聖女ふたたび
静かに満月の光で包まれる、古き良き王国エルドレア。その聖なる都の、まばゆいばかりに輝く大聖堂には、二人の乙女がいた。
人々に希望の光をもたらす、稀有な力を持つ聖女。その名は、ジニア。
そしてもう一人、彼女と同じく、あるいはジニア以上の聖女の力を持つのが、オリビアだった。
ジニアの瞳は、朝露に濡れたスミレのように澄み、その微笑みは凍てついた心を溶かすような温かさに満ちていた。彼女が祈りを捧げれば、傷は癒え、疫病は退き、乾いた大地に恵みの雨が降ると信じられていた。人々は彼女を「光の聖女」と呼び、その存在は王国の繁栄そのものだった。
一方、オリビアは、燃えるような赤銅色の髪と、鋭い光を宿した瞳を持っていた。彼女の魔法は、ジニアのそれとは異なり、もっと力強く、そしてどこか冷徹な印象を与えた。結界を張り巡らせ、魔物を打ち払う力は比類なく、王国を守る盾として欠かせない存在だった。
しかし、最近のオリビアの顔には、影が落ちていることが多かった。
二人の聖女は、それぞれ異なる輝きを放ち、エルドレア王国にとってかけがえのない存在だった。しかし、その輝きはわずかではあるが確実に、少しずつ失われていた。
二人の聖女は、日々の祈りや聖務を共にこなした。人々はジニアを慕い、その周りには常に優しい笑顔と感謝の言葉が溢れていた。ジニアは、そんな状況を気負うことなく、ただひたすらに、人々のためにその力を使っていた。
ジニアにとって、オリビアは頼りになる聖女であり、深く敬愛する存在だった。オリビアの持つ力強い魔法、そして聖女としての毅然とした振る舞いは、ジニアにとって学ぶべきことばかりで、心から敬意を払っていた。
しかし、オリビアの心の中は、ジニアが想像するよりもずっと複雑だった。彼女はジニアの輝きを間近で見るたびに、胸の奥でくすぶる嫉妬の炎を感じていた。幼い頃から聖女としての訓練を積み、誰よりも努力してきた自負があった。力ではジニアに劣るどころか、時には上回ることもあったはずだ。
それなのに、人々が求めるのは、癒しと慈愛に満ちたジニアの微笑みばかり。
「どうして……どうして、いつも私ではないの?」
オリビアの心には、言葉にできない疎外感がよどみのように溜まっていた。
誰もがジニアを「光の聖女」と呼び、自分はまるでその影であるかのように感じられた。
ジニアの存在は、オリビアにとって、自身が築き上げてきた「居場所」を、少しずつ、しかし確実に侵食していくかのように思われたのだ。
表面上は穏やかにジニアと接しながらも、オリビアの心には、小さく亀裂がはいってしまった。
オリビアの心に生じた小さなひび割れは、時が経つにつれて徐々にその幅を広げていった。
ジニアの無邪気な優しさも、人々からの賛美も、彼女の目には自分の存在を否定する輝きにしか映らなかった。その心の奥底で、暗く冷たい感情が渦を巻き、やがて彼女自身をも蝕み始める。
その心の隙に付け込んだのが、悪いお妃、マスケロだった。
王宮の奥深くに住まう彼女は、表面上は優雅で穏やかだが、その内には常に冷酷な野心を秘めていた。マスケロは、聖女たちの清らかな力が自分たちの権力を脅かす存在だと考えていた。特に、民衆からの絶大な支持を集める二人の聖女は、彼女にとって邪魔でしかなかったのだ。
マスケロは、古くから伝わる禁断の知識、すなわち悪魔を操る術を持っていた。
彼女はオリビアの心の闇を敏感に察知し、好機と見た。
ある夜、一人瞑想にふけるオリビアの前に、マスケロが送り込んだ一匹の影のような悪魔が現れた。
それは実体を持たず、しかし囁きかける声はオリビアの心の奥底に直接響いた。
「お前は、このまま影として生きるのか? お前の努力は、全て無駄だとでも言うのか? ジニアがいなくなれば、お前は国で唯一の聖女としてふたたび尊敬されるのだぞ」
悪魔の言葉は、オリビアの心に巣食う劣等感と嫉妬を刺激し、増幅させた。まるで毒のように、悪魔の囁きはオリビアの純粋だった心を侵し、ジニアへの憎悪を募らせていった。
オリビアは、ジニアへの嫉妬と、自分を認めない世界への不満に囚われ、その瞳の光は、以前にも増して鋭く、そして暗いものへと変貌していった。彼女の心は、完全にマスケロの悪魔の手に落ちてしまったのだ。
マスケロは、狡猾な策略でジニアを陥れる準備を進めた。彼女は王宮の侍女たちや騎士、さらには一部の貴族たちにまで甘言を弄し、ジニアへの悪意の種を植え付けた。ジニアが起こした奇跡は、実は悪の力による魔術なのだと囁かれ、彼女の聖女としての力は、かえって人々の不安を煽るものへと歪められていった。
人々は、自分たちの耳に届く噂と、これまで見てきたジニアの姿との間で、疑心暗鬼に陥っていった。
そして、悪魔に唆され、心の闇を深めたオリビアは、この状況を決定づける行動に出た。王宮の前に人々を集め、公衆の面前で堂々と宣言したのだ。
「真の聖女は、この私、オリビアです。あの娘、ジニアの力は、まがいもの。王国を欺く、偽りの輝きに過ぎない!」
オリビアの声は、魔法のように人々の心に響き、混乱を招いた。
彼女は、マスケロが用意した偽りの証拠を提示し、ジニアが禁忌の魔術を使っていると告発した。
長年、聖女として人々を支えてきたオリビアの言葉は、疑念を抱き始めていた人々の心に、決定的な烙印を押した。
ジニアは、突如として降りかかった非難の嵐に、ただただ戸惑うばかりだった。愛する人々からの冷たい視線、尊敬し、愛していたオリビアの仕打ち。
彼女は必死に潔白を訴えたが、マスケロとオリビアが周到に仕組んだ策略の前には、その声は届かなかった。周囲の人間は、次々と彼女から離れていった。
夜が更け、ジニアは大聖堂の薄暗い回廊に、たった一人で座り込んでいた。
かつて自分を慕い、温かい言葉をかけてくれたはずの人々の顔が、今は憎悪と軽蔑に歪んで見えた。オリビアの冷たい瞳が、彼女の心に深く突き刺さる。そして、どこからともなく聞こえるマスケロの嘲笑が、ジニアの心をさらに深く抉った。
彼女は、自分が築き上げてきた全てが、まるで子どもが作った砂のお城のように崩れ去っていくのを感じた。信頼していた人々に裏切られ、愛する場所を奪われ、オリビアに愛されなくなったジニアは、もはや逃げ場のない孤立無援の状態へと追い詰められていった。
ついに、ジニアの運命は、残酷な断罪の日を迎えた。
王宮の広間には、マスケロお妃とオリビアが並び立ち、彼らの背後には、冷たい眼差しの貴族たちが控えていた。ジニアは、衛兵に両腕を拘束され、人々の好奇と憎悪が入り混じった視線に晒されていた。
「この偽りの聖女、ジニアは、禁忌の魔術を使い、王国を欺いた罪により、聖女の称号を剥奪される。そして、二度と人々の前に姿を現すことのないよう、最も穢れた場所へと追放される!」
マスケロお妃の、文字通り悪魔のような声が広間に響き渡る。オリビアは、その隣で無表情に立っていた。
ジニアは必死に声を上げようとした。自分の潔白を訴えようとした。何が起こっているのか理解を求めようとした。
しかし、その声は誰にも届かない。ジニアの口はくつわをされて乱暴に塞がれ、ジニアの言葉は喉から出ることはなかったからだ。
これは、審判と呼ぶにはあまりに一方的な、ただのお飾りの断罪劇だった。
潔白を訴える場など、最初から与えられていなかったのだ。
衛兵たちは、まるで汚らわしいゴミを扱うかのように、ジニアを荒々しく引きずっていった。王宮の豪華絢爛な廊下を抜け、薄暗い地下通路へと連行される。そこで彼女を待っていたのは、想像を絶する場所だった。
それは、城の最も奥深く、そして最も穢れた場所――汚物溜めだった。
腐敗した悪臭が鼻を突き、汚泥が足元にまとわりつく。かつて光を宿していたジニアの瞳は、絶望の色に染まった。人々を癒し、希望を与えてきた聖女が、今、人間が排出する穢れの底に投げ捨てられようとしていた。
「これがお前の末路だ。二度と、日の光を見ることはないだろう」
最後に聞こえたのは、冷酷な衛兵の声だった。
次の瞬間、ジニアの体は、抵抗する間もなく、深い汚泥の底へと投げ込まれた。
冷たく、粘りつく汚物が全身を包み込み、呼吸すらままならない。
かつて崇められた聖女は、今や、城の底辺に打ち捨てられた、ただのゴミと化した。
*****
暗闇と悪臭の中で、ジニアの意識は遠のいていく。心も体も、深く深く、泥の中に沈んでいくかのようだった。
ジニアが投げ込まれた汚物溜めは、やがて地下水脈を辿り、城の外へと続く汚れた川へと繋がっていた。意識がもうろうとする中、彼女の体は悪臭を放つ水流に押し流されていく。
どれほどの時間が経ったのか、もはや分からない。死の淵をさまよいながらも、聖女としての、あるいは人間としての、彼女の中に残る最後の生命力が、かろうじて彼女を水面に浮かせ続けていた。
冷たい水が、全身を容赦なく押し流す。汚物は流れていったが、心にこびりついた穢れは、洗い流されるどころか、深く深く染み込んでいくようだった。
ふと、体がかろうじて陸に上がれるような、わずかに傾斜した岸に触れた。震える指先で泥をつかみ、ほとんど本能だけで、ジニアは重い体を水から引きずり出した。
全身が冷え切り、凍えるような空気の中で、ジニアはただ仰向けになって倒れることしかできなかった。
ぼろぼろになった聖女の衣は、もはやその面影すら残していない。彼女の瞳は虚ろで、焦点が定まらない。
脳裏に、かつて人々を癒し、笑顔を取り戻した日々が、走馬灯のように駆け巡る。病に苦しむ子どもたちの頬を撫でたこと、希望を失った人々に光を与えたこと。
「私が……私がしてきたことは、なんだったの?」
彼女の口から漏れたのは、か細く、しかし底知れない絶望に満ちた呟きだった。
人々を救うために捧げてきた人生。その全てが、無意味だったと宣告されたかのような虚無感に襲われた。あの純粋な信仰は、あの無償の愛は、あの信じきっていた絆は、一体何だったのか?
裏切り、憎悪、そして理不尽なまでの断罪――。それらがジニアの心を、完全に粉々に打ち砕いた。
聖女としての力どころか、人間としての感情すらも麻痺し、彼女の魂は深い闇へと沈んでいった。
かつての光の聖女は、そこにいなかった。ただ、打ちひしがれ、心を壊してしまった、一人の無力な女の子がいるだけだった。
冷たい泥だらけの土手を這い上がり、ジニアはただ無心に、足が動くままに進んだ。体は鉛のように重く、心は虚ろな穴が開いていた。
どれほどの距離を歩いたのか、時間も感覚も全てが曖昧だった。ただ、目の前の闇を、ぼんやりと進むだけ。
やがて、遠くの森の向こうに、微かな光の瞬きが見えた。少しずつ光は数を増し、暖かな灯りとなって闇夜に浮かび上がる。それは、人々の暮らしの営みを示す、村の明かりだった。
ジニアの足は、無意識のうちにその光の方へと向かっていた。しかし、近づくにつれて、彼女の胸の奥底から冷たい恐怖が這い上がってきた。人々――自分を裏切り、汚物溜めに捨てたあの人々。
村の入り口までたどり着くと、草むらの陰から、年老いた見張り番のおじさんが心配そうに顔を覗かせた。夜の闇に浮かび上がる、泥まみれの少女の姿に驚き、彼は慌てて駆け寄ってくる。
「おや、嬢ちゃん! こんな夜更けに、一体どうしたんだい? ひどい有様じゃないか、大丈夫かい?」
心配と優しさに満ちたその声。だが、ジニアの耳には、その言葉は届かなかった。
差し伸べられたおじさんの皺だらけの手を見た瞬間、彼女の心の中に、王宮で向けられた冷酷な視線や、オリビアの裏切り、そしてマスケロお妃の嘲笑が思い出された。
「触らないで!」
ジニアは、悲鳴にも似た声を上げ、おじさんの手を激しく振り払った。まるで汚らわしいものに触れるかのように、震える体で数歩後ずさる。かつては人々の苦しみに寄り添い、その痛みを分かち合った聖女の、変わり果てた姿だった。
彼女の瞳に映るのは、もはや善意ある人間ではない。
そこにいるのは、いつまた自分を裏切るかわからない、偽りの仮面をかぶった「人間」という存在だった。ジニアは聖女としての力だけでなく、人間への信頼も完全に失われていた。
彼女は、差し伸べられた温かい手を、ただ恐ろしいものとして認識するしかなかったのだ。
見張り番のおじさんは、ジニアの拒絶に困惑し、その場に立ち尽くした。その間に、騒ぎを聞きつけた村人たちが、ざわめきながら家々からぞくぞくと姿を現し始めた。
手にランタンを持った男たち、心配そうに顔をのぞかせる女たち、そして無邪気に目を丸くする子どもたち。闇夜に浮かぶ彼らの顔は、ジニアの目には、まるで自分を追い詰めた王宮の人々と同じように、おそろしくてたまらなかった。
心臓が激しく脈打ち、息が詰まる。彼女は、今にもまた誰かに捕らえられ、どこかへ捨てられるのではないかと、激しい恐怖に震えた。
「大丈夫かい、お嬢さん? そんなに震えて……」
一人の村人が手を伸ばそうとした、その時だった。
その人垣をかき分けて、一人の恰幅のいい女性が前に進み出た。彼女の顔には深い皺が刻まれていたが、その瞳は優しさに満ちていた。手には、まだ湯気の立つ温かいスープの入った木碗を持っている。女性は何も言わず、ただまっすぐにジニアの元へと歩み寄った。
ジニアは身構えた。次に来るのは、冷たい言葉か、それとも拒絶の視線か。そのスープを投げつけるのか。
しかし、女性は何もせずに、ゆっくりと、そっと、ジニアの汚れた頬に触れた。
その手のひらから伝わるのは、何の思惑もない、純粋な温かさだった。
まるで、凍り付いた心が、その温もりに触れた瞬間、パリンと音を立てて砕け散るかのようだった。
それは、これまでジニアが人々から与えられてきた、どこか計算された敬意や、聖女としての力への期待とは全く異なる、ただひたすら温かいだけの、本物の人間の体温だった。
その瞬間、張り詰めていたジニアの全身の力が、ふっと抜けた。
「ああ……」
か細い、安堵のため息を漏らし、ジニアはそのまま、優しく温かい女性の腕の中に、意識を失って倒れ込んだ。彼女は、汚物溜めに捨てられて以来、初めて、心の底から安心することができた。
*****
冷たい泥の感触は消え失せ、ジニアの体は、やわらかな羽毛のふかふかのベッドの上に横たわっていた。
ぼんやりと目を開けると、天井から吊るされた小さな灯りが、暖かな光を投げかけている。体中を覆っていた不快な悪臭は消え、代わりに清潔な布の優しい香りがした。
ざらついていた肌は滑らかで、髪も丁寧に梳かされ、すっかりきれいに手入れされていることを悟った。
自分がどこにいるのか、一瞬理解できなかった。王宮ではない。
あの日、汚物溜めに捨てられてからの記憶が、まるで夢のようにあいまいだ。
しかし、全身を包む温かさと、体の芯に溶け込むような安堵感だけは、現実のものだった。
そのとき、戸口がゆっくりと開き、何人かの人影が部屋に入ってきた。一人は、意識を失う直前に自分を抱きしめてくれた、恰幅のいいおばさんだった。その背後には、同じく数人の村の女性たちが、心配そうな、あるいは好奇心に満ちた眼差しで立っていた。
ジニアの心臓が、再び激しく鼓動し始める。
清潔になった体とは裏腹に、心の奥底で凍り付いた人間への不信と恐怖が、一瞬にして鎌首をもたげた。
彼女たちの優しい表情の裏には、何か隠された悪意があるのではないか。この温かさも、自分を油断させるための罠なのではないか。オリビアやマスケロのように、見せかけの笑顔で近づき、やがて再び自分を奈落の底に突き落とすのではないか――。
そんな疑念が、冷たい水のようにジニアの心を浸食した。彼女は身を固くし、布団の端をぎゅっと握りしめた。
「大丈夫かい? 熱はもうないようだね。驚かせてしまってすまなかったね、お嬢さん」
おばさんが優しい声で語りかけ、温かい蒸しタオルを差し出そうとした。だが、その手が近づくにつれて、ジニアの恐怖は頂点に達した。
「来ないで! 触らないで……!」
かすれた声で叫び、ジニアはベッドの奥へと身を寄せた。差し出されたタオルを叩き落とし、怯えた獣のように、ジニアは女性たちを拒絶した。
彼女たちの善意は、ジニアの壊れた心には、むしろ深い絶望と疑念を増幅させる毒にしかならなかった。
ジニアが目覚めてからの数日、村人たちは入れ替わり立ち替わり、彼女の様子を見にやって来た。
最初に現れたのは、焼きたてのパンの香りをまとった、朗らかなパン焼き職人のお兄さんだった。彼の差し出す香ばしいパンを、ジニアは「きっと毒が入っているに違いない」と恐れ、決して手を伸ばそうとしなかった。
次にやってきたのは、森での生活が得意な、凛々しいエルフのお姉さんだ。彼女はとれたばかりの新鮮な果物を差し入れ、森での暮らしの楽しさを語りかけた。しかし、ジニアは何も答えず、エルフの透き通った瞳から、かつてのオリビアのような冷たい嘲笑が向けられるのではないかと恐れた。
その後も、分厚い眼鏡をかけた、いかにも物知り顔の魔法使いさんが、珍しい薬草の効能を説いたり、夜にはいつものおばさんが温かいお粥を持ってきて、優しく頭を撫でようとしたりした。村人たちは皆、ジニアの様子を心配し、どうにかして彼女の心を解き放ちたいと願っていた。彼らの言葉は温かく、表情は誠実そのものだった。
しかし、さまざまな人の好意も、ジニアの心の分厚い氷と人間への不信と恐怖の氷を溶かすことはできなかった。
ジニアの心には、王宮での裏切りが深く刻み込まれていた。
村人たち親切な言葉の裏には、きっと陰謀が隠されている。優しい眼差しの奥には、自分を陥れようとする企みがあるに違いない。かつて信じていた人々に裏切られた経験は、彼女の心をまるで堅固な要塞のように閉ざしてしまっていたのだ。
彼女は誰にも心を開かず、ただひたすらに壁を作り続けた。温かい食事も、村人たちの語りかけも、ジニアの壊れた心には届かなかった。彼女はまるで透明なガラスの壁の向こうにいるかのように、全てを拒絶し続けた。
季節は移ろい、幾度か日が昇り沈むうちに、ジニアがこの村に来てからかなりの時が過ぎた。村人たちは変わらずジニアに声をかけ、食事を運んだが、その表情には次第に諦めと困惑の色が滲み始めていた。
「いつまでこうしているつもりなんだい、嬢ちゃん……」
パン焼き職人のお兄さんが、やわらかなパンをそっと置いた後、諦めを含んだ声で呟いた。エルフのお姉さんも、分厚い眼鏡の魔法使いさんも、そして優しかったいつものおばさんも、彼らの顔には「これ以上は無理だ」という明らかな限界が見て取れた。
ジニアは、彼らの変化に薄々気づき始めていた。
最初こそ親切だった彼らの言葉が、今はどこか冷たく響く。差し出される食事の量も、以前より少なくなったような気がした。何よりも、部屋に訪れる回数が減り、会話も短くなった。
自分の存在が、彼らにとって重荷になっていることは明らかだった。言葉はなくても、その視線や態度が雄弁に物語っていた。彼女は、王宮でゴミのように捨てられた時と同じ、無力で邪魔な存在になっているのだと悟った。
「私……迷惑、だわ……」
ジニアの心に、再び深い絶望の影が差し込んだ。せっかく差し伸べられた温かい手も、自分が拒絶し続けた結果、今はもう、その温かさすらも失われつつある。心の氷は、まだ溶けていない。けれど、その氷の向こう側で、自分が彼らにとって見捨てられつつある現実を、ジニアは感じ取っていた。
夜が更け、村の灯りが一つ、また一つと消えていく。
ジニアはベッドに横たわりながら、薄暗い部屋の天井をぼんやりと見上げていた。自分はもう、ここにいるべきではない。彼らの優しさを、これ以上踏みにじることはできない。
心に、そう決めた。
ジニアは体を起こし、ベッドを降りた。わずかな光の中で、ベッドのシーツの隅を、震える指で切り取った。
感謝の言葉と、去ることを伝えるお別れの手紙を書こうと思ったのだ。
しかし、筆を握ろうとしたその手が、ふと止まる。
この、身体を包み込む清潔なシーツ。自分が汚物溜めに捨てられた後、誰がこのシーツに変えてくれたのだろう? 泥と悪臭にまみれていた体や髪を、誰が熱心に洗い、梳いてくれたのだろう?
意識を失う直前に、あの温かい手で自分を抱きしめてくれた、いつものおばさんの顔が浮かんだ。彼女は、文句一つ言わずに、毎日温かい食事を運んできてくれた。
そして、パン焼き職人のお兄さん。彼の焼き立てのパンの香りは、どんなに食欲がなくても、いつも微かに食欲を刺激した。
自然を愛するエルフのお姉さんは、森の楽しさを、分厚い眼鏡の魔法使いさんは、面白い魔法の話を、ジニアに根気強く語りかけてくれた。
これまでジニアは、彼らの好意を全て疑いと恐怖の目で見てきた。裏切りや陰謀の影を探し、心を閉ざし続けてきた。
だが、彼らは何の見返りも求めず、ただひたすらに、無力で何もできない自分に、懸命に優しく尽くしてくれたのだ。
彼らは、聖女としての力も失い、人間不信に陥った自分に、何の価値も見出さなかったかもしれない。ただ、目の前にいる、困っている一人の人間として、純粋な善意を向けてくれただけだった。
ジニアがこれまで張り巡らせていた分厚い氷の壁に、亀裂が入る音がした。それは、王宮での裏切りが作り出した冷たい壁とは異なる、温かく、そしてじんわりと染み渡るような、感謝と喜びの気持ちだった。
冷たい氷の壁に小さな亀裂が入ったあの日から、ジニアの心は少しずつ、ゆっくりと、しかし確実に溶け始めていた。
最初は消え入りそうなほどの小さな声だった。食事を運んできてくれたおばさんに、「ごちそうさまでした」と震える声で告げた時、おばさんの目に驚きと喜びの光が宿ったのを、ジニアは忘れない。
その小さな一歩が、次の言葉、次の行動へと繋がっていった。
ある日、ジニアは、焼きたてのパンの香りに誘われるように、パン焼き小屋の入り口に立っていた。
パン焼き職人のお兄さんが、にこりと笑って、彼女のために小さな木製の台を用意してくれた。
ぎこちない手つきだったが、ジニアは初めて、生地をこねる練習をさせてもらった。小麦粉の優しい感触、発酵する生地の温もり。それは、聖女の魔法とは全く違う、地道で温かい営みだった。
森の中から戻ってきたエルフのお姉さんが来てくれると、ジニアは恐る恐る、彼女が語るはるか向こうの森の話に耳を傾けた。
木々の囁き、動物たちの足跡、薬草の秘密。エルフの知識は奥深く、その言葉の端々から、森への深い愛情が伝わってきた。ジニアは、これまで知らなかった世界の広さと美しさに、少しずつ目を向けられるようになっていた。
そして、魔法使いの部屋を訪れたときのことだ。ジニアは、彼が差し出す難解な魔術書を、以前とは違う、澄んだ瞳で読み解き始めた。
彼女がかつて習得していた聖女の魔法は、この村の魔法使いの知識とは根本的に異なるものだったが、その本質を理解する力は失われていなかった。
魔法使いは、ジニアが自分よりはるかに高等な話をするようになると、驚きと感嘆で舌を巻いていた。
彼らの優しさは、見返りを求めない純粋なものだった。
ジニアは、王宮での地位も、聖女としての力も、何も持たない自分に、彼らがただ人間として接してくれることに、少しずつ、しかし確かに安心と信頼を築いていった。
彼女の瞳には、かつての絶望の影が薄れ、代わりに、柔らかで穏やかな光が戻りつつあった。
穏やかな日々が過ぎ、ジニアの心は、村人たちの温かさに包まれて少しずつ癒されていった。
聖女としての力はまだ戻っていなかったが、彼女の顔には以前のような恐怖や絶望の影はなく、代わりに穏やかな笑みが浮かぶことが増えた。
この村は、ジニアにとって、かけがえのない安らぎの場所となっていた。
しかし、その平和を打ち破る者は、ある日の夕暮れ時、突然現れた。
日が傾き、空が茜色に染まる頃、ジニアはパン焼き小屋の手伝いを終え、村の小道を歩いていた。ふと、視界の端で、ちょろちょろと不規則に飛び回る小さな影を見つけた。それはまるで、黒い煙の塊が意思を持って宙を舞っているかのようだった。
ジニアは足を止め、その影を凝視した。
それは鳥でも虫でもない。確信はなかったが、彼女の直感が警鐘を鳴らしていた。
王宮での、あの忌まわしい記憶が脳裏をよぎる。そして、その影が持つ、どこか不吉な「気配」に、ジニアは凍り付いた。
「あれは……」
その正体を悟った瞬間、ジニアの心臓は激しく跳ね上がった。
あれは、紛れもなく魔女マスケロが操る使い魔だった。オリビアの心を蝕むために送り込んだ、あの影のような悪魔の一種だ。見覚えのある、ねじれた闇の存在。
聖女の力が失われた今、逆にジニアの人間としての感覚は研ぎ澄まされていた。彼女は、この村の穏やかな空気が、あの悪しき存在によって汚されようとしていることを肌で感じ取った。
「見つかった……!」
口から漏れたのは、絶望にも似た呟きだった。村人たちとの温かい日々は、これで終わりを告げるのかもしれない。せっかく見つけた大切な居場所が、再びあの悪意によって脅かされる。マスケロは、執拗に自分を追いかけてきたのだ。
ジニアは、夕焼けに染まる村の景色を、胸が締め付けられる思いで見つめた。
使い魔を目にしてから、ジニアの心は激しく波打っていた。しかし、もうあの日のように、絶望に打ちひしがれて立ち尽くす自分ではなかった。
大切な居場所を守るために、彼女は動かなければならない。
ジニアは村の広場に、村人たちに集まってもらった。夕食を終え、団らんの時を過ごしていた村人たちは、突如として真剣な面持ちで現れたジニアの姿に、ざわめきながらも広場へと集まってきた。いつものおばさん、パン焼き職人のお兄さん、エルフのお姉さん、そして魔法使いも、ジニアの隣に静かに立つ。
「皆さん……お話しなければならないことがあります」
ジニアの声は、以前のようなか細いものではなく、確かな意志を宿していた。その視線は、一人ひとりの村人を真っ直ぐに見つめる。
「この村は、国のお妃、マスケロに見つかってしまいました」
その言葉に、広場に集まった村人たちから、どよめきが起こった。王国の妃が、なぜこんな辺境の小さな村に? そもそも見つかってなにがいけないのか? 不安と疑問が入り混じった空気が広がる。
「今のマスケロ妃は、もはや人の心を失っています。悪魔の知恵に染まってしまい、この村を、あなたたちを襲うでしょう」
ジニアの言葉は、冷たい現実を突きつけるようだった。村人たちは顔を見合わせ、その言葉の意味を理解しようと努める。平和な暮らしに慣れた彼らにとって、国の妃が悪魔に操られているなど、にわかには信じがたい話だった。
「なぜ、そんなことを知っているんだい?」
村の長老の一人が、代表するように尋ねた。その問いに、ジニアは深く息を吸い込んだ。隠し続けてきた真実を明かす時が来たのだ。
そして、彼女は真っ直ぐに顔を上げ、集まった村人たちの瞳を一人ずつ見つめながら、はっきりと告げた。
「私は……この国の聖女、ジニアです。オリビアと同じく、聖女の称号を持つ者でした」
彼女は、王宮での過酷な日々、オリビアの裏切り、そして自らが汚物溜めに捨てられたことを、淡々と、しかし偽りなく語った。
ジニアの話に、村人たちの間に再び静寂が訪れる。まさか、自分たちが匿っていた、あの傷ついた少女が、あの伝説の聖女だというのか? 驚きと、困惑、そしてかすかな希望の光が、彼らの瞳に宿り始めていた。
ジニアの告白は、村人たちの間に大きな波紋を広げた。「この小さな娘が、あの聖女だと?」誰もが驚き、戸惑いを隠せない。中には、あまりにも突拍子のない話に、「きっと、あの子はまだ熱にうなされているんだ」「寝ぼけているに違いない」と、疑いの眼差しを向ける者もいた。
聖女とは、遠い王宮の、手の届かない存在。それが、泥にまみれてたどり着いた、この傷ついた少女だとは、にわかには信じがたいことだった。
しかし、その静寂を破ったのは、王宮での勤めを終え、数日前に故郷であるこの村に帰ってきていた一人の若いお兄さんだった。彼は、数年前に王都でジニアの聖なる儀式を間近で見たことがあった。
「いえ、彼女の言うことは本当です! ま、間違いありません! このお方は、この国を護る聖女、ジニア様です!」
お兄さんは興奮した面持ちで叫んだ。彼のその確信に満ちた声に、村人たちはハッと顔を見合わせた。そして、その瞬間、彼らの頭の中で、いくつもの不思議な出来事が繋がっていった。
ジニアが村に来てから、そして、彼女が少しずつ心を開き始めてから、この村には良いことばかりが起こるようになっていたのだ。
村の生活排水が流れ込む汚れた川の水が、いつの間にか澄んで、きれいになっていたのは、いつからだろう? 誰もが不思議に思っていたが、特に気に留めていなかった。そして、今年の畑の作物の育ちが、例年になく良いこと。病にかかる家畜も減り、村人の間で風邪が流行ることもなくなった。何よりも、夜はいつもより深く、穏やかに眠れるようになったと、皆が口々に語っていた。
それらは全て、ジニアがこの村にやってきてから始まった変化だった。彼女は聖女としての力を失っていたはずだった。
だが、彼女が心の平穏を得るようになり、村人たちとの絆を深めるにつれて、その失われたはずの力がまるで自然の恵みのように静かに、しかし確実に村に恩恵をもたらしていたのだ。
村人たちの顔から戸惑いが消え、代わりに、驚きと、そして深い畏敬の念が浮かび上がった。目の前にいるのは、かつて遠い存在だった聖女ではない。自分たちが介抱し、共に笑い、共に生活してきた、「自分たちの聖女」なのだと、彼らは理解し始めた。
村人たちの驚きと、信じる気持ちが混じり合った視線を受け止めながら、ジニアは静かに、しかし力強く話し始めた。
「皆さん……私は、聖女としての力を一度は失いました。ですが、この村に来て、皆さんの温かさに触れるうちに、失われたはずの力が、少しずつ、形を変えて戻ってきているのを感じています。それは、かつて王宮で使っていたような、強力な奇跡の力ではないかもしれません。ですが、今、私には、皆さんのためにできることがあると信じています」
彼女は、広場に集まった一人ひとりの顔を、慈しむように見つめた。
「マスケロ妃の悪魔は、きっと明日にでも、この村を襲うでしょう。太陽が沈む前に、皆さんはどうか、それぞれの家に隠れていてください。扉を固く閉ざし、決して外には出ないでください」
村人たちは、ジニアの言葉に不安と決意が入り混じった表情を浮かべた。しかし、彼らはもはやジニアを疑うことはなかった。彼らが目にした「奇跡」と、彼女の瞳に宿る確かな光が、その言葉を裏付けていた。
ジニアは、胸の奥で、確かな決意を固めていた。
聖女としての力がどこまで戻っているのか、自分にも分からない。悪魔の力は強大で、マスケロの悪意は深い。しかし、これだけは、はっきりと分かっていた。
「私は、私を愛してくれた、この村の人たちを守りたい。この温かい居場所を、私を愛してくれる場所と人を、もう二度と奪わせはしない」
かつて人間不信に陥り、聖女としての力を失ったジニアは、今、村人たちの純粋な好意によって「聖女」として再び立ち上がろうとしていた。
その心は、揺るぎない覚悟と、深い感謝に満ちていた。
ジニアの予想は的中した。小悪魔が村を発見してから、そう時間は経たなかった。
翌日の夕暮れ時、太陽が地平線の向こうに姿を隠し、村が薄闇に包まれ始めた頃、遠くの森から不気味なざわめきが聞こえてきた。
それは、ただの風の音ではない。地面を這うような、ぞっとする響きだった。
ジニアは、村の入り口に立っていた。村人たちは皆、彼女の言葉を信じ、家の中に身を潜めている。静まり返った村は、嵐の前の静けさのようだった。
やがて、森の闇の中から、その姿が明らかになった。
「っ……!」
ジニアは思わず後ずさりした。
目の前に現れたのは、一体や二体などという生易しいものではなかった。
影のように蠢く身体、赤く光る邪悪な瞳、鋭い爪を持つおぞましい姿。それらが、次から次へと森から溢れ出し、地を埋め尽くしていく。
それは、まさに軍隊と呼ぶにふさわしい、ものすごい数の悪魔の群れだった。
これまでジニアが対峙してきた悪魔とは比べ物にならない。
王宮でオリビアの心を蝕んだような、目に見えない悪魔とは全く違う、明確な敵意と殺意を放つ、おびただしい数の影の軍勢。
彼らの足音が大地を揺らし、耳障りな低い唸り声が、夜の空気を震わせた。
ジニアの胸に、一瞬、深い恐怖がよぎった。
失われた聖女の力が、どこまで戻っているのか定かではない。この圧倒的な悪魔の軍勢を前にして、自分一人で、本当にこの村を守りきれるのか?
だが、その恐怖はすぐに、村人たちへの深い感謝と、彼らを守るという固い決意に変わった。
背後には、大切な居場所がある。もう、誰にも、何も奪わせはしない。ジニアは再び前を向き、迫りくる悪魔の軍勢を真っ直ぐに見据えた。
圧倒的な数の悪魔の軍勢を前に、ジニアは一歩も引かなかった。その瞳に宿るのは、恐怖ではなく、村人たちを守り抜くという鋼のような決意だった。
彼女の体が淡い光を放ち始める。失われたはずの聖女の力、「神聖力」が、今、再びその姿を現したのだ。
ジニアは両手をかざし、純粋な光の奔流を悪魔の群れに放った。神聖力に触れた悪魔は、まるで陽光を浴びた闇のように、瞬く間に塵となって消滅していく。
さらに、彼女は村全体を包み込むように、目に見えない強固な結界を張り巡らせた。
それは、悪魔たちが一歩たりとも村の中へ足を踏み入れられないようにするための、最後の防衛線だった。
しかし、悪魔の数はあまりにも膨大だった。一体、また一体と消滅させても、次から次へと森の闇から湧き出し、結界にぶつかっては、その薄い膜を揺るがす。
ジニアは全力で神聖力を放ち続け、結界を維持した。その顔には脂汗がにじみ、呼吸は荒くなり、体中の聖女の力が激しく消耗されていくのを感じた。
「くっ……!」
ジニアの視界がかすみ、足元がぐらついた。聖女としての力が、このままでは尽きてしまう。限界が、すぐそこまで迫っていた。このままでは、結界が破られ、村人たちが危険に晒されてしまう――。
そのとき、だった。
ジニアの目の前で、一体の悪魔が奇妙な音を立てて倒れた。その頭には、見慣れた畑を耕すための鍬が、深々と突き刺さっていた。ジニアは、驚いて目を見開いた。
間髪入れずに、別の悪魔の頭に、重そうなパン焼き用の伸ばし棒が命中し、その巨体を揺らした。さらに、遠くからキラリと光るものが飛来し、正確に悪魔の目を射抜く。それは、見慣れたスプーンとフォークだった。そして、まるで巨大な砲弾のように、どしんと重い音が響き、悪魔数体をなぎ倒したのは、村の酒場で使われていた酒樽だった。
ジニアは、信じられない思いで、背後を振り返った。
そこには、家々から飛び出してきた村人たちの姿があった。武装しているわけではない。だが、彼らはランタンを手に、鍬を、鋤を、料理道具を、そして何よりも決意に満ちた眼差しを携えていた。
「ジニア様! 私たちも、やります!」
「聖女様だけには、重荷を背負わせません!」
「わたしたちだって、ジニア様をお守りしたいです!」
彼らは、恐怖に震えながらも、ジニアを一人にはさせないという強い意志を示し、たった今、自分たちの大切な聖女に加勢しようとしていたのだ。
一度は失った、人々からの温かな愛。そして、その愛に応えたいと願う、ジニアの心に再び灯った人々への愛。その二つが重なり合った時、ジニアの中で何かが弾けた。
弱っていた聖女の力が、ジニアの魂から湧き上がってくる。むしろ、これまでとは比べ物にならないほどの、真の聖女としての、新たな力となって、その身に満ち溢れていく。
ジニアは、悪魔の軍勢が蠢く森の方へ、静かに右手を差し伸べた。その手のひらが、まるで森を撫でるかのように、優しく、しかし確かな意思を持って動く。
次の瞬間、視界を埋め尽くしていた無数の悪魔たちが、まるで夜露が朝日に溶けるように、一瞬にして、跡形もなく消え去った。 森は、再び静けさを取り戻し、清らかな空気が満ちる。
そして、空に飛び回り、村の結界を叩いていた悪魔の群れに、ジニアは静かに視線を向けた。
その瞳から放たれる清浄な光に触れると、悪魔たちは悲鳴を上げる間もなく、まるで湯気のようにふわっと消えていった。一匹残らず、全ての悪魔が、この村と森から浄化されたのだ。
圧倒的な悪魔の軍勢を、すさまじい力で打ち倒したジニアの姿に、村人たちは息を呑んだ。恐怖と絶望に満ちていた広場に、今、希望の光が満ちていく。
「ジニア様……!」
誰からともなく、感嘆と畏敬の声が漏れ始めた。そして、それはやがて、抑えきれない喜びの叫びへと変わっていく。
「聖女様だ! 真の聖女様が、戻られたんだ!」
村中の人々が、家々から飛び出し、広場へと集まってきた。彼らは、奇跡のような光景を目の当たりにし、そして、自分たちが信じ、支え続けた少女が、真の聖女として完全に復活したことを悟ったのだ。
「聖女ジニア様、万歳!」
パン焼き職人のお兄さんの声が響き渡り、それに続いて、村中から割れんばかりの喝采が巻き起こった。その歓声は、ジニアの耳に、かつての王宮での賛辞とは異なる、温かく、確かな愛の調べとして響いた。
彼女の心は、今、深い感謝と、そして静かな喜びで満たされていた。
*****
悪魔の脅威は去ったが、ジニアの戦いはまだ終わっていなかった。
敬愛するオリビアを、マスケロの悪意から取り戻す。
そして、王国の平和を乱すマスケロを打ち倒す。そのためには、あの忌まわしい王宮に戻る必要があった。
ジニアは再び広場に立つと、神聖力を集中させた。彼女の体が淡く輝き、その光が悪魔が消えた森へと広がる。
すると、光が触れた場所に、次々と兵士の姿が形作られていった。
彼らは生きた人間ではない。神聖力によって作られた、光の鎧をまとった守護者たち。
さらなる悪魔の襲来から、この大切な村を守るために、たくさんの兵士が、村の周囲をぐるりと取り囲むように配置された。
出発の時が来た。ジニアは、広場に集まった村人たちの元へ歩み寄った。一人ひとりの顔をじっと見つめ、彼らが差し伸べてくれた温かい手、言葉、そして何よりも純粋な好意を思い出した。
「皆さん……本当に、ありがとうございました」
ジニアは、心からの感謝を込めて、村人一人ひとりと抱き合った。パン焼き職人のお兄さんとは力強く抱擁し、エルフのお姉さんとは静かに見つめ合った。魔法使いの厚い眼鏡越しに、彼の優しい眼差しを感じた。
そして、いつものおばちゃんに抱きついた時、ジニアの心は堰を切ったように溢れ出した。汚物溜めに捨てられて以来、決して流すことのできなかった涙が、まるで赤子のように、とめどなく溢れ落ちた。おばちゃんの温かい腕の中で、ジニアはただひたすらに泣いた。
旅立つジニアを見送るため、村の入り口まで来たとき、数人の親切な村娘たちが、小さな包みを差し出した。
「ジニア様……どうか、これをお持ちください」
包みを開くと、そこには一着の美しい白い服が丁寧にたたまれていた。
白い生地には、拙いながらも、花や鳥、そして守護の印が、心を込めてきれいに刺繍されていた。それは、村人たちがジニアのために、心を込めて縫い上げてくれた、「聖女の服」だった。
王宮の豪華な聖衣とは異なり、素朴だが、その一つ一つの縫い目には、ジニアへの感謝と、彼女の旅路の安全を願う、村人たちの温かい愛が込められていた。
ジニアは、その「聖女の服」を両手でそっと抱きしめ、涙しながら感謝の言葉を伝えた。
そして、その場で、戦いで土にまみれた服を脱ぎ、その「聖女の服」に袖を通した。純白の生地が、新しく生まれた聖女の輝きを一層際立たせる。
「行ってきます」
振り返ることはなかった。ただ、前へ。失われたものを取り戻し、真実を明らかにするために。
ジニアは、村人たちの温かい見送りの声援を背に、再び王宮へと続く道を、力強く歩み始めた。
彼女の足元には、村人たちの愛が灯した、確かな希望の光が広がっていた。
ジニアが王都の門へと近づくにつれ、王宮からの邪悪な気配は一層強くなっていった。
マスケロは、すでに悪魔の力ではジニアに太刀打ちできないことを悟っていた。
彼女の心に巣食う悪魔がそう囁いたのか、あるいはオリビアの報告で真の聖女の復活を知ったのか。
いずれにせよ、マスケロは、最後の手段として、人間の兵士たちを送り込むことを決めた。
王宮の門が開き、鎧をまとった兵士たちが、まるで淀んだ川のように溢れ出てきた。彼らの瞳には、かつてジニアを断罪した時と同じ、冷たい憎悪と狂気が宿っている。
マスケロと悪魔の力が、兵士たちの心に深く入り込み、負の感情を植え付けていたのだ。
しかし、その兵士たちの前に現れたのは、かつての傷ついた少女ではなかった。白い生地に村人たちの愛が込められた「聖女の服」をまとい、その全身から清らかな光を放つ聖女ジニア。
彼女の力は、闇に染まった兵士たちの心を、まるで光が影を払うように、静かに、しかし確実に浄化していった。
ジニアが兵士たちに近づくにつれ、彼らの瞳の奥に宿っていた狂気の光が揺らぎ始めた。まるで、深い泥水に一滴の清らかな水が落とされたかのように、彼らの心の奥底に眠っていた人間性が、ゆっくりと息を吹き返す。
剣を構え、ジニアに斬りかかろうとした兵士の手が、空中でぴたりと止まる。そして、彼らの顔から憎悪の表情が消え、困惑と、そして深い罪悪感に変わっていった。
ジニアは、彼らを攻撃することはしなかった。ただ、そこに立ち、その清らかな光を放ち続けた。すると、兵士たちは次々と武器を下ろし、膝を折った。
マスケロの悪意に染められていた彼らの負の心は、ジニアの姿と力によって浄化されていったのだ。
こうして、ジニアは敵対する者たちを傷つけることなく、彼らの心を救いながら、一歩また一歩と王宮へと進んでいった。その背後には、浄化された兵士たちが、もはや敵意なく、しかし一糸乱れぬ軍勢となって付き従っている。
かつてジニアを追放した王宮。その門へたどりついた時、ジニアの瞳には、オリビアへの深い悲しみと、マスケロへの確固たる決意が宿っていた。
浄化された兵士たちは、ジニアの導きに従い、もはや敵意のない眼差しで彼女の背中を見守っていた。ジニアは彼らの中から、かつての王宮を知る者、そして誠実な心を持つ者たちを選りすぐり、少数の護衛として連れた。
彼女の目的地は、かつて共に過ごした、そして今、マスケロに囚われているオリビアの部屋だった。
王宮の豪華な廊下を、ジニアは迷うことなく進んだ。その足取りは、もはや躊躇することなく、確かな決意に満ちていた。
扉を開けると、そこには、やつれた顔をしたオリビアが、呆然と立ち尽くしていた。彼女の瞳には、まだ悪魔の残滓と、深い混乱の影が宿っている。
オリビアは、ジニアの姿を見て、一瞬にして自らの運命を悟った。自分を裏切り、追放した聖女が、今、圧倒的な力と、浄化された兵士たちを従えて目の前に現れたのだ。
「……ここまでね……。本当に、ごめんなさい」
オリビアの唇から、諦めと、どこか安堵にも似た呟きが漏れた。
彼女は、ジニアが自分を罰しに来たのだと確信していた。聖女の力で打ち倒され、あるいは、かつてのジニアのように、穢れた場所へ追放されるのだろうと。それか、彼女が連れてきた騎士たちの剣で自分の首が刎ねられるのかと。
自らが犯した罪の報いを受ける覚悟を決め、オリビアは静かに目を閉じた。
しかし、オリビアの予想とは裏腹に、ジニアは何もせず、ただ一歩、また一歩と彼女に近づいていく。
そして次の瞬間、オリビアの体が、温かく、そして力強い抱擁に包まれた。
「オリビア……! よかった、また会えた、オリビア!」
ジニアは、悪魔に囚われ、苦しんでいるオリビアを、まるでかけがえのない姉のように、深く抱きしめた。 その声には、一切の憎しみも、非難も含まれていなかった。ただひたすらに、再会できたことへの喜びと、深い安堵がにじみ出ていた。
ジニアの全身から放たれる清らかな光が、オリビアを包み込み、彼女の心に巣食っていた悪魔の残滓を、静かに浄化していく。
オリビアは、その温かさに、震える体をどうすることもできなかった。罰ではなく、抱擁。憎しみではなく、喜び。予想だにしなかったジニアの行動に、彼女の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
ジニアの温かい抱擁の中で、オリビアの心に巣食っていた闇は、まるで雪解けのように溶けていった。しかし、長年の疑念と罪悪感は、すぐに消え去るものではない。オリビアは、震える声で尋ねた。
「なぜ……なぜ、私を処刑しないの? 私はあなたを裏切り、あなたを追い出した。あなたをあんな場所に……。私を、罰するべきだわ。その騎士たちも、私の首を刎ねさせるために連れてきたのでしょう?」
ジニアは、抱きしめる腕の力を緩めることなく、ゆっくりと首を振った。その瞳は、涙で潤んでいたが、そこには揺るぎない愛と赦しがあった。
「彼らは、本当に私の護衛にきてもらっただけよ。それに、オリビア、わたしがそんなことするわけないでしょう。オリビア、あなたは、だまされていただけなのよ」
そして、ジニアは語り始めた。かつて、二人が共に過ごした、まばゆいばかりの記憶の数々を。
「覚えている? 王宮の中庭で、まだ幼かった私たちが、羽を休めるチョウチョを、どちらが先に捕まえられるか競って、はしゃいで遊んだこと。聖なる言葉の練習で、何度間違えても、二人で顔を見合わせて笑いながら、一生懸命に練習したこと。あのとき、あなたはいつも、私より少しだけ早く覚えるから、尊敬していたのよ」
ジニアの声は、懐かしさと愛情に満ちていた。
「そして、収穫したばかりの庭のイチゴで、一つだけ残った大粒のイチゴを、どちらが食べるかで、本気で喧嘩したこともあったわね。結局、二人で半分こして食べたっけ。それから、夜中に抜け出して、満月を見ながら秘密の話をしたこと。新しい魔法を覚えた時、どちらが先に使いこなせるか競い合ったこと……」
ジニアの口から、とめどなく溢れ出る思い出の数々。どれもが、オリビアの心を、温かく、そして痛いほどに締め付けた。表面的な聖女としての義務ではなく、ごく普通の少女たちが分かち合った、かけがえのない時間。ジニアは、本当に、本当にたくさんの思い出を、オリビアに語った。その一つ一つが、オリビアの心を覆っていた氷の塊を溶かしていく。
ジニアは、自分を「居場所を奪った敵」としてではなく、ずっと変わらず「大切な存在」として見てくれていた。王宮での権力争いや、聖女としての重圧の中で見失っていた、純粋でかけがえのない感情。オリビアは、ようやく、その真実に気が付いた。
ジニアは、自分を愛してくれている。そして、深い罪悪感の奥底で、冷たく凍り付いていたオリビアの心にも、同じ確かな感情が、熱い奔流となって蘇っていた。
「愛してる、オリビア」
「ジニア……私も……私もあなたを……愛しているわ……」
オリビアの瞳から、罪悪感と後悔、そしてジニアへの深い愛情が入り混じった涙が、止めどなく溢れ落ちた。二人の聖女は、固く抱き合ったまま、静かに涙を流し続けた。長きにわたる誤解と心の闇が、今、完全に消え去ったのだった。
オリビアの涙が枯れる頃、ジニアは静かに顔を上げた。その瞳には、もはや過去の悲しみはなく、ただ未来への確かな光が宿っていた。
「……オリビア。私たちには、まだしなければならないことがあるわ」
ジニアの言葉に、オリビアも頷いた。彼女の心に、ジニアへの愛と共に、自らの過ちを正したいという決意が沸き上がっていた。
「ええ、分かっているわ。彼女を、マスケロを、もうこれ以上、好きにはさせない」
二人の聖女の目は、同じ目標を見据えていた。それは、この王国に巣食う最大の闇、悪の妃マスケロを打ち倒すことだった。
マスケロは、王宮の奥、自らが陣取る大広間で、事態の急変を察知していた。兵士たちが浄化され、ジニアとオリビアが和解したことを知ると、彼女は恐怖に顔を歪ませ、血相を変えて叫んだ。
「何をしている! 全員、あいつらを止めろ! なんとかしてあいつらを、一歩たりとも近づかせるな!」
マスケロは、自らのいる大広間へと続くすべての通路に、残された大量の悪魔と、かろうじて忠誠を保っているわずかな兵士たちを配置した。それは、彼女に残された最後の防衛線だった。彼らを食い止め、自らの身を守るための絶望的な抵抗。
しかし、真の力に目覚めた二人の聖女の前では、その抵抗も意味をなさなかった。
ジニアが放つ神聖力は、悪魔を一瞬で消し去り、その波動は兵士たちの心を再び浄化していく。
オリビアもまた、ジニアの隣で、かつての強力な魔法を惜しみなく放った。彼女の魔力は、マスケロによって歪められていた頃とは異なり、清らかな光を帯びていた。
二人の聖女は、まるで舞うように、王宮の通路を駆け抜けた。
神聖力と魔法の光が交錯し、マスケロの悪意を次々と打ち砕いていく。悪魔は塵と化し、兵士たちは武器を捨ててひざまずいた。
マスケロの魔術で召喚された異形の存在も、二人の圧倒的な力の前に、次々と消滅していく。
広間への道が拓けた時、マスケロの周囲には、もう何も残されていなかった。
彼女が誇っていた強大な力も、手足のように操っていた悪魔の軍勢も、忠実な兵士たちも、全てが消え去った。
最後に残されたのは、彼女がかつて力を振るうために使っていた古びた杖と、虚しく響く玉座だけだった。
マスケロは、その玉座にへたり込み、青ざめた顔で、目の前に立つ二人の聖女を見上げるしかなかった。
その目に宿るのは、もはやかつての傲慢さではなく、純粋な恐怖と絶望だった。
「終わりのときです、王妃さま」
オリビアの声は、氷のように冷たく、しかし確かな決意に満ちていた。その言葉は、マスケロに言い逃れの余地も、慈悲を乞う時間も与えなかった。
マスケロは、追い詰められた獣のように、虚ろな眼差しで、唯一手元に残った古びた杖を握りしめた。そして、マスケロが驚くべき行動に出る。
震える腕で、その杖の先端を、自らの心臓へと突き立てたのだ。
「ぐっ……ああああああああっ!」
マスケロの絶叫が広間に響き渡る。
その体は急速に膨張し、黒い煙を噴き出しながら、おぞましい異形の巨大な怪物へと変貌していく。それは、かつての優雅な妃の面影など、どこにもなかった。
その巨大な体からは、形容しがたい負の感情が、黒い液体となってあふれかえっていた。
それは、オリビアへの激しい嫉妬。自身の地位を脅かされることへの耐え難い焦り。そして、下賤な人間を見下す邪な心。ジニアとオリビア、兵士たち、そして王国の人々に向けてきた、彼女の歪んだすべての感情が、形となって噴出しているようだった。そのおぞましい姿は、見る者の心を凍らせるほどだった。
しかし、ジニアとオリビアの瞳には、恐怖も、憎しみもなかった。ただ、その巨大な怪物の姿に、深い憐れみの気持ちが宿っていた。
マスケロもまた、負の感情に囚われた、哀れな存在だったのだと、二人の聖女は理解した。
二人は顔を見合わせ、静かに頷き合った。そして、それぞれが聖なる光を放ち、その光は一つに集束し、巨大な聖なる光の玉となった。
それは、慈愛と浄化の輝きを放ちながら、マスケロを包み込んでいく。
「次のあなたの人生が、幸せになりますように」
ジニアとオリビアは、声を合わせて祈った。
その祈りの言葉と共に、聖なる光の玉はさらに輝きを増し、マスケロの怪物を完全に覆い尽くした。
そして、光は一点に収束し、やがて闇と共に、静かに消え去った。
広間には、清らかな空気が満ち、再び静寂が訪れた。聖女たちの戦いは、今、真の終わりを迎えたのだった。
マスケロの悪意が消え去り、エルドレア王国にようやく真の夜明けが訪れた。こうして、王国にふたりの聖女が戻ってきた。
ジニアは、聖女としてのつとめを始める前に、いちばん大切な場所へと向かった。あの、自分を受け入れ、人生を取り戻させてくれた村だった。光の兵士たちを自身の中に収め、村人たちに別れを告げる。
「皆さん……本当に、ありがとうございました。私を救ってくださったのは、あなたたちでした。このご恩は、一生忘れません」
ジニアは、心からの精一杯のお礼を伝えた。その言葉には、感謝と、そして村で過ごした日々への深い愛情が込められていた。
村人たちは、口々にジニアの無事を喜び、旅立ちを祝福した。温かい抱擁を交わした後、ジニアは、かつて自分が去った道とは異なる、希望に満ちた足取りで王宮へ帰っていった。
一方、オリビアは、ジニアと共に王宮へと戻ってからも、聖女としての務めを果たす傍ら、自身の償いの道を歩み始めた。
彼女は、かつて自らの行いで苦しめてしまった人々、疑念を抱かせた兵士たち、そして何よりも心を深く傷つけたジニアに対して、頭を下げて回った。
「私の身勝手な行いと、マスケロの甘言に乗り、皆様に多大なるご迷惑をおかけしました。心より、お詫び申し上げます」
もちろん、誰もがすぐにオリビアを許したわけではなかった。過去の傷は深く、オリビアを許さない人もいた。彼らの冷たい視線や厳しい言葉は、オリビアにとって、当然の報いだった。しかし、多くの人々は違った。彼らは、目の前で深く頭を下げ、真摯に謝罪するオリビアの姿を見て、彼女が聖女としての優しい心を取り戻してくれたことを喜んでくれたのだ。
「オリビア様……よくぞ、戻ってきてくださいました」
「もう、大丈夫なのですね」
温かい言葉をかけてくれる人々に、オリビアの瞳からは、懺悔と感謝の涙が溢れた。
二人の聖女は、それぞれ異なる道を歩み、互いを支え合いながら、エルドレア王国に真の平和と希望をもたらしていくことだろう。
そして、それは、かつてのような絶対的な信仰ではなく、痛みを知り、困難を乗り越えた、より強く、より深い信頼の絆によって結ばれた、新たな始まりとなるのだった。
エルドレア王国に平和が戻り、聖女ジニアとオリビアもまた、それぞれの場所で人々のために尽くし始めた。荒廃した王宮は、二人の聖女の聖なる力と、浄化された兵士たちの手によって、少しずつその輝きを取り戻していった。
しかし、問題があった。王国を治めるにふさわしい王族は、この国にはもはやひとりも残されていなかった。
そんな中、他の国から、新しい王族がこの国を治めに来ることになった。それは、誠実で心優しい王子と、物静かで知性にあふれたお妃だった。
彼らは、エルドレア王国の悲劇を知り、この国が真の平和を取り戻すことを心から願っていた。新しい王族は、権力や私欲に走るのではなく、人々の声に耳を傾け、聖女たちと共に国を立て直すことに尽力した。
王子とお妃の統治のもと、エルドレア王国は、かつての栄華を取り戻すだけでなく、より深く、より穏やかな平和を築き上げていった。人々は、聖女たちの奇跡に感謝し、新しい王族の賢明な統治に安堵した。
そして、ジニアとオリビアは、これからも共に歩む道を選んだ。
ジニアは、王宮の大聖堂で、人々の心の傷を癒し、希望の光を灯す存在として、静かにその力を振るった。
一方、オリビアは、かつての過ちを胸に刻みながらも、その力強い魔法で王国を守り、人々の心の闇を浄化することに尽力した。彼女は、王宮を離れて旅に出て、かつて自分が苦しめた人々、あるいはマスケロの悪意が及んだ遠い村々を訪れ、自らの手で癒しと償いを行うこともあった。
二人の聖女は、異なる輝きを放ちながらも、互いを深く理解し、お互いを愛しながら、エルドレア王国と、その人々を光と希望となって照らし続けるのだった。
ふたりの聖女の存在は、ただの伝説ではなく、痛みを知り、困難を乗り越えた、真の慈愛の象徴として、永く語り継がれていくことだろう。
そして、ふたりはおたがいを深く愛し続けるだろう。
(聖女ふたたび おしまい)
このお話が、あなたに小さな幸せを届けてくれますように。
愛をこめて 翠野ライム