第82話 本の虫
この時代、本は貴重である。活版印刷が発明されるのはずっと先のことで、もっぱら手で書き写すのである。必然的に金持ちしか手に入れることができない。
かくして、知識の独占によってますます貧富の差が激しくなるわけだが、ブランシャールでは事情が少し異なる。かつて貿易商のアダンが言っていたように『いろいろ気に食わないところが多い』が、教育制度だけは充実しているので、貴重な本を庶民でも手にする機会に恵まれている。
隣国ルメールの識字率が10%といわれている中で、ブランシャールでは、実に80%。孤児院出身のコレットも、幼くして両親を亡くしたマノン、ギー姉弟も、読み書きができるのはこのためである。
前フリが長くなったが、知識の継承を重視するブランシャールは、世界各地の書籍を収集することに力を入れてきた。その集大成ともいえるのが、国立図書館の存在である。
皇宮の敷地内にあるその建物は、荘厳な造りをした二階建てで、収蔵数約70万冊。前述のとおり、大半は手書きで書き写したもので、中には貴重なオリジナル本もある。
市中に出回っている書籍は、ほとんどがこの図書館の蔵書を書き写したものだ。世界中すべての本を集めているわけではないが、大抵のものなら、揃っている。
そういうわけで、シルヴィアが求める少し変わった趣旨の本も、ここにはあるはずだった。
「結構、カビ臭いのね」
キョロキョロと本の山を見渡しながら、シルヴィアは、クンクンと鼻を鳴らした。
「シルヴィアさま。臭いなんてどうでもいいでしょう」
マノンが、ピシャリとたしなめた。
「この数ですよ、手分けして探さないと一日で見つかるかどうかわかりませんよ」
「マノンさまは、やけに力が入っていますね」
「当然よ。ようやく機運が盛り上がってきたのよ。これを逃してなるものか」
マノンは、まなじりを決してズラリと並ぶ本を睨みつけた。
皇宮の大広間ほどの広さのある一室に、ジャンルごとに区分けされたコーナーが設けられている。そのコーナーごとにマノンの背の3倍はありそうな巨大な本棚が並び、ギッシリと本が詰め込まれてあった。
「……マノンさまって、真剣になると喋り方が変わりますよね」
「―取り掛かるわよ」
コレットの指摘にはジロリと一瞥しただけで、無視した。
「まずは、料理かな。それとも健康かな」
この図書館は親切ではないので、案内板はないし、コーナー名すら掲げられていない。ひたすら目で追っていくだけだ。
「とりあえず、関連していそうなものを片っ端から集めましょう」
三人で手分けして本棚を巡っていく。部屋の隅に閲覧場所が設けられているので、本棚から持ってきた本をそのテーブルに積み重ねていった。
「―この辺りで、一旦中身の精査をしましょう」
「はぁーい」
文字通り山となった本を前に、マノンは、テキパキと指示を出した。すっかり主導権を握ったマノンに、シルヴィアは唯々諾々と従う。どちらが主人かわかったものではない。
「……えーっと、これは、世界の三代珍味の料理本ね。フォアグラ、キャビア、トリュフですって。聞いたことはあるけど、どれも食べたことないなあ」
「キャビアって、魚の卵ですよね」
「あら、コレット。よく知ってるわね」
「アダンが商っているのを見たことがあるんです。食べさせてもらえなかったけど。見た目は黒くて鹿のフンみたいでした。とても美味しそうには見えなかったですよ」
「珍味、っていうくらいだもの。美味しいかどうかは、関係ないんじゃない?」
「―コホンっ。シルヴィアさま。おしゃべりしていないで、手を動かしてくださいっ」
「ごめんちゃ」
睨まれて、舌をペロッと出しながら首をすくめた。マノンは、一瞥したのみで、すぐ手元の本に視線を落とした。
「……じゃあ、こっちの本はどうかな」
マノンの様子をうかがいながら、別の本を手に取った。
「―なになに? 媚薬についてだって。古くは、魔女が呪いをかけるために製造したもので、材料はセイレーンの目玉、グリフォンの羽根、タイタンの爪、ヒドラの生き血……って、こんなの手に入るわけないじゃない!」
「……聞いているだけで、気持ち悪くなりました」
「だよねえ、コレット。仮に作れたとしても、旦那さまがお腹を壊すのがオチよねえ」
「シルヴィアさまっ!」
二人で笑い合ったところで、マノンの叱責が飛んだ。
「おしゃべりしないよう、さっき言いましたよね? 真面目に探す気があるんですか? ふざけてばかりいると本気で怒りますよっ」
「ごめんごめん」
「それに、黙って読めないんですか? 口に出して読むから、おしゃべりに移行するんでしょう?」
「だあって、本読むの、苦手なんだもん。勉強自体、あまり好きじゃないのよ」
「好き嫌いを言ってる場合じゃないでしょう! リオネルさまに相応しい妻になるのではないのですか? 本を読んで教養を高めるのも大事なことですよ!」
「……マノンさま。今は、教養より強壮のほうが大事なのでは?」
「口答えするの、コレット? しかも、気の利いたふうなこと言ってるけど、全然私には刺さらないからね」
「……コレット。今は逆らわないほうがいいわ。ヒステリックになってるから、マノンは」
コレットの耳元でささやいたが、マノンには丸聞こえである。
「誰がヒステリーですかっ。そもそも、いったいどなたのために図書館にこもっていると思っているんです? 当事者がそのような態度だと、私にも考えが―」
「ごめんごめん、本当にごめんなさい。ちゃんと真面目に読むから。ね? この通り、許して」
シルヴィアは、マノンの目の前で拝んでみせた。
「……わかればいいんです」
マノンは、また手元に視線を向けた。
「……」
渋々、本のページをめくった。
「―実効性のあるものとしては、イランイランノキが挙げられる。花を抽出して得られたエキスは香水として利用でき、その香りには催淫効果がある…あら。まともなことも書かれてるわ」
マノンは、ちらっと視線を送った。どうしても声に出して読んでしまうが、マノンは何も注意しようとはしなかった。言っても無駄だと思ったのかもしれない。
「……効能としては、男性の勃―」
突然、声を出すのをやめてしまった。食い入るように本に顔を埋めている。不審そうにマノンが見守っていると、次第にわなわなと手を震わし始め……
「マノンっ、ハンカチ…ハンカチ持ってない?」
上げた顔から、鼻血が噴き出していた。
「きゃああーっ!? 大変っ!」
慌ててマノンはハンカチで鼻を押さえた。
「ティッシュで拭いてください!」
コレットが差し出したティッシュで汚れを拭い、丸めて鼻に詰めた。
「……ありがと」
マノンは、シルヴィアが読んでいた本を取り上げた。さっと目を通す。
『……効能としては、男性の勃起促進、持続性に効果があり、射精後の回復力も見込まれる』
ご丁寧に、男性器のイラスト付きである。
(なるほど。生娘には刺激が強すぎたか…)
「―シルヴィアさまは、少し休まれたほうが良いです。簡易的ですが椅子を並べますので、横になってください。後はコレットと二人で調べますから」
「それは、悪いわ。あたしのことなのに―」
「あら!? 妃殿下ではありませんか!」
ふいに背後から声をかけられた。
「セシルさま!?」
それは、セシルだった。撫子色の瞳が喜びに溢れている。
「ずいぶん賑やかな声が聞こえると思ったら、まさか妃殿下にお会いできるなんて、フレイさまのお導きだわ」
セシルは、シルヴィアに飛びついた。しかし、顔のあるモノに気がついて、目を丸くする。
「―あら。その鼻の詰め物はどうなさったのですか」
「これは…その…ちょっと、いろいろあって…」
「はい?」
「それより、セシルさまは、よく図書館へいらっしゃるの?」
「ええ。ここには、私のお気に入りの冒険譚がたくさんありますから」
「……以前、お話しされていた本のことね?」
「妃殿下も、本にご興味がお有りだったのですね。嬉しいっ」
「あ、いや、今日は目的があって、調べ物をしていたの」
「調べ物ですか。良かったら、お話しくださいませんか。本のことなら、お力になれると思います」
「ええっと…その…何というか…」
「……私では、頼りになりませんか?」
口ごもっていると、セシルは悲しそうに撫子色の瞳を伏せた。
「妃殿下のためなら、何だってするのに。僭越ながら、妃殿下とは友人のつもりですのよ。友人がお困りなら、力になりたいわ。ましてや、得意分野ですもの。頼ってほしいです」
「……」
数少ない宮廷の味方である。彼女の申し出を無碍にはできない。仕方なく、覚悟を決める。
「―わかりました。お話しします。でも、決して笑わないでくださいね」
シルヴィアは、恥ずかしそうに、ポツリポツリと話し始めた。
【裏ショートストーリー】
スクライブA「今日中に一冊分、書き写し終わりそうだ」
スクライブB「お、頑張ったな。終盤はペースが上がっていたからなあ。残りはどのくらいだ?」
スクライブA「あと1頁なんだよ」
スクライブB「オーラスじゃん」
スクライブA「最後の1頁は、特に緊張するよな」
スクライブB「一文字でも間違えたら、ショックでけえからな」
スクライブA「でも、その一文字一文字の積み重ねが後世の人々の知識に寄与できると思うと、やりがいのある仕事だよ」
スクライブB「神経をすり減らす仕事だけどな。今は何の本を写しているんだっけ?」
スクライブA「媚薬教本だよ」
スクライブB「媚薬?」
スクライブA「いわば、男女を色香で迷わすためのハウツー本だな」
スクライブB「……そんな本、読む奴がいるのかよ」
スクライブA「いようがいまいが、俺たちは書き写すだけだ。さて、仕事の再開といこうか」
スクライブB「日がな一日、ひたすら文字を書き続ける。目立たねえ仕事だあ」
スクライブA「別に目立たなくていい。この仕事、俺には向いている…あっ! いきなり間違えたーっ!」
スクライブB「マジかよ。最後の頁だっていうのに」
スクライブA「くっそう! チェチェリウムが出やがったんだ」
スクライブB「字の間違い大好き悪魔な」
スクライブA「あの悪魔め、間違えた字を集めて記録に取ってるんだとよ」
スクライブB「その記録を取るときに、悪魔は間違えないのかね」
スクライブA「知るかよ。あ〜あ。これで最後の審判のときに、魔王に名前を呼ばれちまうんだ。スクライブの恥さらしだぁ〜」




