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自分というもの

作者: 里田

常日頃、一生懸命献立を考えて、夜に間に合わせて大切な人と食べます。

今日も無事に整えたごはんをおいしく頂けました。

ああ、今よそに、どこまでいってもこれ以上の私の幸せはないなと、ここ数年感じています。それ以外のことが飛び込んでくる暮らしだけど、そこには感動することが増えていきます。そんな私の脳裏に浮かんだいろんなことを書いてみます。



毎年お決まりのように、台風がきて、お決まりのように人が死ぬ。


日本という国には地震がある。唐突にどこが揺れるかわからない。

ひとたび地震がゆれれば地中も揺れる。揺れれば壊れるものがある。


日本の人々は、日本列島の背骨のようにつらなる山々と、表裏両側の海岸にはさまれたわずかな平地にすみつき あるいは山を切り開いて、そのすそに張り付くようにして、川沿いに生きてきた。

山が崩れても、川が溢れても物が壊れ、人も影響を受ける。


台風がくるから逃げようといっても、周りは広大な海。この海という大自然を渡らねば外に逃げることはかなわない。

今までずっと、このことを知ろうと知らなくとも。


いつどこがそうなるかわからない。


しかしその上でそこで、やはり笑って楽しんで、精いっぱい生きてきた。


海、山、川。そして土地。


自然という荒れるものと、恵みの下で、

逃れようのない地獄とも、まわりじゅうが恵みをもたらす天国ともいえる。


そのどちらの顔も本当だ。


自然に囲まれ、自然にはりつき、自然の中に織り込まれて生じ、

同時に自然に隔てられもする、その自然の中の巡り、循環のひとつとしてすでに生きてきた

人という生物だ。

必要なものを管理して、多くが死なないように足るを知っていた生物だ。



自然があらぶれば、誰かにとっての善人も、誰かにとっての悪人も問わずすべて吹き飛ばし押しつぶし、押し流す災害というとてつもないパワーによる地獄となる。


いったん動的な顔が過ぎ去れば、日が昇り照らし、風が吹き、何もなかったかのように和の顔をみせる世界。

恵み育み、殺しもする。それは私たちもそうであるように、世界も相似形でそうだった。



私たちはそこに生まれて、いつの間にか死んで、体はそこで分解し、そこのものとして循環する。

その一部としての生命体の体で生きている。



自然を大切にしよう、というまでもなく人間は空気もつくれない、星も作れない。

人を作れないどころか、今まではろくに体を大切にもできなかった。


私たちを含む日本という自然はもちろん地球という自然の中一部で影響しあっている。

そして地球は星であり、境目のない宇宙の一部だ。

宇宙の中の星の人だから、当然自分は宇宙人の一種に分類されるのだ。



自然相手に金を積んでも意味はないことを、人は今まで知っていた。

金自体はただ、人同士の社会での利便のための道具である。


この星にも宇宙にも、私たちを囲む空気や海にも、ここからは別、という境目はない。

誰かが汚せば、自身の周りにそれは混じることになり、それを私たちは吸収する。

影響をうけ、影響する。


ここまではうちの土地、ここからはうちの国。

地球という星の上で、勝手に線を引いて殺し合い金をやりとりする種にしているが、自然はそんなことは知ったことではない。

川の根本である山がどこの市や国の一部でも、崩れればその境目を超えて川が枯れたり、溢れたりするし、海上で起きた風も波も国境という人の都合を越えて移動していく。


私たちはこの体を、死んだらそのまま埋めるか、燃やすか大半はそうするが、どっちにしたってこの星の何か別のものに変化して、つぎに他の生き物に使われていくことにより、さらに変化して回っていくのだ。


そこに、悪いことも善なものもない。


ただ、全ての間を変化して流れていくものがあるだけだ。


近所の公園に木の実が落ちている。

この木の実を食べることはないので、豊作だったかどうか過去を調べてみたことはないが

その年の秋に注目してみれば、足元を埋め尽くすほど豊富に、豊かに木々はその実をならし、地上に落としていた。


それを拾ってみれば、呆れるほどマメに虫が食った穴がある。

よくぞこんなに穴をあけるもんだと感心するほどだ。ほとんど全てに虫が食った跡がある。

木の実の中身は、虫たちへと移ったのだ。


やがて冬が来る。残った木の実も朽ちる。雨がふり、葉がつもり、土と化す。

そこにはわたしたちの目に見えないものが作用している。


微生物。


たとえ直接目に見えなくても、信じられなくても。これはもちろん、霊現象ではない。

風や空気も見ることはできないが存在を私たちは確信しているように。

いちいち手に取って、証明しつづけて暮らしていないが、どういうわけか、私たちはこれを学者のウソだと思わずにみんな信じている。


顕微鏡のない時代には、果たしてこれを信じるかどうか?というただの説という問題だったミクロの世界の営み、今すぐ見られない空気、光、熱の作用も

学者が広めて教えた結果今はれっきとした現実世界のものと認められているわけだ。



見えないものは信じない!という人を唯物論者といい。それが偉くて正常のような一様の扱いも

見えないものの働きをあれこれ考えることをオカルト、とひとくくりにすることも、どうにも不思議な現象であると私は思う。


今、科学扱いになっていることのうち、どれくらいが昔、見えない理解できないオカルトだっただろう。


見えてるものの勘違いや、ないと思い込んでいるだけのものがまだあるに違いないと思う。


それはともかく、今一般にあるとされているものだけで考えてみてもわかることがある。


今、木の実だったものは微生物となって巡っていっている。

木が散らした葉も朽ちた木も、動物の死骸も虫が冬に死んだあとも、その体は微生物の世話になる。


最終的に彼らのおかげで、延々と累々と、フンやゴミや死骸が折り重なるだけという事態がさけられているわけだ。

分解し、土のなかの成分になり、それを木の根は吸収し、再び木にもどり、実を成らせる。


私たちがばい菌と呼んで、土遊びのあとよく手を洗いましょう、というそのもののおかげで

永遠にコンクリートの上に折り重なる、形を変えないゴミ、ではなくなり循環するもの、活動の材料となってあらたに変化しているのだから、大増殖すれば人間の体が弱る元にもなる菌だが、それを悪と名付けることはできない。

必要だからあるのである。


それどころか、生物の排泄物も、骸も、生命が停止しむくろとなること自体も、死骸がばらばらにされて養分にされることも腐ることも、形を変えている途中のひとつの形態であって、それ自体が善いことでも悪いことでもない。


物はエネルギーを生んで、都度形を変える。


人の体も、虫の体も、自律的な生命活動を停止したあとは

何かによってエネルギーを生んで同時に他のものに変化するのだ。

そしてそれは、他が活用できるものとなり、ずっとここにあり続けている。


それを見ている私は何に気づき、何を理解したいと願っているのだろう。



最近インドを取材したとある動画をみた。


インドの死体を食べるという人たちを取材していた。


その人たちを、表向きどのような理由があってでも、実際存在を内包しているインドという国の奥深さを思うけれど

動画の作者が話を聞いていた相手というのが、その職に生まれたからそうなったわけではなく

世界で良いものを食べる人がいる、ならばバランスをとるために、自分たちのような人が必要だ。

とそういう理由でその死体を食べる存在になるために修行して、自らの意思でそれをするようになった、と話していたことが見たとき衝撃だった。


彼が言うには


ものごとが一方に偏ると、他の一方も同時に動く。そうすることで世界はバランスをとっている。


一方が良いというものに偏りすぎると、同時に誰かが悪というものに走ってバランスをとるというのだ。



世の中には話すまでわからない、わけというのがある。

自分の想像もつかない理屈で生きている人もあるんだろう。

アジアの心理は全体主義的というけれど

それがその人の幸せの道なんだろう。

西洋人の自我からは理解しがたいものだろう。


陰陽のバランスが必要だ。だからそうする。

彼は自分をそう表現した。




そういう全体ありきの東洋心理と、個ありきの西洋の心理、どちらもお互いにあることでバランスをとってきたんだと思う。


一方に偏ろうとするが、他方になるものが同時に生まれてる。



極端に清く正しくあろうとすると、自然に存在するいろんなものを抑制し、それを見まいと追いまくられて恐怖にかられる。

でもその恐怖のもとは自分であるように。


できるだけのいいことをしよう、くらいの心がけでいると、そこまでの反発はなかっただろうに

完璧に勝って、完全に有利になって、そうしたらその立場を、崩れないよう永遠に固定して守ろうとしてしまうと

固定したものは同時に動かぬ障壁にもなり、ため込んだものは循環せず流れない異物として詰まるのである。


いいものも、見たくないものも、限度を超えたため込みが自身への害となるのだと思う。




それらの絶妙なバランスの驚異。


誰かの意図ではなく、自律的にそうなるようにできているというか。


自己組織化、のような自主的な変化の不思議を思う。




私というものは何者だろう。


おそらくそれを決めた瞬間に、それ以外のものへの抵抗も同時に生まれる。

そうやって揺れ続ける。



だから私はいつも揺れて変わり続けるものでいいと思う。

実際に何を決めたと思ったところで、意識もせずに簡単に矛盾する。異なることを選ぶ。

常に何か揺らいでいる。揺れ続けている。


心理学で、己の中には他人があるという。

アニマ、アニムス。

それらは常に揺らし、新たな変化を誘っている。


特に何かになろうと思わなくても、すでにいつでもそうである。





現在、思うこと。


エスカレートしないこと。

人がどう言おうとも自分にちょうどいい量がある。

いい感じに流れて行って、違和感なく流れてくる。

呼吸のように。


それが幸せ。


ただ、私はそういう人間なんだと思う。





2024.6.24

今まで、目には映っていたのに見えていなかったこと。

気づかされて、心動かされて、虚を突かれると涙がでてきてしまう。

きっと今までもあったのにわからなかったことがある。

そのたびに、本当にすごいと驚いてしまう。


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