クローバー
この小説は完全なフィクションです。
ゴール前のスタンドに立ち、青々としたターフを眺めていた。空は澄み渡り、浮かんでいる雲の微妙な厚みが春を通り越してしまったことを感じさせる。遠く京都の空の下では春の盾とりが行われるが、朝早い裏開催とあってまだ身動きが取れないというほどの人出ではない。
ぼんやりと伸ばした視界の端を小さな男の子が駆け抜けていった。二足歩行がスムーズになって、それだけで楽しい年頃なのだろう。きゃっきゃと声を上げながらその足の長さからは想像の出来ない速さで走っていく。後を追いかける母親は大きな荷物を肩から掛けて紫外線対策のつばの広い帽子を押さえながら中腰になって坊やを捕まえにかかろうとするがうまくいかない。
その光景に微笑みながら、ちくりと心を刺す感覚に気がつかないふりをするために、帽子を深く被りなおした。
スタンドの中をパドックへ通り抜けようとすると、ぷんと香ばしい油の匂いが鼻をくすぐった。唐揚げかコロッケだろうか。舌の根がじんわりと濡れるが、これから一生ダイエットをしていく彼の顔が浮かんで立ち止まることなく通り過ぎ、自動販売機の前に立った。
少し悩んで温かいコーヒーを買った。紙コップにコーヒーが注がれている間に彼とお揃いの腕時計を見た。彼は子供たちと合流したところだろうか。私がサラブレッドを見ている間、彼らはたくさんの種類の動物を見に行く。一番下の子供はまだ小さい。元妻も一緒だろう。また胸がちくりとしたが、安いコーヒーとミルクの匂いでかきけした。
誰もいないパドックを見下ろしながら歩く。引退した企業戦士たちがお茶を酌み交わしながら昨日のレースの話をしている。初めてデートに来たようなカップルが肩を寄せ合い、庭園のほうを指差している。すっかり花の落ちた桜は、柔らかい葉をこすり合わせている。
コーヒーを煽り、蹄鉄形の今川焼もぐっと我慢して陽のあたる場所を探した。ぽっかりと空いた陽だまりで、二人の女の子が地面を皿のような目で見つめていた。クローバーが足元を埋め尽くしている。四つ葉を探しているのだろう。
私は二人を視界の端に腰をおろした。
幸せを呼ぶという四つ葉は、私には不吉なシンボルだった。去年、一つ目を見つけた時は、二日後に祖母が死んだ。二つ目を見つけた時は――もしも二つ目を見つけなかったら、私は今ここにはいない。彼は――それでも動物園にいっただろう。
簡単なことだ。そう思っていた。
私の両親も離婚していて、父親はすぐに再婚した。そのことにこだわりはない。彼の子供たちのこともそれほど心配も気にもしていない。
母は父に未練を感じさせなかった。だから、私が新しい恋人の立場になっても何も気にならないだろうと高を括っていた。
母は確かに執着していなかったが、父はどうだったのだろう。どこかでその関係を冷凍食品のようにとらえていて、必要になれば温めなおせると思っていたのではないか。そんな疑心が気持ちを曇らせる。
二つ目の四つ葉のクローバーを見つけた時は、私たちの息子が死んだ。
彼は産むことに難色を示した。離婚からまだ一年もたっていないから、今の子供たちだけで養育が大変だから、仕事が忙しいから――私は断念する理由を一心に並べて自分を納得させようとしていた。
努力は水の泡と消えた。息子は私のお腹の中で死んだ。たった二ヶ月の命だった。それでも私には息子だとわかった。
彼は病院には来なかった。私たちはすべてなかったことにして、それまでと同じ生活に戻った。
――もしも四つ葉を見つけなければ、私は今頃、さわやかな風の吹き抜ける部屋で息子をあやしていたのだろうか。
地面にへばりついている女の子の一人は、小さな水筒を下げていた。私が朝、テーブルに置いてきた水筒と同じ形のものだった。血糖値を下げるお茶を沸かし、夕飯後の分までの薬をピルケースに入れてまだ眠っている彼を残し部屋を出た。もしも私と別れても、彼は一生病と付き合っていかなくてはいけない。厄介なものだ。
彼の病気が発覚した時――といってもいかにもという体型だから、成人病のどれが先かとはうすうす思っていたのだが――複雑な気分になった。
闘病する男とだけは付き合いたくないと常日頃から思っていた。それが恐ろしく地道で、だからこそ続けていくのが難しく、なのに進行すれば週に三日の通院や脚の切断など、大変なことが待っている。
病気に偏見を持っているわけではなく、大変なことになった相手を支えていける自信がなかった。私が看病にあたる相手が気の毒だ。だから例え世界中の男性の三分の二が病気になっても、私は三分の一を探して付き合っていこうとすら考えていた。
彼はお昼に何を食べるんだろう。夕食は楽しく食べられるのだろうか。そんなことを考えている自分に気がついて首を振った。元妻も病気のことは知っている。今日は私の仕事ではない。考えるのをよそう。
パドックに馬が出てくる気配がして、私は立ち上がった。
「あった! あったよ!」甲高い子供の声が私の背中を追いかけてきた。
最終レースを終えて、バスに乗り、部屋へ戻った。着替えを終えるとインターフォンがなった。モニターには彼が映っていた。
「早かったのね」私が玄関のドアを開けながらいうと、彼はにこにこしながら水筒を差出し、
「儲かったの?」と聞いた。私は親指と人差し指で一センチくらいの隙間を作って笑い返した。
「同じ水筒を持ってた子が四つ葉のクローバーを見つけてたわ」空っぽになった水筒を洗いながら、着替えをしている彼にいった。彼はふうん、と鼻をならした。
「俺は三つ葉のほうが好きだな。ハートが三つくっついて大きなハートになってるみたいで」そういってから、柄にもないことをいったというように目を合わせず、冷蔵庫を開けた。
「晩御飯は何?」
「食べてこなかったの?」
「うん。お前の作った飯が食べたかったから」私たちは豆腐やらこんにゃくやら鶏のささ身やらのたくさん詰まった冷蔵庫をのぞきこんだ。彼は少しはましにはなったもののまだまだでっぷりとした逆ハート型のお腹を撫でた。
私たちはしばらくの間、二つのお尻をぷりんとハート型に突き出して並べ、冷蔵庫の中に首を突っ込んでいた。
はからずとも、50作目となりました。
万人にいいものが書けるとは思いません。書きたいことや、書いておかなくては後悔することを、娘やまだみぬ孫や曾孫に、恥ずかしくないように書きたい。
ここまでお付き合いいただいてありがとうございます。肯定でも否定でも、それほど強くなくても、有意義な5分であったことを祈っております。