第五章 初恋
1
夏休みに入って一週間が経ったある朝、その少年はちょっとした不注意から、養父から借りた本にジュースを零してしまった。
日頃から本を読む時は飲み食いするなと注意されていた上、その本はキリスト教徒である養父にとって大切な品――つまりは、聖書だった。
本当の親子なら、思いきり叱られはしても、最後には許してもらえるだろう。けど彼は篤志家の養父母が孤児院から引き取った子供で、血の繋がりはなかった。ふとしたきっかけで決定的な溝が生まれて、愛情が消えてしまう不安は、いつも心のどこかにあった。
平日なので、共働きの両親は家におらず、この一件を知るのは少年一人だった。だから彼は養父母が留守の間にこの出来事を隠すことにした。どこかで新品を買って、何食わぬ顔で渡そうと考えたのだ。
幸い近所の本屋に聖書は並んでいたが、思っていたよりずっと高価で、少ない蓄えでは買えそうになかった。彼は悩んだ末、同じ孤児院出身で、今はパン屋で働いている双見百合という少女を頼ることにした。
「いらっしゃい、結弦君。ユリちゃんに会いに来たのかい?」
玄関を潜ると、人の好さそうな顔をした店主の松代が出迎え、階段へ通してくれた。
その少年――常陸結弦より、双見百合は五つ年上で、孤児院に居た頃は姉のような存在だった。あれからお互い施設を出て、別々の場所で暮らすようにはなったけど、今でも時々暇を見ては会いに行っていた。
「ウチで働くようになって二年も経つけど、本当にまじめな子だよ」
コップに注いだジュースとベーグルサンドをトレイで運び、松代が先を歩く。
「今日は定休日なんだけど、働かない日はずっと勉強しててさ。真面目が過ぎて、少し心配になるぐらいだよ。たまには他の子みたいに、もっと羽を伸ばしてほしいと思うんだけどね」
松代から百合の暮らしぶりを聞かされながら、結弦は後ろめたさを感じていた。
百合が孤児院を出て十三歳で働くようになったのは、施設の負担を減らすためだった。
大人を頼らず自分の力で金を稼ぎ、僅かな空き時間も中卒資格取得のため在宅学習に充てている。そんな百合から金を都合して貰うことに、今更ながら気が引けてきたのだ。
やっぱり帰ります、と松代に言おうか迷う内に階段を上り終えて、部屋の前に着いていた。
ノックしてから、「入るよ」と松代が〝YURI〟と名札の下がったドアを開く。
電気代節約のためか室内は照明が消されている上、隣家の壁に面しており、窓を開けていても薄暗い。部屋の隅に浮かぶぼうっとした光に視線を向けると、旧式のデスクトップパソコンに向き合った百合が机に座っていた。
「どうしたんですか……松代さん? あっ、ユヅルじゃない!」
マウスを操作しながら、百合がこちらを振り返る。
あれ? とユヅルは思った。背中に隠れてちゃんと見えなかったが、彼女がマウスをクリックする直前、何か風景画のような画像が見えた気がしたのだ。
松代の方は特に気付いた様子もなく、トレイを床に置くと、
「ああ、ユリちゃんを訪ねてきたんだよ。ところで、電気を点けてもいいかい?」
百合が頷き返し、ドア横のスイッチが押される。
明るくなった部屋の様子は施設に居た頃からそう変わらず、殆ど私物が置かれていない。デスクトップパソコンの置かれた机に、パン作りに関する本が数冊ほど並んだ本棚。あとはベッドにウサギのぬいぐるみが置かれているぐらいだ。
もう一度、ちらりとパソコンのディスプレイを盗み見る。そこには書きかけのスペイン語のレポート映っていた。……さっき見たものは、気のせいだったのだろうか?
「じゃあ僕はそろそろ行くけど、ゆっくりしていってね、ユヅル君」
自分達の邪魔をしたくないという気遣いからか、それだけ言うと、すぐ松代は部屋を出た。
「あのおじさん、いい人みたいだね」
「うん、とても優しい人だよ。ユヅルはどう? お父さんやお母さんとは上手く行ってる?」
「うん……いい人たちだよ。本土の学校にも通わせてもらってるし」
「そう、幸せなんだね」
自分のことのように、百合は嬉しそうな顔をする。昔からこの姉のような少女は、ずっとそうだった。何か困ったことがあっても、ユリ姉ちゃんなら力になってくれる――そんな打算めいた気持ちでここに来たことを自覚して、結弦の中でまた後ろめたさが湧いてくる。
やっぱり何も言わずに帰ろう。結弦がそう思い始めた時、百合は言った。
「何か悩みがあるの?」
驚いて顔を上げる結弦に、「顔を見たら分かるよ」と百合。
「離れ離れになっても、家族だから。言葉がなくても、気持ちは分かるよ。ここへ来たのも、何かわたしに相談したいことがあったんじゃない? ほら、何でも言って。結弦が浮かない顔をしてたら、わたしまで浮かない気持ちになっちゃう」
そうして結弦は、結局促されるままに気持ちを吐いていた。
自分の不注意で聖書を汚したこと、それが原因で親との関係にひびが入るかもしれない不安、別の聖書を買って、彼らを騙そうという浅ましい考えも。
「ダメだよ、ユヅル」最後まで聞き終え、百合はそう答えた。「もしお父さんたちがそのことを知ったら、聖書がダメになったことよりも、ユヅルが二人に嘘をついたことを悲しむよ」
「そんなの、おれだって分かってるよ。でもおれは、本当の子供じゃないから……」
「血の繋がりなんてなくても、わたしは孤児院の皆を家族だって思うよ」
「だ、だけど……」
結弦が反論しかけると、それにね、と百合は続けた。
「ここで働くようになって分かったけど、生きていくのって、それだけでとても大変なことなんだよ。自分一人でも大変なのに、子供を守って育てるなんて、本当にすごい覚悟だって思う。それでもその人たちがユヅルを引き取ったのは、家族になりたいって思ったからだよ。どんなに大変でも、何十年だってずっと一緒に生きたいって思ったからだよ」
百合の言葉を聞き終えた時、本当の自分の気持ちに結弦は気付いた気がした。
あの百合が両親を騙そうという考えに賛同しないことは、結弦自身も分かっていた。
それでもここへ来たのは、きっと言葉がほしかったからだ。本当の親子じゃなくてもこの繋がりが本物だと誰かが言ってくれたら、父と母に正面から向き合えると思ったからだ。
不安が和らいだ途端に腹の虫が鳴って、百合にベーグルを勧められる。ブルーベリージャムがサンドされたベーグルを一口齧ると甘酸っぱい味が広がって、何故か急に泣けてきた。
「どう、おいしい? そのベーグル、わたしも一緒に作ったんだよ」
ティッシュを渡しながら、えっへん、と百合が胸を張る。目元を拭いながら、結弦は笑った。そうしてトレイが空になると、よし! と思いついたように百合は言った。
「それじゃあ、聖書を買いに行こうか」
「え……でも、さっきは……――」
戸惑う結弦に、「〝それはそれ、これはこれ〟だよ」と百合。
「ダメにしちゃった聖書の代わりになるかは分からないけど、ユヅルが自分で選んで買った物なら、きっとお父さんたちも喜んでくれるよ。大丈夫、お金が足りなかったらわたしも出してあげるから」
思わぬ申し出に、結弦は躊躇った。これじゃあ、初めに考えていたのと同じ展開だ。百合に申し訳ないという気持ちがあったから、思い直して帰ろうとしたのに、結局迷惑をかけてしまってる。そう結弦が口にすると、こら! と百合は眉根を寄せた。
「まだ小さいのに、そんなことを気にしなくていいの。貸し借りとか、損か得かとか、そんなの関係ない。困ってる人が居たら何も言わずに助けてあげなさいって、院長先生も言ってたじゃない。それにわたしたち、家族なんだから」
「ユリ姉ちゃん……ありがとう……」
絞り出すように声を出した途端、嗚咽が漏れる。泣き虫な弟の背を撫でながら、百合は続けて言った。
「大丈夫だよ、ちゃんとアテもあるから。歩くと少し時間がかかるけど」
そうして二人が向かった先は、あの悪戸情次が営む教会だった。……それからほどなく自分達を襲う災厄に、二人はまだ気付かない。
2
親子の交わりを経て、人は〝愛〟という感情を学び、育む。
実の親に捨てられながらも、愛を与えてくれる存在が居たなら、まだ恵まれた境遇と言えるかもしれない。少なくとも、カルルという少年以上には。
生まれて間もなく親と故郷を失い、反政府勢力に拾われた。愛情の代わりに与えられたのは、悪意と無関心。育ての親からは、徹底して道具扱いされた。
カルルは愛を知らない。愛を知らないが故に、他者に関心を持たず、害することに躊躇いを持たない。何故他者を殺すことが罪となるかも分からない。ナルに読み書きを教わり、聖書を読みもしたが、未だ納得のいく答えは見出せずにいた。
そんな彼の右手には、今ナイフが握られている。人を殺すための道具だ。
トレーニングマシンを隅に置いた自室の中、徒手の左手を前に突き出し、前傾気味に腰を落とし、じっと動かずにいる。型の練習ではない。架空の敵を想定したイメージトレーニングだ。
『精が出ますね』
歪んだ声とともに黒い霧が集まり、骨の仮面を被った異形の姿を成す。カルルは頷きさえ返さず、目前の敵に意識を集中させていた。
ナルによって召喚される兵器群は、堕術使い同士の戦闘においても大きな優位性を持つ。しかしその多くは銃火器の類であり、間合いを詰められた途端にそれらは無用の長物と化す。
身体能力を飛躍的に向上させる強化外骨格――NS-666〈御稜威の王〉は霊力の消耗が激しいため、使用後は六十六時間のインターバルを要し、残り二十四時間は使用不能。この間に敵の襲撃を受ければ、生身での接近戦もありうるのだ。
ナイフの扱いに長けた者は、同じ少年兵の中でも少なかった。小銃は安価で手に入る上、引き金に指を掛けるだけで夥しい数の弾がばら撒かれる。然したる訓練を積まぬ者にも、それなりの戦果は見込める。逆に明確な力量差が表れるのがナイフ術だ。
単なる技術的な問題ではない。ナイフでの戦闘には、敵に接近する恐怖や、直接命を奪う感触が付きまとう。本能的な忌避感を抱かずにいられるのは、強力な理性の持ち主か、恐怖も罪悪感も持たない異常者のみだ。
大きな音を立てずに敵を殺すことが出来、弾の節約にもなる。そんな合理性から、この原始的な武器をカルルは好んでいた。少年兵時代も、数え切れぬほどの人間をナイフで仕留めてきた。殺せなかったのはたった一人だけだ。
今目の前には、悪戸情次の幻が立っている。普段の平服姿ではない。プレートキャリアに弾倉や手榴弾入りのチェストリグを纏った、出会った当時と変わらぬ姿のままそこに居る。これまでに戦った、どんな堕術使いやサイボーグよりも強い敵だった。
自分より頭二つ分ほど高い背丈。一見細く薄い体つきをしているが、半袖から覗く上腕は極限まで絞ったワイヤーの如く、密な筋肉の束が浮き彫りになっている。
外見上は完全な生身でありながら、野生の獣以上の俊敏さを誇る怪物だ。銃を構える隙など無い。距離を取ろうと飛びのいた瞬間、的確にこちらの急所を切り裂くだろう。
睨み合いの末、同時に動き出した。弧を描くような動作が連続し、絶え間なく二つの刃が衝突し、火花を散らす。徒手の左手が攻撃を捌き、関節を極めようと絡み合う。
幻影は決して、こちらの都合のいいようには動かない。無意識の恐れを投影し、僅かな隙を突こうと、容赦ない攻撃を仕掛けてくる。
攻防は二分半に渡り、やがて決着がつく。動きを止めたカルルに、『お疲れ様です』とナルが声を掛ける。勝負を終えた時、こちらの刃は相手の首筋を貫き、相手の刃はこちらの心臓を抉っていた。相打ちだ。
情次と別れて一人で司祭館に帰るなり、ほぼぶっ続けでこのイメージトレーニングを続けていた。戦績は十二連戦にして、八勝三敗一引き分け。
『これでトータル四〇三戦、二〇〇勝一九八敗五引き分けですね。最近だと十回中七回は勝てるようになりましたし、腕を上げましたね、カルル』
ナルの賞賛を、頭を振ってカルルは否定した。この程度ではまるでダメだ。七割の確率でしか勝てないとはつまり、三割の確率で敗北するということに他ならない。
初めて戦場で出会い、刃を交えたあの日、情次からの提案で戦闘は中断された。もしあのまま戦いが続けば、負けたのは自分の方だろう。以来カルルは、頭にこびりついた敗北のイメージを払拭しようとこの訓練を続け、今ではウェイトトレーニングに並ぶ日課になっていた。
本物の悪戸情次は、幻影以上の強さに違いない。そして今後、悪戸情次以上の敵が現れる可能性もゼロではない。七割方の勝率など論外だ。十回中十回でもまだ足りない。最低でも百回戦って百回勝てなければ、完璧からは程遠い。
死が恐ろしい訳じゃない。主人であるナルが、今すぐに死ねと言えば、何の躊躇いもなく自らの喉笛を切り裂ける。唯一カルルが恐れるのは、敗北だった。敗北は〝道具〟としての自らの有用性を否定し、跡形もなく存在意義を奪い去るのだ。
『何事も熱心に取り組むのは良いことですが、根を詰めすぎるのも考え物ですよ』
呆れた風にナルは言うが、今度の敵がピギー以上の強さとすれば、幾ら準備してもし足りないぐらいだ。そうカルルが返すと、
『ええ、分かっています。今回の敵はいつもとは違う。その規模も強大さも。それに、もしかすると――』
そこでナルは言葉を切り、押し黙った。
怪訝に思い、どうかしたのかと訊き返すと、明るい声でナルは続けた。
『未だかつてない敵を前に、貴方が重圧を感じるのは分かります。しかし、だからこそコンディションは万全に保たねばなりません。例えば今この場で、敵と戦うことになったとしましょう。過度なトレーニングで神経をすり減らした状態で、十分な実力を発揮できますか?』
図星を突かれた気がして、カルルは口を噤んだ。
『焦った所で、急に強くなどなれませんよ。重要なのは、日々の積み重ねです。大丈夫、貴方は十分強くなっていますよ。そして、善を為すべくたゆまぬ努力を続ければ、必ずや神の御加護があることでしょう』
確かに理に適った指摘だ。最後の一言を除けば、の話だが。
『こういう時こそ過度な緊張を避け、普段通りを心掛けるべきなのです。ああ、そういえば!』
突然思い出したように、ナルが声を上げた。
「どうしたの?」
『ほら、今朝は早くから遠出をしましたから、裏庭の花への水遣りがまだでしょう』
何を言い出すかと思えば、そんなことか。一日ぐらいやらなくたって変わらないだろう。
『いいえ、今すぐにお行きなさい。口実を作って怠けることを覚えれば、何度も同じことを繰り返して癖になります。それに最近、墓の掃除もろくにしていないでしょう。この際ですから、草むしりに墓石の雑巾がけもまとめておやりなさい』
断ろうとするや、いきなり仕事を増やされ、すっかり反論の気力を挫かれる。
……いずれにせよ、今の自分が必要以上に緊張しているのは確かだ。雑務でもこなせば、多少気は紛れるかもしれない。そう考え直すと、カルルはミネラルウォーターで喉を潤し、侍者服に袖を通して玄関に向かった。
教会の入り口で誰かが話す声が聞こえてきたのは、司祭館を出てすぐだった。
「カギがかかってる……神父様は留守なのかな?」
「ああ、そっか。そういえば月曜日は礼拝もお休みだったね」
特段大きな声ではない。元々常人離れしていたカルルの聴覚は、堕術使いになったことで更に強化され、百メートル先で針が落ちる音さえ拾えるようになっていたのだ。それ以下の距離であれば、声質や会話の内容まではっきり分かる。
一方は声変わり前の子供の声。もう一方は聞き覚えのある少女の声――パン屋で働く双見百合のものだ。
「どうしよう、お姉ちゃん」
「ひょっとしたら、司祭館にいらっしゃるかも。でも、お休み中かもしれないし……」
『おや……? あの少女は百合でしょうか』
二人に気付いたナルが、声の方をじっと見つめる。
『何やら困っているようですね。行っておあげなさい、カルル』
面倒だな、とカルルは思った。……いや、そもそも自分は人前で声を出さないようにしている。仮に何か相談事があったとして、こちらで何かできることなどないはずだ。
『まさかとは思いますが……このまま見て見ぬフリをする気ではないでしょうね?』
こちらの考えを読んだかの如く、仮面の奥の目が赤く発光する。
『許しませんよ。他人の窮状を見過ごすなと、日頃から言っているでしょう』
こちらに抗議の余地などない。カルルは観念して、教会へと足を向けることにした。
「あっ、カルル!」
百合が振り返った。昨日より陽射しが強いからか、薄手のキャミソールに、麦わら帽子という出で立ち。それから、いつもと同じ首飾りを着けているようだった。
「ここの人ですか?」
カルルと百合を交互に見比べ、子供が尋ねる。リュックサックを背負った、十歳ぐらいの少年だ。無言のままカルルが頷き返すと、一瞬訝しむような目をしたが、首に巻かれた包帯を見て、すぐに何かを察したような表情になる。
「こんにちは、カルル。この子はその……わたしの弟みたいな子で、ユヅルっていうの。よろしくね」
言い淀みつつ、百合は隣の子供を紹介した。何か隠し事をするような言い方だな、と感じた。
「こんにちは、常陸結弦って言います。〝結ぶ〟っていう字に、弓の〝弦〟って書いて、〝結弦〟です」
礼儀正しく頭を下げると、結弦は何か言いたげに百合に視線を送った。こういう反応は初めてではない。この子供が何を考えているか、カルルにも何となく分かっていた。
「ほら、結弦。自分の口からちゃんと言わなきゃ」
「や……でも……」
何か用事があって、二人はここへ来たのだろう。けれど、頼み事の相手は自分ではなく、情次の方に違いない。結弦はつま先立ちで、百合の耳元に口を近づけると、
「この人、しゃべれないんでしょ? それに外人みたいだし、ちゃんと言葉通じてるのかな?」
本人は小声のつもりでも、カルルにはしっかり聞こえていた。
特に何も感じない。〝言葉が不自由なガイジン〟という虚像を作り上げたのも、周囲から忌避されることを望んでいるのも、他ならぬ自分自身だったからだ。
けれど百合はいつものように微笑み、
「大丈夫。このお兄ちゃんはちゃんと言葉が分かるし、とても親切だから。カルル、わたし達お願いがあってここに来たの。聞いてくれる?」
半ば予想通りの反応にカルルが頷き返すと、百合は隣に視線を戻し、促すように背を押した。
結弦はどこかバツが悪そうにこちらを見上げると、ここへ来た経緯を説明した。話し終えるとズボンのポケットに手を入れ、しわの寄った紙幣と数枚の硬貨を取り出し、
「新品を買うにはゼンゼン足りないって分かってるけど、今持ってる分は全部払うから、足りない分はまた払いに来るから、おねがいします!」
紙幣と硬貨を握りしめたまま結弦が頭を下げると、
「わたしからもお願い。足りなかったら、その分はちゃんと払うから」
そう言って百合も頭を下げ、そんな二人を見下ろしながら、『ああ……何と健気な子らでしょう』と感極まったようにナル。
一方のカルルは、相変わらずよく分からないことをするな、と感じていた。
パン屋で働く少女が、然して金を持っているようにも思えない。聖書代を肩代わりすれば、それなりの出費になるはずだ。この子供とどんな関係かは知らないが、他人のためにそこまですることに、一体どんな意味があるというのだろう? 『マルコによる福音書 十章』よろしく、徳を積んで天国にでも行く気なのだろうか?
いや……そもそも幾ら頭を捻っても他人の心など分かりはしないし、知る必要もないのだ。とっとと済ませてしまおう。幸い自室に、新品同然の聖書がある。それを譲れば済む話だ。
そう思い百合達に頷きを返すと、二人してぱっと顔を輝かせ、
「良かったね、ユヅル」
「うん! ありがとう、お兄ちゃん!」
顔を上げるなりくしゃくしゃの紙幣を渡そうとする結弦を、カルルは片手で制したが、結弦は中々その手を引っ込めようとしない。チラリとナルの方を窺うと、相手は無言で頭を振った。
受け取るな、という意味だろうが、こちらが対価を受け取るまで向こうも引き下がりそうにない。どうしたものか、としばし悩み、妙案を閃く。
カルルは二人に背を向け、顎をしゃくると、裏庭の方に向かった。
「え、ナニ? どうしたの?」
「きっと〝ついて来て〟って言ってるんだよ」
戸惑い気味の結弦に百合が答えると、二人分の足音が後ろについてくる。墓石が並ぶ裏庭に着くと、何かに気付いたように結弦が言った。
「あ……ユリ姉ちゃん。ここってひょっとして、院長先生の……」
どういう意味か? という意図を込めて見返すと、百合が代わりに応じた。
「ごめん、その話はまた今度させて。それよりカルル、ここにどんな用事があるの?」
結弦を紹介した時のように、また何か隠し事をするような言い方だと感じたが、気付かないふりをして庭の隅の物置へ向かう。
軍手とジョウロ、雑巾、ゴミ袋を取り出し、まとめてバケツの中に放り込むと、二人の前に突き出した。
よく分からないという風情で結弦が目を丸くする一方、「花の水遣りとお墓の掃除をすればいいのね」とすぐに百合はこちらの意図を察していた。
「でも本当にそれでいいの? だって、聖書を譲って貰うのに……」
バケツを受け取りつつ百合は後ろめたそうな顔をしたが、カルルにとっては特に必要ない品だ。せいぜい、ナイフの一撃を防げる程度の使い道しか思い浮かばない。
自室にある聖書は、元々情次から渡されたものだった。ナルの勧めから多少は読んでみたが、何が言いたいのか分からない記述が殆どで、今では部屋の片隅で埃を被っている。
読まぬまま放置したことに、ナルからも多少の小言はあったが、あまりしつこくは言われなかった。今更それを他人に譲ったところで、咎められはすまい。
対価などどうでもいいから、貰う物を貰って早く帰ってほしいというのが本音だった。何か適当な言い訳はないものかと視線を泳がせる内、毎朝パンを食べるベンチが目に留まる。
「ベンチ……? そこに何かあるの?」
こちらの視線を追って、百合が首傾げる。片手に持ったパンを口元に運ぶジェスチャーをすると、すぐに彼女は意味を理解して、
「あっ、いつものパンのお礼ってこと?」
カルルが首肯すると、百合は胸の前でぶんぶん両手を振って、
「いいよ、気にしないで。あれはわたしがしたいからしてるっていうだけで――」
そう言いかけて、ふと何かに気付いたように言葉を止めた。
「そっか……誰かを助けるって、貸し借りとか、損か得かとかじゃないのに。バカだよね、わたし。自分で言ったことに、今更気付かされるなんて」
独り言を口にしたかと思うと、急に納得したように頷きを繰り返し、ややあって「うん、分かった」と声を上げ、
「ありがとう、カルル。全部わたし達に任せといて。それと明日からは、腕によりをかけておいしいのを作るから、楽しみにしといてね」
ニッと白い歯を覗かせると、結弦の頭を撫でて「行こう」と百合。結弦も戸惑い気味な顔でこちらに頭を下げ、水汲みに行く百合の背に続いた。
当人らが納得しているので、そのまま二人に任せておいても良かったのだが、何もしないでいるとナルからあれこれ言われそうなので、カルルもまた作業に加わる。
毎朝の花への水遣り以外にも、週に一度墓の手入れはしているのだが、この季節は植物の成長も早い。花壇に深く根を張った名も無き草を、千切ってはゴミ袋に放り込んでいく。
一方、百合が雑巾がけしているのは、昨日彼女が祈りを捧げていた墓だった。確かあの時ナルは、百合にとって大事な誰かがここに眠っている、と言っていた。目を凝らしてみると、墓には〝NAGUMO・TAKEI〟と姓名が彫られている。
『何を見ているのです? 手が止まっていますよ』
じとりとこちらを睨み、ナルが言う。カルルは何も言い返さず、ただ墓石を指さした。
『ん……? あれは前に百合が祈りを捧げていた墓? ああ、墓石に刻まれた銘を確かめていたのですね』
納得した様子で頷くと、宙を浮かびながら身体の位置を変えて墓石を見遣った。
『ナグモタケイ? ふむ、改めて見ると何か知っている名前のような……もしやこれは……。いえ、流石にただの偶然なのでしょうが……』
そうしてぶつぶつ言いながら、ナルは何やら考え込み始めた。よく分からないが、このまま黙ってくれる方がありがたい。
以降はナルの茶々も入らず、作業に集中できた。百合からは道具を交換するよう言われたり、花に遣る水の量を訊かれることもあり、その度に首を振ったり頷いたりした。
質問は簡潔かつ的確で、イエスかノーで答えるだけで良かった。そんな自分達のやり取りを時折横目に見ては、何故か結弦は感心の表情を浮かべていた。
作業は三十分余りで終わった。普段一人でする時の半分以下の時間だ。
磨き終えた墓の前に跪き、百合は祈りを捧げていた。結弦も彼女に倣い、目を閉じ、手を合わせる。ここに埋葬されたナグモなる人物は、二人にとって共通の知り合いなのだろう。
膝を軽く払いつつ、よいしょ、と百合が立ち上がる。
「一通り終わったけど、どうかな? まだし足りないとこはある?」
カルルは頭を振った。花壇に茂っていた雑草は殆ど全てゴミ袋に詰め込まれ、艶を取り戻した墓石が日光を照り返している。世辞ではなく、見違えるほど奇麗になっていた。
「じゃあ……これで聖書もらえる?」
おずおずと尋ねる結弦に頷きを返すと、彼は口端を上げ、
「やったぁ! じゃあ早く行こ、お兄ちゃん!」
互いに土埃塗れの軍手を着けたままカルルの手を握り、嬉しそうに結弦が跳ねる。初めは警戒されているような気がしたが、この短時間で妙に懐かれていた。
「こら、結弦。後片付けがまだでしょ」
「あっ、うん! 分かってるよ!」
そう言うや結弦は、雑巾を絞ったバケツを両手に駆けていった。
大きめのバケツの半分以上水嵩があり、身体の小さな結弦が持つには少し安定しない。しかも芝の生えた地面には凹凸がある。十中八九転ぶと思ったが、声を出す訳にもいかず静観した。
ワンテンポ遅れて百合が声を掛けた時にはもう、バランスを崩していた。
つまずきかけた結弦の片手を百合が掴む。その拍子にバケツが振り子状に揺れて宙を舞い、二人の頭上から水を浴びせていた。
「大丈夫、結弦?」
帽子の縁から滴を滴らせつつ、百合が屈みこむ。濡れた髪や頬をハンカチで拭かれながら、俯き加減に結弦は彼女を見つめていた。
「う、うん……ユリ姉ちゃんこそ……」
「わたしは大丈夫。結弦こそ、寒くな……くしゅっ!」
言った傍からくしゃみをする百合。二人とも派手に水を被って、全身ずぶ濡れだった。
「あ……えっと、カルル……」
何やら言い淀みつつ、こちらへ百合が向き直る。濡れたキャミソールが地肌に張り付いて、小さな胸を覆う無地のブラジャーが透けて見えていた。
オホン! とわざとらしくナルが咳払いするのと、顔を赤くした百合が麦わら帽子で胸元を隠すのはほぼ同時だった。
『あー……カルル。貴方に悪気がないことは分かりますが、異性の身体をそうまじまじと見るものではありませんよ。……まあ、それはさておき。初夏とはいえ、午後になれば気温も低くなります。濡れたままだと体調を崩すかもしれません。私の言いたいことは分かりますね?』
ただ聖書を渡すだけのはずが、どんどん無駄に時間が延びていく。カルルはため息交じりに二人を見ながら、司祭館の方角を指さした。
3
渡されたタオルで軽く身体を拭くと、結弦達は司祭館の浴室に案内された。
床と壁は白いタイル張りで、掃除は行き届いているのかカビなどの汚れはあまり目立たない。その代わりひび割れや黄ばみなどが所々に見られ、年季の入りようを覗わせる。
結弦は正面の鏡を見ないように顔を俯かせ、じっとタイルのひび割れを見つめていた。自分の背を、細くしなやかな百合の指先が触れるのをタオル越しに感じる。
背中を洗い終えると、今度はこちらに身を寄せ、片手でシャワーのバルブを捻った。熱いシャワーが出る音を聞きながら、結弦は身を固くしていた。二つの小さな膨らみが、背中に当たっていたのだ。
まだ孤児院に居た頃、年長の百合は年下の子の風呂の世話をして、結弦自身もしょっちゅう一緒に入っていたのだが……あの頃、何で何も思わなかったのか、今はもうよく分からない。
二人揃って服が汚れたのは完全に自分のせいで、だから一緒に風呂に入ろうと言われた時も断りにくくて、結局流されるまま一緒に入っていたけれど、すぐに後悔した。
あと一月もすれば、結弦も十歳になる。異性への意識も変わり始めていたし……他の誰にも内緒だけど、クラスに気になる女子もいた。勿論、変わったのは自分だけじゃない。百合の体つきも、随分あの頃とは違って見える。
当の本人はそんなこちらの気も知らず、シャワーを止めると、
「よし、じゃあ今度はこっちの番ね」
言葉につられて振り向くと、白い背中が視界に入った。ほっそりした首からペンダントを下げているだけで、それ以外何も身に着けていない、年上の少女の裸身がそこにある。
「どうかした?」
言いながら振り向こうとする百合から目を逸らし、逃げるように湯船に浸かった。
「何でもないよ! 自分で洗えばいいじゃん!」
そっぽを向いて、結弦は押し黙った。血の繋がらない姉の鈍感さも、姉のような百合をそんな風に意識している自分も嫌だった。
「何よ、もう。せっかく久しぶりに一緒に風呂に入ってるのに」
身体を洗いながら、百合はぷりぷりと頬を膨らませている。彼女にとって自分は、いつまでも子供なのだろう。そんなことを考えていると、何故かカルルという名の、口の利けないあの年上の少年の顔が自ずと頭に浮かんできた。
初めて会った時、正直あまりいい印象はなかった。無表情で、言葉も発さず、他人を拒絶するような冷たい感じがした。でも実際にはとても親切なんだと、行動を見る内に分かった。
そういう不器用な優しさが気に入ったんだろう、百合も随分親しそうにしていた。というより、彼の前で見せていた笑顔は、昔自分達に向けていた表情ともどこか違う気がする。特に水を被った直後のあの反応――あんな百合の顔は、これまで見たことがなかった。
「あのさ……ユリ姉ちゃん」
「なぁに?」
「好きなの? あのカルルって兄ちゃんのこと」
身体を拭く音が止んだ。
無神経な姉への、ちょっとした仕返しのつもりだった。結弦が知る限り、百合は同年代との交流に乏しく、異性にも免疫がない。きっと赤面しているだろうと思いつつ、横顔を盗み見たが、その反応は少し意外なものだった。
「うん……どうかな?」
ほんのりと頬を染めつつも、百合はどこか困った風に笑っていた。
「そういう経験はないけど、誰かをちゃんと〝好き〟って言えるとしたら、その人の色んな部分を知る努力をしてからじゃないかな。出会ってたった半年じゃ、まだまだ知らないことだらけだよ。知られたくない過去や、心の傷だってあるかもしれない。そういうのを全部ひっくるめてお互いを知ろうとするのは、とても時間がかかるって思うよ」
その言葉から、褐色の首に巻かれた包帯を結弦は連想した。どんな理由から、何を隠すために包帯を巻いたのか何も分からない。きっと百合もそうなのだ。そう思うと、急に今の質問が軽はずみなものに思えてきた。
「あ……その、ごめん」
「どうして?」
「いや……だって……」
元孤児である自分達のことを、他の子供より不幸だと心のどこかで思っていた。でも生まれる国が違えば、自分より不幸な子供なんて幾らでもいるのだろう。
過去に深い傷を負った相手を受け入れるのは、ごく普通の人間関係を築くより何倍も難しいことで、言葉に出来ないまでも、結弦もそのことを感覚的に分かっていた。
けれど特に気を悪くした風もなく、「何も謝ることなんてないよ」と百合は続けた。
「毎朝パンを届けに行く帰りに、院長先生が眠ってるあの裏庭に寄るんだ。そこで花の水遣りを手伝って、お互いパンを食べながら、何も言わずに空や花を眺めるの。ただお互いが隣にいるだけなのに、その時間がいつも楽しみで、だからカルルのことをもっと知りたいって思うようになったんだ。今はまだ、その途中。分かってるのは、食べ物の好みや花が好きってことぐらい。あと不愛想に見えて、とても親切ってこと」
屈託なく百合が頬を緩める。その微笑みはとても眩しく映った。
「色んなことを知る内に、今の印象も変わるかもしれない。それでも、もっとカルルのことを知りたいって思う。それが今のわたしの気持ちかな」
「ちぇ……何でそんなにタッカンしてるんだよ。これじゃ、こっちがガキみたいじゃん」
「わたしだって、まだまだ子供だよ。結弦より少しお姉さんってだけで」
「何年たっても、そこまで大人になれるジシンないよ。姉ちゃんって、ホントに十五歳? ときどきだけど、ずっと年上の人と話してる感じがするよ」
「それって褒め言葉?」
「フけてるって意味」
「こら」
冗談めかして言ったけれど、殆ど本音だった。
元々面倒見の良い性格をしていたように思うけど、昔は年相応に泣いたり怒ったり、弱音を吐くこともあった。それがいつからか幼い部分は鳴りを潜め、大人顔負けの思慮深さや、芯の強さを見せるようになっていた。
ある日突然、という訳ではない。けど、ある時期から徐々にそうなっていた気がする。
結弦は百合の首にかかった鎖を見遣った。
「……そのペンダントって、院長先生のカタミなんだよね?」
こちらを横目に百合は頷き、掌にペンダントを乗せた。鏡に映るのは、ひし形の赤い宝石。亡くなる一月前、十三歳の誕生日を迎えた百合に贈られたものだという。
自分達の孤児院を経営していたのは、武井南雲という老女だった。誰に対しても穏やかな口調で喋り、決して声を荒らげることもない。今でも彼女のことを思い出す度、目尻に深いしわを刻んだあの笑顔が頭に浮かぶ。
百合は勿論、結弦自身を含め、あそこに居た全員があの人のことを慕っていたように思う。亡くなった時、既に結弦は今の両親に引き取られていたが、葬儀にも出席し、その後一週間はずっと気分が落ち込んでいた。
けれど時が経つにつれてその悲しみも薄れ、今日まで一年以上も墓を訪れていなかった。多分他の皆も似たようなものだろう。たった一人を除いては。
「昔からいつも着けてるよね、それ」
「うん。上手く言えないけど、これを持ってるといつも誰かが見守ってくれてるような……自分が独りじゃないって気になるの」
ペンダントを離し、百合の手がバルブを捻る。雨のように、さぁっとシャワーの音がした。
百合が施設を出て働き始めたのは、武井院長が亡くなってほどなくのことだった。
約半年後にさる資産家から高額の寄付があったそうだが、当時は院長の死で孤児院も苦境に立たされ、百合が施設を出たのも負担を減らすためだと、幼心にも分かっていた。
その後初めて勤め先のパン屋を訪れて、大人に混じって働く百合を見た時、はっきりとした変化を結弦は感じ取っていた。
「……ねぇ、お姉ちゃん」
「なぁに?」
「あの兄ちゃん、きっと良い人だよ。あんなムチャなおねがいをイヤな顔しないで聞いてくれたし、今だっておフロかしてくれてるし。それに……いつも院長先生のおはかをキレイにしてくれてる人が悪い人なわけないよ」
シャワーを止めると、百合は顔をこちらに向け、
「ありがと」
と言った。その表情こそ、さっき自分がした質問への本当の答えのような気がした。
百合が風呂に入ると、結弦はいそいそと浴室を出た。
向こうは一緒に湯舟に入れないのを残念がったけど、流石にそこまでは付き合いきれない。
バスタオルを取ろうと籠を覗くと、畳まれた服や下着が中に入っていた。自分達が風呂に入ってる間、カルルが洗濯と乾燥を済ませてくれていたのだ。話が長引いたせいか、思っていた以上に長湯だったらしい。
一方、百合の籠には男物のシャツが入っていた。飾り気のない、無地のワイシャツだ。
百合の服だけ洗わなかったのは、異性への配慮からだろうか? 何となくそういう気遣いはできないタイプと思っていたので、意外な感じがした。
脱衣場を出ると、壁に背中を預けてカルルが立っており、分厚い本をこちらに渡してきた。殆ど読んだ形跡がない、新品同然の聖書だった。
受け取った聖書をリュックサックに収めつつ、結弦は頭を下げた。
「あ……えっと、聖書ありがとう。それに服も洗たくしてくれて」
向こうはただ、無表情に頷き返すだけ。この人はきっとソンをするな、と結弦は感じた。
「あのさ、兄ちゃん。もっと笑った方がいいよ。そしたら、きっと周りにもたくさん人も集まるって。男のおれから見ても男前だし、きっと女の人にもモテるんじゃないかな。あー、でもそしたら姉ちゃんもタイヘンだなぁ」
惚けた顔で首を傾げるカルルを見て、少しムッとなる。きっとこの人は、何も気付いていない。百合が毎朝パンを届けてるのも、単なる親切心か何かと思ってるのだろうか。
「色々良くしてもらって、こんなこと言うのも何だけど、兄ちゃんってドンカンなの? 姉ちゃんからどう思われてるか、ホントに分かんない?」
表情一つ変えず、カルルは首を振る。
「あーもう! いいかげん分かってよ! あのね、ユリ姉ちゃんは兄ちゃんのことが好……」
「ユヅル? カルルとそこで何話して――」
結弦が百合の思いを代弁しかけたのと、百合が脱衣所から出てきたのはほぼ同時だった。
初め百合はきょとんとしていたが、すぐに何を話していたかを理解したのだろう。あっという間に湯気が出んばかりに頬を上気させ、あわあわ、と狼狽え出した。
「な、なななな……! ユヅルってば、何を言って……!」
どうかしたのか? と聞きたげな顔のカルル。百合は両手をブンブン振りながら突き出すと、
「ううん、何でもないっ! 何でもないの! じゃあもう行くね! また明日っ!」
結弦の身体を抱きかかえながら、猛ダッシュで玄関を出た。
「ユヅルってば、もう! ホントいきなり何言い出すのよ!」
帰りの途中、珍しく百合が声を荒らげた。
「ご、ごめん、姉ちゃん。あの兄ちゃんがあんまりドンカンだから、つい。……おこってる?」
「うん、怒ってる」
ストレートにそう言われて気まずさを覚える反面、納得いかない部分もあった。自分は百合のためを思って言ったのに、そんなに目くじらを立てられるなんて。
「だけど……兄ちゃんはあんな感じだし、姉ちゃんまでそんなオクテだと、きっと何年たってもシンテンなしだよ」
「わ、わたしだって、こんな気持ち初めてだから、そんな簡単に口にできないよ……。それにお風呂の時も言ったけど、お互い知らないこととかたくさんあるし、カルルとは、その……とにかくそういうのは、まだ早いの!」
「でもさ、姉ちゃんの気持ちはもう決まってるよね?」
「え……そ、それはその……」
図星をつかれたみたいに百合が怯むや、ここぞとばかりに結弦は畳みかけた。
「相手を知る努力も大切だけど、お互い他人同士なら、どんなに分かろうとしても分からないことの方が、たくさんあると思う。その人の全部を分かった気になっても、きっと分からないことはどんどん出てくるよ。それが受け入れられるかどうかは、ケッキョク相手のことをどれだけ想えるかシダイじゃないかな」
全部言い終えた時、何故か百合は目を丸くしていた。
「なに?」
「いや……前に友達にも似たようなことを言われたから、それでちょっとびっくりしちゃって」
「え……ああ、そうなの?」
変に感心されたのが、逆に後ろめたかった。実はさっきの台詞は自分の経験から出たものでなく、昔観た映画か何かの受け売りだったのだ。多分、その友達も同じ映画を観たんだろう。
「と、とにかくさ。あの兄ちゃんに昔どんなことがあったか、おれも分かんないけど、姉ちゃんの好きって気持ちは本当なんでしょ。なら、それをもっと大事にしなきゃ」
「……うん、そうかもね。さっき言った友達からも、そんな風に言われたし」
「ふーん。気が合いそうだね、その人とは」
「そうだね、本人もそう言うかも」
苦笑いを浮かべつつ、「でもね」と百合。
「でもどっちみち、今すぐにそんな風になろうとしても、きっと上手く行かないよ」
「何でそう思うの? やってみなきゃ分かんないじゃん」
百合はただ困った顔をするだけで、それ以上は何も言い返さなかった。老朽化した建物が並ぶ通りは人気がなく、二人して黙っていると、居心地の悪い静けさを感じる。
自分はただ百合達が仲良くなれたらいいと思っただけなのに、余計なお節介だったんだろうか? この二人に良くしてもらったから、その分自分も親切にしたいと思ったのに……。
そんなことを考えながら歩いていると、ふと後ろから、
「ねぇ、ちょっといいかしら?」
声に振り返ると、背の高い銀髪の女がいた。百合の頭が胸の下に届くかどうかというぐらいの長身。百八十センチは優に超えているだろう。ただそこ立っているだけなのに威圧されてるような感じがして、反射的に結弦は百合の背に隠れていた。
女はそんな結弦を、目を細めて見下ろしながら、
「あなた達、この近所に住んでるのかしら?」
「ええ、そうですけど」
女の問いに、百合が答える。
「あそこの教会にはよく行く?」
「ええ」
「実はさっき、神父様にお会いしようと教会に行ったんだけど、鍵がかかってたのよね。たまたま留守のお時間だったのかしら? それとも、今日は一日お休みなの?」
「はい、毎週月曜はお休みなんです」
二人のやり取りを聞きながら、結弦はあることに気付いていた。
初対面の相手と話す時、大抵百合は笑顔で接しようとする。なのに今は何故かとても堅い表情で、受け答え自体もそっけなく感じられた。
そして女もまた、百合にはまるで無関心であるかのように視線を合わそうとせず、会話中も結弦の方だけをじっと見下ろしていたのだ。
「あら、それは残念。いい男だって評判だから、一度会ってみたいって思ったんだけど……まあ、いいわ。別の収穫もあったみたいだし」
口端を持ち上げ、女が続ける。
「そこの坊や、あなたの弟? 可愛いわね。十歳ぐらいかしら? ねえ、坊や。お名前何て言うの? 教えてくれるわよね」
有無を言わさぬ口調に圧され、つい結弦は名乗っていた。
「ユヅル……そう、ユヅルっていうの……いい名前ねぇ」
女の唇が一層吊り上がって、鋭い犬歯が剥き出しになる。その様が牙を剥いた獣のように見えて、結弦が怖気を感じた直後、百合はこちらの手を掴んで駆け出していた。
途中振り返れば、忽然と女の姿は消えていた。目を離したのはほんの数秒でしかない。足音も聞こえなかったし、辺りに身を隠せる場所もなかった。
誰かが追ってくる気配はない。それでも百合は足を止めようとせず、結弦も形容できない不安とともに、姉の背に続いた。
手を引かれるまま、雑居ビルとアパートの壁に挟まれた隘路に入る。大通りへ抜ける近道だ。
しかし出口へ辿り着く直前、突然人影が行く手に立ち塞がった。逆光でよく見えないが、影の輪郭からして大柄な男のようだ。
のそりと男が動く。すると、その体表で何かが蠢くのが見えて、
「ひっ」と短い悲鳴を、結弦は上げた。影の主は人間ではなかった。黒に赤の斑模様をした巨大な蛭が、無数に絡み合って人の形を模していたのだ。
ぞ、ぞ、ぞ、とぬめった体表を蠢かせ、人の形が崩壊する。手も足も頭もない、ただの塊となって蛭の群れが追いかけてくる。
「逃げるよっ!」
百合が踵を返す。結弦もまた、弾かれたように走り出していた。
何度か転びそうになりながら、元来た道を引き返す。スライム状の塊は、見た目からは想像もつかない速さで追いかけてくる。
恐怖に駆られるまま結弦は走った。何故自分がこんな目に遭うのか、この化け物は一体何なのか――突如襲い掛かった理不尽に、思考を巡らす余裕などない。たった一つ確かなのは、足を止めてはならないということだけ。追いつかれれば、きっと命はない。そんな予感があった。
その時、人の姿が結弦の目に目に留まった。今度こそ本物の人間だ。
スカジャンを着て、髪を派手な色に染めた若い男。鋭い目つきで地面を睨み、不機嫌そうにタバコを踏みにじっている。
その男がどんな人種か、結弦にも分かっていた。それでも今の自分達に、選択の余地はない。
「助けてっ!」
思い切って声を上げた。男が地面から視線を上げる。
「あァ? 何言ってんだ、このガキ」
「怪物に追われてるんです! ほら、もうすぐそこまで!」
結弦の言葉を継いで、百合が振り返る。男とともに、結弦も視線を追ったが――
「……ンだオイ、何もねぇじゃねぇか」
初めから何もなかったかのように、さっきまで自分達を追いかけていたはずの化け物は消え失せていた。
「真昼間からユメでも見てんのか? ガキのクセにヤクでもキメてんのかよ」
「いえ……そ、そんなはずは……」
もう一度見渡したが、やはりそこには何もない。廃屋同然の建物が並ぶ薄汚れた路地には、自分達以外何の姿も見当たらない。
「バカにしてんの? てかさ、相手見て声かけろよ。オレ今クソほどキゲンワリイんだよね。分かんねぇかな?」
舌打ち混じりにタバコを取り出したかと思えば、急に百合の胸の辺りをじっと見て、男は口許を歪めた。嫌な予感がした。
「へぇ……キミ、かわいいね。どう、これからちょっとオレと付き合わない?」
「え……ちょ、ちょっと……!」
「さっき有り金ほぼ全部すったとこでさぁ。ダレかになぐさめてほしいんだよね。な、いーだろ? どーせヒマしてんだろうし」
片手で百合の手首を掴みながら、男はもう一方の手で咥えタバコに火を灯した。結弦にはどうすることもできず、後悔と戸惑いとともに立ち尽くすしかなかった。
相手は非力な抵抗を楽しむように、肺に溜まった煙を吐きかけてくる。ヤニ臭い空気に咳き込みながら、結弦は男の足元で何かが動くのを見た。それは男のズボンの裾から入ると、素早い動きで一気に腰の辺りまで這い上がっていった。
ライターが男の手から滑り落ち、地面で乾いた音を立てる。百合から手を離して数歩後退ると、突然男は苦しそうに腹を押さえてその場に蹲った。
「え……な、に……ごれ……? ぐ……うぅ……っ!」
ぼこぼこと腹が波打っている。みる間に顔面が紅潮すると、ごぼり、と何かを吐き出すような音がして、赤黒い液体が目と口から溢れてくる。
男の顔が天を仰いだ。血の涙を流しつつ、関節が外れんばかりに顎が開かれる。しかし喉が潰れたように掠れた息が漏れるのみで、その叫びは声の体をなそうとしない。
腰が抜けて、生暖かい感触が股ぐらに広がっていた。しかし少年にとっての悪夢は、まだ始まったばかりだった。
『ダメでしょお……ユヅルくぅん……』
顎が開ききった口が、声を発した。男の声じゃない。男自身は白目を剥き、既に意識があるかさえ疑わしい状態だった。
別人の声――帰りの途中、自分達に声を掛けてきた、あの銀髪の女の声だ。
ごぼっ、ごぼぼっ。排水管からヘドロが流れ出るような異音とともに、血で染まった一匹の蛭が男の咽喉から這い出てくる。
『いぃーい? これはねぇ……あたしと君と、二人きりの遊びなのよぉ』
細長い身体の前端――口吻部に人間の歯が生え揃い、分身の如く女の言葉を代弁していた。
『よぉく見てろよぉ。もし次、誰かに誰かに助けを求めたら、そいつはこうなるからなぁ?』
体内に巣くう群れが動きを活発化させるや、失神したまま男は激しく痙攣した。
どろりとした固形物を吐き出したかと思うと、堰を切ったかのように赤黒いゲルが口から流れ出ていき、水溜まりになる。吐しゃ物に雑多な汚物を混ぜたような悪臭が漂い、アスファルトの地面が泡立って、煙を噴き上げていた。
汚濁を吐き出しきった後、溶けた皮膚の下から黒と赤の斑模様の人型が姿を現し、顔面をこちらに向けた。目も鼻も耳もない、顔。ただ、でたらめな位置や角度に幾つもの口があり、黄ばんだ歯を覗かせていた。
『ふふふ、うふふふふ……いい表情ねぇ、ユヅルゥ。いい顔するじゃねぇか、お前ェ』
縦横斜めに生え揃った歯が同時に開閉し、異口同音に声を紡ぐ。
『殺されるのが怖いの? 怖ぇの? ビビってんのかぁぁ? なら、早く逃げろよ。ほぉらぁ! じゅーう! きゅーう! はぁーち――』
カウントダウンを聞きながら、頭が真っ白になる。音が遠ざかる。百合が何か言った気がしたが、言葉の意味が分からない。何も考えられない。
犬の吠え声のような響きが、耳にまとわりついている。自身の叫びだった。
気が付くとリュックを捨てて、見慣れない風景の中を走っていた。赤錆びた配管に覆われた、トタン張りの壁が視界を横切る。廃工場のようだった。
何を思ってここに来たか、自分でも分からない。ただがむしゃらに走る内に辿り着いていた。
口内に血の味が滲み、脇腹が痛く、膝も笑っていた。もうこれ以上は走れそうにない。
『ユヅルくぅぅん? どこぉおおぉぉ?』
遠くから声がして、心臓が跳ねる。反射的に、工場内に足を踏み入れた。
少し進むと、薬品臭が鼻を衝いた。視線を向けると、ペンキやシンナーの瓶が並んだ棚があった。一瞬身を隠せるか考えたが、隙間が目立ちすぎて無理そうだ。
『どぉおおぉぉこ、だぁあぁぁ?』
化け物の声を背に、先へ先へと進んでいく。泣き出したいし、脚ももう限界だった。それでも今、止まる訳にはいかない。
やがて結弦は、大型機械の点在するスペースに行きついた。何のための機械かは分からない。ただ、身を隠すには十分な大きさがある。
機械の陰に隠れ、警察に通報すべく携帯端末を取り出した。
〝この島の警察は腐っている〟と養父もよく言っている。それでも今は、それ以外に頼れるものが思いつかない。だが、電話番号を入力して発信のアイコンに触れようとした時、結弦の手の動きは止まっていた。
入り口から、ぬちゃりと湿った足音が聞こえてくる。
『ねぇえぇ、ユヅルくぅぅん? そこにいるんでしょお? お姉さんとぉ、遊びましょうよぉ』
身体が震え出し、力が抜け、掌から端末が滑り落ちる。思わず声を上げそうになったその時、後ろから細い腕が伸びて結弦の口を塞ぎ、もう一方の手が落ちかけた端末を受け止めた。
「声を出しちゃダメ」
そう囁きかけた相手の顔を確かめ、結弦は安堵した。百合だ。
「いい? あの怪物がどこかへ行くまで、ここでやり過ごすの」
頷きを返しつつ、自分を助けに来てくれたことに、感謝と同時に驚きを感じていた。
あの時は完全にパニック状態で、自分でもどこをどう走ったか思い出せないぐらいだった。百合はどうやって、この場所を突き止めたのだろう? それに気になる点はもう一つあった。
『どぉぉこ行ったのかなぁぁ? 早く出ておいでぇぇ? あたしとぉ、オレとぉ、気持ちいいことしよぉぉぜぇ?』
ぬちゃり。ぬちゃり。恐怖を掻き立てるように、湿った音が大きく響く。
『いいこと教えてやるよぉ。じっくり嬲られて苦しむだけ苦しんだら、死ぬ瞬間頭ん中がフワフワして花畑ン中にいるみたいに超気持ちいんだぜぇ? なぁんで、そんなこと知ってるかってェ? オレが一度そうなったからだよ。変態野郎に生きたまま身体中切り刻まれてなぁ』
ひゃはははははは! と顔面に生えた口が、一斉に笑声を上げる。
結弦は両手で必死に口を押えていた。百合が一緒でなければ、間違いなく叫びを上げていただろう。結弦はじっとその横顔を見上げた。
怯えがないのだ。こちらを怯えさせまいと気丈に振舞っているとか、感情を隠しているというのとは違う。少なくとも結弦には、そのように見えなかった。
百合は肩に提げたバッグを開くと、画面の光が漏れないよう、その中で携帯端末を操作し始めた。自分と同じように警察を呼ぶつもりなのか、行動の意図は読めない。ただその表情は、自分達が置かれている危機を冷静に分析し、乗り越えようとする意志を感じさせた。
大人でさえ泣き出しそうな状況で、自分より五つ年上なだけの少女が、何故こんな顔をできるのだろう? ふと結弦は、妙な考えに囚われた。
今自分の目の前にいるこの少女は、本当に自分の知る双見百合なのだろうか――?
『ムダ、ムダ、ムダなんだよ。物音を立てまいが、息を殺そうが、ムダだ。匂いだ。テメェの股からプンプン小便の匂いが漂ってきやがる。ほぉら……そこだろ? そこにいるんだろぉ?』
異臭とともに、湿った足音が近づいてくる。
「……いい? わたしが立ち上がったら、一緒に走って」
生唾を飲み下し、結弦が頷きを返した直後、百合は端末を横に放り投げていた。
樹脂製の筐体が、錆び付いた床の上で甲高い音を立てたのとほぼ同時に、端末が電子音を響かせる。アラームだ。化け物の注意がそちらへ逸れ、這い寄ろうとするのを見計らい、百合は立ち上がった。結弦もその背に続く。
即座に反応し、追いすがろうとする化け物。ほんの少し注意が逸れただけで、時間稼ぎにもならない。そう思っていると、百合はバッグから何かを取り出し、投げつけた。
条件反射のように、化け物が触手状の腕を払う。ぱりん、と何かが割れる音がして、強烈な薬品臭が周囲に満ちた。ここへ来る前、シンナーの瓶が棚に並んでいたのを思い出す。
唐突に、化け物が苦しみ出した。その隙を突いて、百合はもう一方の手にあったライターに、火を灯した。殺されたあの男の物だ。
標的めがけ、ライターが宙を舞う。化け物は苦悶のあまり反応さえままならず、シンナー塗れになった全身は一気に燃え上がった。身体中に生じた無数の口が、一斉に咆哮を上げる。
異形の断末魔を背に走った。出口の向こうに、光が広がっている気がした。ここを出れば、自分達は助かる。結弦がそんな淡い希望を抱いた次の瞬間――
ひゃはははははは!
化け物の笑声が、前方から響いていた。
勝手にたった一体だと思っていた。あの一体から逃げ出しさえすれば、助かると思い込んでいた。違っていた。前方にもう一体。斜め前にも、右にも、左にも、後ろからも気配を感じる。
ひゃはは! ひゃはは! ひゃはははは!
鉄製の壁と床に反響し、笑声の渦が自分達を取り囲む。
『ねぇえぇ、坊やぁ。お姉さんとぉ、遊びましょおぉぉ?』
前方の顔面が、うぞうぞと蠢き、女の顔を象る。斑模様の蛭が、鼻や耳、唇などのパーツや、腰まで届く長髪を再現し、目にあたる部位には、眼球の代わりに黄ばんだ歯が覗いていた。
化け物が触腕を伸ばしてくる。腕は五本に枝分かれし、それぞれの先端にある口部から溶解液を滴らせていた。結弦を庇おうと、百合が抱き竦めてくる。
今度こそ終わりだ。はっきりとそう分かり、気が遠くなってくる。意識を失う直前、結弦は化け物の背後から黒い服を着た何者かが近づいてくるのを見ていた。
化け物達の、這うような動きとは違う。脚を躍動させ、駆けてくる。素顔は見えない。鬼の形相を思わせる仮面を着けていた。
足音に気付き、化け物が振り返る。その顔面をめがけ、鬼は蹴りを食らわせていた。
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死はありふれたものだ。
表情を持った顔が、次の瞬間には物言わぬ屍になるのを幾度となく見てきた。それは常に兵士だった少年の身近にあって、誰かの死を特別視したことはない。
今、目の前で一人の少女が殺されようとしていた。その時彼の脳裏に浮かんだのは、この島に来てからの朝の日常風景だった。
朝起きるとニュースを見ながらコーヒーを飲み、その後は礼拝堂の掃除。掃除を終えると仕事帰りの女達が情次と談笑し、墓場の花に水遣りを始める。するとそこへ、自転車の籠にバスケットを載せて双見百合が来る。
ベンチに座り、一緒にパンを食べ、それから彼女は花の水遣りを手伝う。いつも別れ際に他愛のない質問をして、こちらが頷いたり頭を振って応じると、嬉しそうな顔をして去っていく。
いつからか、当たり前になっていたこと。
双見百合が死ねば、もうそんな時間を過ごすこともなくなる。ただ、それだけのこと。
けれど、その瞬間。双見百合が殺されようとするその瞬間、全身が強い衝動に突き動かされ、武器も持たぬままにカルルは駆け出していた――
セラミックプレートで被甲された脛が、異形の顔面にめり込む。
約二トンの衝撃――灌木をへし折り、厚さ数センチのコンクリート壁を破砕しうる威力。
蹴りを受けた瞬間、質量を失ったかの如く化け物は宙に浮かび上がり、室内に配された機械に全身を打ち付けながら、十数メートル後方の壁まで吹き飛んでいた。
室内のあちこちで、煙が噴き上がる。吹き飛ばされた化け物が、全身に開いた口から腐食性の体液をまき散らしていたのだ。
体液はボディスーツの右前腕部にも付着していた。腐食が進む前に前腕を覆う手甲を外し、地面に投げ捨てる。セラミック製の装甲板が泡立ち、煙を噴きながら液状化していく。
足元を一瞥すると、百合が呆然とこちらを見つめていた。一方の結弦は、恐怖のあまりか失神している。彼らの場所までは、溶解液の飛沫も飛んでいないようだ。
『二人とも、無事なようですね』
ナルからそう告げられた時、何故か少し緊張が和らいだ気がした。
『オイ、コラ。人の愉しみを邪魔しやがって』
壁際から、歪んだ女の声が響いた。
発しているのは、たった今蹴り飛ばされたばかりの化け物だ。あの一撃を受けながら、殆どダメージはないらしい。
『堕術使いのクセにそこのガキ共を助けようってのか、偽善野郎が』
自分がこの二人を救いに来たのは事実だ。だがそれは、ナルにそう指示されたからであって、自らの意思ではない。……そのはずだ。
カルルが強大な霊力の放射を感じ取ったのは、百合達が教会を出てほどなくのことだった。
二人の身を案じたナルの指示でここまで来たが、カルル自身は他人がどうなろうと構わなかった。だが今にも殺されそうな百合を見た時、心臓が早鐘を打ち、気付けば身一つで包囲の中心に入っていくという愚行を犯していた。平時では取りえない行動に駆り立てた、あの衝動が何だったのかは、カルル自身にも分からなかった。
『オイ、黙ってんじゃねぇよ。耳腐ってんのか、テメェ』
言葉を発しようとしないカルルへの罵倒に、冷え切った声音でナルが応じる。
『お黙りなさい。たった今私達の目の前で、貴方は許されざる罪を犯そうとした。更生の余地も、慈悲をかける価値させないほどに、その魂は穢れている。神の名の許に、この場で我々がその罪を裁きましょう』
『ハァ……? 何言ってんだ、コイツ。……ん? お前、その頭に浮かんでるのは――』
女の声が途切れると、顔面の右半分が蠢き、小さなもう一つの顔を形成される。深いしわが刻まれた老爺の顔だ。口元を覆う髭は、女の髪同様に先端が尖った蛭の尾で構成されている。
『ふぅむ……その紫の冠、お主紫冠級じゃな?』
しゃがれた声が、女の言葉を継ぐ。
『あぁん? てことは、そこのそいつが〝ブギーマン〟ってか?』
『どうやらそのようじゃな』
『マジかよッ! チョーラッキーじゃん、オレら!』
顔面同士が会話を続ける奇怪極まりない光景を、無言でナルは見守っている。
カルル自身は、既に臨戦態勢に入っていた。敵の位置の把握も済ませてある。
正面壁際に一体。左斜め前方に一体。右斜め上の天井にも一体。更に各個間隔を置き、後方に三体。如何な順序で襲ってくるか、全てのパターンを想定し、個々のケースにおける迎撃法も、シミュレートし終えている。
今この瞬間にも、敵は襲ってくるかもしれない。にも拘わらずナルが何の指示も出さないのは、さっきの会話に、気になる点があったためだろう。
この化け物を操る堕術使いは、ピギー・ザ・ハードラバーを捕縛した〝ブギーマン〟を探していたようだ。それに、金属をも溶かすこの腐食性の体液。恐らくその正体は――
『貴方々ですね。獄中であの男――クレイグ・ランドールを殺害したのは』
ナルの問いに、女と老爺の顔面が、同時に口端を吊り上げる。
『ヒーヒヒッ、バレてしもうたか』
『結構愉しめたぜぇ? 堕術使いなだけにしぶとくってよぉ、身体ん中グズグズに溶かしてもまだ意識がありやがる。しまいにゃ白目剥いて、シチューみてぇにドロッドロの血反吐ぶちまけてよ。〝おがーぢゃーん! おがーぢゃーん!〟って鳴きやがんのが、モノホンの豚みてぇで、こっちが笑い死ぬかと思ったぜ』
ナルの纏う気配が、急激に冷え込んでいくのが分かる。
『あの男を殺したのは誰の指図です? その者は、この島で何を為すつもりなのですか?』
静かな殺意を滲ませナルが問うと、女は嘲るように、
『バカか、お前? 敵に訊かれて、素直に答えるわきゃねぇだろ』
包囲が徐々に狭まってくる。カルルはポーチから数センチ四方の箱を取り出すと、百合に投げ寄越した。箱の中身は二人分の〝耳栓〟――82デシベル以上の騒音を減衰させる、軍用のスマートデバイス。自身が着けているのと同じ品だ。
「これで耳を塞いで、その場に伏せろ」
「えっ?」
戸惑い気味の声が、足元から聞こえてくる。視線を向けぬまま、カルルは続けた。
「早くしろ、時間がない。ナル、〝NS-666〟の右腕だけ召喚出来る?」
『ええ、可能です。ただしこの場で右腕部を召喚すれば、完全開放までのインターバルが二十二時間延長されますが』
「分かってる。それで構わない」
四方から、女の罵声が響いてくる。
『いつまでもごちゃごちゃくっちゃべってんじゃねぇぞ』
『やる気あんのか、テメェ!』
『そこのメスガキ殺ったら、テメェも犯してやるよ』
『こねぇんなら、こっちから行くぜェ? ケツ穴ン中に汁ぶちまけて、内臓溶かしながら逝かせてやるよォ!』
ひゃはは! ひゃはは! ひゃはははは!
嘲笑とともに、一斉に怪物が襲いかかってくる。
「ナル、〝NS-666〟右腕部、〝SG-02GA〟を同時召喚。使用弾頭はDB弾」
黒い霧が右半身を包む。鎧われた片手に2ゲージ散弾銃の長大な銃身を携え、狙いを定めた。
敵が近づいてくるタイミングは、笑声で分かる。
まずは天井の一体。空中から躍りかかる標的へと引き金を絞った。爆音が轟いた。〈グラデュアーレ〉の銃口が火炎放射器の如く、文字通り火を噴く。
DB弾――実包に封入されたマグネシウムペレットが発砲時の火花によって燃焼し、摂氏三千度の白い炎を生じさせる。
肉の一片はおろか、血液さえも蒸発させる龍の吐息。閃光に包まれ、化け物は一瞬にして消し炭と化していた。
一瞬、標的全てが動きを止めた。驚愕したのだ。突如この手に現れた武器に。その威力に。
怯んだ隙を突き、再度引き金を絞る。次に狙うのは左斜め前方と正面の二体。二度撃ちの必要はない。広範囲に拡散する白炎が、二体同時に呑み込んでいく。
これであと三体。正面を向いたまま腕のみを動かし、後方へ銃口を向けた。引き金を絞る。
撃発の轟音に紛れ、這いずる音が二体分。一体に直撃し、残り二体は辛うじて避けたようだ。
生き残りが左右へと展開。人型の形態を解き、スライム状になった蛭の群れが、視界の両端に映る。二体同時に蠢き出し、全身から黄ばんだ歯列が覗く。
無数の口が一斉に開き、蠕動を始めた。攻撃の前兆だ。
ナルに目配せした。相棒が頷きを返すと同時に、左手に黒い霧が集まり、円筒型のバリア発生装置――SH-008〈トラクトゥス〉を具現化。生体認証センサーに触れ、床に固定する。
ロック解除を示す青き光とともに円筒が外装を展開。ハニカム構造の障壁が半球状に広がり、左右から吐き出された大量の溶解液を阻む。
一発、二発。立て続けに銃声が轟き、白光が閃いた後、静寂が訪れた。
障壁に阻まれた溶解液が、鉄の床を泡立たせている。辺りには強酸の臭気と、金属と血肉が燃えるきな臭さが立ち込めていた。
唐突に、手を打つ音がした。
「――やるじゃねぇか」
女の声だ。正真正銘、人間の。
声とともに足音が近づいてくる。散歩でもするように、ゆったりとした歩みで。
扉の奥から声の主が現れる。背の高い、銀髪の女だ。
異様な出で立ちだった。膝丈まであるブーツに、革帯で全身を縛りつけたかのようなボンテージスーツ。上半身はほぼ全裸に近く、胸の先端や股間を除いて素肌が露出している。そしてその股間には、斑模様の蛭が密集し、巨大な老爺の顔面を形成していた。
霊体にして実体を持たない堕群人だが、契約者が行使する堕術によっては仮初の肉体を得る場合がある。女の股間に生えた顔面の頭上には、紫光の冠が浮かんでいた。
『ヒーヒヒヒッ! まさに獅子奮迅の活躍よのぉ』
蛭が蠢いて、破願する。
『よもや、現世でこれほどの使い手に見えようとはな。ヒヒッ、がぜん逸物がいきり立つわい』
歪めた口の中から、男根状の触手がべろりと舌を出した。
『主も濡れてきよったろォ? えぇ、カミラァ?』
〝カミラ〟――女を見上げ、老爺は確かにそう言った。
「たりめぇだろ、ブラッキオ。これで濡れねぇんなら不能だぜ、そいつぁよ」
老爺の名を呼び、女もまた隠微に笑む。
カミラとブラッキオ。情次が三善に依頼し、足取りを追い続けてきた〝豚殺し〟の正体――それが今、当人らによって明かされたことに、些か意表を突かれた心地がした。
相手はこちらの反応を意に介そうともせず、
「こぉんなにゾクゾクする獲物は初めてだ。なぁ、オイ。お前、名前なんてンだ? 教えろよ。歳は幾つだ? 背が小せぇが、まだガキか? ナニの毛は生え揃ってっかぁ?」
カルル自身はどうとも思わないが、ナルは間違いなく嫌悪するだろう、挑発的で下卑た物言い。しかし彼女は、赤い目を敵に向けたまま何も言い返そうとはしない。カルルもまた、〈グラデュアーレ〉の銃口を向けたまま撃たずに――いや、撃てずにいた。
一見隙だらけの仕草。だがどす黒い霊力の奔流とともに、女は強烈な殺意を発散させていた。
声色、表情、姿勢、筋肉の強張り――殺気とは即ち、目や耳から得た情報を統合し、感じ取るものだ。奴は今、獲物を前にした肉食獣の如く〝機〟を窺っている。
分身達の戦闘を介し、こちらが〈トラクトゥス〉の障壁に守られていることに、奴らもまた気付いているはず。にも拘わらず、この殺意。
通常の物理攻撃では、まずこの障壁は破壊出来ない。だがもし仮に、奴にその手段があるとすれば、僅かな隙を見せただけでも命を刈り取られるだろう。
カルルは背後を意識した。殆ど無自覚に思った。敵の攻撃に巻き込まれれば、この二人は――百合達はどうなる――?
「オイ、テメェ……。今一瞬、余所見したろ?」
苛立った声音で女がそう口にした時、眼前の強大な霊力に紛れ、小さな霊力の塊が足元にまで迫っていることに気付いた。
「退がれ! 今すぐにっ!」
カルルが檄を飛ばすと、肩をびくりと震わせ、結弦を抱いたまま百合は障壁の際まで退がった。次の瞬間、鉄の床を溶かして、小さな影がせり上がってくる。斑模様の蛭だ。
蛭はすぐさま〈トラクトゥス〉に取り付き、溶解液を吐き出した。
火花を散らし、黒い霧となって〈トラクトゥス〉が消失するや、空中からヒステリックな喚きが降ってくる。
「余所見してんじゃねぇっつってんだろがっ!」
股間に張り付いた肉塊が、カミラの両脚全体をブーツごと包み、跳躍力を増強。十数メートルもの距離を一瞬にして詰めようとしていた。
跳躍しつつ右手の中指を立てる仕草――〝ファック〟。
武器らしきものは何も持っておらず、どう見ても完全な無防備。しかし〈グラデュアーレ〉の照準を定めた直後、それが誤認であると悟る。
カミラが右手を振り下ろす。腕の振りに自重を乗せ、斬撃が繰り出される。両脚に衝撃が伝い、咄嗟に盾にした銃身に刃が食い込んだ。
「ほぉ……初見でコイツを避けられたのは、初めてかもなぁ」
紅い舌が蛭のように蠢き、唇を舐める。
生身に見えていた右腕は、機械化された義手だった。〝ファック〟ポーズを取った右手の中指を起点に、前腕部に内蔵された折り畳み式のブレードが展開していた。
刀身には鋸状の細かな刃が生え、銃身に食い込んだまま微細な振動を繰り返している。橙色の火の粉が散り、金属を切断する際の不快な音と匂いが、耳と鼻を侵す。
ブレードに体重を掛けつつ、仮面の奥の目を覗き込むように、女が顔を近づけてくる。
「いい目じゃねぇかぁ。藪の中の井戸の底みてぇに、真っ暗な目だ。くくっ、感じるぜぇ。シンパシーってやつをよぉ。はなから世界に何の希望もねぇ、期待もしねぇ、そぉいう目だ。テメェはオレの同類だ。オレと同じ、光の差さねぇ地の底で蠢く毒虫だ。簡単に死ぬなよぉ? オレとお前、どっちの毒が強ぇか、確かめ合おうぜぇ!」
腰から下を覆っていた肉塊が、女の背中を這って右腕を包んでいく。途端に腕力が倍化し、銃身ごとこちらを切り裂こうと圧力を増した。
「ほぉらほらほら! 切れる切れるぅ!」
両断される寸前、カルルは銃を捨て、後ろ脚を軸に身を翻した。敵の左側面に回り込み、装甲化された右拳を振るう。並みの堕術使いであれば即死必至の一撃が、脇腹にめり込んだ。
床に赤い飛沫が散る。吐血し、背を丸める敵。まだ死んでいない。カミラ自身の頑強さに加え、腰回りを覆う肉塊の鎧が衝撃を緩和させたのだ。
すかさず追撃に移るカルル。太腿の鞘から引き抜いたナイフを、左手で逆手に持ち、俯いた敵の喉元へ一閃させた。薄く肉が裂ける手応えに続き、がぎり、と異音が響く。
眼球を滑らせ、カミラがこちらに視線を向ける。カルルは我が目を疑った。
敵は思わぬ方法で、こちらの攻撃を防いでいた。奥歯でナイフに噛みつき、万力の如き咬筋力で受け止めていたのだ。
「捕まへたぁ……」
裂かれた頬が吊り上がり、凄絶な笑みを作る。咄嗟にナイフの柄を手放し後退った直後、左腕が鞭の如くしなり、中指から展開したもう一本のブレードが鼻先を掠めた。
カラン、と音が鳴る。血混じりの唾と一緒に吐き捨てられたナイフが、切り裂かれた床の上に転がっていた。
「愉しいなァ……こぉんなに愉しいのは、初めて野郎の肉穴を嬲って以来だァ」
痛みが麻痺しているかの如く、カミラは血塗れの口許に恍惚とした笑みを浮かべていた。
「テメェもそうだろ、ブギーマン? さぁて、前戯は終いだ。そろそろ本番と行こうぜぇ?」
ひゃはははははは! 甲高く哄笑が谺する。
耳元まで裂けた口に、蛭の群れに覆われた四肢、両中指から伸びた刃。醜悪な内面を反映したかの如く、その姿は人外へと変容している。カルルは左手に汗が滲んでいるのに気付いた。
肥大化した下半身が、どくんと脈打つ。来る――そう直感した時、
『主よ、ここまでのようじゃ』
ブラッキオがそう告げた。「あァん?」と女が不快そうに股間を見下ろした時、カルルの耳にもサイレンの音が届いていた。
銃声を聞きつけた誰かか、百合か結弦のどちらかが通報したのだろう。警察が来たようだ。
「ちっ、ポリ共かよ。萎えさせやがる」
視線を上げ、困ったように眉根を寄せながら女は言う。頬の傷は既に塞がりかけ、ピンク色の瘢痕組織が裂け目から覗いていた。
「悪ぃな、ブギーマン。本番は次にお預けだ。なぁに、ちっとばかしの辛抱だぜ。直にまた遊んでやっから、それまでマスでもかきながら楽しみにしててくれや」
異形の両脚を撓ませると、五メートル近い天井まで垂直に跳ね上がり、屋根を壊してて外へ出た。屋根から屋根へ移動する音とともに、霊気もまた遠ざかっていく。やがて感じ取れないほど霊気が小さくなったのを見計らい、カルルは右半身の鎧を解除させた。
「あ、あの……」
おずおずとした声が、カルルを呼ぶ。振り向き様、何かがひび割れる音がした。
音を聞きながら脳裏をよぎるのは、今しがた鼻先を掠めた一撃――避けきったつもりでいた刃は仮面に深く傷を刻み、振り返った拍子にその亀裂が広がったのだ。
顔を覆っていたものが剥がれ、真っ二つになって床に落ちていく。こちらの顔を見た百合が、「あっ」と小さく口を開いた。
スイッチが入ったように思考を殺意が占める。カルルは左手のナイフを意識した。
『いけません! カルル!』
こちらの意図を察し、ナルが正面に立ち塞がる。
――……オイ、クソガキ。何もたついてやがる?
頭の中で、自分ではない誰かの声が聞こえた気がした。立ち止まったカルルに、声は続ける。
――考えてもみろ。もし仮に、この小娘共がテメェの正体を喋ったらどうなる?
ブギーマンの正体が知れ渡れば、この島のあらゆる勢力に目を付けられるだろう。そうなれば、最早例の〝鍵〟を探すどころではなくなる。ナルとの契約も果たせなくなる。
――分かってるじゃねぇか。なら、テメェのすべきことは何だ?
殺すことだ。自らの正体を知った者を。
実体を持たないナルの身体をすり抜け、カルルは百合へと近づいた。
ナルが耳元で何か叫ぶ。まるで雑音だ。何の意味もない言葉に思える。そのまま首筋に狙いを定めた時、ふいに標的が口を開いた。
「ありがとう」
瞬間、遠い記憶がフラッシュバックする。
自分を庇って銃弾の雨に晒された少女が、草むらに倒れ込む。仰向けになった彼女は目を大きく見開き、口許から血を溢れさせている。
男が喚く。止めを刺せ。早くしろ。もたつくな。
男に命じられるがまま、カルルは少女に殺意を向ける。そこにナルの声が割り込んでくる。
――死者は生者の心に、空白を残していくのです。死は現世での別れであり、日常からその存在が失われることと同義なのです。
また別の風景が浮かんだ。花で飾られた、死者が眠る場所。
ベンチで隣に腰掛け、パンを食べる百合。額に汗しながら、水遣りを手伝う百合。墓に祈りを捧げる百合。別れ際に他愛ない質問をして、微笑む百合――
日常となったあの風景からその全てが消えて、誰もいない場所で自分だけがそこにいる。そんな光景が頭をよぎった時、見えない力に縛られたように、そこから一歩も動けなくなる。
少女の声が聞こえた気がした。心象風景から現実へ、意識が立ち返る。
焼け焦げ、溶け崩れた残骸が散乱する、地獄のような光景。結弦を抱いた百合が居るそこだけが別世界のように、割れた窓から差す紅の陽光に照らされていた。
過去に殺した少女の顔が百合に重なる。百合は微笑んでいる。あの日の彼女と同じように。
サイレンが近づき、ブレーキの反動でタイヤの擦れる音が続く。カルルは出口へと走った。
赤錆びた廃墟を背に思う。何故殺すことを躊躇ったのか――何故、殺したくないと感じたのか? そして今自分は、何から逃げているのか? 答えのない問いに思いを巡らす。
カルルはまだ気付かない。自らに訪れた微かな、しかし決定的な変化に――