第211話 誓約
「お呼び立てしてすみません」
ヴァネッサが部屋へ入ると、バルケッタは既に待ち構えていた。
吏部尚書の執務室である。尚書には秘書官が二人つき、吏部員10人の部下が別室で業務を行っている。今日は休日とあって秘書官も含めて誰もいない。
六部は始まったばかりだが、バルケッタの仕事場に来たのは初めてだ。しかし、仕事ぶりを見ることはないだろう。明後日には、父ギュスターヴについてルメールに帰ることになっている。
「……今日はお休みですよ。仕事をなさっていたのですか?」
バルケッタの執務机の上には、書類が山積みになっている。書類に埋もれるスタイルは、軍の事務部と変わらない。彼はきっと、どこへ行ってもこんな感じなのだろう。
「すみません。どうにも片付かなくて」
「……お忙しいでしょうから、お邪魔しないようお暇します」
「あっ、待って!」
身を翻しかけると、バルケッタが宙を飛んできた。
彼が目の前に立つ。反射的に身をすくめた。
「ご、ごめんなさい。驚かせてしまって」
「い、いえ…」
「どうしてもお渡ししたいものがあって、来ていただいたのです」
「渡したいもの…?」
バルケッタがポケットから取り出したのは小さな箱だった。
「えっ…!?」
中には、指輪が入っていた。
「えっ…えっ―」
咄嗟に言葉が出て来ない。
「以前、ヴィシーさんには本をいただきました。お返しをしたいと思って、いろいろ考えていたのですが、女性は指輪を贈られると喜ばれる、とお聞きしたものですから、ヴィシーさんにどうかな、と思って」
「……」
「あれ…? お気に召しませんでしたか?」
「違うの…」
涙が勝手に溢れてきた。バルケッタの顔が霞んで見える。
「―ど、どうしました? なぜ泣いているのですか?」
狼狽えた様子のバルケッタが愛おしい。まさか、彼がこんなものを用意していてくれたなんて。
「―! ヴ、ヴィシーさん!?」
無意識に、バルケッタの首に抱き着いていた。
「―嬉しいっ! ありがとう、ランスさん。とっても嬉しいわっ!」
しばらく抱き着いたままむせび泣いた。宙をさまよっていたバルケッタの両手が、背中を回った。
「喜んでもらえて、良かった」
ヴァネッサは、溢れる涙を拭いながら身を離した。
「―ランスさん。私の指にはめてください」
ヴァネッサは、左手を差し出した。
「は、はい」
言われるがまま、バルケッタは指輪をはめようとして―
「―違いますっ! 中指じゃなくて、薬指です!」
「えっ!? す、すみませんっ」
慌てて薬指にはめた。サイズはぴったりだった。指輪を宙にかざしてみた。
それは、大きなダイヤの指輪だった。キラキラと輝いて青白磁の瞳の煌めきと重なり合った。世界が光に満ち溢れた。
「いつの間に用意していたの? サイズまでぴったりだわ」
貴族ならともかく、バルケッタにとっては、相当高額だったはずだ。
「サイズはエドさんにお聞きしました。デザインはお店の人にお任せしました」
「そう…」
ヴァネッサは知らなかったが、デュラン商会でオーダーメードしたものだった。シルヴィアが結婚・婚約指輪を求めたお店である。
「……本当にありがとう、ランスさん。大事にします」
ヴァネッサは、左手を胸に抱えた。
「待っています、ヴィシーさん」
「えっ…」
「2年後。お会いするのをずっと待っています」
「ランスさん…」
「その時こそ、婚約指輪を贈ります」
「えっ!? この指輪、婚約指輪じゃないの?」
「はい? それは、ほんのお礼です」
「……ぷっ」
ヴァネッサは、お腹を抱えて笑い出した。青白磁の瞳に涙がにじむほどに。
「……何がそんなに可笑しいのですか? また僕、変なこと言いました?」
「……いえ。変なことは…ふふっ…言っていませんよ―ふふふっ」
「でも、ヴィシーさんは笑っています」
「―やっぱりランスさんは最後までランスさんですね」
「……?」
「大好きよ、バルケッタさん…」
「……!?」
ヴァネッサは、背伸びをしてそっと唇にキスをした。バルケッタは一瞬戸惑う表情を浮かべたが、すぐに真っ赤になった。
ヴァネッサは、頬を染めながらはにかんでみせると、また大事そうに左手を胸に抱えるのであった。
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「明後日には、出発だったかしら」
「うん」
エミリアンは、フルールと皇宮の庭園でデートをしていた。
冬本番である。咲いている花は少ないが、シクラメンは満開だしサザンカも可憐な花を咲かせている。冬でも充分楽しめた。
ただし、寒さは日に日に厳しくなってきている。デート場所には向かないかもしれない。だがそれも、年若い二人には問題にはならないのだろう。
「こうしてエミリアンと庭園を歩くのは、当分できなくなるわね」
「……4年なんて、あっという間さ」
エミリアンは、己に言い聞かせるように言った。
「―ねえ、エミリアン。ギュスターヴさまには、私のことを話したの?」
「ううん。話してない」
「そう…」
「お父さまは今、お姉さまのことで頭がいっぱいなんだ」
下を向いたフルールに気づいて、エミリアンは立ち止まった。
「そんなときに、フルールのことを話しても混乱するだけだよ」
「そうね…。お義姉さまたちは、どうするのかしら」
「2年後、結婚するんだって」
「そうなんだ。バルケッタさまも承知ということよね」
「約束した、と言ってた」
「素敵ね。お似合いの二人だもの。きっとうまくいくわ」
「僕たちも…」
「えっ!?」
「……ううん。何でもない」
「……」
「まずはお互い、勉強に励まなくちゃ。すべてはそれからだ」
そう言うと、エミリアンは、また歩き出した。フルールは、しばらく黙って後ろをついていたが、やがて意を決したようにエミリアンを呼び止めた。
「―エミリアン」
「ん? どうしたの?」
「右手を出して」
「……なんで?」
「いいから、言う通りにして」
「……」
エミリアンは、右手を伸ばした。フルールは、肩から下げていたバッグから、綺麗な紐を取り出した。赤と桃色をより合わせて一つにしている。フルールは、それをエミリアンの手首に巻いて縛った。
「……何? これ」
「プロミスバンド、というの。願懸けみたいなものよ。願いが叶うと千切れるんですって」
「ふ〜ん。何をお願いするの?」
「……このプロミスバンドはね、色によって願い事が違うの。ちなみに赤や桃色は『永遠の愛』」
「……!」
「―エミリアン」
驚いてジロジロ紐を眺めていたエミリアンに、フルールは、もう一つ、紐を渡した。
「私にも巻いて」
「……」
エミリアンは、黙って紐を結んだ。フルールの手はとても冷たかった。結び終わると、フルールの両手を握りしめた。
「……例え紐が切れなくても、僕の気持ちは変わらないよ」
「エミリアン…」
「4年後、必ず迎えに来る。それまで待っていて」
「……信じてる。信じて、待っているわ」
エミリアンは、手を繋いだまま、歩き出した。フルールは、エミリアンに身体をぴたりとつけた。
視線を交わす。微笑み合う。それだけで充分だった。
二人の息は白い。それでも、繋いだ手の温もりが二人の心を温かく満たしていった。
【裏ショートストーリー】
バルケッタ「ギーさま。お話があります」
ギー「どうした?」
バルケッタ「ルメール王女となられるヴァネッサさまと、結婚する約束をしました」
ギー「知っている」
バルケッタ「えっ!? 僕、お話ししましたか?」
ギー「ギュスターヴさまから、リオネルさまに申し出があった」
バルケッタ「なんだ…。そうでしたか。陛下はなんと仰っていましたか?」
ギー「もちろん、お認めになった」
バルケッタ「ああ…! 良かったです」
ギー「おめでとう、バルケッタ」
バルケッタ「ありがとうございます。ギーさまは私に新しい世界を与えてくださいました。ルブラン家に加えてもくださいました。一生の恩人です」
ギー「お前は姉以外の家族を私に与えてくれた。掛け替えのない大事な息子だ」
バルケッタ「9歳しか離れていない息子ですね」
ギー「ははっ。そうだな。大きい大きい息子だ。この先、もっともっと大きくなるぞ。リオネルさまの御代だけでなく、その次の陛下にも仕えて力を尽くせ。王朝の大きな柱となるのだ」
バルケッタ「……僕が柱…となるのですか? 柱…」
ギー「……言っておくが、木の柱のことではない。王朝を支える第一の家臣となれ、と言っているのだ」
バルケッタ「ああ! なるほど! そういう意味でしたか。わかりました。お任せください。全力を尽くします」
ギー(……やはり心配だ。語学だけは、いつまでたっても二流以下だな)




