第201話 愛すればこそ
「フルールっ!」
エミリアンが興奮した様子で部屋に飛び込んできた。フルールは、表情を消して出迎えた。
「どうしたの、エミリアン。そんなに興奮して」
「今すぐここを出よう!」
「出るって、旅行のこと? それはお父さまにお許しを―」
「違うよ! ……いや、ある意味、旅行だけど」
「どういうこと?」
「わからず屋ばかりのこんな国、これ以上いたくない。二人でどこか遠いところへ行こう!」
「ちょっと待って、エミリアン。わかるように説明して」
エミリアンは、シルヴィアから帰国を言い渡されたことをかいつまんで説明した。
「―そう。シルヴィアさまが、そんなことを」
フルールは、予期していたのか淡々と受け止めていた。
「フルール。なんでそんなに落ち着いていられるの? 僕たち、シルヴィアさまに裏切られたんだよ」
「私はそうは思わないわ」
きっぱりと言い切るフルールを、エミリアンは驚いたように見返した。
「どうして? 帰国しないで済むよう、僕はシルヴィアさまにお願いしたんだよ。それなのに、リオネルさまを説得するどころか、僕に帰国するよう言うなんて、裏切り以外の何ものでもないよ」
「違うわ。お願いしただけで、約束してくださったわけじゃない」
「それは…」
「あなたが思い込んだだけで、シルヴィアさまには何の落ち度もない。シルヴィアさまを責めるのはお門違いよ」
「フルール…。僕がいなくなってもいいと言うの?」
「違う違う。―ねえ、エミリアン。よく聞いて」
フルールは、エミリアンの両手を握った。
「前にも言ったけど、私たち、まだまだ子どもよ。今は勉強するときだわ。それは、学問だけではなく、社会勉強もよ」
「……」
「大人になって、やりたいことをやるために、力を蓄えるべきだわ。それは、どこにいてもできるはずよ。それに―」
フルールはじっとエミリアンを見つめた。
「シルヴィアさまは、幼年学校を卒業したら、好きにしていいと仰ったのでしょ? そのとき、リシャールに来ても遅くはないわ」
「フルール…」
「エミリアン。4年の間、一生懸命勉強しましょう。お互い、独り立ちできるように。大人たちの言うことを聞かなくても済むように」
エミリアンの青白磁の瞳から、大粒の涙が一つ、こぼれ落ちた。それが合図だったかのように、滂沱の涙となった。
「離れていても、心は一緒よ、エミリアン」
フルールは、おでこをエミリアンのそれにくっつけた。フルールの大きな瞳からも、涙が溢れて止まらなくなった。
幼い恋人たちは、いつまでもいつまでもそうして支え合っていた。まるでお互いが消えてなくなってしまうのを恐れているかのように。そうしていないと、心が崩れてしまうかのように。
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「エドさん!? どうしたんです? こんな夜に―」
突然訪ねてきたエドウィージュを部屋に招き入れようとして、ヴァネッサは固まってしまった。
エドウィージュは、バルケッタの首根っこを押さえつけていたからである。
「―ヴィシー。邪魔するぜ」
エドウィージュはバルケッタを突き飛ばすようにして部屋に入った。バルケッタは観念したかのように、なすがままにされている。
「エドさん! これはどういうこと?」
視線はバルケッタに釘付けのまま、ヴァネッサは尋ねた。
「どうもこうもあるか。お前ら、いったい何をしてやがる!」
「お前ら、って…私も!?」
「当たり前だ、このど阿呆どもが!」
「ちょっと、ちょっと。バルケッタさんはともかく、なんで私まで怒られなくちゃならないの?」
「ランス、だ。ヴィシー」
「……」
「お前ら、ケンカしたんだってな。ランスから全部聞いたぜ」
「それは…私は悪くないわ」
「いいや。お前も悪い」
「どうしてよ!? 私は、バルケッタさんに弄ばれたのよ。慰められこそすれ、怒られる理由なんてないわ」
「それだ! お前が悪いのは」
「―!」
「いいか、ヴィシー。こいつの言語能力は三流以下だと何度説明すりゃ、気が済むんだ」
「三流以下は、いくらなんでも可哀想だわ」
「三流どころか、四流五流だ。―ランスが言ったそうだな、お前がルメールに帰っても平気だと」
「……」
心がズキズキと痛んだ。今は触れられたくない。ヴァネッサは顔を歪めて横を向いた。
「『平気』の意味が違うんだよ!」
「意味が違う…」
言われた意味がわからず、瞬時戸惑う。
「お前がいなくなろうがどうしようが関係ない、という意味じゃねえ。いなくなって辛いけど頑張る、という意味だ!」
「え…え…えっ!?」
エドウィージュの言葉の意味を理解すると、ヴァネッサは両手で口を塞いだ。青白磁の瞳は、うなだれて床に座り込むバルケッタを見つめ続ける。
「それじゃあ、バルケッタさんは、私のこと…」
「ランス、だ」
エドウィージュはジロッとヴァネッサを睨んだ。
「―お前の勘違いだよ。ちゃんと落ち着いて話を聞いてりゃ、こんな行き違いは起こらなかった。ランスもランスだ。ときには言い訳する努力をしろっつうんだ。勝手にヴィシーに嫌われたと落ち込んで仕事も手につかねえときてやがる」
「―ランスさんっ!」
ヴァネッサはバルケッタの首にすがりついた。
「ごめんなさい…ごめんなさい…うわ〜んっ!」
「私の方こそ申し訳ありません」
胸の中で号泣するヴァネッサに、バルケッタは律儀にも頭を下げた。両手は宙に浮いたままだ。
「ヴィシーさんを傷付けてしまいました。嫌われて当然です」
「うわ〜んっ! 私…私、ランスさんのこと、嫌いになんてなっていませんっ。絶交なんて言って、ごめんなさい。撤回しますぅ〜」
「……私のこと、嫌いになったのではないのですか?」
「―大好きよっ。あなたのこと、世界で一番、大好きなのっ!」
「ヴィシーさん…。私も…私も、好きです。本当は、ひとときも離れていたくない。世界で一番、大好きな人です」
「……うわ〜んっ」
ヴァネッサは泣き崩れた。
「―ったく。ほんとに世話の焼けるガキどもだ」
エドウィージュは、深く嘆息した。
「シルヴィアさまに頼まれてなきゃ、このままケンカ別れになるとこだったぜ」
「シルヴィアさま…?」
ヴァネッサは涙に濡れた青白磁の瞳を上げた。
「シルヴィアさまに呼ばれてな。ヴィシーの様子がおかしいから、相談に乗ってやってくれって。私じゃ、ヴィシーは本心を語ってくれそうもないからって」
「そう…だったの…」
「すぐにピンときたぜ。どうせランスのヤロウがまた下手こいたんだろうってな。それで問い詰めたら案の定、誤解を招く物言いをしやがって。―おい、ヴィシー」
エドウィージュは、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「こんな不出来な生徒は、クビにしちまえ。言語学講座とか大仰な勉強したって、こいつは身につかねえ。どうせ好きな女の顔に見惚れて、講義なんか耳に入らねえんだからよ」
「……ふふっ。ダメよ、エドさん。ランスさんは、私の大事な大事な生徒なんだから」
ヴァネッサは、泣き笑いを浮かべた。
「2年後、講座を再会したときに生徒に逃げられちゃ、講師としての私の評判に傷がつくわ」
「ん…! それじゃ、ヴィシー、お前―」
「ええ。私、ルメールに帰る。帰って、花嫁修業するわ」
ヴァネッサは、頬を赤らめてはにかんだ。
「ランスさんの気持ちがわかったのだもの。それだけで充分。離れていても頑張れる。頑張って頑張って一生懸命努力して、ランスさんに相応しいお嫁さんになる」
潤んだ青白磁の瞳が愛しい男を見上げた。
「―ねえ、ランスさん。私、あなたの妻になりたいの。2年後、お嫁さんにしてよ。いいでしょ? ―私の旦那さまっ!」
【裏ショートストーリー】
シルヴィア「エドウィージュ。あなたに頼みたいことがあるの」
エドウィージュ「何でしょうか、シルヴィアさま」
シルヴィア「ヴァネッサさまのことなんだけど」
エドウィージュ「ヴィシーが何かしましたか? まさか、シルヴィアさまにご迷惑をおかけしたんじゃ…」
シルヴィア「違う違う。……ヴァネッサさまの様子が変なの」
エドウィージュ「変…ですか」
シルヴィア「とても落ち込んでいるというか、元気がなくて、この世の終わりみたいな顔をしてるのよ」
エドウィージュ「……」
シルヴィア「心配だわ。きっと何かあったのに違いないんだけど…。彼女、私には本心を明かしてはくれないと思う。エドウィージュは彼女と親しいでしょ? 本心を聞き出してきて」
エドウィージュ「なるほど…。承知しました。私に心当たりがあります。お任せください」
シルヴィア「頼んだわよ」
エドウィージュ「主命とあらば、否やはありません」
シルヴィア「そんな大げさなものではないけどね」
エドウィージュ「いえいえ。叔母上から勅命を受けていますから」
シルヴィア「皇妃陛下さまには、ほんとに良い方を紹介していただいたわ」
エドウィージュ「私こそ。シルヴィアさまの直臣とは、身に余る光栄」
シルヴィア「頼りにしているわ、エドウィージュ」




