第1話「道具箱と図面」
砂の混じった風を押しのけて、工房の扉を開けた。
作業台の上に広げたままの図面が、風にめくれそうになる。慌てて手で押さえた。昨夜の続きだ。カルムの東側水路、本流から分岐する三番水路の勾配計算。二年半ここで暮らして、日々の補修でごまかしてきたけれど、もう限界だった。
「……〇・三パーセント。いや、石組みの粗さを考えると〇・四は見ないと」
独り言が出る。これは前世の癖だ。
前の人生では、日本という国の市役所で土木の仕事をしていた。朝から晩まで水道管の図面と格闘して、二十九歳で死んだ。くも膜下出血。深夜のオフィスで倒れて、そのまま。
目が覚めたら、ヴェルトハイム王国ブレヒト伯爵家の長女ルイーゼ・ヴェルナーになっていた。
伯爵令嬢。響きだけは立派だ。
けれど加護がなかった。この世界では精霊の加護が社会的な信用を決める。加護のない伯爵令嬢は、屋敷の中で透明人間と同じだった。
継母エルザは、自分の連れ子だけを見ていた。父は何も言わなかった。婚約者だったディートリッヒ・フォン・ヘッセには「退屈な女だ」と言われて、婚約を破棄された。
だから出た。
サラディーン公国の「外国人技師招聘制度」。三年任期で技師を受け入れる制度があると、商人ギルドの掲示で知った。加護ではなく技術で人を評価する国。図面と経歴書を送ったら、採用された。
手間賃でためた路銀を握りしめて国境を越えたのが、二年半前のことだ。
「ルイーゼさーん、おはようございます!」
扉の向こうから声が飛んできた。ナディアさんだ。工房の見習いで、十九歳。朝から元気がいい。
「おはようございます、ナディアさん」
「また徹夜ですか? 目の下すごいことになってますよ!」
「徹夜じゃないです。明け方には少し寝ました」
「それ徹夜って言うんですよ!」
ナディアさんは工房の事務仕事をこなしながら、技師を目指している。早口で、空気を読まない発言で場を凍らせることもあるけれど、この工房で最初に話しかけてくれた人だ。
「三番水路の修復計画、まとめたんです。今日、ラシード技師長に出そうと思って」
「え、あの水路って二年くらいずっとだましだましで来てたやつですよね?」
「はい。もう部分補修では限界です。勾配を取り直して、石組みから全部やり直さないと」
大規模な修復は、私がここに来てから一度も手がけたことがない。日々の小さな補修だけをこなして、二年半が経った。でも図面は引けた。前世の知識がある。コンクリートは使えないけれど、石と木と、この土地の粘土質の土で代替する工法は計算できた。
「すごくない? ルイーゼさんが自分から大きい仕事やりたいって言うの、初めてじゃないですか?」
「やりたい、というか。壊れたものを放置できないだけです」
自分から動くのは得意じゃない。前の人�生でも、言われた仕事をこなすだけだった。成果は上司に取られた。それでも手を動かすことだけはやめなかった。
今回もそうだ。直せるなら、直す。それだけでいい。
図面を丸めて、工房の奥へ向かった。
ラシード技師長の作業場は、工房の一番奥にある。サラディーン公国の王室技師長。この国のインフラ事業を統括する要職の人が、なぜか辺境の町カルムに常駐している。二年半一緒に働いてきて、この人のことはまだよくわからない。
寡黙だ。返事は頷きか、単語一つ。「ああ」「いや」「……そうだな」。表情はほとんど動かない。
ただ、技術の話になると、別人になる。止まらなくなる。それを知っているのは、たぶん工房の人間だけだ。
「ラシード技師長、お時間よろしいでしょうか」
声をかけると、図面を広げていた手が止まった。顔を上げる。黒い目がこちらを見た。
「三番水路の本格修復について、計画をまとめました。ご確認いただけますか」
丸めた図面を差し出した。ラシード技師長は無言で受け取り、作業台に広げた。
私は横に立って、計算の根拠を説明した。現在の水量と勾配の不整合。石組みの劣化箇所。修復後の想定流速。必要な資材と工期の見積もり。
説明している間、ラシード技師長は一言も発しなかった。
図面の上を指でなぞっていた。勾配の数字。断面図。水理計算の注記。何度も往復して、なぞっていた。
長い沈黙があった。
二年半、この人と働いてきた。日常の補修報告では、こんなに長く黙り込むことはなかった。
まずかっただろうか。出過ぎたことをしたかもしれない。ここでは技師として対等に扱ってもらえるとはいえ、私は外国人の雇われ技師で、この人は王室技師長だ。
「……やれ」
一言だった。
顔を上げると、ラシード技師長は図面から目を離さないまま、小さく頷いた。
「この勾配で合っている。進めろ」
承認された。
胸の中で、小さく何かが動いた。でもそれは「認められた」という感情ではなかった、と思う。壊れた水路を直せる。その許可が出た。それだけだ。
「ありがとうございます。すぐに着工計画をまとめます」
頭を下げて、作業場を出た。
自分の作業台に戻ったとき、ふと気がついた。
机の端に置いてある道具箱。使い込まれた革張りの箱で、中には測量用の道具一式が入っている。巻き尺、水準器、コンパス、分度器。この世界の技師が使う基本道具が、全部揃っている。
赴任初日から、ここにあった。
最初は工房の備品だと思っていた。作業台に付属する共用の道具。二年半、普通に使っていた。
「あー、ルイーゼさん」
ナディアさんが棚の書類を整理しながら、こちらを見た。
「二年半ここにいて、あの道具箱がまだ工房の備品だと思ってるんですか?」
「え?」
「工房の備品は倉庫にまとめて管理してますよ。作業台に最初から置いてある道具箱なんてないです」
「……でも、赴任した日から」
「だから変なんですって。誰かが置いたんですよ、ルイーゼさんの作業台に」
ナディアさんは何か言いたそうに口を開きかけて、棚に向き直った。
「まあ、いいです。いつかわかりますよ」
意味がわからなかった。備品でないなら、誰が置いたのだろう。二年半も前に。
気にはなったけれど、今は水路のほうが先だ。道具箱を手に取って、測量の準備を始めた。
午後、壊れかけた三番水路の現場に足を運んだあと、町の行政庁舎へ向かった。
カルムの町長、オスマン・アル=サラーフ。五十八歳、元軍人。この町の行政を一手に引き受けている人だ。
執務室に通されると、白髪交じりの大柄な男が、書類の山の向こうから顔を上げた。
「水路の修復計画をまとめました。ラシード技師長からは承認をいただいています。オスマン町長にもご報告をと思いまして」
オスマン町長は図面を受け取ったが、広げなかった。机の端に置いて、こちらを見た。
目が動かない。表情も動かない。
「……二年半、補修を続けとったな」
低い声だった。
「はい。ですが限界です。抜本的な修復をしなければ、交易路への給水に支障が出ます」
「ふむ」
それだけだった。賛成とも反対とも言わない。机の端に置かれた図面を一度だけ見て、視線を戻した。
「結果を見る」
三語。それ以上は何もなかった。
頭を下げて、庁舎を出た。
歓迎されているのかどうか、わからない。二年半ここにいても、オスマン町長の考えていることは読めない。
でも、それでいい。
私は仕事をするためにここにいる。見てもらうためじゃない。水路を直す。計算して、石を積んで、水を通す。それが終わったら、次の仕事をする。
二年半。ここでも、私はずっとそうやって生きてきた。
工房に戻ると、西日が作業台を照らしていた。革張りの道具箱が、夕陽を受けて鈍く光っている。
誰かが置いた道具箱。二年半前から。
考えても仕方がない。明日から測量を始める。やることは山ほどある。
図面を広げ直して、鉛筆を取った。




