十文字話すと死ぬ彼女が、僕に全てを伝えるまで
「じゅう話すと死ぬの」
彼女が初めて声を聞かせてくれた時、透き通った美しい声に心を奪われて、何を言ったのか理解できなかった。すぐさま聞き返したけれど、彼女は黙り込んでしまってそれ以上話すことはなかった。
もう一度声を聞きたい、という下心もあった僕はがっくりと肩を落としたけれど、彼女は目を細めて微笑むだけだ。病室の窓から曇った空を眺めて言葉の意味を考えてみた。聞き返したのはもっと分かりやすい言葉で話してくれることを期待したからで、声自体が聞き取れなったわけではないのだ。
「何か重い病気なの?」
僕がそう尋ねると(今思うと不躾で無遠慮な質問だ)彼女はこくりと頷いた。
病院のベッドに腰かける彼女は、一見して体調が悪いようには見えなかった。顔色もいいし、特段痩せているということもない。もちろん太ってもいないけど、病弱そうな印象は受けなかった。
でも高校に入学してすぐ長期入院という異常さから、軽い病気ではないだろうな、とは予想していた。名簿上はクラスメイトだというのに学校で顔を合わせたことは一度もない。
こんなに可憐な子だって知ったら、出会いがないなどと叫んでいる男連中が悔しがるだろうな。
「ふーん」
先生から言われて様子を見に来ただけの僕は、それ以上詮索する気にもなれなくて口を噤んだ。僕が派遣されたのは、結局のところ先生や学校のメンツを保つためなのだ。きちんと気に掛けていますよ、というポーズを取るために、帰宅部で頼みを断れない性格の僕に白羽の矢が立った。
たまにはこの性格で得することもあるんだな、と思いながら彼女を盗み見る。何が楽しいのか、指を絡めてカエルを作っていた。口に見立てた指をパクパクと動かして、僕に向ける。
結局その日はカエルが呑気に欠伸をするだけで、彼女の声を聞くことはできなかった。
『一日に十文字話すと死ぬ』それが彼女の病気だった。
正確には、十音だ。
ゃ、ゅ、ょ、などの小さい文字、つまりは拗音や促音(小さいつ)はカウントされず、十の音を口から発すると心臓が止まる。
嘘みたいな話だが、彼女の説明は真剣そのものだった。
一日に言葉として発することができるのは九音だけ、ということになる。身体は健康そのものでも、外の世界では何かの拍子に声が出ないとも限らない。大事を取った両親が、原因が究明され治るまで入院させることにしたのだそう。
なぜ僕が彼女の病状についてこんなにも詳しいのかと言うと、あの日から週に一回くらいのペースで電車を乗り継いで彼女に会いに来ているからだ。
「それでな、今日うちのクラスのやつが先生のモノマネしてて……」
『それは面白いですね』
「だろ?」
声が出せなくても、スケッチブックに書いてもらうことでコミュニケーションは可能だった。聴覚に障害があるわけではないから僕は普通に話せばいいし、少しテンポが悪くなるくらいしか困ることはない。
現在手話を練習中なようで見せてもらったけれど、当然ながらさっぱり分からなかった。
でも単語は直感的に理解できるものも多かったし、何よりころころ変わる表情とジェスチャーが面白くて、僕は何時間でも練習に付き合った。
彼女がいる病室は個室だから、話していても誰かの迷惑になるということはない。
『いつも来てくれてありがとうございます』
「いいって。僕も楽しいから」
『でも、お友達とも遊びたいでしょう?』
「平日はみんな部活だから暇なんだよね」
嘘じゃない。土日も暇なだけだ。
強がりじゃないけど、僕だって学校に友達くらいいる。でもそれは学校内だけの関係であって、放課後や休日にどこかへ出かけるような友達はいなかった。
「じゃあ僕はそろそろ行くね」
僕はスクールバッグを肩に掛けて立ち上がった。彼女に背を向けて数歩歩くと、扉に手を掛ける。
僕は期待感を表に出さないように注意しながら首だけでちらりと振り向いた。指カエルで口を隠してにやける彼女と目が合った。
「またな」
「さようなら。また来て」
最後のこの瞬間だけは、いつも言葉を発してくれる。
たった九文字が僕にはたまらなく嬉しくて、必ずまた来ようと胸に刻むのだった。
一日に使える文字数を全て僕に使ってくれる。他の誰かには一言も離さないのに、僕にだけ声を聞かせてくれる。彼女の声はどんな歌姫よりも心に染みていて、僕を魅了した。神様はきっと、美声に嫉妬して制限を与えたんだ。
僕が彼女に友情以上の気持ちを抱くまでに、そう時間は掛からなかった。
いつしか僕は彼女と会うために毎日を生きるようになって、しつこく顔を見せる僕に、彼女はいつだって九文字使ってくれた。
「何かしたいこととかある?」
僕は何を聞いているんだろう。
難病で長期入院している相手に対して、あまりにも配慮のない質問だ。やりたいことなんて、たくさんあるに決まっている。そう思うことすらエゴなのに、僕は彼女に何かしてあげたい、という一方的な思いだけで行動してしまった。
彼女は顎に手を当てて数秒思案したあと、スケッチブックにさらさらとペンを走らせる。
『叫びたい』
「へ?」
『大声で叫びたいです』
まったく予想だにしない希望だった。
質問をする時はその返事をある程度想像しながら聞くものだけれど、僕はてっきり外に遊びに行きたいとか学校に行きたいとかレストランで食事をしたいとか、普通のことを欲しがると思っていた。実は多少の願いなら叶えられるよう、看護師さんに外出許可も取りつけていた。
たかがクラスメイトに過ぎない僕にそんなこと許可していいのかと聞くと、ご両親の意向らしい。彼女の両親は多忙で見舞いに来られないから、僕が頻繁に来てくれるのは歓迎してくれている。
でも彼女は『叫ぶ』というもっと普通のことすら、できないんだ。そう思うと喉が突然呼吸の仕方を忘れたように苦しくなるけど、可哀そうだとは思わないで欲しい、と言われているので思考から追い出す。
『だめですか?』
「ううん、ダメじゃないよ。屋上に入れるか聞いてみるね」
そう安請け合いすると、彼女は歯を見せて笑った。思わず喜びの声を上げそうになって、自分で口を抑える。叫ぶためには、無駄な文字数は使えない。
僕は看護師さんにお願いして、屋上に案内してもらった。入院患者さんが屋上に散歩に来ることは珍しくないことらしいが、今日は誰もいなかった。
元より彼女は身体的に悪いところはないから「終わったらお知らせください」とだけ言って看護師さんは戻っていった。
「なんて叫ぶの?」
僕がそう聞くと、彼女はスケッチブックは開かずに僕の手を取った。
ぐいぐい引っ張られて、フェンス近くまで行く。
彼女と出会った日とは違って今日は快晴で、真上で輝く太陽が彼女を見守っていた。
彼女は目を閉じてすーっと大きく息を吸った。フェンスから身を乗り出すように前屈みになるので、僕は慌てて手を強く握った。
「ばかーーーー!」
彼女が大声を出すところを見るのは初めてだ。
内容よりも、空に響き渡った透き通る声が、僕の耳に残った。たぶん、彼女なら天使も負けを認めると思う。
「何が馬鹿なの?」
ところで語尾を伸ばした場合の文字数カウントはどうなるんだろう、なんて場違いな言葉が頭をよぎる。
憑き物が落ちた彼女の横顔に思わず見惚れる。
『あなたがばか』
「俺が?」
『そうです。私は話せないのに、わざわざ会いに来ます』
「言葉なんてなくても、君は饒舌だよ。ほら、すぐ顔に出る」
頬がうっすら染まっているのは、久ぶりに外に出たからではないだろう。
彼女は唇を尖らせて、目を逸らした。でもすぐに様子を伺うように、ちらちら見てくる。
どうしたら良いか、僕が困惑していると彼女はぐっと顔を寄せて睨みつけてきた。
「……好き」
とびきり小さな声で彼女が囁いた。
気持ちを伝えるのに必要な文字数はたった二文字でいい。
「俺も好きだ」
目の前に顔があったものだから、僕はたまらずキスをした。それは衝突と表現した方が相応しい不格好なものだった。
初めての柔らかい感覚に止め時を失って、彼女が苦しそうにばたばたと腕を叩いてくるまで続けた。離れると彼女はぜえぜえと肩で息をして、涙目になった瞳を指先でぬぐった。
「鼻で息できるじゃん」
九文字から始まった僕らは、二文字で付き合った。
それからも僕は病院に通い始めた。
彼女の病状は悪化もしないが、治る見込みもまだない。恋人同士になったわけだけれど、相変わらず彼女はベッドの上だし、僕は面会用の椅子だ。
変わったことと言えば去り際に軽くキスすることと、いつもの九文字が「好きだよ。また来てね」になったくらいだ。
それと、一度だけ外出した。万が一にも声が出ないように気を付けて、周辺を軽く散歩した。病院の目の前にある公園にあるカエルの銅像が彼女の琴線に触れたようで、十分ほどじっと見ていた。何がいいのか分からない。
僕が最初に見舞いに来てから五か月。付き合ってから一か月が経過していた。今日は付き合って一か月記念日だ。付き合い始めたことをうっかり漏らした友人に、一か月は絶対にプレゼントを渡すようにと口酸っぱく言われたので、カバンの中には丁寧に包装されたプレゼントが入っている。
僕はほぼ顔パスで受付を抜けると、彼女の病室に向かった。
「じゃあまた来るわ。元気でな」
「さようなら。また来て」
廊下を歩いていると予想だにしない声が聞こえて、足が止まった。知らない男性の声と、聞き間違えるはずがない九文字。
「ああ、失礼」
スーツ姿の男が、僕の脇を抜けていった。
血の気が引いて、手が震える。さっきまで愛おしくて仕方なかったカバンの中のプレゼントが、途端に重たくなった気がした。黒い感情が胸を支配する。
僕は踵で大げさに音を立てて、彼女の病室に入った。彼女はぱっと花を咲かせて、手を振った。
「誰だよ、今の」
彼女はミニテーブルからスケッチブックを取って、開いた。ペンを持って何かを書こうとするので、僕は駆け寄ってそれを奪った。スケッチブックもひったくって、床に叩きつける。
「答えろよ」
言葉で、何文字でも良いから声で返事して欲しかった。
スケッチブックを奪われた彼女は手話で表現しようと手を上げたけど、僕が乱暴に押さえつけた。
「答えられないのか?」
彼女の目に恐怖が浮かぶ。
口がうっすらと開いて、涙がにじんだ。
「もういい」
僕は彼女に背を向けて、病室から逃げ出した。
僕が病院から逃げ出してから、一週間が経った。さすがにこのままでいいはずがないと、重い足を引きずって病院近くまでやってきた。
いつか彼女と来た公園で、僕は立ち止まった。
彼女には酷いことをしたと思う。あのまま無理に話させていたら、彼女を殺すことになった。
でも、彼女も悪い。僕以外に九文字を使ったんだ。僕の九文字なのに。
彼女が気に入っていたカエルの銅像の前で立ち尽くす。カバンから徐にあの日渡す予定だったプレゼントを取り出した。
慣れないプチプラに入って、周囲の視線におどおどしながら選んだ安物のイヤリングだ。
口よりも饒舌に物を言う彼女の目は、いつも優しく微笑んでいた。それを崩したのは僕だ。
戻って謝ろう。そう思った時だった。
「好き!」
横断歩道の向こうから、声が聞こえた。数メートルの距離があっても、彼女の声はよく通る。
周囲の人が何事かと視線を向けるけど、彼女は気にしない。僕は目を白黒させて、動けないでいた。
信号が青になった瞬間、彼女は全力で走ってきた。しばらくぶりのダッシュに足がもつれそうになるけど、彼女は止まらない。
僕の前で止まると、スケッチブックを両手で持って僕の顔に押し付けた。近すぎて読めない。
僕が二、三歩下がると、怒った彼女と目が合った。スケッチブックにはでかでかと『兄』と書かれていた。
一瞬遅れて意味を理解する僕の前で、彼女が息を吸い込んだ。
「すきすきすきす――」
十文字目を、唇ごと塞いだ。
「ごめん。僕の早とちりだった」
素直に謝ると、彼女は感極まった表情で首を横に振った。
会いに来るまで一週間もかかってしまった。僕がここにいるのは、どうして分かったんだろう? そう思ったけど、病院前で満足気に腕を組む看護師さんを見つけて、合点がいった。
「ありがとう。ほら、病院に戻ろう?」
僕は彼女の手を引いて、横断歩道へ向かった。
僕は、本当に良い彼女を持ったと思う。
大好き。僕が気持ちを表すなら、四文字は必要だな。
この一週間の憂鬱な気持ちがなんだったのかと思うほど、清々しい気持ちで歩いた。
あれ、どうしたんだろう。向かい側にいる人が、瞠目して手を逃している。看護師さんはなぜ、走り出そうとしているんだろう。
「あぶない!!」
なんで、彼女の声が聞こえるんだろう。今日はもう、九文字使っているのに。
次の瞬間、甲高いブレーキ音が聞こえた。視界の端に、赤い軽自動車が見える。
彼女が僕の手を引いて、歩道に引き戻した。反動で、彼女が車道に飛び出す。
「え――?」
信号無視の暴走車に轢かれた彼女は、今様々な延命措置を受けながらベッドに横たわっている。
病院の目の前だったことですぐに手術が行われた。だが、目覚めない。
彼女が二ヶ月も眠り続けている原因が事故なのか十文字の制約を超えたからなのかは、分からない。
どっちが原因にしろ、僕が招いたことだ。
僕が最初から彼女の話を聞いていたら。早く病室に行って仲直りしておけば。暴走車に気づくことができたら。轢かれるのは僕だったら。
そう思うけど、時間は戻らない。
九文字しか話せない彼女は、目と表情で誰よりも素直に感情を表現する彼女は、眠ったまま動かない。
「助ける方法が一つだけあります」
先生が重々しい表情で言った。
助ける方法があるなら、僕はなんでもする。藁にも縋る思いで、彼に詰め寄った。
彼が告げた言葉に、僕は迷わず頷いた。
「あれ……わたし」
ほどなくして、彼女が目覚めた。
二ヶ月間眠っていたとは思えないほど、穏やかな目覚めだった。
僕は溢れる涙を袖でごしごしと拭って、彼女にキスをした。
「もう、なによ」
僕は何も言わず、スケッチブックを取り出した。
『おはよう。大好きだよ』