俺と「あいつ」との戦い。 絶対に負けられない戦いの行く末は?
中学卒業までにやり残した、たった一つの事がある。
俺には絶対に負けられない戦いが残っていた。
それは好きな女子に告白することでも、友人と家出の計画を立てることでもない。
俺のやり残したことはただ一つ、あいつを食べることだ。
あいつとの戦いは俺が中学に入学した間もないころから始まっていた。俺が風邪をひいて学校を休んだ翌日、あるクラスメートが言った。
「昨日、お前が休んでラッキーだったよ」
あいつの正式な名前を俺は知らない。
ただ、みんなはあいつをこう呼ぶ……『給食のプリン』と。
小学生の頃、給食のプリンとカレーはおかわりしたいメニューの二大巨塔だった。カレーはまだおかわりができるが プリンは欠席者が出た時にだけおかわりにありつける代物だ。
小学生の時は我先にとじゃんけんに加わっていた。さすがに中学生になったらそれはないだろうと思っていたが、入学して間もないクラスでバトルが繰り広げられたらしい。
「ここの中学、給食のプリンが美味しいって評判なんだよ。小学生の時と納入業者が違うんだって。お前知らなかったのか」
俺の分のプリンを平らげたクラスメートは笑いながらそう言った。
その時、俺は「そうなのか」としか思わなかった。そんなに美味しいプリンなら次の給食が楽しみだなと思ったくらいだ。しかし俺はその後、そいつを一度として口にはできなかった。
給食にプリンが出るのは年に3、4回だ。しかし俺は、給食にプリンが出るときに限ってその場に居なかった。体調を崩して学校を休んだ時にあいつはしれっと現れていた。
きっとあいつは俺にとっての『疫病神』だ。なぜなら、あいつが給食に登場する日に俺は必ず具合が悪くなっていたのだ。
冬のある日インフルエンザにかかり、もしかしてと学校から配られる『給食だより』を見るとあいつの名前があった。
『給食だより』は家のキッチンの大型冷蔵庫に貼ってある。この場所は俺が小学生のからの定位置で、夕食と同じメニューになるといけないからと母親が貼っている。
小学生の頃はいつも寝る前に眺めていた。「明日は焼き魚と、和風サラダか……ぱっとしないなぁ」と思う日もあれば「明日はお楽しみ献立か……楽しみだなぁ」と思っていたものだ。
しかし、中学生になると、いや小学生の高学年頃から『給食だより』を見ることもなくなった。用がなければキッチンにも立ち入らなくなった。
中学校生活は忙しかった。部活の先輩との上下関係に悩んだ時り、成績が思わしくなく高校の進路に悩んだり。そんな時はあいつの存在なんて思い出しもしなかった。
だが、ある日の4時間目、俺は突然腹痛に襲われた。
まさかと思いその晩、キッチンでこっそりと『給食だより』を確認すると、メニューにあいつの名前があった。またもや、あいつに会うことができなかった。
中学2年の秋、俺はある女子に告白した。告白したが見事に撃沈した。その子には俺よりも勉強もスポーツもできる彼氏がいた。
翌日の給食、あいつは久ぶりに現れた。その日、俺は休むことなく学校にいた。きっとこいつを征服すれば俺の運気も上がるはず、なぜだがそう思った。
俺はプリンを手に取ってまじまじと見た。
クリーム色の蓋には茶色の文字で『プリン』とだけ印刷されている。半透明の容器に入った物体は薄い黄色でどこにでもあるプリンだった。容器の底の方は濃い茶色になっている。その場所にカラメルがあるのだろう。どこにでもあるようなこいつが、そんなに美味いのだろうか。
蓋を開け、さぁ口に運ぼうかと思った時だった。
『ドン』と背中に衝撃が走った。クラスのお調子者が俺に体当たりしたのだ。
その拍子にプリンは俺の手をすり抜け、容器ごと宙を舞う。途中、中身が飛び出し、俺の頭をかすめて落ちていった。
それは、あっという間に駆け抜けた俺の短い恋そのもの。べちゃという音と共にあいつは床に転がった。その姿は無残なもので、まるで告白して撃沈した俺のようだった。
「わるぃ、ちょっとふざけていてさ」
ぶつかった同級生が頭を掻きながら苦笑いする。そいつはもうとっくにプリンを食べていた。
「まったく、何するんだよ」
続けて「俺のプリンを返せ」なんて、言えるはずもない。
「あっぶねぇなぁ、朝セットした髪にプリンが付いただろうが」
やっと言えたのはそんなセリフ。
あいつはやっぱり『疫病神』だった。
こうなったら無理やりにでも食ってやると考えた。
3年生になった春、急にあいつの存在を思い出した。俺は給食センターに電話をかけプリンを製造している会社を突き止めた。
教えてもらった社名をもとに番号を調べ、受話器を取る。
「おたくでプリンを取り扱っていますよね。給食に出すやつです。そのことについて聞きたいのですが」
いったい何をやっているんだろうと思いながら尋ねると、
「担当者に代わります」
電話口に出た女の人は機械的な声で告げた。お待たせメロディの代わりに流れてくるのは、この会社で取り扱っている商品の説明だ。長い長い説明を聞かされていると不意に低い声が電話口から流れた。
「はい、お電話代わりました。給食のプリンについてという事ですが、どういったお話でしょうか」
電話口に出た男は淡々と言った。
「あの、中学校の給食で出されているプリン、どこかで売っていませんか。どうしても食べたいんです」
俺がそう言うと、男の声が少し大きくなり返って来た。嬉しそうな様子が電話口にも伝わって来る。
「そんなにあのプリンを気に入ってくれているんですか。ありがとうございます。しかし残念ながら、あのプリンは給食専用の商品です。あなたはどこの中学の生徒さんですか、良かったらお名前を」
「いや、あの」
俺は思わず電話を切った。
それから時は流れ、中学3年の冬、最後の決戦日がやって来た。このチャンスを逃せばもうこいつを食べる事はないだろう。俺はプリンを手に取った。その時だった。
「あっ」
隣から小さな声がした。見ると、女子がプリンを床に落としていた。食べようとして手を滑らせたのだろうか。彼女の視線は落ちてしまったプリンに注がれていた。彼女はクラスで三番目に可愛いかった。
「これ、いいよ」
俺は自分のプリンを隣の席に差し出した。
「でも……」
困ったように眉を寄せながら、彼女は俺を見上げた。
「女子って甘いもの好きなんだろ。いいよ、俺は甘いものそんなに食べないし」
「ありがとう」
彼女の笑顔を見た瞬間、俺の3年に及ぶ戦いは終わった。
高校を卒業して10年の月日が流れた。
俺はとある住宅の前にいる。今から結婚を考えている彼女の両親と初めて会うのだ。俺は緊張した面持ちで玄関に入った。
「さぁどうぞ」
彼女の母親はにこやかな笑顔で俺を迎え入れてくれた。しかしその先には最大の難関が待ち受けていた。
「お父さん、彼が来ましたよ」
「ああ」
仁王像のようないで立ちで腕組みをして俺を見る男……彼女の父親がそこにいた。
通されたリビングで俺は、ペットショップから連れてこられたばかりの子犬のように小さくなっていた。
「まぁ甘い物でも食べて」
そう言って彼女の母親が紅茶と一緒に目の前にいたもの。
あいつだ。10年ぶりの再会だった。まさかここでお前に遭遇するとは。お前はどこまでも『疫病神』だな。この場面に現れて俺にどんな試練を与えようとしているんだ。
驚いている俺に彼女の母親は言った。
「お父さんは、食品を製造する会社で働いているのよ、中でもこのプリンはね、お父さんが開発した自信作。今でも学校の給食に使われているの。あなたも食べたことあるでしょ」
あるというべきか、正直にないというべきか悩んだ俺は曖昧に頷いて「ええ、とても美味しいですよね」とありきたりな返事をした。
すると母親の隣でずっと口を閉ざしていた父親が徐に言った。
「これは店頭では売っていないんだ。懐かしいだろう。昔わざわざこれを食べたいからどこで売っているのかと言って電話をかけてきた中学生がいたんだ、名前を聞いたら電話を切られたけれどな」
「はぁ」
『その電話は俺です』とは言えなかった。
今まで食べられなかった経緯をうまく説明できる自信がなかった。
「このプリンの名前はあるんですか」
曖昧な笑顔を浮かべたまま俺は聞いてみた。
「そうだな、正式名称は『あまくてとろけるプリン』だが、私は『姫』と勝手に呼んでいたよ。これができるまでにかなりの試行錯誤を重ねたんだ。商品化できた時は心から喜んだ。まるで自分の子供のようだったよ」
父親は心なしか嬉しそうに話していた。
その話を聞きながら、俺は中学生の時に食べられなかった事を思い出して、妙に納得した。なるほど、将来、娘と結婚したいと言う俺には、彼が作った『姫』が食べられないように呪いが掛けられていたんだ。
しかし、ついにこの日が来たと思ったその時だった。
「これを食べる前に」
プリンの容器を持ち、ビニールの蓋をはがそうとすると、徐に父親が言った。俺は手にビニールの蓋をそっと手から離した。そしてプリンの容器を机の上に戻した。そばでは彼女が心配そうに俺を見ている。目の前にいる半透明の容器に入ったプリンの姿が彼女の姿と重なった。
お前も心配しているのか。ずっと敵だと思っていた。『疫病神』なんて言っていたけれど、お前は俺の味方だよな。俺は心の中でプリンに話しかけた。
「君に一つ聞きたいことがある。」
「はい」
俺はまっすぐに父親を見た。
「君は、本当に娘を幸せにできるか?」
一瞬の沈黙のあと、彼の低い声が部屋に響いた。
「――君の覚悟を聞かせてほしい」
視界の端に映っているプリンが少し遠くに動いた気がした。いや、それは気のせいなのだが。
俺は一呼吸おいて言った。
「俺は何があっても娘さんを大事にします。これから喧嘩をすることもあるとは思います。それで俺は彼女を幸せにしたいし、二人で幸せになります。こんな俺で不安でしょうが、精いっぱい二人で幸せな家庭を作ります。どうかよろしくお願いします」
俺が頭を下げたと同時に、低い声が降って来た。
「そうか、それを聞いて安心した。こんな娘だが、こちらこそどうぞよろしくお願いします」
そう言って父親も深々と頭を下げた。
「さぁさぁ、そろそろ食べましょうよ」
緊張感に包まれた空気を和らげるように彼女の母親は言った。
俺は丁寧にビニールの蓋を取り、スプーンでプリンを掬った。
「いただきます」
口の中に入ったプリンは柔らかい甘さを残したまま喉を通り抜けて、ストンと胃に落ちた。それは今まで食べたどんなスイーツよりも美味しかった。
「美味しい」
俺がそう呟くと、プリンが腹の中で笑った気がした。
あれからさらに10年。彼女の実家を訪れるたびに、あのプリンは変わらず食卓にある。
子どもたちの笑い声とともに、俺の中の“あいつ”は今日もにっこり笑っている。
あいつは俺にとって『疫病神』ではなく、長い長い年月をかけて俺のもとにやって来た『福の神』だった。
了