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加護のない私は溺愛を知らない  作者: 月雅


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第10話「二つの道具箱」

最後の一通は、短かった。


夜明け前の宿舎の部屋で、木箱から取り出した。昨夜読めなかった百二十七通目。他の手紙とは違う新しい紙に、短い文章が書かれていた。


「俺はお前の仕事を見ていた。ずっと。この町に来てからは、お前を見ている。仕事だけじゃなく、全部」


それだけだった。


百二十六通の手紙は、技術メモから始まって、少しずつ「あなた」に近づいて、上司と部下の境界線を越えて、長い言葉で感情を綴るようになっていった。なのに最後の一通だけは、短かった。


書き言葉では何頁も書けるのに、話し言葉では三語しか繋げられない人。その人が最後に書いた手紙が、これだった。長い言葉を削って削って、残ったのがこれだった。


涙が出た。昨夜とは違う涙だった。昨夜は百二十六通の重さに泣いた。今朝は、この短さに泣いた。


泣きながら、笑っていた。自分でもおかしいと思った。でも止まらなかった。


窓の外が白み始めた頃、机に向かった。


宿舎の部屋の小さな机。帳面をつけるために使っていた机の上に、便箋を一枚広げた。工房の備品ではなく、カルムの市場で買った安い紙だ。月給の中からわずかに貯めた小遣いで、文具を買うことがある。


鉛筆を取った。


帰還要請への返書を書く。宛先はブレヒト伯爵フリードリッヒ・フォン・ヴェルナー。父の名前だ。


「戻りません」


二文字書いて、鉛筆が止まった。


これだけでいいのだろうか。もっと理由を書くべきだろうか。あの家のために何かできることはないかと、考えるべきだろうか。


鉛筆を握り直した。


父フリードリッヒのことを考えた。気弱で、継母エルザの意向を追認するだけの人。私が出て行く時も、引き留めなかった。止めなかった。でも、見送りもしなかった。玄関に立つ私の背中を、廊下の奥から見ていたことを、私は知っている。


かすかな愛着はある。あの人なりに、何かを感じてはいたのだろう。でもそれは、行動にはならなかった。行動にならない感情は、受け取り手には届かない。


ラシードさんは違った。


感情を言葉にできない代わりに、行動にした。道具箱を置いた。薬湯を運んだ。作業台を動かした。食事を取り置かせた。そして、百二十七通の手紙を書いた。声にできない言葉を、全部、紙の上に残した。


行動にならない感情と、言葉にならないまま行動になった感情と。その差が、今の私の答えを決めている。


便箋に続きを書いた。


「お心遣いには感謝いたします。しかし、私はサラディーン公国の招聘制度に基づきカルムに在留しており、本人の意思により残留いたします。帰国の予定はございません」


短い返書だった。これ以上書くことはなかった。伯爵家の当主に対する書式は、屋敷にいた頃に覚えた作法で整えた。丁寧で、正式で、それ以上の感情を載せない文面。


便箋を折り畳み、封をした。外交ルートで送る手続きは、ラシードさんに頼めばいい。行政文書の送付はラシードさんの権限の範囲内だ。


封書を机の上に置いた。


自分の意思で、決めた。帰らない。ここに残る。これが、二十二年の人生で初めて自分で下した選択だった。


朝の光が工房を照らしていた。


扉を開けて中に入ると、ラシードさんがいた。自分の作業場ではなく、私の作業台の前に立っていた。作業台の上には何もない。昨夜の木箱もない。ラシードさんが持ち帰ったのだろう。


ラシードさんの顔は、昨夜とは違っていた。昨夜の硬さが消えて、代わりに疲労と、その奥にある静かな緊張が見えた。眠れなかったのだろう。私もだ。


「ラシード」


呼んだ。


「さん」も「技師長」もつけなかった。


ラシードさんの——ラシードの目が、わずかに見開かれた。口が開いて、閉じた。喉が動いた。


「……ルイーゼ」


低い声だった。かすれていた。私の名前を、この人が呼んだのは初めてだった。工房の中で「ヴェルナー」以外の名前で呼ばれたことは一度もなかった。


その声が、胸の奥まで届いた。


「手紙、読みました。全部」


「……ああ」


「五年分。百二十七通。全部読みました」


ラシードが黙って頷いた。顎の線が強張っている。


「知っていたんですね。赴任の前から。私の境遇も、加護がないことも、屋敷で透明だったことも」


「……ああ」


「それで、道具箱を置いたんですね。赴任の初日に」


「お前が——」


言葉が途切れた。ラシードの右手が拳を作って、開いた。


「お前が来るとわかった時に、用意した。工房に何もなかったら困るだろうと。それだけだった。それだけのつもりだった」


それだけのつもり。でもそれは、五年間書き続けた手紙と同じ根から出た行動だ。声にならない感情が、道具箱になった。薬湯になった。作業台の位置になった。百二十七通の手紙になった。


「怒っていますか」


ラシードが聞いた。低い声だった。目がこちらを見ている。恐れている目だった。この人が何かを恐れている顔を見るのは、初めてだった。


「知っていたことを、黙っていたこと。対等な技師ではなかったかもしれないこと。怒っているなら——」


「怒ってないです」


遮った。声が震えた。


「怒ってない。動揺はしました。昨夜は、頭の中がぐちゃぐちゃでした。でも」


鉛筆を置いた帳面を取り出した。いや、帳面ではない。宿舎で書いた封書だ。帰還要請への返書。


ラシードの前に差し出した。


「帰還要請への返書です。外交ルートでの送付をお願いできますか」


ラシードが封書を受け取った。指先が触れた。冷たい手だった。


「……開けていいか」


「はい」


封を切って、便箋を広げた。短い文面を読む目が、途中で止まった。


「戻りません」の文字を見た瞬間、ラシードの肩が落ちた。力が抜けたように。こわばっていた全身から、何かが流れ出したように。


「俺は——」


「ラシード」


名前を呼んだ。今度は、自分から。


「私も、あなたの仕事を見ていました」


ラシードが顔を上げた。


「技術の話をする時に止まらなくなるところ。我に返って黙り込むところ。感情が言葉にならないから行動に出るところ。全部、見ていました」


声が震えている。でも、止めなかった。


「五年分の手紙を読んで、わかりました。あなたは書き言葉では何頁も書ける人だった。話し言葉では三語しか繋げられないのに。その断絶が、百二十七通を作ったんですね」


ラシードが目を伏せた。それから、もう一度こちらを見た。黒い目が光っていた。涙ではない。朝の光が映り込んでいるだけだ。でも、今まで見たどの表情とも違っていた。


「……ああ」


一語。それだけ。でも、その一語に込められた安堵を、私は受け取れた。


作業台に、道具箱が二つ並んでいた。


一つは革張りの古い箱。ラシードが赴任初日に置いた私物の道具箱。二年半以上、私が毎日使ってきた箱。もう一つは、工房の倉庫から出した新しい備品の箱。中身は同じ測量道具一式だが、こちらには備品番号の焼き印が入っている。


ラシードが、古い道具箱の隣に新しい箱を置いた。


「これからは二人分いる」


短い言葉だった。でも、その意味はわかった。


私が図面を広げた。新しい図面だ。橋が完成した今、次に必要なのは交易路の整備計画。カルムから南へ延びる道の改修。規模は橋よりも大きい。


ラシードが隣に立った。図面を覗き込む。肩が触れそうな距離。以前と同じ距離だが、今は意味が違っている。


「この区間の路盤、粘土層が浅い。砕石を厚く敷く必要がある」


技術の話が始まった。低く、速く、滑らかな声。止まらなくなる言葉。走り出す指先。


でも今日は、我に返って黙り込まなかった。


言葉が途切れた時、ラシードはこちらを見て、少し間を置いて、続きを話した。途切れることを恐れなくなっていた。


二つの道具箱が、作業台の上に並んでいる。古い革張りの箱と、新しい備品の箱。片方は五年前の感情から生まれ、もう片方はこれからの仕事のためにある。


工房の扉が開いて、ナディアが入ってきた。


「おはようございま——」


二つの道具箱と、並んで図面を覗き込む二人の姿を見て、足を止めた。


「……え、何か、変わりました?」


「何も変わっていないぞ」


ラシードが図面に目を落としたまま答えた。


「いえ、変わりました」


私が言った。ラシードが横を向いた。


「帰還要請を断りました。ここに残ります」


ナディアの目が大きくなった。口が開いた。


「残る——残るんですか!?」


「はい。自分で選びました」


ナディアが一瞬固まって、それから、目を潤ませた。


「よかった。よかったです、ルイーゼさん」


鼻をすすって、棚に向かった。背中が小さく震えている。


カルムの朝が始まっている。工房の窓から差し込む光が、作業台の上の二つの道具箱を照らしている。図面の上に、二人分の影が落ちている。


私は転生令嬢で、溺愛を知らなかった。そう思っていた。五年分の書簡が届くまでは。


(完)


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