第32話 姉妹喧嘩とゴリ押し
「あ〜、しんど…」
くたくたになって自室に戻ると、お気に入りの丸型クッションに倒れ込むようにして丸くなる。隣には、小さな丸型クッションが置かれ、シャウラが同じように丸くなって寝ていた。
「お疲れさまでしたぁ」
マノンが、紅茶を入れた平皿を持ってきてくれた。
「ありがとう。喉がカラカラなの」
シルヴィアは、平皿に顔を埋めるようにかぶりつくと、舌を器用に使って紅茶を飲んだ。
「―あ〜、美味しいっ。生き返った気分!」
「それは、良かったですねぇ。お代わりはいかがですかぁ?」
「いただくわ」
「……ところで」
温かい眼差しをシルヴィアに向けながらマノンは言った。
「サンドラが戻ってこないのですが、ご存知ですかぁ?」
「……」
シルヴィアは、少し前の情景を思い浮かべた。エマの地獄のレッスンを終えた後。稽古場の床に伸びたシルヴィアに、タオルがかけられた。
『―ありがとうございます、エマさま』
『お疲れさま。頑張り屋ね、シルヴィアさまは。私の指導によくついてくる』
エマは、既に鉢巻を外していた。
(そう思うなら、もう少し優しく教えてよ〜)
内心泣き言を言うも、決して面には出さない。
『旦那さまに恥をかかせるわけにはいきませんから』
『ふふっ。愛する方への想いが原動力なのね』
『……私たちは政略結婚です…そういうのは別に…』
『都合の良い言い訳をお持ちだこと』
『言い訳じゃ…! ……ありません』
思わず起き上がったが、最後のほうは小声になる。
『はたから見てもお似合いのご夫婦ですよ。政略結婚の名の裏に隠れていないで、そろそろ、素直にお認めになったらいかが?』
『……何の話ですか』
『リオネルさまに惹かれていらっしゃるのでしょう?』
『……!』
(リオネルに…リオネルのこと、好きなのかな…)
よくわからなかった。あの強く輝く黒い瞳に見つめられると、わけもなくドキドキして居たたまれなくなる。それなのに、ずっと見つめていたい、見つめていてほしい、と願ってしまうのだ。
『……エマさまだって、そろそろ素直にお話しください』
『……』
『サンドラとのことです』
エマは、寄り添うようにシルヴィアの隣に座った。
『―お察しのとおり、サンドラとは姉妹ですわ。あの子は、双子の妹なの』
『双子ちゃん…なのね』
道理でそっくりなはずだ。
『あの子が怒るのも、無理ないんです。それはよくわかってる。でも、私は選んでしまった』
『―何を?』
『運命を。後悔はしていません。していませんが、あの子のことだけが心残りです』
『何があったんですか』
『……さてと。また明日も練習ですよ。お体を休めてください』
『エマさまっ。そこまで話しておいて、どうして打ち明けてくださらないの? そんなに私、信用できない?』
エマは、にっこり微笑んだだけだった。どうあっても話す気はないらしい。
(ンもうっ。こうなったら、強行手段よ!)
『―あっ、急に目まいが…』
エマにしだれかかる。
『だ、大丈夫ですか、シルヴィアさま…きゃっ!?』
豊満な胸の谷間に手を突っ込み、小さく折りたたまれた紙片を奪い取った。
『いただきっ!』
『な、何をするの!? 返して―』
シルヴィアは、その場で跳躍し、空中で一回転してエマから距離を取った。
さっと紙片に目を通す。それには、こう書かれていた。
―パーティーの日。演習場で待つ。
『エマさま、行ってはダメよ!』
『……』
エマは、無言で佇む。何の表情も浮かんではいなかった。ただ立っているだけなのに、艶めかしくこの世の者とは思えないほどの美しさである。造形の神が技術の粋を尽くしてこの世に生み出したかのようだ。
『こんなことして、何になるの!?』
しかしシルヴィアは、美を愛でる余裕はなく、必死に訴える。
『サンドラは私が説得します。だから、エマさまは無視してください。絶対に行ってはダメよ』
『―ではシルヴィアさま。また明日、頑張りましょう』
エマは、一礼すると踵を返した。
『エマさまっ…!』
遠ざかる背中を見つめることしかできなかった。そのときの感情をどう現せばいいのだろう。無力感? 情けなさ? 悔しさ? どれもしっくりこない。
(あたしは、何の力もない…)
友だち一人救えない。体は疲れ切っているが、それ以上に帳が降りたように心は暗く重く沈んでいた。
「―ヴィアさまっ! シルヴィアさまっ、聞いていますかっ?」
「……きゃあぁぁ!?」
マノンが目の前に立っていた。さっきから呼んでいたらしい。深く物思いに沈んでいたので、全く気がつかなかった。
「どうなさったのですか。ずっと呼びかけているのに、ぼうっとして」
「ご、ごめんなさい。ちょっと考え事をしていたものだから。―なあに? あたしに用事?」
「全っ然、人の話聞いてない」
マノンはふくれっ面になる。その様子がとても可愛らしい。つい、頬がほころんでしまう。
「サンドラが戻ってきましたよ」
「……!」
反射的に立ち上がっていた。サンドラは、澄んだ瞳をじっとこちらに向けている。
「サ、サンドラ…あのね、あなたに話があるのだけど…」
「その前に、ご報告があります」
「にゃっ!?」
(もしかして、話してくれる気になった?)
「シルヴィアさまに挨拶したいという方をお連れしています」
思わずズッコケた。
「……どなた?」
肩を落としながら尋ねた。
「―俺だよ」
案内も乞わず男がズカズカと入ってきた。
「アダン!?」
パァっと顔を輝かせて握手を求めた。
「よく来てくれたわ」
「くつろいでるとこ、すまねえな。帰ることにしたんで、挨拶に来た」
「気にしないで。いつでも大歓迎よ。―あら!? コレットも来てくれたの?」
アダンの後ろにいた少女を見て微笑んだ。
「この度は、大変お世話になりました」
コレットは、頭を下げた。添え木を当て包帯でぐるぐる巻きにした右手は三角巾で吊っている。
「手術、無事に終わったのね」
「はい。おかげさまで、退院することができました」
「良かった」
「妃殿下には、お礼のしようもございません」
「私は何もしていないわ。お礼なら、アニェスさまとアダンに言って」
「アニェスさまには、もうご挨拶を済ませてきました」
「そうなの。これで一安心ね。アダンも肩の荷が下りたんじゃない?」
「それなんだけどよ。むしろ、肩の荷が増えちまったよ」
「……どういうこと?」
「実は、シルヴィアにお願い事があって、押しかけてきたんだ」
「お願い事?」
「―コレット」
アダンに促されて、コレットが一歩前に出た。
「妃殿下に申し上げます。私を、侍女として雇っていただけないでしょうか!」
「にゃにゃっ…!?」
思いも寄らない申し出に絶句した。
「治療費を自分で払いたいのです」
「それはアダンが払ってくれるのでしょ。あなたが心配することではないわ」
「それがイヤなんです。これまで、アダンには甘えっぱなしでした。私、もうすぐ幼年学校を卒業します。もともと学校を卒業したら働くつもりでした。それだったら、こうしてお会いできたのも何かの縁でしょう? 妃殿下の元で働きたいと思ったのです」
「そうねえ…。申し出は嬉しいのだけど、侍女は足りてるし」
マノンとサンドラを見た。マノンはしきりと目で訴えている。ちょうどいい機会だ、自分は『紅烏団』に戻るから、代わりに雇え、と。
「お願いします! 何でもやりますからっ。掃除でも洗濯でもどんなことでも!」
「驚いたわね…」
改めて少女を見直した。潤色の髪と瑠璃色の瞳をしたなかなかの美少女である。病室で会ったときは、ケガをしていたせいか弱々しく見えたが、今は意志の強さが体全体にみなぎり、生命力に満ちあふれていた。
「侍女の売り込みなんて、聞いたことないわ」
「俺が言うのもなんだけどよ」
アダンが口を出した。
「コレットは、真面目で優秀だぜ。学校の成績だってトップクラスだし、大学校に推薦しようかっていう話も出たくらいだ」
「へえ…」
「読み書き計算ができるのはもちろんのこと、体も丈夫だ。この前、木から落ちてケガしちまったけど」
コレットが軽くアダンを睨んだ。
「そもそも、ひっかかったボールを木に登って取ろうとするんだから、行動力も運動神経も抜群。木から落ちたけど」
「アダン! そう何度も落ちたって言わないでよ!」
「……いてっ!」
コレットがアダンの腕をつねった。
「元気なのは、わかったけど…行儀作法は知ってるの?」
「うっ…」
シルヴィアにもっともな懸念を指摘されて、つまるコレット。
「お客さまをお迎えしたり、伝言を頼まれたりするのも仕事の一つよ。相手は当然貴族がほとんどだし、失礼があってはいけないの。そのあたり、どう考えているの?」
「覚えますっ! 先輩方に習いながら、すぐに覚えてみせます!」
(うわっ。前向きというか、押しが強いというか…)
「……わかったわ」
「雇ってくださるんですか!」
瑠璃色の瞳がキラキラと輝いた。
「まずは、体を治しなさい。骨が折れたままじゃ、仕事どころじゃないでしょう?」
「はい…」
「どのくらいで治るの?」
「全治2カ月だそうです。2週間に一回、通院が必要と言われました」
「そう。それなら、2カ月後にもう一度おいで。そのときに、じっくり話し合いましょう」
「はいっ! よろしくお願いします!」
コレットは、元気よく頭を下げた。潤色の長い髪が、さらさらと肩から前にこぼれた。
シルヴィアは苦笑いしながら、アダンと視線を交わすのであった。
【裏ショートストーリー】
アダン「コレットみたいな孤児が、学校へ通えるんだから、ブランシャールって、すごいと思わねえか」
コレット「とても。学校で習ったんだけど、識字率というの? 文字を読める人の割合が80%なんだって。隣国のルメールなんか、10%よ。ブランシャールに生まれて良かった」
アダン「いろいろ気に食わねえことも多いが、これは自慢できる」
コレット「おかげで侍女にもなれるわ」
アダン「……普通、庶民はなれないんだけどな」
コレット「妃殿下は、常識に囚われないお方だとお聞きしたわ。きっとわたしのこと採用してくれる」
アダン「そんなこと言ったら、孤児を全員、侍女として雇わなきゃならなくなるぜ」
コレット「わたしは、特別よ」
アダン「……どこから来るんだ、その根拠のない自信は?」
コレット「根拠はあるよ。アダンと妃殿下の仲が良くて、わたしはアダンと仲が良くて、縁でつながってるってこと」
アダン「……オレたちは、別に仲が良いわけじゃねえ。どころか、ちょっと前までは犬猿の仲だったんだ。……いや、あいつはネコだから、犬猫の仲か」
コレット「……妃殿下に失礼よ。そもそも、どうしてアダンが犬なの。どう見たって猿でしょ。猫猿の仲よ」
アダン「誰が猿だ」