が?」


「図面は関係ないですよ。あの国では技術より加護です」


「信じらんない」


ナディアさんが小さく息を吐いた。怒りとも呆れともつかない顔だ。


「この国に来てよかったじゃないですか。ここじゃ加護なんて誰も気にしないし、図面が引ける人のほうがよっぽど偉いですよ」


偉い、とは思わない。でもここでは図面を引くことが許される。それだけで、あの国を出た意味はあった。


「……ナディアさん」


「はい?」


「ありがとうございます」


「え、何がですか?」


「聞いてくれて」


ナディアさんが目を丸くした。それから慌てて手を振った。


「いや別に、あたしが聞きたかっただけですから! お礼とか変ですよ!」


食堂の職人たちが、こちらをちらりと見て、すぐに自分の皿に視線を戻した。関心はないが、敵意もない。温かくはない距離。


それでいい。


施工計画書は明日の朝、ラシード技師長に提出する。承認が出れば、着工だ。


スプーンを置いて、席を立った。食堂の窓の外に、カルムの夜が広がっていた。星が見える。ヴェルトハイムの屋敷からも星は見えたが、あの頃は空を見上げる余裕がなかった。


今は見上げている。水路を直す仕事がある。明日の測量の段取りが頭にある。それだけで、足が地面についている感じがする。


図面を認めてもらえるかどうかは、まだわからない。オスマン町長は「結果を見る」としか言わなかった。町の人たちは、まだこちらを見ていない。


でも、水路は直せる。計算は合っている。手を動かせば、形になる。


工房に戻って、明日の測量道具を準備した。革張りの道具箱を開けて、巻き尺と水準器を確認する。


誰かの私物。二年半前から、ここにある。


持ち主のことは、まだ聞けていない。

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