汚名返上
翌日の昼過ぎ。
公爵家の屋敷内、その一室でレイは専属の先生からテーブルマナーの授業を受けていた。
レイはナイフとフォークを持ち、空の皿で食事をする動作を演じる。
「素晴らしいですイオナ様! 指先まで洗練された美しい所作でしたわ! テーブルマナーのお手本としてイオナ様のお姿を全国民にお伝えしたいほどです!」
三十代中ごろの女性であるエバン先生は感極まった様子で手を叩いた。
「お褒めに預かり光栄です、エバン先生」
多少のおべっかはあるだろうが、先生からの評価は事実である。
それほどに先生の目から映るイオナの姿は違っていたのだ。
「昨日とは見違えたようです! これならイリエナ様に劣らない、いいえ、イリエナ様と遜色ないほどのレディになれますわ!」
「そんなまだまだです。テーブルマナー一つでお姉様に追いつけるなど思っておりません」
「(そう、テーブルマナーだけでは足りない。あの姉と比べられず、出来損ないの出涸らし娘という汚名を返上するには、もっと多くの分野で高評価が必要だ)」
それから三日後。
屋敷の廊下でメイドたちがヒソヒソと噂話をしていた。
「聞いた? イオナお嬢様の噂」
「なに? またあのお転婆お嬢様がやらかしたの?」
「それが違ってね、まるで別人になったみたいに人が変わったって話なの」
「あっ! その話私も聞いた! なんか屋敷にする先生全員がイオナお嬢様のことを絶賛しててね。まるで淑女の象徴だーって」
「あのイオナお嬢様が淑女の象徴? 悪い冗談でしょ」
「いやいや本当なんだって。なんならそれだけじゃなくて、私たち使用人に対しても優しくて——ひっ!」
メイドが楽しそうに会話をしていると、突如現れたイリエナにメイドは短い悲鳴を上げる。
他二人のメイドもギョッとしたような眼をする。
「仕事中にイオナの噂話とは……随分と仕事熱心なのね」
歴史書を片手に皮肉を口にするイリエナの表情は冷徹さを帯びていた。
「「「申し訳ありません!」」」
メイドたちはその場で勢い良く頭を下げて謝罪する。
「次見かけたらメイド長にこのことを伝えるわ。わかったら仕事に戻りなさい」
「は、はい! 寛大なご処置に感謝いたします!」
メイドたちは逃げるようにその場から早足で立ち去る。
「(イオナが変わった、か。あの不出来な妹が一体どういうことなのかしら)」
イリエナは窓から遠くの空を眺め、意味ありげに嘆息する。
イオナの自室。
ソファに寝転がりながら、レイは片手に持った鏡の向こうにいるイオナと対峙する。
「アンタ、一体何者なわけ?」
「ん? 最初に名乗らなかったかな。僕はレイだ」
「名前を聞いているんじゃないわよ! アンタ、本当はどっかの貴族家の人間なのかって聞いているの!」
「僕は何処にでもいる善良な一般庶民さ」
「そんなの信じられないわ! 部屋を掃除に来たメイドたちが話していたのよ。アンタが礼儀作法や歴史学や剣術で凄い評価を受けているって。どっかの貴族の人間じゃないとあり得ないことよ」
「本当に違うんだよ。僕は正真正銘の平民。貴族になんて全く縁遠かった人間だ」
「(もとい、この世界とも縁遠い人間なのだけど)」
「でもそれじゃあ説明が……」
「別に貴族じゃなくても貴族を真似ることはできるって話だよ。礼儀作法は他人の見様見真似、歴史学は本の丸暗記、剣術は……まあこれは僕にもちょっと心得があったから上手くできたけど、とにかく優秀に立ち回ることは造作もないってことだ」
「……ムカつくわ」
イオナは頬を膨らませて苛立ちを漏らす。
イオナがそう感じるのも無理はない。今まで自分ができなかったことを、レイはいとも簡単にやってのけた。そのことに腹を立てるのは自然なことである。
「(そう思っているのはイオナだけではなさそうだし)」
その日の昼食終わり。
レイが授業の前に屋敷の庭園を軽く散歩していた時。
——バシャ。とドレスの裾に水がかかる。
水が飛んできた方を見ると、専属メイドのミケエラと取り巻き四人がニヤニヤしながらレイを見ていた。
「あらごめんなさいお嬢様ぁ、つい手元が狂ってしまいドレスにお水が~」
花の水やり用のバケツを持ったミケエラは、柄杓でレイ目掛けて水をまいたようだった。
イオナの身体にレイが入ってからなのか、それとも元からなのか、ミケエラは度々このような幼稚な嫌がらせを行っていた。
「ミケエラ嬢もわざとお嬢様にお水をかけてしまったわけではありませんわ」
「そうですわ。毎日お嬢様のお世話が大変で、疲れが出てしまったのですわ」
「お嬢様は勿論、寛大なお心で許してくださいますわよねぇ?」
ミケエラは取り巻き立ちと愉快そうに笑う。
「(挑発してイオナの逆鱗に触れるのが目的なのだろうが、やり方が幼稚すぎて最早笑えるな)」
レイはニッコリと作り笑顔を顔に貼り付け、ミケエラたちに向き直る。
「手元が狂ってしまったのなら仕方がありませんね。ミスは誰にでもあることですから、あまりお気になさらないでください」
「ッ……!?」
予想していた反応とは違ったからなのか、ミケエラは明らかに引き攣ったような表情をする。
「では、私は着替えて参ります。私のお世話は大変なようですし、お手間を取らせないよう一人で着替えますね」
相手の発言を逆手に取るようなレイの言葉に、取り巻きたちの表情も引き攣る。
レイは踵を返し、彼女らに背を向ける。
「(相手取るだけ時間の無駄だろう。この程度の嫌がらせなら放置しても問題は——)」
——バシャァア!
と、レイの背中に勢いよく水が掛けられた。
冷たい水がドレス全体に浸透し、髪まで水浸しになる。
ゆっくりと後ろをレイが振り返ると、レイの視線の先にはバケツを両手に持ったミケエラが鼻息を荒くしていた。
「み、ミケエラ嬢っ!」
「い、今のは流石に……」
取り巻き立ちはおどおどした様子でミケエラを諫める。
「(子供の嫌がらせでも、度が過ぎれば犯罪になる。今まではちょっとやそっとのミスということで流せたが、これはそうはいかない)」
「どうやら、放置するというわけにはいかないようだ」
レイ誰にも聞かれぬよう小さく呟く。
「貴女たちッ! 一体何をしているのッ!!」
突如、苛烈な怒鳴り声が庭園に響く。
声の主はこの家の女主人のフィアーナ・ハミットである。
「お、奥様!? こ、これはその……!」
「一体どのようなつもりで仕える相手に水を浴びせるのですッ!」
「お、奥様。これはミケエラ嬢が手を滑らせてしまい起こった事故で……」
「手を滑らせた? 人を馬鹿にするのもいい加減になさい! 私が今の一部始終を見てそう納得できるほど愚かだとでも思っているのッ!」
鬼の形相でフィアーナは怒鳴り続ける。
「こ、これは違うのです! 奥様、どうか私たちの話を——」
「貴女たちの醜い言い訳など聞きたくありませんッ! 今すぐメイド寮に戻って待機していなさい! この事は公爵様にご報告しますから覚悟しておきなさいッ!」
「ッ……! か、畏まりました、奥様」
流石のミケエラもこれ以上引き下がることはできず、頭を下げてその場を立ち去った。
「チッ……」
ミケエラは通りすがりざま、レイを睨みつけ舌打ちをする。
「(睨まれるいわれはないのだけど)」
「イオナさん、大丈夫ですか! こんなに濡れてしまって……」
フィアーナは心配そうな表情に変わり、両膝をついて濡れたレイの髪を優しくハンカチで拭う。
「お気になさらないでください」
「(そうだ。気にすることなど何もない。むしろ良いことを知れたのだ)」
ミケエラの眼光から感じた明確な悪意。
それは意図せず、レイの激情に火をつけた。
「(悪い奴は〝排除〟しなきゃなぁ)」
イオナの皮を被ったレイは不敵に微笑んだ。