第33話 最強の助っ人
それから2週間が経った。
エマの地獄のしごき…もとい、熱心な指導は毎日続き、今では腕立て伏せ2百回など軽くこなせるようになった。
「……何でよっ。腕立て伏せが上達してどーすんのっ!」
シルヴィアは、拳で床を叩いた。
「それはオレのセリフだっ、クソが!」
鉢巻姿のエマが吠えた。
「もう2週間だぞ! 進歩という言葉を知らねえのか、てめえは!? ダンスを覚える気がねえだろっ!」
「違いますっ。私だって、上手になりたいんですっ。旦那さまに褒めてもらいたいんですぅーっ」
「だったら、やるしかねえよな。今日は、特別コーチを呼んである」
「にゃっ!? ……特別コーチ?」
嫌な予感しか、しない。
「―入れ!」
エマの呼びかけで稽古場に現れたのは。
「―だ、旦那さま!?」
それは、リオネルだった。シルヴィアは思わず飛び上がってしまった。
「ウソでしょ!? 何で旦那さまが特別コーチなの?」
「何で…って、エマがダンスの相手役が必要だって言うから、来てやったんだ」
「オレは初め、ギーを呼ぶと言ったんだ。そしたら、てめえが自分で志願したんだろが」
「エマっ、余計なことを言うなっ」
リオネルは、真っ赤になって抗議した。
「いっちょ前に、ヤキモチなんか妬きやがって」
「そ、そんなんじゃないと言ったろうが!」
(ヤキモチ!? リオネルが?)
びっくりして、言葉にならない。
「と、とにかく、少しは踊れるようになったんだろ? 俺がリードしてやるから、一回踊ってみよう」
リオネルに促されて、まずは組んだ。エマの手拍子で踊り始める。シルヴィアは、リオネルのリードに必死についていく。
「―だいぶ、上手になったじゃないか」
リオネルがささやくように言う。
「―集中してるの! 話しかけないでっ」
「シルヴィア。肩に力が入り過ぎだ」
「……!」
(ち、近いっ!)
リオネルの顔がすぐ間近にある。黒い瞳がきらめいている。心臓が跳ね上がった。
(い、息ができない!)
考えてみれば、ダンスというのはとてつもなく密着度が高い。こんなに近い距離で『抱き合う』のは、リオネルと二人フランベルジュに乗って、ジルベールから脱出したとき以来である。
顔がカァーッと熱くなった。何が何だかわからなくなる。
(や、やめて! そんなに見つめないでっ)
「イテッ―!」
「にゃっ…ご、ごめんなさい」
リオネルの足を踏んでしまった。
「……平気だよ。続けよう」
一旦動きを止めたが、リオネルのリードでまた踊り始める。
(ど、どうしよう。何も考えられない!)
パニック寸前である。動きががたがたになり始めた。
「……!」
挙げ句、足をもつれさせてバッタリと倒れる。とっさにリオネルが抱きとめてくれた。
「危ない―」
リオネルの腕の中で抱きしめられた。
「……!」
「大丈夫か?」
リオネルが静かに問いかけた。
(いやーっ! 優しくしないでっ。これ以上、優しくされたら、あたし…!)
「……だ、大丈夫ですっ」
腕から逃れるように立ち上がった。
「―エマ! 少し休憩しよう」
「ちっ…。しょうがねえな。10分休憩」
エマは、さっさと稽古場から出ていく。リオネルも後を追うようにいなくなってしまった。
独り取り残されたシルヴィアは、魂が抜けたようにその場に崩折れた。
「……あ〜あ」
きっと、リオネルは、シルヴィアの出来なさ過ぎに呆れてしまったのだろう。
「こんなことなら、真面目に習っておくんだった」
不甲斐なくて悔しくて、やるせなかった。膝を抱え顔を埋める。
人の気配がした。うつむいていた目の前に、水の入った平皿が差し出された。驚いて目を上げると、リオネルだった。
「お疲れさん」
「ありがとう…ございます」
リオネルは、隣に座り込んだ。シルヴィアと同じように膝を抱える。
「……マノンに聞いたのですか?」
「あ…? ―ああ、これのことか」
平皿に視線を向けた。
「言われてみれば、お前が飲み物を口にするのを見たことがない。初めに言ってくれればいいのに」
「……恥ずかしかったから」
「なんで。猫耳族の習慣なんだろ? 堂々と使えばいい」
「申し訳…ありません」
平皿を抱えて舌で舐めた。雫が落ちて、波紋が広がった。
「……どうした? なぜ泣いている?」
リオネルが優しく声をかけた。
「……自分があまりにも情けなくて。旦那さまにもご迷惑をおかけしているし…私ってダメだわ」
「珍しいな、いつも前向きなネコどのにしては」
「……」
「あれ…? いつもの『ネコじゃありません!』は、どうした?」
「……」
「―こりゃ、相当重症だな」
「……呆れているのでしょう?」
「あ…?」
「料理もできない。ダンスもできない。およそ、妻らしいことは何一つできない不出来な嫁だって」
「―俺は、努力する姿勢は尊いと思っている」
「……」
「誰だって、得手不得手はある。エマから聞いたぞ。今も料理を習ってるそうじゃないか。例え不得手でも、努力して少しでも向上しようという気持ちが大切なんだと思う。結果、上達しなくたっていいんだよ。経過が大事なんだから」
「結果だって、大事です。現に、エマさまは何でもお上手だわ。お料理だって、ダンスだって、軍の指揮だって」
「エマか。あいつは秀才だからな。得難い人材だ」
「……」
「言っておくが、初めから何でもできたわけじゃないぞ。人知れず努力を続けた賜物だ。俺は好きだね、そういう努力を惜しまない人間は」
「―!」
(リオネルは、エマさまのことが…好き…?)
目の前が真っ暗になった。同時に諦めに似た感情も湧いた。エマが相手では、自分がどうあがいても敵わない。
「……ブランシャールは先進的な国だと自負しているが、獣人族への差別感情は根強い。その中で、困難を承知で俺の部下になってくれたことを感謝しているよ」
「―旦那さまは………ているの?」
「ん? 何だ? 声が小さくて聞こえん」
リオネルが耳を近づけてきた。シルヴィアは目を伏せながら言い直した。
「―旦那さまは、エマさまのことを…愛していらっしゃるの?」
「はあっ!?」
リオネルは、心底驚いたように、瞠目した。
「何で、そうなる?」
「だって…好きだって…今、仰ったわ」
「―くっ…あっはっはっ!」
「何よっ。笑うことないでしょう?」
ますます惨めな想いに胸が塞がれた。
(やっぱり、この人は、あたしのことなんか何とも思っちゃ、いないんだわ)
「―悪い悪い。笑って済まなかった。でもお前、ほんとに面白いな」
「……何よ。いつも面白いって仰るけど、要するに私のことバカにしているのでしょう」
「違うよ。勘違いも甚だしいと思ってな。思わず笑ってしまった」
「……」
シルヴィアは、むくれて横を向いた。
「俺が言った好きっていうのは、そういう意味じゃない」
そんなシルヴィアの様子を見て、黒い瞳をくるめかせながらリオネルは言った。
「女性としてではなく、人として尊敬しているという意味だ」
「……」
「それに…これは機密事項だから、誰にも言うなよ」
「……?」
リオネルは、国家の重大事を打ち明けるように声をひそめた。
「……エマはな、ギーと付き合っているんだ」
「にゃにゃーっ!?」
あまりの予想外の告白に、心臓が止まるかと思った。
「エマさまと…ギーさまが…?」
「このことは、ほかにアニェスしか知らないから、そのつもりでいてくれよ」
「―マノンも知らないのですか?」
「たぶんな。マノンのことだから、とっくに掴んでて公言しないだけかもしれないけどな」
紅烏団なら、充分あり得る。姉としても、そっと見守っているのかもしれない。
「……びっくりしました。でも、お似合いの二人だわ」
「だよな。真面目な二人だ。このまま愛を育んでくれれば、と思っているよ」
「―何だか、元気が出てきました。私も、二人に負けないように頑張らなくっちゃ」
「お! ようやくシルヴィアらしくなってきたな」
輝く笑顔が、今は眩しい。
(ダンスごときで落ち込んでる場合じゃない。あたしも、もっともっと精進しなきゃ)
「―旦那さま。私とお付き合いしてくださいますか?」
「えっ…!?」
「もっとダンスが上手くなりたいんです。お相手をお願いしてもいいですか?」
「あ…! そっちか。……もちろん。そのつもりでここに来てるし」
リオネルは、慌てたように視線を外した。それを不思議そうに見ながらシルヴィアは言った。
「ありがとうございます。私、頑張ります!」
「……そうだな。前よりだいぶ良くはなってるし、何かコツみたいなものが掴めれば一気に上達しそうなんだよな」
「コツ…ですか」
「例えば…呼吸の合わせ方とかかな? 今のお前は、上手く踊ろうと自分のことしか考えていない。相手のことを見ていないから足を踏むし、動きが合わず足をもつれさせる」
「……ふむふむ」
「ステップとか技術ももちろん大事だけど、相手との呼吸が合っていれば一体感が出て、綺麗に見えるんだよ。ほら、熊爪族の村でギーとマノンが剣舞を披露したろ。凄く美しかったけど、二人の呼吸が合ってたからさ」
「剣舞…」
「シルヴィアは、剣の腕も確かだし、運動能力も高い。立ち合いと思って、相手の動きに合わせてみろ。上手くいけるかもしれん」
「……!」
目の前が一気に開けたような気がした。
「ありがとうございます、旦那さま! ―私、やってみますっ!」
シルヴィアの金色の瞳が、キラキラときらめいた。
「―話はついたようね」
「エマさま…!?」
いつの間にか、エマが戻ってきていた。
【裏ショートストーリー】
リオネル「ダンスの相手役…?」
エマ「そうです。やはり相手がいたほうが実践に即して教えられますから」
リオネル「シルヴィアの相手役か…」
エマ「そこで、ギーをお借りしたいのです。ギーならば、ダンスも得意ですし、シルヴィアさまの相手にはもってこいかと」
リオネル「……」
エマ「何ですか、そのイヤらしい目つきは」
リオネル「お前、公私混同していないだろうな」
エマ「邪推ですね。どうして男の方って、すぐやらしいことを考えるのかしら。……いいえ、ギーはそんなこと一度も言わないから、リオネルさまがやらしいのね」
リオネル「おいっ! 冷静に人のこと色情魔みたいに言うなよ」
エマ「男の方は、みな似たりよったりでしょう? ギー以外は」
リオネル「お前な…」
エマ「よろしいですね、ギーをお借りします」
リオネル「……いや、俺が相手役になろう」
エマ「……」
リオネル「何だよ、そのイヤらしい目つきは」
エマ「失礼ですね。リオネルさまとは違いますよ」
リオネル「どこが。偉そうに説教しておいて、自分だってやらしいだろが」
エマ「ということは、リオネルさまはギーにヤキモチを妬いたと、お認めになるのですね」
リオネル「……! ち、違う。本番では俺と踊るんだし、本人相手に練習したほうが、より実践に近いだろうと思って…」
エマ「はいはい、わかりましたよ。リオネルさまにお願いすることにいたします」
リオネル「ほんとにわかってるのか…?」
エマ「考えてみれば、一番ヒマなのはリオネルさまでした。これが、最も合理的な選択といえるでしょう」
リオネル「……お前な、俺のこと主君だと、絶対に思ってねえだろ?」




