第213話 一つの齟齬と二つの婚約
「―コレット!?」
息せき切って駆け込んできたコレットを見て、シルヴィアは驚いて抱いていたシャウラから手を離した。
シャウラは、綺麗に床に着地すると、ベッドの上で寝ていたフランベルジュの元へ飛び込んだ。
「どうしたの? あなたデート中のはずでしょ? なんでこんなに早く帰ったきたの」
「シルヴィアさま…」
コレットは、崩れるようにしてシルヴィアの胸に顔を埋めた。ドレスが土で汚れている。
「―あなた、泣いているの?」
「私…私…もう、どうしたらいいのか…」
「……」
泣き崩れるコレットを強く抱き締めた。
しばらくコレットの好きにさせた。泣き崩れていた彼女も、漸く落ち着いたのか、真っ赤に腫れた目を上げた。
「……申し訳ありません、シルヴィアさま」
「いいのよ。泣きたいときは、思いっきり泣くといいわ」
「……いえ、そのことではなく…」
コレットは、シルヴィアの胸を指差した。涙と鼻水でドロドロになっていた。
「あは。凄い汚れよう」
太陽のような笑顔が弾けた。つられてコレットも吹き出した。
「―コレット。笑ってないで、顔を洗ってきなさい」
マノンがタオルを首にかけた。
「……はい!」
コレットは、元気よく答えた。
「シルヴィアさまも、お着替えしますよ。万が一にも、皇后陛下が子どものように汚れた格好をしているところを、人様に見られたら一大事」
「別に誰も気にしないわ」
とは言ったものの、マノンには逆らえず大人しく言うことを聞く。
双方、落ち着いたところでテーブルについた。
「……何があったのか、話してくれる?」
シルヴィアが尋ねた。コレットは、ディオン邸での出来事をかいつまんで説明した。
「―ふ〜ん。いきなり胸をもまれて、驚いて逃げ出した、というわけなのね」
「ち、違いますっ。触られただけですっ。もまれてません!」
コレットは真っ赤になって反論した。
「でも、地面に押し倒されたのでしょ? ジェレミーさまは大人しい方かと思ってたけど、以外と積極的なのね」
「……私の話、ちゃんと聞いてましたか? あれは不可抗力です。やましい気持ちがあったわけじゃ、ありません」
「そう! 不可抗力よ。ジェレミーさまが悪いわけじゃない」
シルヴィアは、コレットを指差した。
「それなのに、あなたはどうして帰ってきてしまったの? その場でジェレミーさまとちゃんと話し合うべきだったわ」
「それは…びっくりしてしまって、気が動転してしまったというか…」
「コレットの気持ちはわからないわけじゃないけど、きっと今ごろジェレミーさまは落ち込んでいると思うわ」
「……私、どうしたらいいのでしょう」
「もう一度ディオン邸に行きなさい。行って謝ってきなさい」
「……はい」
「送っていってあげるから」
うなだれたコレットを励ますように言った。
「マノン。申し訳ないけど、馬車を用意してくれる?」
「―あの、失礼してよろしいでしょうか。ジェレミーです」
マノンが動き出そうとした、ちょうどそのとき。ドアがノックされた。シルヴィアとコレットは、バネじかけのように立ち上がった。
「ど、どうしよ…ジェレミーさまがお出でになってしまった…」
「落ち着いて!」
慌てふためくコレットをシルヴィアは諌めた。
「さっき言ったでしょ。まずは謝るのよ」
「は、はい」
シルヴィアはマノンに視線を移した。心得て、マノンはドアを開けた。
「コレットさま…」
ジェレミーは、悄然としながら部屋へ入ってきた。手には事件の発端の帽子を大事そうに抱えている。
「先程は、大変失礼いたしました。心からお詫びいたします。どうか…どうかお許しください」
頭を下げるジェレミーに、コレットは、慌てて手を振った。
「い、いえ! とんでもありません。私のほうこそ、いきなり叩いてしまって、本当に申し訳ありません」
「当然の罰です。妙齢の女性の…その…あの…あれを了解もなしに触れてしまうなんて、万死に値します」
「……そこまで大げさに考えなくていいです。あれは不可抗力だったのですから。あのことは忘れることにします。ジェレミーさまもお気になさらず忘れてください」
「そういうわけにはいきません。あの…これ、コレットさまの大切なお帽子、お持ちしました」
ジェレミーは、おずおずと差し出した。
「わざわざすみません」
「それと、これはお詫びの徴といっては何ですが…」
包みを差し出した。
「お菓子のセットです。この程度で罪が帳消しになるとは思っていませんが、当座の罪滅ぼしですので、どうかお受け取りください」
断る理由もないので、素直に受け取った。
「……それから、お詫びに指輪かネックレスを贈りたいのです。近いうちにデュラン商会へご一緒いただけませんか」
「……」
コレットは、うつむいてしまった。嬉しいのか嫌なのか表情が見えない。ジェレミーは不安そうに見つめた。
「―コレット。お返事は?」
見かねて、シルヴィアが促した。コレットは、仕方なさそうに口を開いた。
「……はい。ありがとうございます。よろしくお願いします」
「……では、後日、詳細をご連絡します」
端から見ていて、ジェレミーは意外と上手に次のデートの約束を取り付けた。しかし、コレットだけではなく、ジェレミーもどこか沈んでみえる。およそそれは、交際を始めたばかりの恋人同士とは、到底思えなかった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
この日、丞相府から、重大な発表が二つあった。丞相府とは、セルジュをトップとする行政組織のことである。
その一つは、クニークルス女王エマ・デシャンと禁軍太尉ギー・ルブランとの婚約である。一国の王と一軍司令官との婚約は、一見すると不釣り合いにもみえる。
しかしギーは、皇帝リオネルの側近中の側近であることは、周知の事実である。ブランシャールとクニークルスは、血で繋がった強固な姉妹国であることを、内外に知らしめたのだ。
そして、もう一つ。
「お父さまぁーっ!」
ヴァネッサは、ギュスターヴに抱き着いた。
「バルケッタさまとの婚約、認めてくださってありがとうっ!」
「リオネル陛下から強く求められてな。仕方なく、だ」
「そんなこと仰って。本当は、リオネル陛下に申し入れてくださったのでしょ? 表向きはそういうことにしてくれ、と」
「えっ…!?」
「そうすれば、国内にも説明がつくし、私にもいい顔ができるしね」
「お前、どうしてそれを…」
「ふふっ。私だって、もうすぐ人妻になるのですもの。それくらいはわからないとね」
「……」
「なぁんてね。本当は、シルヴィアさまにお聞きしたの」
「……なんだ、そうか。心底びっくりしたぞ」
「ごめんなさい、驚かせて。でも、とても嬉しかった。私のために考えてくださって」
「……ルメールにとって、最善の道を選んだだけだ」
「ふふふっ。―お父さま、だぁい好きっ!」
ヴァネッサは、首にすがりついた。
「お前も、これから努力が必要だぞ」
ギュスターヴは、娘の青白磁の髪を撫でながら言った。
「嫁ぐということは、家を支える柱になることだ。バルケッタどのは、リオネル陛下の信頼篤い直臣と聞く。それ相応の地位に相応しい家となるだろう。その方の妻となるのだ。夫を助け、子どもを養育し、家内を取り仕切らねばならないのだぞ。その覚悟がお前にはあるのか?」
「もうっ、お父さまったら、早速お小言?」
ヴァネッサは、睨むマネをした。しかし、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「もちろんよ! 一生懸命頑張るわ。バルケッタさまに相応しい妻になるために。必ずなってみせる。バルケッタさまの妻は、世界一よくできた妻だと、みんなに言われるように」
青白磁の瞳は、一段と煌めいた。それは、真っ直ぐ前を見据えていた。それはまるで、輝きに満ち溢れた未来を見通しているかのようだった。
【裏ショートストーリー】
ディオン家使用人A「若さまが珍しく女性を連れていらしたわね」
ディオン家使用人B「珍しくというより、初めてじゃないかしら」
ディオン家使用人A「しかも、あの方は皇后陛下の侍女よ」
ディオン家使用人C「ああ! あれでしょ? 例の自殺騒ぎの…」
ディオン家使用人B「いくらモテないからって、何も曰く付きの方に手を出さなくても」
ディオン家使用人C「でも、意外と可愛い方なのね」
ディオン家使用人B「ちょっと! 意外というのは失礼じゃない?」
ディオン家使用人A「曰く付きでも何でもいいじゃない。そうでもしなきゃ、若さまのあの気弱な性格じゃ、一生結婚なんてできないわよ」
ディオン家使用人B「これまでにも、何人もの姫君から縁談を断られたし」
ディオン家使用人C「男子は若さまお一人だものねえ。ディオン家は風前の灯ね」
ディオン家使用人B「今から、別の働き口を探したほうがいいかしら」
ディオン家使用人C「まだあの方がいらっしゃるわ。あの方があとを継げば…」
ディオン家使用人A「ダメよ、あんな方が家を継いだら、それこそお家は滅びるわ」
ディオン家使用人B「まだ若さまのほうがマシよね」
ディオン家使用人A「若さまには、今度こそ捕まえた魚を逃さないでいただきたいわ。私たちの将来のためにもね」




