第207話 予感と選択
「―ご、ごめんなさい。その節は、大変ご無礼をいたしました。どうかお許しを」
ジェレミーと名乗った貴公子は、自殺騒ぎの際、コレットが殴り倒してしまった青年だった。
今になって、文句を言いにきたのだろうか。それなら、ひたすら謝り倒すしかない。
「そんな! 謝らないでください。むしろ、恥ずかしい話です。女性に殴られて気絶してしまうなんて」
「本当に申し訳ありません。お怪我はありませんでしたか?」
「しばらく頬に痣が残りました」
「まあ…。なんとお詫びしてよいか…。治療代をお支払いします」
「え…?」
「抗議しにお出でになったのですよね?」
「ち、違いますっ!」
ジェレミーは慌てて手を振った。
「そのことは、何とも思っていません。ただ、あなたのお力になれなかったことを悔やんでいるだけです」
力になれなかった…?
この青年は、何を言っているのだろう。力になれることなど、何一つないのに。
「その…当時の経緯は、聞き及んでいます。あの…ご同情申し上げます」
見ず知らずの男に同情などされたくない。しかし、騒ぎは宮廷中に知れ渡っている。今でも噂話に上っているようだ。それも承知の上で侍女として戻ってきた。すべて己が引き起こしたことだ。甘受するしかない。
「僕にとっても、衝撃的でした」
「……ご迷惑をおかけしてすみません」
「でも、もう、その方とは何の関係もないのですよね?」
「……」
「僕が…その…」
ジェレミーは、真っ赤になって視線をさまよわせた。言いたいことがあるなら、はっきり言ってほしい。シルヴィアも気づいてこちらを見ている。あまり長く待たせたくない。
「あの…ええいっ! 僕のバカッ!」
ジェレミーは、急に後ろを向いて小さく怒鳴った。戸惑いながら細い背中を見つめていると、またコレットを振り返った。
「お、思い切って言いますっ! ぼ、僕とお付き合いをしてくださいっ!」
「え…」
理解が追いつかない。付き合う…? それは、つまり…恋人として、お付き合いをする、ということ…?
「えっ!? ……わ、私と…!? えっ、ウソ!?」
コレットは、両手を口にあてて固まってしまった。
「こんなこと、嘘は言いません。昨年の朝賀の儀でお見かけして以来、ずっと、あなたのことを想っていました。でも、あの騒動があって、好きな方がいらっしゃるのだとわかって…ショックでした」
「……」
「あんなことがあったばかりで、交際を申し込むのは、何か弱みに付け込んでいるようで…とても迷いました。でも、今日のお姿を見て、どうにも気持ちが抑えられなくなってしまって…」
「……」
「あっ、もちろん、駄目なら駄目で構いません。一方的に僕が想っているだけだし…コレットさまのお気持ちのほうが大事ですから」
「……私、ジェレミーさまのことを何も知りません」
「え…」
「何も知らないのに、急に交際を申し込まれてもお返事のしようがありません」
「はい…」
ジェレミーは、うつむいてしまった。
「ですから、まずは、お互いを知ることから始めたいのですが、それで構いませんか?」
「え…」
一瞬、きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに笑顔がぱぁっと広がった。とても愛嬌のある素敵な笑顔だった。
「―はいっ。無論、それで結構です」
ジェレミーは、何度も頭を下げながら、離れていった。
「―それじゃあ、行くわよ」
シルヴィアは、何事もなかったかのように言った。マノンが肩をぶつけてきた。ただそれだけだった。二人の心遣いが今はありがたかった。
胸を押さえながら、二人の後を歩く。ドキドキして今にも口から心臓が飛び出しそうだ。しかし、同時に心の傷もズキズキと痛んだ。それは、容易に収まりそうになかった。
「サンドラ。ずいぶん思い切ったな」
エーヴは、ワインのボトルを抱えて近づいてきた。ミラベル、サイノス、ジュスタンも後から続く。至宝天揃い踏みである。
ジュスタンとメロディが、一瞬笑みを交わした。ちらっとその様子を目の端に留めながら、エーヴはサンドラに絡んだ。
「黒のドレスたあ、どういう了見だ? ああ?」
「……別に。特に理由があるわけじゃない」
「ウソつけっ。一人だけ目立とうとしやがって、ずるいぞ!」
「目立とうと思ったわけじゃ―」
「確かに、エーヴの言うことも一理あるよ」
ジュスタンが、碧色の前髪をかき上げた。
「お祝いのパーティーに選ぶ色じゃないよね。だからと言って、そんなこともわからないサンドラじゃないし、何か理由があるはずだ」
「……」
「サ、サンドラ、黒もとっても似合うね。わ、わたし、好きだよ、その色」
「ありがとう、ミラベル」
抱き着いてきたミラベルの黒髪を優しく撫でた。ミラベルは、大きなお腹をじっと見つめた。
「―本当に深い理由があるわけじゃない。ただ―」
ミラベルの黒絹のような髪をいじりながら、サンドラは言った。
「―ただ、この晴れの舞台も、たくさんの人々の犠牲の元に築かれていることを、みんなに思い出してほしかっただけなんだ」
「……ふ〜ん。やっぱり、そういう魂胆か」
エーヴは、ワイングラスをサンドラに押し付けた。
「…?」
「今夜は、バスティアンに乾杯しようぜ!」
「エーヴさま!?」
顔色を変えたのはメロディのほうだった。エーヴは、今にもワインを注ごうとしている。
「サンドラさまにお酒を勧めるのはおやめください! 臨月も間近なのですよ!」
「待って、メロディ」
遮ったのはジュスタンだった。
「そんなことは、エーヴだって百も承知さ。心配しなくていい、ワインボトルの中身は水だよ」
「えっ…!?」
メロディの青い瞳が点になった。
「……今はいない仲間へ、乾杯」
エーヴは、グラスを軽くあてると、ぐいっと一気に飲み干した。サンドラは、じっとグラスを見つめると、同じように喉に流し込んだ。さまざまな想いもすべて呑み込むように。
「……私は、いい仲間を持った」
「―サンドラ。疲れたろう。椅子に座れ」
どこから持ってきたのか、サイノスが椅子を置いた。
「すまない、サイノス」
サンドラは素直に従った。
「ねえ、サ、サンドラ。お腹、さ、触ってもいい?」
「いいよ」
「あ、ありがとう」
ミラベルは、お腹をさすった。
「……ふ、不思議ぃー。女のお腹って、こ、こんなに膨らむんだ」
「そうだな。不思議だな」
「あ、赤ちゃんが生まれたら、も、元に戻っちゃうんでしょ?」
「戻っちゃ、駄目みたいな言い方だな」
口元が緩む。ミラベルの天真爛漫さが今は心地いい。
「そ、そうじゃないけど、も、もったいないじゃない。せ、せっかく膨らんだのに」
「生んだ後も大きいお腹のままじゃ、困るな。槍が使えない」
サンドラは声を上げて笑った。
「元に戻るには1、2カ月はかかりますよ」
メロディが言う。
「それでも脂肪はどうしても残りますから、完全に戻すには相当な努力が必要です」
「だから、メロディは前より重いんだね」
ジュスタンが何気なく言う。
「もうっ。そういうことは、みんなの前で口に出して言わないのっ!」
真っ赤になったメロディは、思い切りジュスタンの肩を叩いた。
「痛っ! もう少し手加減してよ〜」
「イチャつくのは、部屋に戻ってからにしろ!」
エーヴが、吐き捨てるように言った。サンドラがまた声を放って笑った。
サンドラは、確信していた。
残ったことは、やはり間違ってはいない。エマには悪いが、自分の居場所はここだ。
この仲間たちとシルヴィアの側にいることこそが、最も正しい。
そう、最も正しい選択なのだ。
【裏ショートストーリー】
メイドA「あ〜あ。みんな、派手に飲み散らかして、後片付けする身にもなってほしいわ」
メイドB「ほんとよね。こっちなんか、食べ残しがこんなにたくさんあるのよ」
メイドC「……ねえ、こっそり部屋に持ち帰ってもわからないんじゃない?」
メイドB「そうよね。誰も確認しているわけじゃないし」
メイドC「高そうなワインも残ってるわ」
メイドA「スカートだと目立つわ。このゴミ箱に隠しましょう。外へ捨てに行くフリして、部屋に運ぶのよ」
マリー=アンジュ「……あれ? みんなで何の相談?」
メイドB「べ、別に相談なんてしてないわ」
マリー=アンジュ「そう…。そういえば、執事さまが抜き打ち検査をなさると仰ってたわ」
メイドA「……何の検査?」
マリー=アンジュ「最近、備品をくすねる不届き者がいるんですって。だから、公の広間の出入りの際に持ち物検査をするらしいわ」
メイドC「げっ…!? 持ち物検査…!?」
メイドB「しっ…、変な声出さないでよっ」
メイドC「ご、ごめん」
マリー=アンジュ「まあ、私たちには、関係ないけど。そうそう、残飯は一カ所に集めて畑の肥やしにするらしいわ」
メイドA「わかったわ。知らせてくれてありがとう」
マリー=アンジュ「おっと、いけない。執事さまに用事を言い付けられてたんだっけ。じゃあ、よろしくね〜」
メイドC「……危なかったね。親切ないい子ね」
メイドB「ちょっと! だからって、ここで食べないでよ!」
メイドC「いいじゃない、ちょっとくらい」
メイドB「ダメっ!」
メイドA「……でも、あんな子、メイドにいたかな…?」




