第七章 錆び付いた銃
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『おい……聞こえてないのか? 応答しろ』
「……了解」
『ったく、寝惚けてんのか。いざとなりゃお前が頼りなんだぜ、もっと気ィ入れとけよ』
呆れたような情次の反応に、了解、と同じ言葉を返す。
〝了解〟はしている。相手の状況も、自らに課された役割も、正確に把握している。
現在カルルが居る場所は、中国人街の外れにある廃ビルの屋上。腹這いに構えた〈キリエ〉の銃口の二百メートル先には、重層砦の七〇二号室が続いている。
辺りに背の高い建物はなく、ここが唯一狙撃に適した地点である。カーテンは閉め切られていたが、向こうに飛ばした偵察機の壁透過センサーとスコープの画像が同期しているため、室内の様子はカルルにも見えていた。
『カルル、心の準備は出来ていますね』
傍らに佇むナルが、念を押すように言った。
『悪戸情次の想定通りであれば、絵を狙う刺客が必ず現れるはずです』
カルルは首肯した。情次の予測が確かなら、いずれ〝あの絵〟を奪いに敵が押し入ってくる。その際に連中を撃つのがあの男から命じられたこちらの役目だった。
敵が複数の場合、一人を残して全員を射殺する。特にあのカミラなる女は最優先の標的に定めていた。こちらと同等の力を持つあの女にも、長距離からの死角を突いた攻撃は有効なはずだ。
『ええ……その通りです。そしてこの先が、最も重要な点です』
カルルが作戦内容を暗唱すると、ナルが説明を継いだ。
『刺客を全滅させるまで、我々はこの位置から悪戸情次の援護に徹します。そして然る後――全ての敵を制圧した瞬間――あの者にも僅かばかりの心の隙が生まれるはず。その時こそが、我々にとって絶好の機会と言えましょう』
そこで一旦ナルは黙った。改めて自ら企ての〝罪深さ〟を認識し、覚悟を決めるように。ややあって深紅の瞳を輝かせ、彼女は命じた。
『殺すのです、あの者を。悪戸情次を。我らの使命の最大の障壁となりうる存在を、今この場で』
*
ナルが敵勢力の真の目的に気付いたのは、カミラとの戦闘後――例の〝絵〟を情次に見せられたその時だったという。
それは嵐の海を漂流する六人の男達を描いた風景画であり、実写のような精密さを備えながら、個人の心象風景を描き出したかのような趣があった。
情次曰く、さる巨匠の画風を真似た〝贋作〟だそうだが、素人目には絵の良し悪しなど分からない。ただ、常に変化し続ける自然を斯くも正確に捉え、己が想像を交えつつも再現するには、画風の模倣以前に個人の技量が問題となるはずだ。作者が非凡な才能の持ち主であることは、カルルにも想像がついた。
一方のナルは何ら感想を述べることなく、意外なほど静かにその絵に見入っていた。……思えば彼女の中で大きな変化があったのは、あの絵を見た瞬間だったのかもしれない。
情次との情報交換や今後の打ち合わせを終え、自室で二人きりになった時、おもむろにナルは切り出した。
『私はあの絵の真の作者を知っています』
それから彼女は〝絵〟に隠されたあらゆる秘密を明かし、こう続けた。
『――恐らくは堕群人化の過程で記憶に欠損があったためでしょう。私自身、実物を目にするまでその存在すら思い出せずにいました。しかしこうして記憶が回復した以上、如何な手段を以てしても、我々があの絵を手にしなければなりません』
その際の説明で、ナルが〝絵〟に執着する理由も、自分達以外の者の手に渡るのを恐れる理由も、理解出来た。
ただしそうなると、正体不明の敵対勢力のみならず、現所有者である五十嵐や情次までも敵に回すことになる。
特に情次はかなりの脅威になるだろう。一個人としての戦力に加え、こちらの情報を握られている点が厄介だった。
『ええ、分かっています。もしあの男がこちらの目論見に勘付けば、きっと五十嵐清純にブギーマンの正体を明かすでしょう。そうなれば、この島から我々の逃げ場は消えてなくなる。ですから、そうなる前に――』
*
使命のためなら、如何な罪をも背負う覚悟がある――そうナルは言うが、悪戸情次を殺せと命じた時、どこか抵抗を感じているように見えた。
だが〝絵〟を手に入れ、〝契約〟を履行するには、あの男を殺さない選択肢はない。
客観的にもそう理解出来たし、カルル自身それに関して躊躇いもない。少なくとも、今この時点では。……一方で、だが、とも思う。
つい昨日、自分は殺すべき人間を――双見百合を殺せなかった。
仮面に隠した素顔を、見知った相手に知られたのだ。慎重を期すのであれば、相手の口の堅さに賭けるような真似はせず、早々に殺してしまうべきだった。少なくとも途中までは、そのつもりでいた。
しかしナイフを振り抜こうとする寸前、見えない力に囚われたように、その手は止まっていた。そのままその場を後にし、情次にその際の状況を訊かれた時も、顔は見られなかったと嘘までついた。
あの時のことに、ナルは触れようとしない。こちらが双見百合を殺さなかったのも、自らの指示に従った結果と考えているのだろう。
だが、事実は違う。あの時、自分は自らの躊躇いから百合を殺さなかったのだ。
殺すべき相手を殺す、そんな当たり前のことを実行しようとした瞬間、起こるはずのない思考が生じていた。殺したくないと思ったのだ。
今でも、殺すか殺さないかという点で悩んではいない。為すべきことは常に自明だ。その反面、果たして自分は為すべきを為せるだろうか? と不安を感じている。
もしまたあの時のようなことが起きれば――そんな考えが、カルルの中で恐るべき想像に育っていく。
自分は〝欠陥〟を抱えているのかもしれない。肉体的なものではなく、内面において。
敵を殺す力があっても、刃を振るえなければ、引き金を絞れなければ、それは無力と同義――錆びた銃に、刃こぼれしたナイフ――戦場に打ち捨てられた〝不良品〟も同然だ。……そうでないことを証明せねばならない。己自身の存在意義に懸けて。
床に身を伏せ、建物の一部になったかのように微動だにせぬまま、時だけが過ぎていく。
HUDに、刺客らしき影は映らない。重層砦付近を見張らせている機体のカメラにも、怪しい動きをする者は映らなかった。
と、その時。ヘルメットに内蔵された骨伝導スピーカーが、頭蓋内で警報を鳴らした。サブウインドウの一つがクローズアップされ、そこに映る女の姿がマーカー表示される。|重層砦《チャンカオツァイに向かわせた偵察機ではなく、待機場所付近を見張らせた機体の映像だった。
あの女――カミラだ。
雑然とした路地裏の風景を銀髪の女が歩き、このビルの方角へ向かってくる。
ドローンは光学迷彩を維持したまま、追跡しようとした。常人には姿はおろか、飛翔音さえ捉えられぬはずの偵察機の存在を、しかし女は敏感に察知する。
満面の笑みを湛えたカミラが振り返り、右手の中指を立てた。
何の前触れもなく、サブウインドウがブラックアウトする。カメラが捉えきれぬほどの速度で斬撃が繰り出され、ドローンが破壊されたのだ。
次いで重層砦に飛ばした機体のものを含め、その他のウインドウも立て続けにブラックアウトし出す。カミラとはまた別の敵に撃ち落とされたようだ。
通信をオンにし、情次に敵の存在を報せようとするも、案の定スピーカーはノイズを垂れ流していた。妨害電波によるジャミングだ。敵はこちらの戦力を分断させる気らしい。
尤も、敵が自分達の動きを読むことも、この場所へ刺客を差し向けてくることも、可能性の一つとして想定はしていた。
敵襲に備え、ビルの屋内には何重にも罠を仕掛けてある。戦闘の連続で魔力を消耗し、〈御稜威の王〉の完全開放も未だ不可能だが、地の利を活かせば互角以上に戦えるはずだ。
しかし屋内への階段へ、カルルが踵を返そうとしたその時、
『上ですッ!』
ナルが叫ぶと同時に、どす黒い魔力を頭上に感じた。
銃身を抱えたまま身を投げると同時に、寸刻まで立っていた場所に深々と斬撃の亀裂が刻まれる。
堕群人が使役する眷属を全身に纏い、怪物と化した女が降り立った。四肢のみならず、胸や背中までもが異形化し、獰猛な笑みを浮かべた顔のみが人の面影を留めていた。
屋上までの高さは、重層砦の七階と同じく二十メートル強。通常の堕術使いの跳躍力は二メートル強と言われるが、実にその十倍の高度へと一跳びで到達したらしい。
意表を突かれながらも、すぐさまカルルは迎撃に移った。床を転がって距離を取ると、片膝をついた状態で銃を構えた。
センサーボールが剥き出しの頭部をロックオン。徹甲弾の群れが一点へ向け殺到していくが、敵の反応が一瞬速い。女の顔を蛭が覆うと、驚異的な防御力で弾を弾き返した。
『ンなもん効くかよ』
肉の仮面が笑みを浮かべると、ブレードを展開させていない左腕が蠢いて、その先端に複数の口吻が生じた。
〈キリエ〉を捨てて側方へ逃れた直後、強酸の波が放たれ、異臭を伴う白い煙が辺りに立ち込める。後方へ視線を向けると、ペントハウスがドロドロに液状化し、屋内に繋がる唯一の階段が封鎖されていた。
階段が使えなくなった以上、罠を張り巡らせた屋内へ誘い込むことも出来ない。周囲には飛び移れるような建物もなく、退路も断たれていた。
『昨日の前戯からずっと、ナニが疼いてたまんねぇンだ』
白煙のヴェールから声が聞こえてくる。女の声だけでなく、ブラッキオなる堕群人の嗄れ声がそこに重なり、奇妙に歪んだ響きを伴っていた。
『これは、まさか……!』
ふいにナルが、驚きの声を上げる。
『この者達は肉体だけでなく、魂までもが一体化しています!』
カルルもまた第六感を働かせ、肉塊に宿る霊体を視覚化させた。異形の背中から漆黒のオーラが立ち昇り、視界に収まらないほどの巨体を成している。
それは目や鼻や耳などの顔面の部位から髭の一本に至るまで、全てが触手によって形成された、巨大な老爺の顔面だった。全高は十メートル近い。サイズのギャップもあり、肉の身体の方が操り人形のように見える。しかしナルの驚きは、規格外に巨大なブラッキオの霊体に対してではなかった。
『馬鹿な……人一人の魂がこれほどに強大な霊に呑まれることなく、自我を保ち続けているなんて……!』
見上げる視線は、その額へと向けられていた。そこには陰唇を彷彿とさせる割れ目が口を開け、女の上半身らしきものが生えていたのだ。
『テメェのせいだぜ、ブギーマン。ここまでオレをイカレさせておいて、逃がすなんざ絶対ありえねぇ。なァオイ、分かるか? コイツはなァ、愛の告白ってやつだぜ』
身体の方が口を開くと、巨大な顔面から生えた上半身もまた、犬歯を覗かせて笑む。その様は一体化というよりはむしろ、女の方がブラッキオの意識を支配しているようだった。
真に恐るべきは紫冠級の堕群人ではなく、このカミラという女そのものがこちらの想像を遥かに超えた化け物だった。
ナルに視線を向ける。言葉は不要だった。ここから先は確実に接近戦になる。完全な生身では、瞬きをする間に全身を切り刻まれるだろう。
ナルの魔力が、大気中の瘴気へと放出される。魔力は信号となって瘴気を構成するQuIDDへ指令を下し、遊離的素粒子から生成した黒霧をカルルの右半身に纏わせる。
霧が凝集し、人工筋肉と積層装甲を形作ろうとする寸前、ヴェールの奥から影が消えた。
着地音。すぐ傍に霊力を感じる。右斜め後方。カルルは片脚を軸に身体の向きを変えつつ、右前腕を内側に向け、防御姿勢を取った。
ブレードの振動音が迫ってくる。アルミニウムの半分の重量にして、鋼鉄の二十倍の強度を持つCNT装甲が、その斬撃を受け止めた。
『ん~。相変わらず感度良好だな、ええオイ?』
顔面を覆う蛭が蠢いて、獣の牙が剝き出しになる。
『焦らしプレイはここまでだ。どっちがヤるかヤられるか、白黒はっきりつけるまで――愛し合おうぜぇ……ブギーマンッ!』