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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編まとめ

ホラー小話

作者: 上瀬

 ぐ、と詰めた息を吐く。

 デスクに置かれた書類の山は一向に嵩を減らす気配を見せない。それどころかこうして休憩している間にもラップトップのパソコンには要確認のメールが溜まっていっているのだろう。

 かれこれもう6時間近く座りっぱなしだった腰は、伸びをするだけで嫌な音を立てる。昨日も一昨日も書類整理ばかりで研究の一つできやしていない。これでは博士ではなく事務員だ。

「くそ…」

 煙草でも吸うか、と零したつもりが口からは悪態が出ていた。だいぶ参っているらしい。

 いつもならラップトップの隣に置かれているはずの、今は机の隅で肩身が狭そうにしている煙草とライターを引っ掴む。ラックにかけられた、財布が入ったままのコートを手に掴んで研究しつつを出た。


 男が務めるのは大学。歴史学を専攻する研究室は棟の3階に位置している。禁煙の波に呑まれ、大学の敷地内はどこにも喫煙者の居場所はない。

 となれば一度階下に降りて敷地の外に出る他ないが、あいにくとそんな面倒はしたくなかった。屋上であれば誰にも見つからず煙草を吸えることを学んでしまっているのだ。


 屋上への鍵はポケットの中にしまっている。時間は夕方に差し掛かったところで、学生たちは今頃6限目の講義と戦っている頃だろう。

 最上階は7階だ。屋上まではそこから階段で向かわなければ行けないが、敷地を出るよりは幾分かマシである。


 控えめな足音を響かせながら廊下を歩き、突き当りにあるエレベーターへと向かう。

 コートに袖を通し、煙草を手のひらで遊ばせた。無意味な行為だとわかっていてもついやってしまうのが癖というものだろう。

 老朽化が進んだエレベーターは、あと1週間もしたら新しい物に取り替えられるらしい。ついでに建物ごと建て替えてほしいとは思わないでもないが、雇われの教授に大学の方針に対して口を出す権限は無いのだ。


 カチリと四角いボタンを押し込む。上の矢印が赤く光り、数分も経たないうちにエレベーターの扉が口を開いた。

 誰も乗っていない鉄の箱は薄ら寒い気もする。しかし霊感などない男に、何かを感じる術はない。7階のボタンを押し、扉の真正面にある壁へと背をつける。

 胸ポケットに入れたスマホを確認する気力も起きず、男は目を閉じた。


 ごうん。ごうん。と音が鳴っている。

 ぎい、ぎい、と音が鳴っている。エレベーターの音はこんなものだっただろうか。違和感を覚えながらも瞼は拓けそうにない。

 耳元で何かが嗤っている。一人で乗った筈なので、聞こえているのは恐らく幻聴だ。疲れ過ぎだなと眉間を揉んでおく。

 

 ポーンと軽快な音が鳴る。次いで数拍置いて浮遊感が止んだ。エレベーターが停止したのだ。年季を表すようなギリギリという歪な音を立てながら扉が開く。 

 何人かが乗り込んでくる足音を聞きつつ、面倒なので瞼は閉じたままにしておいた。


「次は5階です。お下りの方は居られますか?」

 

 エレベーターガールのよく響く声が尋ねてきた。先ほど4階に止まったとき、乗り込んできたのだろうか。大学にエレベーターガールなんていただろうか。眠気を催してきた頭では上手く思考がまとまらない。

 

「次は5階です。お下りの方が居られます」


 浮遊感が止む。先ほどと同じように、ギリギリという聞くに耐えない音を立てて扉が開いた。

 ぺち。ぺち。ぺち。ぺた。ぺち。ぺた。

 明らかに靴を履いてない馬鹿がいる。残念ながら男には盗み見る気力さえないので無視するしかない。

 ぐ、と袖が引かれた。降りろということだろうか。誰かと間違えられていそうだ。

 目を開けずに手が離されるのを待つ。

 ぐい、と強めに腕が引かれた。ぐい。虫の居所が悪い男は、手を絶対に開けてやるものかと眉根を寄せた。ぐい。


「現在5階です。お下りの方が居られます」


 いつまで5階にいるつもりなのだろうか。ぐい。はやく7階に上がってほしい。ぐい。時間は有限なのだ。ぐい。

 裾が伸びていそうで嫌だ。ぐい。引っ張る手は止まない。ぐい。


「オレはおりない」


 誰だかは知らんがさっさと降りろ。そう念じながら手を振り払うようにポケッへと突っ込む。鍵が指先に当たった。ちりんと鈴の音が鳴る。キーホルダーにそういえばそんなもの付いていたなと思い出すが、今はとてつもなくどうでもよかった。


 ずる、と恨めしそうに手が離れる。また足音がした。

 ぺち。ぺち。ぺた。ぺち。

 5階と言えば歴史学の中でも民俗学を専攻する研究室が多かった筈だ。ぺち。男も民俗学の専攻ではあるが、5階に部屋が足りなくて3階へと突っ込まれている。ぺち。おかけで少し広めの研究室を使えているのだが。ペち。

 廊下の脇に並べるように借りてきた研究資料を並べることにならなくて本当によかった。ぺた。幽霊やそれに連なるものを信じているわけではないが、普通に罰当たりな行為ではあるのでいい気はしない。ぺち。

 今は確か棺が廊下に並べられているらしい。実際に見てはいないが、電話口で5階の教授がそう話していた。ぺち。


 素足で歩くような音が扉の向こうに消えていく気がした。ポケットで玩んでいた鍵が、また鈴の音を落とす。

 数拍してやっと浮遊感が体を包んだ。

 7階まではそう遠くない。10秒もいらないだろう。そこまで考えて、おかしなことに気づく。先程4階に上がったとき、やけに長い時間揺れていた。5階に上がるときも普段よりは少し時間が掛かった気がする。

 考えている間にも10秒はとうに過ぎ、エレベーターは到着の音を鳴らさない。


「次は6階です。お下りの方は居られますか?」


 いやおかしいだろう。今かよ。冷静な部分が指摘している。男はやけに眠かった。眠気を覚ましに煙草を吸おうとしているのだから、眠いのは仕方のないことではあるのだが。

 エレベーターガールだと思っていた誰かの声が、ひしゃげたような、しゃがれたような声に聞こえた。こんな声だっただろうか。


「下ります」


 右隣から声が聞こえた。こんなにも近くに立たれていたというのに、今の今まで気づかなかったなんて。自身が思っているよりも疲れているらしい。

 若い男の声、と言うには少し大人びていた。老成と言うほどではなく、壮年期に差し掛かった声だ。男自身とちょうど同じくらいだろうか。

 どこかで聞いたことのある声だった。つい最近聞いたような、むしろさっき聞いたような。


「下ります」


 同じ声がした。

 違和感がふつふつと湧いてきては、背筋を撫でる。自身の口から発せられた音のように耳に馴染む声だ。

 そうだ。隣から聞こえてきた声は紛れもなく男自身の声だった。


「次は6階です。お下りの方が居られます」


 浮遊感が止んだ。嫌な音を立ててエレベーターの扉が開く。ギリギリ。ギリギリ。

 エレベーターガールの声は先程とは打って変わり、機械的なものだった。AIと言うべきか、スマホに備え付けられた、名前を呼べば応えるものに似ているように思える。

 

「現在6階です。お下りの方が居られます」


 手首を掴まれた。ポケットの中の鍵がまた鈴の音を鳴らす。一瞬だけ緩んだ手が離される事はなく、痛いほどに強く引かれた。


「オレはおりない」


 いい加減にしてくれと思わないでもないが、ここまで来ると意地でも目を開けてやるものか。

 眉間にしわを寄せ、低い声で唸るように行った。不貞腐れたようにも聞こえたが、仕方がないだろう。いったい何時になったらこのエレベーターは7階に着くのか、問うても答えが返ってくるわけではない。


「下ります」


 また自分の声が聞こえる。正確には自分と同じ声の、誰かの声だ。男は眉間のシワを更に深くした。

 掴まれた腕がギチギチと悲鳴を上げている気さえしてくる。痕になったり、研究資料が持てなくなったらどうしてくれようか。

 嫌なほど他人事のように思考が回る。それでも目を開ける気にはなれなかった。


「オレ、は、おりない」


 ゆっくりと、言い含むように声を吐き出す。エレベーター内がやけに寒いように感じた。年季のせいで空調もバカになったのだろう。

 わざとらしくポケットから手を出し腕を組めば、引っ掴まれたままの鍵がひと際大きく揺れる。付けられた鈴がまた、ちりんちりんと音を立てた。


 骨が折れそうなほど腕を掴んでいた手が離れ、革靴が扉の方へと音を立てて離れていく。目はまだ開けない。


「……次は、9階です。お下りの方は居られますか?」


 飛んだ。階が2回ほど飛んだ。むしろ存在しない階が出てきた。本来ならここでめちゃくちゃに慌てるのだろうが、今日の男はまともな精神状態ではなかった。

 そも、まともな精神状態の人間は無言で袖を引っ張ってくる相手に見向きもせず目を閉じているなんて、絶対にしない。エレベーターに乗った時点でまともな思考回路はお眠りになっていたのだ。


「次は9階です。お下りです。」


「現在9階です。お下りです。」


「現在9階です。最上階です。お下りです。」


 狂ったように現在位置を報告してくるエレベーターガールの声は、幼子のように聞こえた。口々に言葉を発する集団のように、その声は安定しない。代わる代わる同じような言葉を言っては扉の向こうへ消えていく。

 開いていない扉の向こうへ消えていく。


 段々と間延びをするように声が歪む。壊れたラジカセのようだ、という表現はきっと年寄り臭いのだろう。


「現ザぃ、きュうカい、デす。おリ、下り、オり、ロ、おり、オち、おチろ」


 ひとり。残った誰かが狂ったように声を発している。男はおりる気はなかった。


「おりない」


 ぴしゃり、冷や水を浴びせるように声を出す。未だ「下りろ、落ちろ」と繰り返すその声を切り裂くように。


「オレは、下りない」


 どこへなりともさっさと行ってくれ。そうしなければこの鉄の箱は7階にたどり着かない。

 一向に覚めない眠気と、吸えない煙草に苛立ちが募る。

 もうここで煙草を吸ってやろうかとさえ思えてきて、そんなことをすれば煙草の臭いでバレてドヤされるなと首を振った。


「じャあ目をアけて」


 じっとりと濡れた手がまぶたをこじ開けようとしてくる。不快感が最高潮に達して、眉間のシワは、今期最深を記録しそうだ。

 ここで目を開けたら負けである。こんな凝ったイタズラをする学生に心当たりはない。が、教授と言うのは大抵が大人気ない大人なので、負けてやるつもりは微塵もなかった。


「オレは下りない。目も開けない」


 何度かまぶたをぐにぐにと押し、全くうんともすんとも言わないことに諦めたのだろう。歯痒そうに、恨めしそうに、残念そうに、濡れた手が離れて行った。

 袖口で顔を拭えば、不快感は幾分かマシになったように思えた。


 ギリギリ、ギリ。エレベーターが軋む。エレベーターの扉が軋んで開く。全くもって嫌な音だ。

 声はもう聞こえない。足音だけが響く。ぺた。ぺた。ぺち。

 子供のような小さな足音だ。それが開いた扉の向こうへ消えていく。音を立てながら消えていく。男はそれが遠ざかるのを、静かに聞いていた。


 チン。と音が鳴る。


「おや、佐々木先生。貴方も?」


 目を開けばそこは7階のフロア。気がつけば男はエレベーターの外に立っていた。

 眼前には同じようにコートを羽織り、右手に煙草を持った初老の教授が立っていた。

 声は自身のものとは違う、少し高くて柔らかい声だ。深いしわは不機嫌からくるものではなく、年を重ねたことによるものである。


「気分転換に、と思ったのですが。エレベーターの中で眠っていたようで」

「気をつけなさいな、もう随分と古いからね。食べられてしまうといけない」

「ええ、それはもちろん」

「ところで」


 先程の出来事を跳ね除けるように会話に花を咲かせる。せっかく忘れていた机の上の書類を、同業者の顔で思い出してしまったことが悔やまれた。

 肩を竦めて笑った男に、初老のその人は言葉を切った。そうして男の手元を見て、不思議そうに頭をかしげる。


「君。その服、どうしたんだい?袖のところがあかいけれど」 


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