第六章 利己主義者共の語らい
1
精緻な彫り細工のロシア製家具が配された部屋に、紫煙が漂っている。
こちらの背後に側近が控えるように、対面に座る男の傍らにも四人の男らが立っていた。
白い靄の向こう――テーブルを挟んだ向かいで、四十絡みの白人が灰皿に葉巻の吸い殻を落としている。
フォーマルなスーツ姿の五十嵐と対照的に、男の服装は半袖のワイシャツ。
日系の混血と聞いているが、その体躯は純血の露助共と見比べても何ら遜色はなく、シャツがはち切れんばかりの胸板や腕に、蛇や狼、鷲といった鳥獣の入れ墨が施されていた。
その一つ一つが〝殺人〟、〝恐喝〟、〝権威〟などの意味を持たされた記号であり、マフィアとしての履歴を示すという。
〝ヴォル・ザ・コーネ〟――〝掟ある盗賊〟。法と秩序に反逆を掲げた無頼漢の末裔にして、ロシアマフィアにおける一家の長たる称号を意味する。
絶大な権力を有する反面、ヴォルには厳格な掟が課せられる。家族を持つことを許されず、本来の名前さえも捨てさせられ、ヴォルとなって以降、その者には元の名に代わる通り名が与えられる。
男の通り名は〝獅子〟。名が示す通りの屈強な肉体に、蒼い瞳と獅子の如き顔貌を持つ、この島に居を構えるチェルノボグの新たなヴォルだ。
先代の病死に伴い二月ほど前に代替わりしたばかりで、これまで実際に顔を合わせたのは、数えるほどでしかない。そのどれもが諸勢力のトップ同士の会談であり、こうして一対一で対面するのは今回が初めてだった。
獅子の視線は互いの間に置かれた携帯端末に注がれ、液晶画面に映る消沈した顔つきの老人が、力ない声で画面外からの質問に答えていた。
『ああ、確かにそうだ。上役のアルゴの手引きで、この男がウチの店に来た』
そう答えた後で、手元の写真をカメラに向かって上げた。創面の男――ピギー・ザ・ハードラバーことクレイグ・ランドールがそこに映る。
『日本語訛りの女も一緒だった。多分、スラヴ系だろう』
画面外の声が、クレイグと女の心当たりについて訊く。
『わ、私は何も知らない。この二人が何者か何も知らされていないし、ましてや売った銃があんなことに使われるとは思いもしなかった! は、は、話せることはもう何もない……お願いだ、信じてくれ! 組織を裏切ってまで、証言してるんだ! もう後がないことは自分でも分かってる! 何もかも洗いざらい吐いたつもりだ! これ以上のことは、アルゴに聞いてくれ! 直接この件に関わったあいつなら、全てを知ってるはずだ!』
動画の終了を見計らい、機先を制すように五十嵐は言った。
「これまでアンタとはあまり話す機会もなかったが、先代とは上手くやっていたつもりだ。今後も友好な関係を続けていきたいと思うし、例の件もそちらの総意ではなく、一人のバカが勝手にやったことだと解釈している。まずはこのアルゴとかいう身の程知らずのガラを寄越し貰いたい。それでそちらへの疑いが完全に晴れれば、そいつの命と引き換えに、この一件は手打ちにするつもりだ」
ネイティブばりに美しいブリティッシュイングリッシュで一息に言い遂せると、上目遣いに相手を睨んだ。
全てが本音という訳ではない。他の軍人崩れ共はともかくピギー・ザ・ハードラバーを雇えるほどの大金が、個人のレベルで用意できるとは到底思えない。悪戸情次も予想していたように、奴らの背後には何らかの大組織が控えていると想定すべきだろう。
あの日の襲撃で、若衆にもかなりの死傷者が出た。生存者の中にも重傷を負い、戦力としての復帰が見込めなくなった者も多い。
奴らが金鹿組を排除したがっているとしたら、強盗に見せかけて組にダメージを与えること自体が目的だったのかもしれない。また国外の闇ルートに通じたロシアマフィアなら、盗品を金に換えられるはずだ。強盗団の黒幕がチェルノボグとすれば、全てに辻褄は合う。
尤も連中がシロであれば、それに越したことはない。
抗争をすれば勝てるという自負はあるが、確実にダメージは負う。こちらの消耗を見計らい、中国の三合会やメキシコのカルテルなどが増長する恐れもある。
ただし、金鹿の代紋はあらゆる利益に優先される。もしもこの疑惑が的中したその時は、奴らには相応の対価を支払って貰う。
クロかシロか、いずれにせよ今の動画を見たことで何らかの反応を見せるはずだ。五十嵐はじっと出方を窺う。しかし獅子は意にも介さぬといった風情で、
「生憎、アルゴの奴は里帰り中だ」
「なら、とっとと呼び戻せ」
「悪いが、向こうで大事な商談中でな」
メンツを軽んじる物言いに、一斉に側近が色めき立ち、罵詈雑言を浴びせようとする。
「テメェらは黙ってろ!」
がなり立てる男達を大物感たっぷりで五十嵐は制した。
簡単に身内を売ったのでは、トップとしての示しがつかない。同じく組織を束ねる者として、向こうの立場も分かる。そう自らに言い聞かせ、努めて理性的であろうとした。
向こうが渋るのは想定の内だ。最終的に要求に応じれば良し。そうでなければクロと見なすのみ。自らのスタンスを再確認すると、葉巻の先端を緋色に灯し、肺に取り込んだ煙を思い切り吐き出した。
「すまねぇな、見ての通りウチの奴らもこの一件にゃ相当頭ンきてる。俺もアンタの立場は重々承知しちゃいるが、このバカ共はキレると見境なしだ。そっちに飛び火する前に穏便に事を収めたいんだが、協力しちゃくれねぇか?」
冷静に、しかしドスを利かせるのを忘れず、恫喝寄りの口調で再度要求を口にした。しかし――、
「テメェ……何嗤ってやがる?」
獅子の顔貌が嘲りに歪んでいた。傍らに立つ男達までもが嘲りの色を露わにしている。
「悪い悪い、あまりにそちらのごっこ遊びが滑稽だったもんでな」
怒りを感じる以前に、相手が何を言い出したのかすぐには把握できず、ただ五十嵐は表情を凍て付かせていた。
「勘違いするな、若造。お前はこちら側の人間じゃない」続けて獅子は言った。「そのように振舞おうとしているだけの、甘ったれのボンボンだ」
その顔が、一瞬あの男に重なり、カッと頭に血が上るのを感じた。
「手を見れば分かる。傷もなければ拳にタコもない、まるで女の手だ。賭けてもいいが、お前はこれまでの人生で命のやり取りをしたことはおろか、殴り合いのケンカさえしたことがない。そうだろう? この席を用意したのも金鹿の代表のためであって、お前のような半端者のためじゃない。対等に交渉したければ、本物を連れてくることだ」
唇が戦慄いた。ありったけの罵声が、喉元に殺到してつっかえている。吸いさしの葉巻を灰皿でにじり潰した。
「そもそも、だ。そこの男……あー、何と言ったか? クレイグ、そうクレイグだ。そいつとその女が、アルゴと繋がっていたという証拠がどこにある?」
「あァ! なめてンのか、この野郎! たった今、そこの老いぼれが自白ったろうが!」
「こんなものが何の根拠になる? そこに映っているのがオレグ本人という証拠もない。今時、特殊撮影やらCGやら、それらしく見せる方法なんぞ幾らでもあるだろうが」
「下らねぇアヤつけやがって! 文句あんなら幾らでも調べてみやが――」
「仮に本人だったとしても、だ」
こちらの言葉を遮るように、歪めた口から大量の煙が吐きかけられる。
「己の意思で喋ってるとは限らん。動画を見る限り随分と怯えた様子だが、言わせられたんじゃないのか? お前らが。ウチに難癖を付けるために」
煙の奥で、全身に獣を宿した獅子が牙を剥いて嗤う。
「それに、証言者がオレグ一人というのはどういう訳だ? 信憑性という点では、そこの老いぼれなんぞよりクレイグとやらに自白わせる方が余程効果的なはずだ。例のブギーマンとかいうのにのされて、今はそちらのシマにいるんだろう?」
奥歯を食いしばり、拳を握り、必死に衝動を殺す。そんな五十嵐を獅子は余裕たっぷりに見下ろし、「うん、どうした?」と白々しい台詞を吐く。
部下の一人が、獅子に耳打ちした。すると片手で額を覆いながら、天井を見上げ、
「そうか! 殺されたんだったな、この男は! 己の縄張りで殺しが起こるのを指を咥えて眺めていたとは、頭が半端者なら、その部下も半端者共の集まりらしい! ああ、男が死んだのなら、女の方を探してみたらどうだ? 何も知らん老いぼれを小突くよりは収穫があるかもしれんぞ? 実在するかは知らんがな」
無言のまま五十嵐は立ち上がった。向かい側に立つ男達の視線が、一斉にこちらへ突き刺さる。背後では血の気の多いバカ共が、怒声を上げている。
「ヤクザに証拠は要らないんだろう? 対立を望むならそれもいい。ただし、やり合うなら半端に終わらせる気はないがな」
周囲が騒然とする中、いやに落ち着き払った声が響く。
「本来戦争とは、一方が滅びるまで徹底的に蹂躙し尽くすものだ。お前や半端者の部下共は勿論、親兄弟や恋人、貴様らの息が掛かった連中も全員だ。この島の全てが炎に包まれようが、灰になろうが、知ったことではない」
ロシアの凍土を思わせる蒼い瞳が、一瞬蒼い炎のように揺らめいた気がした。
獅子は尚も笑みを崩そうとしない。いや、こちらを挑発するためだけの嘲笑とは違い、むしろ心からの――ぞっとするような喜悦の色が、その表情には滲んでいた。
周囲はとうに静まり返り、重い沈黙が立ち込めている。たった今の狂気じみた発言が偽りでないことは、誰の耳にも明らかだった。……奴は戦争を望んでいる。
荒事を生業とする男達が気圧される中、たった一人五十嵐のみが激情をたぎらせていた。
理性と恐怖が訴える。この男を敵に回すな。
プライドと怒りが猛り叫ぶ。こいつは俺を下に見ている。金鹿の代紋を背負うに値しないと、甘ったれのボンボンなどと宣いやがった。この島の王であるこの俺を。
殺せ殺せ殺せ。叫びが大きくなる。手元の灰皿に視線を向けた。互いの距離はそう離れていない。振り下ろせば十分に届く。
今にも消え入りそうな声で理性が忠告する。事を為した後はどうする気だ? 確たる証拠もないままこの男を殺せば、ロシア本国との全面戦争に発展しかねない。この島も確実に焦土と化す。これまでに築き上げた何もかもが無に帰すのを望むというのか?
「どうした。お前はキャンキャン吠えるだけが取り柄の、去勢された犬か? 一端の無法者を気取るなら、牙があるというのなら、そいつをこの首に突き立ててみろ」
首元をこちらに見せながら、獅子が言う。そこに彫られた狼が、耳まで裂けた口を吊り上げたように見えた。
叫んだ。灰皿を右手に取る。硬く冷たい陶器の感触。
獅子とこちらの部下達が、一斉に懐に手を差し込む。
大きな音が鳴った。卓上で粉々に灰皿が砕け、熱を含んだ吸い殻が散る。
「上等だ……見つけ出してやるぜ。あのクソ共に関わった連中は全員、この手で見つけ出してケジメつけさせてやる。いいか、全員だ。そいつが何者であれ、必ずだ。アルゴって奴にも伝えとけ。テメェは神の失敗作だ。今この世に存在していること自体が間違いッてほどの、クソの詰まった肉袋にすぎねぇ。そいつをこのオレが神に代わって思い知らせてやる。せいぜい楽しみにしてろや」
拳銃を向け合ったままの部下達の傍を横切り、踵を返した。喜悦を滲ませた顔が横目に映る。
握りしめた掌から床に血が滴り落ちる。新たに負った傷とともに、ピギーに襲撃されたあの夜に切った傷が開いていた。
悪戸情次からの報告で、豚殺しの正体が〝カミラ〟という女だと判明したのは、その数時間後だった。
2
「随分と濃い一日を送ったようだな、情次。お前も、お前ンとこのカルル君も」
奥のキッチンから、三善の声が響いてくる。
スタッフ専用の休憩室は診察室の裏にあったが、あちらと天井の換気口が繋がっているせいか、薬品臭い空気がこっちにまで流れてくる。
「ああ、まさか捜査を始めたその日に、犯人が直に姿を現すとは思わなかったぜ。スラヴ系の女で、名前は〝カミラ〟。十中八九、豚と一緒にオレグの店に来たって女と同一人物だろう。五十嵐の奴に話したら、何が何でも捕まえろと息を巻いてやがった」
「まあ、露助共と繋がってるらしい女の正体が、テメェの顔に泥を塗った〝豚殺し〟だと分かりゃあな。そういや、例の会談はどうなった?」
声に紛れて冷蔵庫から瓶や缶を取り出し、タンブラーへ氷を入れる音がした。下界のダストボックスに群がる鴉の鳴き声がそこに重なる。
「ご破算だとよ。下手すりゃ抗争かもな」
「穏やかじゃねぇな。しかしお前、随分余裕だな。まるで他人事みてぇな口振りだぜ」
「〝みてぇな〟じゃなく、他人事だ。国やら組織やらの兵隊をやるなんざ、真っ平ごめんだからな。雲行きが怪しくなりゃとっとと逃げるさ。お前もそうしろよ」
「ああ、考えとくよ。俺自身はともかく、嫁と息子まで巻き込む訳にゃいかねぇからな」
片眉を上げ、「意外だな」と情次。「お前が妻子持ちとは思わなかったぜ」
「どんな人間にも、意外な一面ぐらいあるだろうよ。アンタもそうだろ、神父様」
ハッ、と情次は鼻で笑い、「つーか、そろそろ本題に入れよ。わざわざ自分の職場に俺を呼んだのも、世間話に付き合わせるためじゃねぇんだろ」
白衣姿の三善が、ウォッカやジュース缶、タンブラーを載せた盆を片手に現れる。テーブルに盆を置くと、携帯端末をこちらに向けた。
「五年前のことだ。日本人民共和国の稚内市で、男ばかりを狙った連続殺人事件が起きた。国交がないせいでニホンじゃ知名度は低いが、向こうじゃかなり騒がれたようだ」
液晶画面には当時のものらしき新聞が表示されている。北側と南側でも言語は共通しているので、苦も無く読めた。いずれの被害者も〝棒状の物〟を肛門に挿入された上で、身体を内側から溶かされていたらしい。
「似ているだろう、カミラとかいう女のやり口に」
端末を白衣のポケットに戻すと、三善は酒瓶を手に取った。タンブラーにウォッカが注がれ、からからと氷の音が響く。
旧ソ連の占領下時代、日本人民共和国には数多くのロシア兵やその家族が移り住んでいた。しかしソ連崩壊に伴い軍は祖国へ引き上げ、そこで生まれたロシア籍を持たない子供達は残留を余儀なくされた。今も彼らやその子孫は、肌も目の色も違う人々の土地で生活を続け、差別的待遇を受けていると聞く。
例の女が〝日本語訛りのスラヴ系〟と聞いた時、そんな歴史的背景が頭に浮かび、共和国出身者だと当たりをつけていたが、この予想は正しかったらしい。
「二月の間に八人が殺されたが、それ以降急に事件は鳴りを潜めた。これ以上騒ぎが大きくなるのを犯人が恐れたのか、或いは死んだのか――マスコミの憶測はそんなとこだが、俺は全く別の可能性を考えている」
話しながらウォッカにトマトジュースを加える。
「リクルートか?」
端的な情次の指摘を、三善は首肯した。
「ああ、そうだ。一部の軍事国家は、堕術使いの登用に積極的だ。日本人民共和国が裏で似たようなことをしていても、何ら不思議はない」
堕術使いの多くは自らの欲を満たすため平然と他者を殺せる異常者であり、秩序への恭順を前提とする正常な社会においては体制の敵にしかなりえない。
しかし、異常が正常となりうる場――即ち戦場において、何十、何百もの敵兵を屍に変えうるその力と残虐性には、通常の兵士など足元にも及ばぬ価値がある。
「加えて言うなら、共和国にはマフィアを介したロシアとのパイプもある。女のバックがあの国とすれば、奴らとマフィアとの繋がりにも辻褄が合う」
最後にレモン汁を絞り、〝ブラッディ・マリー〟が完成する。そのまま三善はもう一方のタンブラーにも酒瓶を傾けかけたが、
「いや、俺はいい。前にも言ったろ、昼に酒を飲む習慣はねぇってな」
「おっと、そういやそうだったな」
そう言うと、ウォッカを盆に戻してトマトジュースの缶の方を手にした。
「ところで、女の両腕は生身のそれとほぼ同じ外観ながら、並みの堕術使い以上の出力を持った義手だったらしいな」
「ああ。その上、切れ味抜群の超振動ブレードのおまけつきだとよ」
こちらが相槌を打つと、三善はレモン汁を絞ったトマトジュースをこちらに差し出し、
「間違いなくその義手には、最先端以上の技術が使われている。この国でも未だ開発段階で、実用化は数年先と言われるような類だ」
「ハッ、ただでさえクソ強え紫冠級にンなもんを付けて、戦略兵器並みの化け物でもこさえようってのか? 共和国の連中は」
「誇張でも何でもなく、堕術使いとしては最強クラスの化け物だろう。目的の詳細は測りかねるが、ピギーを含め、そんな化け物共を投入するほどの作戦だ。恐らくこの一件のヤバさは、お前の想像以上だろうよ」
珍しく真剣な目をした三善を見つめ返し、グラスを傾けた。濃厚なトマトの味と、柑橘系の香りと酸味が口内に広がる。缶ジュースに何か隠し味があるのか、トマトともレモンとも違うコク深さが味に奥行きを与えていた。
「抗争なんざ目じゃねぇ。最初お前は状況が悪くなったら逃げると言ったが、とうに状況は最悪――〝TARFU〟って奴だ」
「いいや、〝SNAFU〟だ」
情次の返しに感心したように、「よく知ってるな」と三善。
「別に。ガキの頃から親父がよく言ってたからな」
〝TARFU〟は〝|クソ最悪な状況《Things Are Really Fucked Up》〟、〝SNAFU〟は〝|状況はクソだがいつも通り《Situation Normal All Fucked Up》〟を略した、軍隊流のスラングだ。当然世代が違うので、情次自身が入隊した頃にはとうに死語になっていたが。
現状に当てはめるなら、〝TARFU〟はこちらの正体を向こうに知られた時だ。仮にそうなれば事件が終わった後も、どこへ逃げようが奴らは刺客を差し向けてくるだろう。逆に言えば、ブギーマンの謎が保たれる限りその不安はない。
互いに正体を知らず、条件がイーブンであれば、相手が何者であれ負ける気はしない。奴らを倒して事を済ませた後は、ほとぼりが冷めるまでこの島を去ればいい。金鹿組とチェルノボグが抗争を起こそうが、知ったことではない。後は野となれ山となれ、だ。
「これが最後になるにせよ、仕事は仕事。それに、五十嵐からの報酬もいつになくデカいしな。それだけで命を張るにゃ十分な理由だ」
やれやれ、と肩を竦め、「どこまで行っても金、金、金か」と三善。
「ケッ、嫌味を言うために呼んだのかよ」
「感心してんだよ、お前ほどの守銭奴は他に見たことがねぇ。で、お前の命の値段とやらは幾らなんだ?」
「二百万――ピギーが奪おうとした〝絵〟の半値分だ」
三善は口笛を吹いた。
「絵一枚に四百万かよ! 豪気なこった。つーか、そんだけの値がつく名画ってのは、どんな代物なんだ?」
情次は端末を操作し、画像ファイルをタップした。
六人の男らが折れた船のマストに捕まり、嵐の海を漂流する写実的な絵が映る。天には太陽が昇り、自然の猛威に抗おうとする彼らを讃えるかの如く、光を放っている。
「これはまさか……アイヴァゾフスキーの『第九の波濤』か?」
一目見るなり、三善はそう言った。イヴァン・アイヴァゾフスキー――多少美術に関心がある者なら耳にする名だ。
十九世紀ロシアを代表する巨匠であり、風景画、特に海を題材にした作品を好む。
革命の気運が高まっていた一九一七年当時、首都ペテログラード(現ドイツ領サンクトペテルブルク)の美術館に所蔵されていた代表作『第九の波濤』は、民衆による暴動の最中に失われ、以後一〇〇年間に渡り無数の贋作が出回ってきた。
からかい混じりに五十嵐にその点を指摘したら、自慢げに鑑定書を見せられた。曰く、信用できる筋からのお墨付きだそうだ。
「成程……荒れ狂う波の躍動感や、分厚い雲間から覗く太陽の神々しさ、波に照り映える陽光をも捉えた精密な描写力といい、これは確かに本物かもしれんな」
「あー……ご高説のところ水を差すようで申し訳ないが、そいつは贋作だぜ、評論家殿」
こちらがそう指摘すると、驚いた表情で三善は振り返った。
「確かに、完璧と言っていいほどにアイヴァゾフスキーの画風が再現されている。それこそ一級の審美眼を持つ鑑定士の目すら欺くほどにな。だが、こいつからは〝匂い〟がしなかった。歴史ある名画が醸すはずの〝匂い〟がな」
見開いた目を細め、顎に手を添えると、やがて閃いたように、
「そうか、防腐剤か」
「そうだ。経年劣化を防ぐため、古い絵には薬品を用いた管理が必要となる。仮にこれを怠ったまま百数十年も放置すれば、虫食いやカビの繁殖で、原形を留めないほどに劣化していたはずだ。どんなに多く見積もっても、この絵が描かれたのはせいぜい十数年以内――本物だとすれば、まるで勘定が合わない」
当然、五十嵐には告げるつもりのない話だ。結局のところ、物に価値を与えるのは人間の思い込みでしかない。事実がどうあれ、本物と思い込めば当人にとっては本物だ。その方が奴もハッピーでいられるし、自分の懐も潤う。ウィンウィンという奴だ。
氷が溶けて少し水っぽくなったジュースを飲むと、これ以上薄まらないよう溶ける前に氷を噛み砕き、話を戻した。
「問題は、こんな物を黒幕共がつけ狙う理由だ。仮に連中の正体がお前の想像通りとして、どう推測する?」
ブラッディ・マリーに口をつけ、少し間をおいてから三善は言った。
「事件当初から考えていたことだが、仮に本物だろうが、たかだか数百万ドル――国家レベルで考えれば、ほんのはした金だ。これほどの騒ぎを起こしてまで、手に入れようとするほどの価値はない。故に、連中が絵そのものを狙っているとは考えにくい」
「……どういう意味だ? 現に奴らは豚野郎にこの絵を奪わせようと――」
「例えばこんな話がある」反論を遮り、三善は続けた。「先の大戦の末期のことだ。敗戦色濃厚となったドイツにて、ナチス再興の資金として、ヒトラーは腹心の部下に金塊を隠させた。彼らは自らの死後、後世に遺産を託すべく、一枚の絵の中にその隠し場所を記した地図を封入したという」
「まるで使い古されたタブロイドのネタだな。で、何だ? 要はどこぞの権力者なり億万長者なりが、その絵に隠し財産の在り処でも隠したってのか?」
「単なる可能性の話だ。尤も、隠されてるのが金とは限らんが……」
そこで三善は言葉を切った。何か仮説を言おうとして止めた、そんな印象を受ける。
「まあ正確な情報を知りたいなら、連中を捕まえて直に聞くか、或いは――」
「〝入手経路を探れ〟だろ? その口ぶりだと、例の件にも調べがついたようだな」
首肯とともに、三善は端末の画面をこちらに向けた。中国系の男の顔写真の下に、姓名が表示されている。五十嵐から聞き出した、例の絵を売った画商の名だ。
「黄田浩――本名〝黄浩然〟。香港出身の五十六歳男。三十年前にアメリカ国籍を取得して以来、実業家やマフィア、政治家などの間で行われる、絵画の売買を通した賄賂の授受を仲介してきた、所謂小悪党だ。最近メキシコの連中に売った絵が偽物とバレて、雲隠れしてるって話だったが、ウチの情報源の一人がそれらしいのを見掛けたそうだ」
こちらが場所はどこか尋ねる前に、逆に「その前に一ついいか?」と訊かれる。
「改めて訊くが、本当にこの件から手を引く気はないのか? 恐らく連中の正体は共和国お抱えの特殊作戦群だ。しかも奴らの下には、紫冠級の堕術使いまで居やがる。お前らの強さを侮ってる訳じゃない。だが、今度の敵はこれまでと訳が違う。まともにぶつかり合って、生き残れる保証なんざどこにもねぇんだぞ」
「……珍しく絡んでくるじゃねぇか。お前とはもっと割り切った関係のつもりだったがな」
「お前の相棒にデカい借りが出来たもんでな。あの子がカミラから助けたって子供な、あれウチの息子なんだわ」
すっかり薄くなったブラッディ・マリーを飲み干し、三善は続けた。
「お前の言う通り、俺達は単なる仕事仲間だ。だから、これまで余計な詮索もしなかったし、あの子の過去についても触れずにいた。まあ、大体の想像はつくがな。元傭兵というお前さんの経歴からするに、恐らくは戦場で拾った元少年兵。出身はコンゴってとこか」
顔を上げて見返すと、相手は頬笑みを湛えて、
「そう驚いた顔をするなよ。簡単な推理だ。外見的特徴から、出身はアフリカと分かる。それに何度か彼が話すのを聞いたが、あの訛り方はフランス語に特有のものだ。公用語に加え、大まかな地理が分かれば、候補は限られてくる――ただそれだけのことだ。どうした、動揺が表に出ているぞ? まるで幽霊でも見たような顔だな」
「いや……時々だがお前と話していると、昔のダチのことを思い出すもんでな」
「ほう。そいつは是非一度会ってみたいね」
「死んだよ。十年以上も昔の話だ」
飲み干されたグラスの中で、僅かに残った氷塊が、からんと鳴る。窓の外からは、ギャアギャアと鴉の喚き声が響いていた。
いつになく不快な気分だった。こいつは今、互いの関係性を弁えず、こちらの生き方に口を出そうとしている。これ以上不快指数を上げられる前に、黙らせてしまいたい衝動が湧いてくる。情次は隠し持ったナイフに意識を向けた。
「……なあ、情次。何でそんなに金を欲しがる? そいつでお前は何を得るつもりだ? どういうつもりで、地獄で生まれ育った子供を、再び地獄へ突き落すような真似を――」
三善が言葉を途切れさせる。情次は懐から抜いた刃をその喉元に突き付けたまま、
「話を戻せよ、三善。もう一度聞くが、画商はどこにいる?」
殺気立った目をじっと見返し、落ち着き払った声で三善は丁番と番地を告げた。
ナイフを戻すと、気分をリセットするように、温くなったジュースの残りを一息に飲んだ。次いで深く息を吐き、努めて明るい声で言う。
「邪魔したな。それとそのウォッカ抜きのブラッディ・マリー、思ったよかイケたぜ。機会があれば、また飲もうや。そン時は下らねぇ話は抜きでな」
「――〝ブラッドレス・シーザー〟だ」
玄関へ踵を返した情次の足を、呟くような三善の声が止めた。
「トマトの味とレモンの酸味以外に、どこかコク深い味を感じなかったか? 言い忘れたが、ベースに使ったあのトマトジュースは、ハマグリのエキスが入ったクラマトジュースでな。普通のトマトジュースの代わりにクラマトを使ったブラッディ・マリーをそう呼ぶ。読んで字の如く、〝冷酷な王〟という意味だ。知らなかったか?」
硬直した表情筋を無理やり動かし、情次は口許のみの笑みを返した。
「ああ、初耳だな。生憎、俺が好きなのは純物でな。混ぜ物は趣味じゃねぇんだ」
スタッフルームを後にし、螺旋階段を降りつつメッセージと地図をカルルの端末に送る。
黄浩然の潜伏先は旧市街地の北東にある中国人街だ。例の絵を渡したのが何者か、そいつを奴から聞き出す。
敵に動きを読まれている可能性もある。いや……五十嵐邸襲撃時の手並みからして、金鹿組には内通者が居たと考えるべきだ。そいつが自分と五十嵐の会話を盗聴していた場合――正体までは気付かれていないにせよ――こちらの手元に絵があることも、今後自分達が取る行動も想定しているに違いない。
反面、これは好機とも言えた。刺客共を返り討ちにし、捕縛すれば、黒幕の正体を掴む手掛かりになりえる。
敗北の可能性など、露ほども頭になかった。何故ならば、この身体は人ではないから。紫冠級の堕術使いと同等か――或いはそれ以上の化け物と、自らを定義づけていた。
階段を降り切ると、ゴミ集積場に一羽の大鴉が居座っていた。傍に立つ電柱には二、三羽ほどの小物共が止まり、餌を漁る大鴉を恨めしそうな目で見下している。
男の掌ほどもある大きな嘴が、生肉を啄んでいた。よく見るとその肉には毛がついており、その足元に目を落とせば、子猫の亡骸が横たわっていた。
獲物を盗られると思ったのか、鴉が威嚇の声を上げた。全長一メートル半はある翼を広げ、こちらを睨む。深淵を思わせる暗い目に、氷の如く冷え切った男の顔が映っていた。
黒い両翼を羽ばたかせ、影が躍りかかってくる。造作もなく躱しつつ、すれ違い様に軽くナイフを振った。
己が斬られたことにさえ気付かぬ様子で鴉は数メートルほど飛び続けたが、追撃を加えようと旋回したところで、正中線から真っ二つに割れて墜落した。
ガァガァと歓喜の声が降らせ、電柱から小物共が降りてくる。どこに隠れていたのか、何羽もの鴉が声に呼び寄せられ、その死骸はあっという間に同類達に食い尽くされていた。
3
言語、文化、思想、人種、格差――様々な要素によって人々は隔てられ、カテゴライズされ、異なる者に対する潜在的な差別意識や、境遇を同じくする者同士の結束を生む。
アメリカに併合されて以降、ニホン州においても積極的に移民の受け入れが為されてきた反面、日系人に共有される民族意識や他民族への排斥感情から、〝平等〟や〝調和〟といった題目は未だ建前以上の意味を持たずにいる。
メディアで紹介される〝ジャパニーズ・ドリーム〟を実現した者など、ごく一握りに過ぎない。その大半は富裕層の出身であり、一定水準の教養に経済力を身に着けた上でこの州に渡ってくる。異国の地において裸一貫で成り上がった者など、例外中の例外だ。
紛争や弾圧により故郷を追われた亡命者や、家族への仕送りのために働き口を探しに来た貧農出身者――言葉の不自由さや無知に付け込まれ、搾取の対象となる大多数の弱者が、一部の成功者らの陰にいる。
貧しき移民とは、水に垂らされた油のようなものだ。
差別と搾取、それらに対する反発から、土地に馴染めず、或いは馴染もうとせず、同郷の者同士で寄り添い、その文化性が反映されたコミュニティを形成する。
島内にも旧市街を中心に移民によるコミュニティが点在するが、とりわけ中国人街の街並みときたら過日の香港九龍市街さながらの混沌ぶりだった。
地元住人らが引き払った後の廃屋を、そのまま違法増築したかのような建物が一帯を埋め尽くし、漢字表記のネオン看板があちこちで自己存在と占有権をアピールしている。
地上にはカラフルなビニールの庇が連なり、フックで吊られた得体の知れない肉に、偽ブランドの腕時計や靴、真贋の怪しい古美術品など、分野の異なる物品が無秩序に並ぶ。
正規ルートでニホンへ渡る者は、まずこの地区にはいない。住人の大半はビザを持たない不法移民であり、本国の国籍すら持たぬ者も少なからずいる。
法的には存在しないはずの人々に、公共サービスは無縁である。水道もガスもなく、汚物や垢の染みついた体臭がそこら中に立ち込めている。
柱から伸びた電線は途中で幾本にも枝割れして、家屋の壁を伝っていた。電気代を払えない住人が、手製のケーブルを電線に〝接ぎ木〟して、不法に電力を使用しているのだ。枝分かれしたケーブルは色も太さもバラバラで、中には被膜さえされていない、単なる金属線も紛れていた。
そんな混沌の極みにあって、一際強い存在感を示すのが〝重層砦〟だ。
元は五階建てだったショッピングモールにマフィアが住み着き、勢力を増すごとに増築を繰り返した結果、その名が示す通り、上へ上へと幾つもの層が積み重なったような外観の高層建築と化していた。この中に画商――黄浩然が潜んでいるという。
南側の入り口の一つに、タンクトップを着た男が立っていた。
突き出た腹に、肉厚な体躯。髪も眉も剃られ、縦に走った傷が幾条も眉間に刻まれている。如何にも筋者らしい鋭い目でこちらを見下ろすと、
「アンタが、ジョーンズか?」
訛りのある英語で、老紳士に扮した情次の偽名を口にした。頷き返すと、相手はじろじろと無遠慮な視線を向けてくる。
右手に杖、左手にアタッシュケースを携えた老人――一見、裏社会とは無関係な、むしろカモにされるような人種に見えたことだろう。嘲るように鼻を鳴らすと、ついてこいと言わんばかりにこちらに背を向け歩き出した。
何年も前に電力が通わなくなったエスカレーターを上がり、黄が居るという七階を目指す。エスカレーターの横からは、階下の様子が見渡せた。
かつて愛想笑いを浮かべた店員達が日用雑貨を商っていたエリアでは、人相の悪い中国人がそれぞれ店を構えている。
扱われるのは違法改造された銃器や、怪しげな干し草を粉末状にした薬、輸出入を禁じられている南米やアフリカ産の鳥や獣など、表には到底並べられない品々。
外観の印象から、かつて香港にあった九龍城の如く、狭く雑然とした空間を想像していたが、商業施設という前身故か、存外に店の配置は整然として見えた。
誰かとすれ違う度向けられる視線に、部外者への好奇と悪意が感じられた。ガイド無しで訪れれば、この内の何人かはアタッシュケースを狙って絡んできたに違いない。
五階でエスカレーターは途切れ、元は屋上と思しき広間に行き当たる。店の類はなく、バーカウンターに、ダーツの的にビリヤード台、ギャンブル用のスペースなどが設けられ、住人らしき者達が昼間から遊び耽っている。
白黒のマス目模様で覆われた床や、天井から吊り下がったシャンデリアなど、全体的な雰囲気はどことなく、五十嵐が営むカジノに似ていた。尤も、内装や小道具は形ばかりを似せた粗悪品揃いで、本家の足元にも及びそうにない劣化コピーではあったが。
更に上階へは階段が続いていた。六階より上は居住スペースらしく、集合住宅よろしく個室でフロア全体が占められ、下階のような活気はない。
誰にも見られていないことを確認すると、首元の骨伝導マイクを押し当て、外で別行動を取るカルルに呼び掛ける。
「現在フロア6を移動中。直に対象者と接触する。位置の把握が出来次第、そちらも配置に着け」
周囲には聞き取れぬほどの小声を声帯振動としてマイクは感知し、平時と変わらぬ音量で通信先へ伝達する。サングラスのツルに内蔵された骨伝導スピーカーが、相手の応答を音声化するのを待ったが、
「おい……聞こえてないのか? 応答しろ」
「……了解」
「ったく、寝惚けてんのか。いざとなりゃお前が頼りなんだぜ、もっと気ィ入れとけよ」
了解、と判で押したような返事を繰り返すカルル。いつも通りと言えばいつも通りな受け答えに、何故だか違和感を覚える。
自分の知るカルルは人形の如く自意識が希薄で、無駄なことに考えを巡らすようなこともない。だが昨日のカミラとの戦闘後から、どこか普段と違う感じがしていた。心ここにあらずというか、何かに悩んでいるように見えた。
あの女がそれほどの強敵だったということだろうか? 確かに同クラスたる紫冠級との戦闘も、敵を取り逃がすという経験も、これまでにはなかったことだ。奴なりに思うところがあるのかもしれない。
尤もその際の状況は、少々特殊ではあった。聞けば、一般人の少年少女が襲われているところをナルの指示で助けに向かい、その二人を守りながら戦ったのだという。〝二人分の足手まとい〟というハンディ付きで、十分な実力を発揮出来たとは考えにくい。
そう考えて、ふとその内の一人が毎朝ミサに来る百合という少女であることを思い出す。口が利けない少年を憐れみ、気にかけているのか、あの娘がミサの前にカルルと会っているのは情次も知っていた。
……まさかとは思うが、昨日あの場で、二人の間に何かがあったのだろうか?
一瞬浮かんだ考えを、いや、と否定する。半年間この島で過ごし続けたが、あのガキに変化はなかった。初めて会った頃と変わらず奴の心は、人間未満の人形ままだ。それが今更何かのきっかけで、他者に関心を持ち、心を揺らされるなど、ありえるはずもない。そもそも、あの娘がブギーマンの正体に気付くはずがないのだ。
素顔は仮面で隠れている上、日頃から口が利けない演技を続けているので声バレの心配もない。念のため、変声機で声質も変えさせてある。その正体が少年だという考えにさえ至らないだろう。カルル自身、正体は隠し通せたと言っていた。
戦うためだけに地獄のような土地で生を受けたガキだ。今何を考えているかは知らないが、いざ戦闘となれば、余計な思考も頭の隅に追いやられるはずだ。
頭によぎった一抹の不安を、情次は杞憂として切り捨てた。
七階へ続く階段の踊り場で、ふいに視線を感じる。
見上げると、ネグリジェを着た女が気怠げにタバコをふかしていた。
決して若くはない。腹に脂肪の年輪を刻み、人生に疲れた顔をしている。下着は着けておらず、干しブドウのように萎びた乳首が透けて見えた。
女の脇には十二、三歳の少女が床に尻をつき、無心で携帯端末を弄っている。この女の娘だろうか? その割に彫りの深い顔立ちで、肌や瞳の色も違う。学校にも通えず、外にもろくに遊び場がないため、日がな一日こうして時間を潰しているのだろう。
すれ違い様、女が誘うような目で見てくる。無視して通り過ぎようとすると、
「ちょとマて、そこのシャチョさん!」
などと声を張り、指を二本立てつつ女は黄ばんだ歯を覗かせた。
「これでどう? イチジカンサービスするヨ」
「二ドルでか?」
「ノンノン、二百ヨ」
「そりゃボリすぎだ。アンタの歳じゃ、せいぜい二十が限度だろうよ。他を当たってくれ」
一瞬真顔になったが、女はすぐまた笑みを張り付け、
「ノンノン。サービスする、ワタシとチガうネ」
言いながら女は、床に座る少女を見遣った。自分達の会話が分かっているのかいないのか、少女は表情のない目で端末の画面を見続けている。
どうやらこの女も、自分と同類らしい。つまりは子供を食い物にするようなクズだ。
「……ナンだ、オマエ?」
急に笑みを収めると、吊り上がった目付きで女が詰め寄ってくる。
「そんな目でワタシ見て、ナニか言いたいことあるか! ケンカ売ってるかオマエ!」
こちらの内心が、マスクの表情に出ていたらしい。すっかり頭に来た様子で、女は母国の言葉を喚き散らした。
ガイドの男が割って入り、同じ言語で応対すると、やっと静かになった。一通り事情を説明したのだろう。肩で息をしながら再度こちらを見遣り、「オマエ、ガカ先生に用あるか」と女は言った。黄の仕事は画商のはずだが、この場所では素性を隠して生活しているのだろう。こちらが頷き返せば、嘲るように向こうは言った。
「あの先生、ウチのジョウレンだヨ。ついでにクスリもよく買う。サイキンはもうずっとユメの中いるネ」
こめかみに人差し指を当て、くるくる回す仕草をすると、女は高笑いを上げた。その足元では相変わらず無表情に、少女が端末との睨み合いを続けていた。
階段を上がり切ると、雑然と部屋がひしめく迷宮が待ち構えていた。増築されたフロアだからか各部屋の面積もまばらで、突き出たドアに合わせて、隣の部屋との間の壁が斜めになった部屋なども見かけた。
南東の端にある〝七〇二號〟と表札されたドアの前で、男は立ち止った。ここに黄が居るという。男がドアを叩こうとした時、部屋の奥から叫ぶような声が聞こえてきた。
中国語……いや、広東語だろうか? 何を言っているかはよく分からない。ただ捲し立てるような早口と震えた声色からは、警戒と怯えの感情が窺えた。メキシコ人とトラブルがあったと聞いているが、そいつらと勘違いしているのかもしれない。強面ガイドも顔に似合わぬ穏やかな声で宥めようとするが、向こうの興奮は収まりそうにない。
ドア越しに、撃鉄が上がるノッチ音が聞こえた。どうやらこちらに銃口を向けているらしい。情次は声の響き方から大まかな相手の位置を割り出し、相手が引き金を絞る前に先手を打てるよう瞬時にシミュレーションした。
と、その時、ガイドの男が三善の名を出した。すると急に黄の声から勢いが失せ、バツが悪そうな弱々しい響きに変わる。
「入っていいそうだ」と男はこちらへ顎をしゃくるが、両手が塞がった相手のためにドアを開けてやるという発想はないらしく、仕方なく情次は杖を持つ右手でドアノブを捻った。
「やぁ……あんたが、ジョーンズさんかい?」
しゃがれた老人の声が、英語でも広東語でもなく、訛りのない日本語で挨拶をした。
七〇二号室は比較的広い造りなようで、どこから水を引いてきているのか備え付けのシャワー室やトイレ、エアコンまで完備されていた。ただし窓はカーテンが閉め切られ、室内の空気は淀み切っている。
窓のある壁際には体臭の染みついたベッド、左右の壁には様々な画風の絵画が飾られ、壁の右側には木製の机が置かれている。
卓上にはアルコールランプ一式と、アルミ箔に載せられた白い粉末。お楽しみ中だったのか、粉末からは煙が立ち昇っていた。
座椅子に座った小柄な老人が、枯れ枝のような手を伸ばしてくる。握手に応じつつ、情次は相手を観察した。
年齢は五十六だそうだが、色艶のない肌には大小幾つもの皺が刻まれ、髪は混じり気のない総白髪と、一回り以上は老けて見える。
エアコンのおかげで部屋は十分涼しく、男自身も薄着だったが、首筋にじっとり汗を滲ませていた。はだけたアロハシャツからは肋の浮いた胴が覗いている。銃を後ろに隠しているのか、背中側が不自然に出っ張っているように見えた。
病的なまでに男は痩せ細っていた。削ぎ落したように頬はこけ、落ち窪んだ眼窩の下には隈が滲み、黄ばんだ眼球は焦点が合っていない。踊り場の女が言った通り、廃人一歩手前といったところか。
「先生の紹介で来たんだってね。何でも、以前売った絵のことで訊きたいことがあるとか」
骸骨めいた顔が、歯を剥いて笑う。前歯の歯茎がやせ細り、歯根が露出していた。
「人が尋ねてきても会う気はなかったんだがね。あの先生の紹介なら別だよ。で、いつの時代の誰の絵だい? そこのアタッシュケースに入ってるんだろ?」
ヤクをキメてハイになっているのか、黄はやけに声を弾ませていた。外の人間を警戒しつつも、心の底では他者との交流に飢えていたのかもしれない。
ジャンキーと聞いた時はもっと酷い状態を想像していたが、会話が成立する程度の理性は残っているらしい。こちらでの暮らしが長いためか、画商という商売柄か、日本語も堪能なようだ。何にせよ、話が早いのは助かる。早速情次はケースから絵を取り出した。
途端に、黄の目付きが変わった。どこに向けられてるかも曖昧だった視線を、まんじりともせず絵に注いだまま押し黙り――
急に土くれ色だった顔に赤みが差したかと思うと、黄は額縁に収まった絵を抱き竦め、背を震わせながら嗚咽を漏らした。まるで生き別れになった我が子と再会を果たしたような、想定外の反応に呆気に取られていると、
「ありがとう……ありがとう……!」
と何やら礼まで言い出す始末。訳が分からず、しかし何となく引き離すことに抵抗を感じ、ただ情次は立ち尽くしていた。
「この命がある間に、もうひと目だけでも〝彼女〟に会いたいと思っていました! まさか……まさか、この願いが叶う日が来るなんて……!」
「あー……悪いが、今日俺がここに来たのは、コイツをアンタに引き合わせるためじゃない。その〝彼女〟とやらのことで、ちょっと尋ねたい件があってな」
4
「今となっちゃ見る影もないでしょうが、こう見えて昔はこの島イチの目利きと呼ばれてましてね」
キッチンの奥から、湯飲みを載せた盆とともに黄が顔を出す。大分落ち着きを取り戻したようだが、まだ少し目が赤かった。
かなり筋力が弱まっているのか、今にも盆を落としてしまいそうなほど両腕を震わせている。
辛うじて壁際の机に盆を置くと、大儀そうに息をついて椅子に座り、対面の椅子に座る情次へ湯呑みを手渡した。
器の中を見て、情次は閉口した。湯呑みに入っていたのは茶ではなく、白湯だったのだ。
「歓楽街の一等場所に自分の店を構えて、政治家先生やヤクザの親分方からも頼りにされるほどでした。扱う絵も十万ドル以上の値がつくものばかりでしたし、自慢じゃないですが、偽物を掴まされたことなんざ一度もありませんね」
愛しの〝彼女〟が贋作とは考えも及ばぬ様子で過去の栄光を感傷たっぷりに語ると、黄は湯飲みに口を付け渋い顔をした。
最初情次は、年寄り特有の長話になるかと危惧したが、
「資産家の娘でしたよ」
何の前置きもない台詞を、「は?」と訊き返すと、
「ええ。ですから、この絵のことを訊きにきたんじゃないんですか? ちょうど十一年前の今頃でしたよ。十五か六の娘が、死んだ父親の遺品としてこの絵を持ってきたんです」
いきなり本題に言い及ぶ気らしい。椅子の肘掛けに湯呑みを置くと、情次はさり気なくズボンのポケットに手を差し込み、端末の録音アプリを起動させた。ここでの会話が、今後何かのヒントになると見越してのことだ。
「一言で言うと、絵に描いたような〝お嬢様〟でしたね」
こちらに倣うように白湯入りの湯呑みを脇に置き、黄は続けた。
「一流の物を身に着け、言葉遣いもちゃんとしていた。店には後見人を名乗る女も一緒に来ていましたが、その娘は大人に頼ることなく、交渉も自ら行おうとした。堂に入った態度で、親子ほどの年齢差があるはずの私とも対等に渡り合おうとしたほどです」
〝資産家の娘〟という予想外のワードに面食らいつつ、また別の点でも違和感を覚える。すると向こうも、こちらの感想を代弁するように、
「まるで非の打ち所がなかった。あまりにも完璧すぎて、だからこそ嘘臭かった。私が知ってる金持ちの子供ってのは、そんなもんじゃない。甘やかされて育つから、困ったことがあると他人に頼る癖がついて、主体性を持たない。分かり易く高級品で身を固めたりもしないし、一見すればそこらのガキと特に見分けもつかない。ああ、ヤクザのボンボンなんかは別ですがね。連中は見栄張ってナンボですから。多少偏見も混じってるでしょうが、まあ現実はそんなもんです。一般人が想像する〝お嬢様〟なんて、フィクションの産物に過ぎません」
話の途中、「にしても、暑ぃな」と独り言ち、黄はエアコンの温度を下げた。機械の音声が、『温度が十九度に設定されました』と告げる。
「たまにいるんですよ。見た目が実際以上に若く見える、手練れの詐欺師ってのが。それに『第九の波濤』自体、贋作の多さで有名ですから。尤も実物を見た瞬間、そんな疑念も一気に吹き飛びましたがね」
言いながらその視線が、こちらの足元に置かれたアタッシュケースに向けられる。
「時にジョーンズさん、『第九の波濤』という題名の意味はご存知ですか?」
「ああ。確か波の運動にはパターンがあって、一定間隔で来る大波の内、九番目に来るのが一番デカいって言い伝えだったかな?」
「ええ……まあ、確かに。表層的な知識にすぎませんが、間違ってはいません。うん、一般人の理解などその程度のものでしょうな」
自覚があるのかないのか、露骨に見下した言い方をしてから、当時を振り返るように黄は宙に視線を彷徨わせた。心なしかその顔は、どこか恍惚としているように見えた。
「だがあの娘は、正しく作品の本質を理解していた。ケースから取り出した絵を見せながら、彼女が口にした言葉は今でも思い出せます。〝『第九の波濤』とは、即ち神がもたらす大いなる試練であり、波に抗おうとする人々はそれを乗り越えんとする、強靭な精神力の象徴なのです。そして嵐の海を照らす太陽は、彼らがこの試練に打ち勝ち、天の祝福を受けることを暗示している〟と。その一瞬、私は彼女の青い瞳の奥に、何かに挑まんとする意思の光を垣間見たような――〝資産家の娘〟という表層的な記号の奥に、本当の彼女を見たような気がしました。おや……どうかしましたか? ジョーンズさん」
「今、瞳が青いと言ったが……その娘は、日系人じゃないのか?」
「ええ、白人でした。と言っても、こちらでの暮らしは長いようで、流暢な日本語で話していましたがね。金髪で、碧眼で、くっきり整った人形みたいな目鼻立ちで、ちょっと見ないぐらいの美少女でしたよ」
十一年前、絵とともに島を訪れた金髪碧眼の少女。〝大いなる試練〟と〝人の勝利〟――それら一連のワードが結びつき、古い記憶を呼び起こそうとしていた。
「名前は……その娘が、何と名乗ったか覚えているか?」
黄は首を振ると、淀むことなく答えた。
「はい、〝セーラ〟という名です」
〝セーラ〟――恐らくは偽名だろう。しかし、自分が知るあの娘の名に、響きが似ている。その上、外見的特徴もこの島を訪れた年代も、全てにおいて一致している。だとすれば、この絵は一体――
「ところでジョーンズさん、物は相談ですが、その絵を売ってはいただけないでしょうか?」
突如の提案に、思索が途切れる。
「何だって?」
「大変不躾な申し出と承知しつつ、お願いします」
椅子から腰を浮かせるや、黄はその場に跪き、
「もしお売りいただけるなら、今ある全ての財産をお渡ししても構いません」
何の説明もしなかったせいで、こちらが絵の持ち主と誤解しているようだ。今更事実を明かすのも面倒なので、とりあえず話を合わせておく。
「大昔ならともかく、今のアンタが大金なんぞ持ってるようには見えんがね」
「三十万あります。もし足りなければ……ここにある全ての絵を譲ってもいい! どれも鑑定書付きの本物です! 換金すれば、百万ドルは下らないはずだ!」
「アンタも知っているだろうが、この絵の価値はそんなもんじゃない。最低でもその三倍以上の額でなければ、交渉の余地はない」
「贋作ですよ」
顔を上げぬまま、そう言い放った。こちらの驚きを見透かしているのか、声に喜色が滲んでいるように聞こえる。
「その絵は、アイヴァゾフスキーのものじゃない。途轍もない完成度で画風は再現されていましたがね。十人中十人の鑑定士が本物と見間違うだろう精巧さです。だが私は、最初からこの絵が氏の作品でないことを見抜いていた」
やせ細った歯肉を剥き出しにして、にたりと骸骨面が顔を上げた。
「おや? 動揺が顔に出てますよ。今初めて贋作と知って、ショックを受けたんですか? それとも、贋作と知りつつ私がこの絵を買ったことに驚いているんですか?」
後者の指摘は当たっていた。付け加えるなら、全財産を擲ってまで、それを取り戻そうとする理由も分からない。
「実はね、彼女の目的は金じゃなかったんです。こっちは勝手に、〝父を亡くした令嬢が、生活苦を理由にその遺品を売ろうとした〟なんて思い込んでいましたが、実際には食うには困らぬほどの財産は残っていたそうです。この絵も高値で売る気はなく、こちらが望むのなら無償で譲ってもいいとさえ言いました」
床に跪くのが辛くなったのか、前屈みになりながら黄は椅子に座り直した。
「有難い申し出でした。真贋はともあれ、非常にその完成度は高く、一つの作品として魅力を感じていましたから。ああ、当然多少の額は払いましたよ。タダで譲って貰うようじゃ、こっちの沽券にも関わりますからね。とはいえ、何故そうまでして今日会ったばかりの他人にこの絵を渡したがるのか、当然私も気になりました。訳を尋ねると、彼女はこう答えました。〝人と同じく、命を持たぬ物にも辿るべき運命が存在します。そしてこの絵は、自分の手を離れるべき運命にあるのです〟と」
台詞単体を抜き取れば、自称霊能力者の戯言のような陳腐な印象しかない。だが仮にその娘が自分の想像する人物であるならば、また違った意味合いを見出しうる。
恐らく娘は、全てを予知していたはずだ。この絵が五十嵐の手に渡ることも。絵を狙う勢力の出現も。ひょっとしたら、自分達がこの騒動に巻き込まれることさえ――
「謎めいた言葉の真意は今も分かりません。そしてこの絵の本当の出所も謎のままです。興信所を頼って彼女の身許を探らせようともしましたが、私に名乗った姓名も全てデタラメで、居場所はおろか、その正体さえ掴めなかった。結局、最初に私が抱いた直感もあながち間違っていなかったのかもしれません。彼女は資産家の娘などではなかったし、この絵も贋作にすぎなかったんですから。ですがね、そんなことはもうどうでも良かった」
ふと思い出したように、くふ、くふふ、と気味の悪い忍び笑いが漏れた。
「〝一目惚れ〟とでも言うんですかねぇ。あの娘が『第九の波濤』について語った時の目を見た瞬間、私はどうしようもなく彼女に惹かれていた。あの澄んだ瞳の奥に秘めた、意思の光に。思えばあの時語った言葉も、作品の解釈ではなく、彼女自身の思いだったのかもしれない。そんな風に考えながら毎日絵を眺める内、私はある可能性に思い至りました。この贋作の作者は彼女自身ではないかとね。
アイヴァゾフスキーの画風に似せながら、彼女は自らの思いの丈をキャンバスに描き出そうとした。押し寄せる波濤、波に抗おうとする人々、天に昇る太陽――それら全てが、彼女の受難や抗い、希望を象徴している――
そんな想像を巡らせていると、この絵を通じて彼女の魂に触れているように……いや、絵そのものが彼女の分身であると感じるようになりました」
「随分とご執心のようだが……そんなに大切な絵なら、何故手放した?」
「……へへ。情けない話ですが、五年ほど前に大口の取引きで失敗しましてね。それで借金塗れになっちまったんです。そんな折、店に若い男が来ました。五十嵐清純――この島に新たに建設された、カジノの支配人でした。熱心な美術品のコレクターだそうで、評判を聞きつけて立ち寄ったとのことです。男は甚くこの絵を気に入ったようで、提示した額もかなりのものだった。それこそ借金を完済した上で、十分な釣りが来るほどに」
既に黄はこちらを見てはいなかった。ここではないどこかを見るように、曖昧な眼差しを何もない空間に向けていた。
「ご存知の通り、この絵の完成度はオリジナルに迫るほどです。こちらが何も言わなければ、贋作とバレる不安もない。ですが、私は悩みました。真贋など関係なく〝彼女〟を愛していたからです。悩みに悩んだ末、結局私は〝彼女〟を手放し――すぐにこの決断を悔いました。自分が思う以上に〝彼女〟の存在は大きなっていて、あの男に連れ去られた後、この胸にはぽっかりと大きな穴が空いたようでした。感性が死んでしまったかのように、どんな名画を見ても心が動くことはなくなり、審美眼も曇り始め、画商としての名声も地に落ちてしまった」
一瞬、自嘲の色を滲ませたかと思うと、再び視線をこちらに向け、
「世間的な基準からすれば、この絵の本当の価値は数万ドルにすら及ばないでしょう。他人がこの絵に価値を見出すのは〝アイヴァゾフスキーの作品〟という記号に対してであって、絵そのものに対してではない。贋作と知って尚〝彼女〟を愛せるのは、この世界で私一人だけだ。もしあなたが金銭的感覚でしか絵の価値を測れないのなら、さっき私がした提案を呑むことをお勧めしますよ」
こちらの返答は分かりきっているという風情で、黄は挑発的な笑みを浮かべた。そろそろネタばらしが必要なようだ。
「あー……そういえばまだ言ってなかったな。実は俺は単なる代理人でね。この絵をどうこうする権限はない。所有者である五十嵐清純以外にはな」
五十嵐の名を出した途端、赤みが差していた顔色が再び土くれ色に戻る。まあ、当然の反応だろう。たった今自らの口で、過去に贋作を売りつけたことを告白したのだから。
「そんな顔をするなよ。心配しなくても、贋作の件は黙っておいてやる。そっちも一瞬とはいえ、愛しの〝彼女〟に再会出来たんだ。いい思い出になったろう」
黄は席を立つと、立ち去ろうとする情次に追いすがるように手を伸ばした。ガタリと椅子が揺れ、肘掛けに載っていた湯呑みが落ちて砕ける。
「あ……ま、待ってくれ! か、〝彼女〟を……また私の元から連れ去るつもりか!」
「人聞きが悪いな。最初に手放したのはアンタ自身だろう。まあ、人生なんてそんなもんだ。よく言うだろ? 大切な物は失って初めてその価値に気付くってな。そして一度失くしたものを取り戻すには、大きな対価が必要になる。今のアンタには、それを支払えるだけの力がない――ただそれだけのことだ」
眩暈がしたように二、三歩後退り、力が抜けたように黄は椅子に戻った。
「色々と聞かせて貰ってありがとうよ。少ないが、コイツはその礼だ。今回のことは、夢か何かと思って忘れることだな」
テーブルの上に謝礼を置き、出口に向かおうとした際も、爪を噛んだ黄がこちらを睨んでいた。背中越しに、う~、うぅ~、という恨みがましい唸りを受けながら、がちりという金属音を――銃の撃鉄が上がる音を聞いた。
想定の範囲内とはいえまるで後先を考えない行動に、ため息が漏れてくる。
「……おい、どういうつもりだ? 俺は五十嵐の遣いだと言ったはずだ。その俺に銃を向けることがどんな意味を持つかも分からないのか?」
「知ったことか! おれはなァ……もうとっくに死んでんだよ!」
痩せ細った身体のどこからそんな声量が出るのか、部屋中に叫びが反響していた。
「絵を奪われたあの日からずっと、心は死んでんのにゾンビみてぇに身体だけが生き延びてよォ……! 毎日ヤク吸って、オンナ買って、テメェを誤魔化しながら惰性みてぇにダラダラダラダラ生き延びて、頭ン中にあんのは後悔と絶望だけだ! そういう気持ちが、テメェに分かんのかよッ! それが今、五年ぶりにあの絵にまた会えて、一瞬生き返った気がしたんだ……。ちゃんと生きて死ねるなら、それだけで十分だ。コイツを抱いたまま逝けるなら、明日死のうが、いいや……今この場で死んだって構わねぇ!」
嗚咽混じりに、途切れ途切れに、枯れ木のような男が人生の悲哀を謳い上げる。
その言葉に共感出来る要素は殆どない。一目会っただけの親子ほど歳の離れた娘に恋焦がれる気持ちも、その娘が描いた絵にこれほどの執着を抱く感覚も、自分には理解出来ぬものだ。ただ、たった一つ分かることがある。
愛する存在を失ったこと――それも自らの意思で手放したことが、この男にとっての〝心の空白〟なのだろう。そして空白を抱いた者は、何を犠牲にしようともそれを埋めようとする。自分自身がそうであるように。
情次は杖の柄の側面にある認証キーを親指で押した。瞬間、〝鞘〟が縦に割れて内蔵されていた刀身が現れる。
視線を向けるまでもなく、相手が発する声で正確な位置は掴める。
銃身のみを切断するように、柄の握り方と振り抜く角度を調整しつつ、前を向いたまま後方へ刃を薙ぎ払う。倒れた鞘が床で音を立て、引き金が空回る音がした。
「おい、その銃壊れてるぞ」
振り向き様にそう指摘してやると、人差し指を動かすのを止め、黄は手元に視線を落とした。その直後、表面張力によりくっついていた切断面が外れ、斜めに断たれた銃身がその足下に転がった。黄は腰を抜かすとその場にへたり込み、
「何のために……コイツをまた俺のとこへ持ってきたんだ。悪趣味じゃねぇか……希望をちらつかせておいて、また奪うなんてよ……あんまりじゃねぇか……」
床で砕けた湯呑みの破片を睨んだまま、世の理不尽を呪うように、ただ無意味な呟きのみを繰り返していた。
何も言わず今度こそ部屋を去ろうとした時、視界の下方に不自然なものを見た。
湯呑みから零れた水が靴裏の形にへこんでいたのだ。見えざる足に踏みつけられているかのように、自分達以外誰も居ないはずの空間に、透明人間が立っているかのように。
〝透明人間〟というワードが頭をよぎった直後、情次は思い出した――〝豚殺し〟や〝ロシアマフィア〟、〝贋作の絵〟といった要素に隠れて、今の今まで意識の外に追いやられていた重要な事柄があったことに。
カルルによって捕縛された強盗団のメンバーは、主犯のピギーを含め全部で四人――しかし連中の証言によれば、メンバーはもう一人居たはずだという。
たった今まで何者の気配も感じられなかった空間が蜃気楼の如く歪み、逆手にナイフを持った透明な右腕の輪郭が露わになる。
こいつが〝五人目〟――カルルさえも見逃した、強盗団最後の一人だ。
そう悟った直後、首筋へとナイフが走り、脊柱から下の神経伝達が寸断される音を情次は聞いた。