第101話 嵐の前
春である。
白い冬が終わり、落葉樹は青々と葉を茂らせ始め、小鳥たちは枝を飛び回る。花々が色とりどりの美を競い、虫たちがモゾモゾと動き出す。
静かに眠りについていた世界が、生命の息吹に満ち溢れ賑やかになる、そんな季節である。
世界の主役である『人』も、籠もっていた家から外へと出ていく季節なのだ。シルヴィアも、大きな一歩を踏み出そうとしていた。
「正式に出師が決まった」
リオネル軍兵舎の会議室に、大隊長が集められた。
「さっき、御前会議が開かれて、父上から指示があった」
「いつですか」
エマが尋く。
「二週間後」
「思ったより早いですね」
「調練は済んでる。準備はできてるぜ」
「常備軍はね、トリュフォー。私が危惧しているのは、徴集兵よ」
「どこの軍も、大急ぎで集めることになるだろうな」
「無理して集めれば、農業も商業も働き手を失って経済には打撃だわ」
「それでも、やるしかない。父上の意向を変えることは誰にもできない」
「……旦那さま。うちの軍も徴集するのですか。それをしないための常備軍増強だったのでは?」
「徴集は、する。ただし、強制はしない。事実上、志願兵とする」
「それをお聞きして安堵いたしました」
昨年の冬前に訪れたマティスの人たちを思い浮かべていた。皆、素朴で温かい人ばかりだった。彼らを無理やり戦場に立たせたくない。
「志願兵となると、ほとんど当てにはできませんね」
ギーが言う。徴集兵はほぼギーの飛竜隊に配属される。志願兵も同様だ。ギーこそが最も影響を受けるのである。
「当てにはしないさ。少数とはいえ、俺たちの常備軍は、帝国一の精兵だと自負している。最悪、五千だけで勝負するつもりだ」
「承知しました。その腹づもりでいることにします」
「もう一つ、報告がある。ジルベールが謹慎を解かれた。第二軍も今回の遠征に参加することになる」
「ジルベールが…」
シルヴィアは、リオネルと目を見交わした。因縁の相手が復帰してくる。
「ジルベールお兄さまが参戦なさるのであれば、今回の遠征、かなり大規模な動員となるのでしょうね」
アニェスが尋ねた。
「全体でおよそ10万にはなるだろう」
「10万…!」
トリュフォーが嘆声を漏らした。それもそのはず、昨年は総勢7万の大軍勢だった。それを大きく上回る数である。皇帝グレゴワールの意気込みがわかるというものだ。
「我が帝国軍お得意の物量作戦で、何が何でもルメールを潰すおつもりなんだろうよ、父上は」
「彗星相手に数はアドバンテージになりません」
「……と、俺も言上したんだよ、エマ。一蹴されたけど」
「そうでしたか…」
エマは、難しい顔をして考え込んでしまった。
「―まあ、いつも通り、俺たちのやれることを全力でやればいいさ」
リオネルは、朗らかに言った。まるでピクニックに行く話をしているかのように。
「結果がどうであれ、みんなでリシャールに帰ってこようぜ。大義のない戦で怪我をしたら、つまんねえし。―なあ、そう思わねえか?」
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シルヴィアたちが雁首揃えていた同じころ。遠くルメールでは、彗星がのんびりと馬に乗っていた、はずだった…
「―危ないっ、マクシムさまっ!」
ララが叫んだ。マクシムが馬から落ちそうになったのだ。
「……おっとっと」
なんとか持ちこたえて、馬の首にしがみつく。
「揺れるんだものなー。どうして、馬ってこんなに揺れるんだ?」
「生き物なんですから、揺れるのは当たり前でしょう!」
「もっと乗り心地のいい乗り物は、ないものかな?」
「ほんま、マクシムさまは、運動神経いうもんがありませんなぁ」
エテルナが呆れたように言う。
「そもそも、遠乗りをしたいと言い出したのは、マクシムさまですよ。言っておきますが、私は反対しましたからね」
「そういうなよ、ララ」
「前線の視察をなさりたいんでしたな、マクシムさまは。でも、ここはミュレールです。前線なら、国境のロワイエとちゃいますの?」
「前線は、ミュレールさ、エテルナ」
「それでは、前回と同じことになりまっせ。国境は放棄なさるんで?」
「う〜ん。狭い意味では放棄するけど、広い意味では、生かすんだよ」
「……相変わらず、マクシムさまの言わはることは、ようわかりませんわ」
「ここだ、ここだ。ここで降りよう」
馬から降りようとするも、脚がうまく抜けずに大騒ぎした挙げ句、結局エテルナに抱きかかえられて、ようやく地上へと着地した。
「……帰りは歩いて帰る!」
地面に座り込んで駄々をこねた。
「少しは、しゃきっとしなはれ! ルメール軍総司令官どの!」
エテルナに背中をどつかれて、渋々立ち上がった。
「ちぇっ。総司令官だと思うなら、もう少し敬ってよ〜」
「最大の敬意を払っていますよ」
クスクス笑いながら、ララが言う。
「……ところで、どうしてこんな所を見たいと思われたのです?」
少し張り出した崖の上だった。眼下には、隘路が東西に伸びている。
「胸くそ悪い景色を見ておこうと思ってね」
「はい…?」
「―いやはや、想像以上にヒドい眺めだね〜」
ララとエテルナは、顔を見合わせた。天才の感覚は、常人とかけ離れ過ぎて、理解が追いつかない。
「……ララ、エテルナ。来るよ」
「は? 今、何と仰っいましたか?」
「もうすぐ、ブランシャールが来ると言ったんだ」
「この時期に侵攻してくると?」
「この時期だからさ。秋小麦の刈り入れ前に決着をつける気だ」
「……」
「子猫ちゃんの情報だと、皇帝御自らご出馬なさるらしい」
子猫ちゃんとは、『ブラックキャッツ』と呼ばれるマクシム直属の諜報団のことである。
「すると、大軍を催すのでしょうね」
「10万くらいじゃないかな」
「10万! そら、えらいこっちゃ」
「兵の数なんて、大した問題じゃないよ」
「マクシムさまは、そう仰りますけど、私たち凡人には、とてつもない数字です」
「グレゴワールの戦い方は、数で押し切る。ただそれだけの脳筋さ。怖くも何ともない。それより、怖いのは―」
マクシムは、遠い目をした。み空色の瞳は、いったい何を映し出しているのだろう。もしかしたら、目の前の情景ではなく、時を超えた未来を見据えているのかもしれなかった。
「リオネルだ。彼の幕下には、それこそきら星の如く才能が集まっている。僕は思うんだ。この戦争の真の敵は、皇帝なんかじゃなく、リオネルさ。彼を倒さない限り、ルメールに勝利はない。この戦いで、リオネルを確実に殺す。それが、唯一、僕たちが生き残れる道なんだよ」
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「―出陣が決まったんだって」
サンドラは、バスティアンの逞しい胸を指でなぞりながら言った。バスティアンは、腕枕をして肩を抱いている。
「ああ。エーヴから聞いた」
サンドラとバスティアンは、都内の大きな宿屋にいた。兵舎のサンドラの部屋で会うことが多かったが、周りを憚り、情事を交わすときは宿屋と決めていた。
「しばらく、会えなくなるね」
「同じ軍にいるんだから、いつでも会えるよ」
「でも、隊が違うし、人の目もあるから、気軽には会えないよ」
「結婚したんだから、人目なんか気にするな」
「気にするよ。士気に関わるし」
「俺の士気に関わる」
「あん…ダメよ、バスティ」
バスティアンに胸を弄られて、軽く叩いた。
「……戦争が終わったら、俺の実家に連れて行くよ」
「えっ!?」
「両親や家族に紹介しなきゃな」
「……そうだね。私も会いたい、ご家族に」
「気が重いけどな」
「……そっか。お兄さまと折り合いが悪いんだっけ」
「家族だもんな。嫌でも一生付き合わなきゃいけないんだし」
「私のこと、まだ全然話してないの?」
「母さんには、手紙で知らせた」
「……兎脚族ということは?」
「それも手紙に書いたよ。母さんは、たぶん大丈夫。でも、親父と兄貴は、ダメかも」
「そう…」
「そんな不安そうな顔するなよ。俺が必ず守るって」
「ありがとう、でも、私のせいでバスティとご家族の間が悪くなるのは―」
言いかけた口をバスティに塞がれた。しばらく熱いキスを交わす。
「サンドラ…」
ようやく唇を離したと思ったら、バスティアンは覆い被さってきた。
「えっ…ちょっと待って、またやるの?」
「戦争が始まったら、しばらくは抱けないから」
「バスティったら…ああ〜ん―」
恋人たちにとって、夜は短い。燃え上がった熱情は、線香花火にも似た一瞬の輝きを放ち、そっと夜の帳へと消えていった。
【裏ショートストーリー】
コレット「あ〜あ。シルヴィアさまたちは、軍旅に出てしまうのですね」
マノン「ブランシャールは、軍事国家だからねぇ。こればっかりは仕方ないよぉ」
コレット「私たち、いつもお留守番ですものね。つまらないなあ」
マノン「……戦場に出たいの?」
コレット「そうは言ってません。目の前で殺し合いなんか見たら、卒倒しちゃいます」
マノン「だよね〜」
コレット「戦争のない世の中になればいいのに。そうすれば、シルヴィアさまと離れなくて済むじゃないですか」
マノン「すっかり、シルヴィアさまになついちゃったねぇ」
コレット「……ネコみたいに言わないでください」
マノン「(似たようなものだけど)……シャウラの面倒をちゃんとみててねぇ」
コレット「えっ…!? シャウラの世話は、いつもマノンさまがなさっているじゃないですか」
マノン「シルヴィアさまのご命令で、カルパンチエに行かなきゃいけないのぉ」
コレット「……聞いてませんけど」
マノン「ランドルフさまとコーヒー豆の次回の納品について話し合わなきゃいけないのよぉ」
コレット「ええーっ!? それじゃあ、私独りお留守番じゃないですか。ヒドいですっ」
マノン「シルヴィアさまのお部屋を独り占めできるんだから、幸せじゃなぁい」
コレット「それはダメです。あくまで侍女なんですから、勝手に使えるわけありません」
マノン「変なとこで真面目なのね」
コレット「……ところで、マノンお姉さま。年齢バレてるんだから、いつまでもぶりっ子口調はおやめください」
マノン「あは。マノンはまだ16だからぁ、よくわかんなぁ〜い」
コレット「……イタいだけです」




