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第94話 うららかな刻と巡る糸

「とても良い物件でしたわ」


シルヴィアは、独りでアニェスのサロンを訪れていた。リオネルを含めて、久しぶりに三人だけの顔合わせである。


「大通りに近いし、立地は抜群。集客にはもってこいで、設備も整っている。掘り出し物をご紹介いただいて、感謝いたします、アニェスさま。是非、あの物件に決めたいわ」


「それは良かった。曰く付きなので、どうかなとは思ったのですが、お義姉さまが頓着なさらないのであれば何より」


アニェスの笑顔が光り輝いた。


「私は全然気にならないのですけど、マノンがまさか幽霊が苦手とは思いませんでした」


「あいつ、子どものときから、その手の話が大の苦手でな」


リオネルがいかにも楽しそうに言った。


「怪談とか怖いおとぎ話とか、そういう話になると決まって逃げ回っていたっけ」


「可愛いわあ。泣く子も黙る紅烏団の団長が、幽霊が怖いだなんて」


「―では、お義姉さま。手続きを進めますね。内装工事もすぐに始めさせます」


「何から何まで、お手を煩わせて申し訳ありません。ただでさえアニェスさまはお忙しいのに」


「いいえ。バルケッタが事務仕事を一手に引き受けてくれるようになって、ずいぶん楽になりました」


「お役に立てているようで、私も嬉しいわ」


「あのバルケッタがなあ。まだ13だろ? めちゃめちゃ数字に強いんだってな。天才って、ほんとにいるんだな」


「ぷっ…! 旦那さまったら」


腕を組んでしきりに感心するリオネルに、思わず吹き出してしまった。


「天才なら、極々身近にいらっしゃるではないですか」


リオネルは、思わずアニェスを見た。


「……違いない」


「嫌だわ。お兄さまもお義姉さまも、変なこと仰らないで。私はごく普通の可愛い皇女よ」


「あっ、それ、私のセリフ!」


「ふふふっ! 楽しい!」


鈴の音を鳴らすように笑い転げた。


「……とにかく、バルケッタは、優秀だ。あいつを責任者にして、事務部門を新設する」


アニェスに優しい眼差しを向けながら、リオネルが言った。


「ようやく適任者が見つかったよ。今はソフィが手伝っているが、何人か事務官を雇ってバルケッタの下につけようと思ってる」


「それが良うございますわ」


「そうそう。シルヴィアには言い忘れていたが、ガイヤールとの条約が成ったぞ」


「まあっ、そうですか。それはおめでとうございます」 


ルメール王国の地方都市ガイヤールの城主ギュスターヴ・ケヴィンとの秘密条約が成立したのだ。世にいう第一次ルメール戦役において、リオネル軍が陥落させ配下としたギュスターヴとの間の、貿易に関する条約である。


「ギュスターヴさまは、形としては未だルメールの家臣。私たちとの約束を反故にすることもできたでしょうに、律儀にお守りくださるなんて。―旦那さま。ギュスターヴさまを仇や疎かにしてはなりませんよ」


「わかってるって。我が家の重臣として篤く遇するさ」


「あのような律儀な方、得難い人材です。お兄さま。決して手放してはなりませんよ」


「だから、わかってるって。うちの女どもは、口うるさくて敵わねえ」


「……私の聞き間違いかしら? 今、旦那さまは私たちのことを口うるさいと仰ったようですけど」


「な、なんだよ。そう睨むことはねえだろ。本当のことなんだから」


「私たちは、旦那さまのことを思って意見しているのに、それを口うるさいとは何ですかっ。謝ってください!」


「それが口うるさいっていうんだよ」


「何ですって!?」


「ふふふっ! やめて、二人とも。おなかがよじれてしまう」


お腹を抱えて笑い転げるアニェスの明るい声が部屋中に弾けた。


リオネル家は、今はまだ、平穏な日々に包まれていた。しかし冬の終わりは間近であった。確実に、戦乱の刻は近づいてきている。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


「失礼いたします」


ドアを開けると、リュカが丁寧に頭を下げた。


「リュカさま。今日は何のご用事でございますか」


マノンは、お人形のような愛らしい微笑みを浮かべた。


「シルヴィア妃殿下へ、主ガブリエルからの言伝てをお伝えにまいりました」


「……申し訳ございません。シルヴィアさまは、不在になさっておいでです」


「そうでしたか。では、戻られたらお伝えください」


リュカは、顔色一つ変えず持参した土産を差し出した。


「先日の朝賀の儀において倒れられた妃殿下へお見舞い申し上げます」


「これはご丁寧に痛み入ります。必ずシルヴィアさまへお伝えいたします」


「本来であれば、主自身にてお見舞い申し上げるべきところ、諸般の事情により参上できぬこと、大変心苦しく申し訳もございません」


「恐れ多いことにございます。度々のお心遣い、シルヴィアさまも日ごろからガブリエル殿下には感謝申し上げております」


「大事のお身体。是非、ご養生くださいますよう切に願っております」


「……あのう、リュカさま」


堅苦しい挨拶の応酬を繰り広げる二人に、コレットが口を挟んだ。


「入り口で立ち話も何ですから、もしよろしかったら、中にお入りください」


「……お心遣い、大変ありがたいのですが、女性ばかりのお部屋にお邪魔するわけにはまいりません」


「そんな堅苦しいこと仰らないで、どうぞ中へ」


「いや、私は―」


「リュカさまに是非召し上がっていただきたいお茶があるのです」


コレットは、リュカの腕を取って強引に中へ引っ張りこんだ。


「コレット! ご迷惑でしょ!」


慌ててマノンが止めようとするも、


「いいから、いいから」


密かにウインクすると、とうとうリュカを部屋へと導いてしまった。


「……困ったな」


「申し訳ありません、リュカさま。コレットが大変失礼を」


当惑の表情を浮かべて佇むリュカに、マノンは、平謝りである。


「……そんなに頭を下げないでください、マノンさま」


「……!」


(私の名前、覚えててくれたんだ)


ちょっと嬉しかったりする。


「あなたの後輩は、なかなか強引な方ですね。―仕方がない。一杯だけお茶をいただいたら、おいとますることにいたします」


リュカは、鉄紺色の髪をかき上げた。


「―リュカさま。どうぞ、こちらで召し上がってください」


お茶の用意をしていたコレットが、テーブルへ(いざな)う。シルヴィアがリオネルをもてなす際に呼んだときと同じ席である。


仕方なさそうに席につくと、驚いたようにカップを覗き込んだ。


「黒い…! これは何ですか?」


「……コーヒーといいます」


コレットに促されて、マノンは軽く彼女を睨み返しながらリュカの正面に座った。


「シルヴィアさまが今、売り出そうと最も力を入れていらっしゃる異国のお茶ですわ」


「ほう…。コーヒーというのですか。……香りがとても良いですね。初めて嗅ぐ香りです」


「そうですよね。私は、この香り、好きですわ」


「……味は苦いのですね」


一口飲んで、リュカはカップを置いた。しかし表情は変わらない。


「無理にお召し上がりにならなくても結構ですよ。苦手な方はどうあってもお口に合わないと、シルヴィアさまが仰っていました」


「―確かに苦いのですが、ほのかに酸味も感じられる。それが程よいアクセントになって、味に奥深さが生まれています。私は好きですね、この味」


「あら。アニェスさまみたいな感想を仰るのですね」


「アニェスさまと比較なさるなんて、畏れ多いことにございます」


どこまでも礼儀正しく堅い青年である。マノンは、じっと髪と同じ鉄紺色の瞳を見つめた。


「……リュカさまは、ガブリエル殿下に長くお仕えなさっているのですか?」


「ご幼少のみぎりからです」


「やはり、どなたからのご推薦で?」


「……」


リュカは、視線をコーヒーカップに落とした。マノンは、慌てたように手を振った。


「―申し訳ありません、詮索するようなことを言いました。仰りたくなければ、私の言ったことはお忘れになってください」


「……マノン・ルブランさま、ですよね?」


「えっ!?」


突然、フルネームで呼ばれて俄に警戒心が沸き起こった。マノンのことをフルネームで知っている者は、そうはいない。


(この男、いったい何者だ…?)

【裏ショートストーリー】

ソフィ「バルケッタさま。こちらの資料は、これでよろしいでしょうか」

バルケッタ「そうですね…こことここは、間違っています。直しておいてください」

ソフィ「……あ。ほんとだ。申し訳ありません。すぐ訂正します」

バルケッタ「あの、ソフィさま。僕のことは敬称は必要ありません。呼び捨てにしてください」

ソフィ「そういう訳にはまいりません。リオネルさまからは、上司として仕えるよう申し付かっております」

バルケッタ「僕は、13歳ですよ。ソフィさまは僕よりずっと歳上です。お年寄りは尊敬しなくてはなりません」

ソフィ「うっ…。と、年寄り…。それは、ちょっとショックです」

バルケッタ「えっ!? も、申し訳ありません。何か言葉を間違えましたか?」

ソフィ「年寄りというのは、ご高齢の方のことを指します。私は、確かに若くはございませんが、高齢というにはいくら何でもまだ早いと存じます」

バルケッタ「も、申し訳ありません。ご不快な思いをさせて。決して悪口を言ったのではありません。どうかお許しください」

ソフィ「……いえ、お気になさらずに。怒ってはおりません。オバサンであることには違いないのですから」

バルケッタ「僕はダメですね。ギーさまからも言葉選びには気をつけるように言われていたのに」

ソフィ「バルケッタさまは、パストゥール語を習い始めて一年にもならないとお聞きしました。ここまで使いこなせるのですから、自信を持たれるべきです」

バルケッタ「ありがとうございます。ソフィさまに褒められると嬉しいです。今後もどうか、僕の師匠でいてください」

ソフィ「……」

バルケッタ「……あれ!? また何か間違えましたか?」

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