第119話 謀計と憧憬
ガイヤール離反の報は、瞬く間にルメール国中へ流布した。城主ギュスターヴの無骨で律儀な性格は知れ渡っていたから、その彼の寝返りは、激震と言っていいほど国内を動揺させた。
しかも、兵力差では圧倒的に不利なはずのルメールが、マクシムの策が奏功して逆にブランシャールを追い詰めているこの局面での離反である。尚更、人心は揺れに揺れた。
ただし、小揺るぎもしない男が唯一人、ルメールにはいた。無論、『ルメールの彗星』こと、マクシム・フーコーである。
「あの律儀者、やっぱりリオネルと繋がっていたねえ」
執務室の椅子の上で、相変わらずあぐらをかきながら、マクシムはのんびりと言った。
「そんな呑気なことを言っている場合ですか。兵の間でも動揺が広がっています。なぜこの時期にガイヤールが裏切ったのか、と」
「そう! まさに僕がわからないのは、それだ!」
マクシムは、ララを指差した。指差されたララは、嫌そうに顔をしかめた。
「リオネルは、本軍に合流すると高を括っていた僕の見通しも甘かったけど、まさかこの劣勢のときに、離反を公にせざるを得ないガイヤール入りを選択するとは思わなかった。どうせエマの発案だろうけど、彼女には何の展望があってこの選択をしたのか、どうしてもわからないんだ」
「劣勢だからではないですか。リオネルを討ち漏らしたとはいえ、ブランシャール軍にはかなりの打撃を与えました。少しでも味方を増やしたいでしょう」
「でも、ガイヤールにはせいぜい1千しか兵力はないよ。たかが知れてる」
「立地もあるでしょう。全兵力をミュレールに集めてしまったから、ガイヤールから大河オランドを使って王都シメオンを衝かれたら終わりだと、マクシムさまご本人が仰ったのですよ。リオネルからすれば、一発逆転の策ではないですか」
「確かに言ったよ。でも、僕が何の手も打っていないと思う?」
「えっ…!?」
「ガイヤールの離反は始めから想定内さ。だから、王都周辺には、なけなしの僕の本軍を配置してあるんだよ」
「ご領地から集めた5千ですか」
「そうさ。王都の守備兵2千を合わせれば、僕たちが王都に駆けつけるまでの時間稼ぎは充分できる」
「……お人が悪い。ちゃんと対策は考えていらしたのですね。だったら、終わりだなんて仰らなければいいのに」
「一般論を言ったまでだよ。エマなら、それくらいお見通しだろうし。だから、尚更彼女の目論見がわからない」
「私には苦し紛れとしか思えませんが」
「そうかなぁ…」
マクシムは、後ろ手で頭を抱え天井を見上げた。
み空色の瞳は、何を映し出しているのだろう。
ララは、そう思いながら、ルメール随一の頭脳を誇るこの天才の横顔を見つめた。
「―それで、マクシムさま。リオネル軍はいかがいたしますか。このまま放置しては、軍の士気にも関わります」
「別に何も。放置するだけだよ」
「えっ!? 何もしないのですか?」
「そうだよ。ガイヤールは難攻不落の城だ。城攻めなんか愚の骨頂。むしろ、放置するに限る。穴倉に閉じこもっている隙に、こっちは本体を叩き潰して帰るところを失くすだけだ」
「……なるほど」
「ようやく子猫ちゃんが活動再開してくれたし、これからいろいろ情報が入ってくる。そのうちエマの意図もわかるだろう。―ガイヤール入りは、うまい具合に隙をつかれちゃったけど」
み空色の瞳が閉じられた。そして、心の声が漏れ出したようにつぶやいた。
「―さて、エマは、どんな手を打ってくるかなあ。楽しみだなあ」
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「失礼してもよろしいでしょうか」
ヴァネッサが、訪いを告げた。言葉は遠慮がちだが、態度は堂々としている。シルヴィアは、微笑ましく思いながら部屋へ招き入れた。侍女は連れていない。
ギュスターヴからあてがわれた城館内の私室である。昨年、一度だけリオネルと一晩語り明かした例の部屋だ。今回は、初めから私室を分けてもらっていた。天蓋付きのベッドには、フランベルジュが寝そべっている。
「お忙しいのに、私のために時間を割いていただいて恐縮です、妃殿下」
ヴァネッサは、ドレスをつまんで膝を曲げた。
「遠慮しなくてもいいわ、ヴァネッサさま。それに、シルヴィアで結構よ。堅苦しいのはあまり好きではないの」
「では、遠慮なく。シルヴィアさまに折り入ってご相談があるのです」
「そう仰っていたわね。―どうぞ、まずはお座りになって」
シルヴィアは、椅子を勧めた。
「失礼いたします」
席に収まったのを見計らって、コーヒーを出した。プチケーキ付きである。わざわざリシャールから持ち込んできたのだ。
コーヒーカップに視線を落としたヴァネッサは、目を瞠った。
「―あの! シルヴィアさま。この黒い飲み物は何ですか?」
「コーヒーというの。最近、ブランシャールに入ってきた異国の飲み物で、皇都リシャールで流行っているのよ」
「そう…ですか」
「実はね、コーヒーを出すお店、カフェというのだけど、私がオーナーなのよ」
「まあ…。シルヴィアさまは、商人のようなことまでなさるのですか」
「新しもの好きなだけよ」
「……」
ヴァネッサは、恐る恐る口にした。とたん、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「……お、美味しいですね」
「はははっ。無理しなくていいわ。苦いでしょう? ブラックはヴァネッサさまには少し早かったわね。ミルクを入れるととても飲みやすくなるわ。リシャールのお店でも、ミルクコーヒーは人気なのよ」
シルヴィアは、ヴァネッサのためにミルクを入れてあげた。
「……あっ! 味がまろやかになりました! これなら、私でも飲めます」
「でしょう?」
「へえーっ。やっぱりブランシャールは、進んだ国なのですねえ」
コーヒーカップをしげしげと眺めながら、ヴァネッサはため息をついた。
「それに引き換え、ガイヤールは、田舎ですわ。流行りの服だって靴だって、ブランシャールとはいつも周回遅れ。嫌になります」
「あら。貿易港のドゥラットルと大河で繋がっているガイヤールには、いろいろ交易品が入ってくるじゃないの」
「だから、余計に我が国との差が目に付くのです。王都シメオンはいざ知らず、ミュレールですら、流行りのものが手に入らないのですから、遅れている実感さえないのです」
「そうなんだ」
「私、こんな田舎で埋もれたくはありません。もっと華やかな都会に出て、このコーヒーのような最新のものに触れてみたいのです」
「……」
「シルヴィアさま。どうか私を、リシャールへお連れくださいませんか」
「……」
「ご迷惑はおかけしません。お連れいただくだけで良いのです。どうか、どうかお願いします!」
「―ヴァネッサさま。そのこと、お父さまにはご相談したの?」
「え…父には、まだ話してはいません」
「ねえ、ヴァネッサさま。あなたは、ガイヤール伯の姫君だわ。ガイヤール伯ご自身が旦那さまの配下になられたとはいえ、形は未だルメールの臣。その方の姫君がリシャールへ赴くということは、ガイヤールの民からすれば、人質も同然よ。リオネルは、ガイヤール伯を信用しないのか、と怒ると思わない?」
「それは…そうかもしれません」
「お父さまにとっても、旦那さまにとっても、それは本意ではない。わかるわね?」
「はい…」
ヴァネッサは、見るからにしゅんとしおれてしまった。気の毒に思ったのか、シルヴィアは殊更明るい調子で言った。
「そうは言っても、個人的には、ヴァネッサさまがリシャールへお出でになるのは大賛成よ」
「えっ…!? 本当ですか?」
ヴァネッサは、パッと顔を輝かせた。
「あなたぐらいのお歳で違う世界を体験するのは、とても良いことだわ。将来、ガイヤールにとってもプラスになる。―機会を待ちましょうよ、ヴァネッサさま。必ずチャンスは巡ってくるわ。そのときには、全力でサポートすることをお約束します」
「はいっ。……はいっ。ありがとうございます、シルヴィアさま。よろしくお願いします! よろしくお願いしますっ!」
ヴァネッサは、青白磁の瞳をキラキラさせながら、何度も何度も頭を下げるのであった。
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サンドラは、医院を目の前にして躊躇するように足を止めた。何度か一歩前に足を出そうとするが、その度に引っ込める。
逡巡を繰り返すと、やがて大きく肩で息を吐いた。そして、思い切ったように、入り口のドアを開けて中へと消えていった。
【裏ショートストーリー】
ヴァネッサ「シルヴィアさまって、ホントに素敵よねぇーっ」
エミリアン「……妃殿下のところへ押しかけたの?」
ヴァネッサ「言い方。押しかけたのじゃなくて、招待されたの。ちゃんと事前にシルヴィアさまの許可をいただいたわ」
エミリアン「ご迷惑になるようなことを言ってないよね?」
ヴァネッサ「何でよ。快くお話を聞いてくださったわ」
エミリアン「本当かな。お姉さまは、心配な方だから」
ヴァネッサ「どういう意味よ?」
エミリアン「一方的にしゃべり倒して、妃殿下に口を差し挟む余裕を与えなかったのではないの?」
ヴァネッサ「失礼ねー。ちゃんと会話をしたわよ、会話を」
エミリアン「どうだか」
ヴァネッサ「あのね…。シルヴィアさまは、コーヒーでおもてなしくださったのよ。知らないでしょ、コーヒー」
エミリアン「……何、それ?」
ヴァネッサ「大人の飲み物なんですって。リシャールで流行っているそうよ。私を大人扱いしてくださったんだわ。それだけでも嬉しいのに、私の話を真剣に聞いてくださり、アドバイスまでしてくださったのよ」
エミリアン「……」
ヴァネッサ「憧れるわぁ。私もあんな大人の女性になりたいなあ。優しくて気遣い上手で、お話も面白いし、考え方もとても斬新なのよ。新しもの好きなんですって。コーヒーのお店のオーナーをなさっておいでなの。王族なのに、商人の真似事なんかも気にせずおやりになるのよ。あんな方、見たことないわ。その上、とてもお美しいし、それでね、それでね………」
エミリアン(本当に、よく喋るなー。妃殿下は、うるさく感じなかったのかな。後で謝っておいたほうがいいかも)




