第三章 異邦人
1
『おはようございます、カルル』
目を覚ますと、夢で視たのと同じ骨の仮面がこちらを覗き込んでいた。
魂の深い部分で繋がり合っているいるせいか、契約者の肉体が休眠状態になると、しばしば堕群人はその記憶を垣間見るという。特に過去の出来事を夢に視た場合、鮮明な映像としてそれは共有される。つまりカルルが視た夢をナルもまた視たはずなのだが、骨頭の堕群人は特にそれに触れるでもなく、
『おや、まだ寝ぼけているのですか? 眠りを愛してなりませんよ。それは堕落の道に通ずるのですから。さあ早く起きるのです。新たな一日が始まりますよ』
普段通りの相方に頷きを返すと、侍者服に袖を通して洗面所へ向かった。
鏡に映る顔はまだ少し眠たげだ。包帯を外して寝たので、首に嵌った円環も剥き出しのまま映り込んでいる。ナルとの契約の象徴とも言うべき物――艶の無いその漆黒の表面を指先でなぞりつつ、カルルは思い返す。
〝この世界を救うために、自らの命を擲ち、大罪を犯す覚悟はありますか?〟
初めて出会った時、ナルはそう言っていた。だが少年は、己も、他人も、世界も、どうなろうが構わなかった。この堕群人と契約を結んだのは、思想や使命への共感からではなく、もっと別の理由からだった。
『ほら、ぼんやりしてないで! シャキッとして下さい!』
急かされつつ顔を洗い、髪を整える。最後に首に包帯を巻いて身支度を済ますと、情次が待つだろう一階へ向かった。
「おう、やっと起きたか。遅ぇぞ、カルル」
リビングに着くと、平服姿の情次が二人分のカップにコーヒーを注いでいた。
二日酔いに特有の顔にむくみもなく、吐息にもアルコール臭は混じっていない。よくよく酒に強い体質なのか、昨日のナルの心配は杞憂に終わったようだった。
コーヒーを注ぎ終えるとテーブルにつき、情次はテレビのリモコンを手に取った。カフェイン摂取で目を覚まし、ニュース番組を観て説教用の時事ネタを仕入れるのが、この教会の一日の始まりだった。
カルルはテーブルに置かれた砂糖とフレッシュを手に取ると、自分の分にこれでもかと注いだ。うんと甘い、殆どカフェオレ状態のコーヒーに口をつけると、
「やれやれ。ブラックの良さが分からんとは、ガキんちょめ」
砂糖もフレッシュも入れない真っ黒な飲み物を、さも美味そうに飲む情次。
ブラックコーヒーの何がいいのかは知らないが、何故それが分からないと子ども扱いされるのか、少し釈然としない気持ちがあった。
『気にしなくていいのですよ、カルル』隣の席からナルが口を挟む。『味の良し悪しを判断するのは、あくまでも個人の主観。何も足さずコーヒーそのものの香りと苦みを楽しむ者も居れば、ミルクと砂糖を加えた味のハーモニーを楽しむものも居る――ただそれだけのことです。本当に子供じみているのは、そこに優劣をつけて人を見下したり、優越感に浸ろうとする、この男のような者の方です』
なるほど、とカルルが頷けば、見咎めた情次が口を尖らせ、
「なあ。今お前の相棒、俺の悪口言わなかったか?」
少し考えてから、カルルは首を横に振った。
疑わしそうな目で「どうだか」と呟くと、情次はテレビに視線を戻した。
画面上には、海上で睨み合う巡視船の映像が映っている。ツガル海峡にて、北方船舶の領海侵犯があったらしい。
この海峡を境にアメリカとソ連が旧日本を分断統治したのは、現在より七十四年前の一九四五年――先の大戦後のことだ。
当初は中国とイギリスも日本領の分割に参加する予定だったが、中国は共産勢力との内乱、イギリスは自国の復興優先を理由にこれを拒否。当時、既に米ソ対立は深まっており、両国の不在は、列島におけるこの対立図式を一層鮮明化させた。
やがて北日本が〝日本人民共和国〟樹立を宣言すると、この動きにアメリカは警戒感を強めた。一方の南日本も、焦土と化した国土に多額の対外債務、食糧危機など、多くの問題を抱えていた。
南日本がアメリカに併合されたのは、共和国樹立より一年後の一九四八年。アメリカは共産圏への対抗意識から、日本は経済援助を求め、双方の同意により〝ニホン州〟は誕生した。
そんな南を北は売国奴と罵り、同年ソ連軍とともに東北地方へと侵攻。後に列島戦争(Japanese Islands War)と称される争いの幕開けである。
三年後の一九五一年には休戦協定が、四十五年後の九六年には停戦合意がなされた。しかし今尚、イデオロギーの違いから両者の関係は良好とは言えず、時折こうした小競り合いを続けているのだという。
いつものことか、という感じで司会者も適当に流し、再びスタジオに映像が切り替わる。
次のトピックは科学関連。ニホン州出身の科学者〝東儀要〟によって、堕群人の行使する事象改変能力〝堕術〟のメカニズムが科学的に解明されたという話題だった。
《〝現代のダ・ヴィンチ〟と称されるカナメ・トーギ氏による今回の発表ですが、早速学会では大反響を呼んでいるようです。とはいえ直接話を聞いても、専門家ではない我々には不明な点が多々あります。そこで今回は、この方にお越しいただきました。どうぞ》
司会者の声とともに、画面端から頭の禿げた初老の白人男性が現れる。紹介によれば、某有名大学物理学部の教授だという。
《では最初にお聞きします。今回の発表は定説を覆すものと言われていますが、そもそも定説はどのような内容で、新説との間にはどういった相違点があるのでしょうか?》
《皆さんもご存知のように、現在地上は獄界から漏れ出た〝瘴気〟なるガス状物質に覆われています。地上のガス同様、瘴気もまた微細な粒子の集合体と目されてきましたが、常に気体の状態で漂っているため、既存の装置では詳細な観測は不可能。ダムドが行使する超自然的能力〝堕術〟との関連性も長年指摘されてきましたが、具体的なメカニズムに関しては何も分からないままでした。それが今回、トーギ氏が設計した新型の観測機によって、瘴気の組成が明らかになり、驚くべき事実が判明しました。粒子と考えられてきた瘴気の構成物質は、単一の粒子ではなく、ある種の構造体だったのです》
《構造体……というと?》
《謂わば極小の〝装置〟であり、その一つ一つが物質を構成する最小単位――即ち、素粒子に干渉する機能を持ちます》
スタジオ内のディスプレイに、映像が投影される。〝quark〟、〝lepton〟、〝Boson〟と書かれた小さな球を、イカ型のロボットが何本もの腕で掴み取り、並び替えている、漫画的なイラストだ。
《個々の働きは微々たるものですが、無数の装置が一斉に作用すれば、マクロレベルでの物質や環境の改変へと帰結します。化学反応による熱や電気といったエネルギーの発生、分子構造の分解・再構成は勿論、大気中の遊離的素粒子を操作して物質を形成したり、原子核組み換えによる核反応や新元素生成も、理論上は可能と言えます》
学術用語の羅列を聞きながら、司会者は分かったような分からないような、釈然としない表情を浮かべていた。カルルもそうだったし、情次も眉間にしわを寄せている。たった一人ナルだけが、何やら感心したように頷きを繰り返していた。
《えーと……では、その装置が――》
《〝QuIDD〟です。トーギ氏はこの微細な装置が持つ特性に着目し、〝悪魔の量子干渉装置(Quantum Interference Demonic Device)〟――〝QuIDD〟と通称しています》
教授がそう口にすると、ディスプレイに映し出されたイラストの下部に〝QuIDD〟という名称が表示された。
《まあ、あくまで〝装置〟というのは、その機能性に即した呼び名にすぎません。実物はこのイラストのように機械的外観ではなく、むしろ有機的な構造を取り、複数で一個体の如く振舞う群体生物の如く――》
《えー、ではそのクイッド? とかの存在が明らかになったことで、今後どのような技術的発展が予想されるでしょうか?》
脱線しかけた説明を遮って、司会者が話を先に進める。
《あっ、できれば我々のような素人にも分かり易いよう、専門的な言葉抜きにお願います》
付け加えられた注文に渋い表情を浮かべつつも、教授は質問に応じた。
《まだ仮説の段階ですが、QuIDDを動かすのはダムドが発する信号――ある種の波動と推測されます。そうですな……皆さんに身近なものに喩えるなら、ダムドとQuIDDの関係は端末とサーバーのそれに近い。端末は電子データを電波に変調させ、サーバーと情報のやり取りをしますが、送受信可能なデータ量はその電波強度に比例します。
魔力の高いダムドほど、より高位の堕術を行使可能と言われますが、この比喩に沿って考えれば、〝魔力の高さ〟とはQuIDDへ送る波の強弱と同義と言えるでしょう。発する波が強いほどにより大きなデータを扱えるようになり、結果的に堕術の規模や複雑性が増すという訳です》
画面に映る面々が、一様に得心の表情に変わる。喩えを使った分、さっきと比べればずっと分かり易かった。
《もしもこの波動のパターンを解析出来れば、人工的に堕術が再現出来るかもしれません。そうなれば、僅かな対価で莫大なエネルギーを生んだり、大掛かりな設備を使うことなく工業製品を量産することも可能になるでしょう。医療分野で応用すれば、不治とされてきた病の治療や、老化の遅延なども夢ではありません》
教授が語る夢のような未来に、一瞬誰もが顔を輝かせるが、
《しかし現状まだQuIDDは発見されたばかりであり、実現はまだまだ先のことです。少なくともその頃には、我々もとうに死んでいるでしょう》
さも面白いことでも言ったみたいに、教授が笑う。冷や水を浴びせるような発言に、周囲も不快そうな表情。
コーヒーを啜りながら、「空気読めよ、ジジイ」と情次が呟く。
一通り教授の解説が終わり発言のバトンが戻ると、気を取り直すように、オホンと司会者は咳払いをした。
《いずれにせよ、今回の発見が科学技術発展における大きなターニングポイントになることは間違いありません。トーギ氏の名も歴史に残ることでしょう。ですが彼――或いは彼女は、その素顔を公に晒したことはありません。性別や年齢、人種、その他一切が不明の謎の人物です。〝カナメ・トーギ〟なる名も、科学誌に論文を投稿する際に使う筆名であって、本名は明かされていません。これまでにも物理学のみならず、化学や医学、生理学など、様々な分野にて画期的な論文を発表し、幾度もノーベル賞候補に選出されてきました。しかし当人は、顔を見せたくないという理由から辞退を繰り返しています。果たして今後、トーギ氏が公の場に立つことはありうるのでしょうか?》
続いて〝謎多き天才、その正体に迫る〟という英字幕が流れ、また画面が変わる。
元FBIのプロファイラーなる人物にインタビューし、これまでに東儀要が残した発言などから人物像を推測しようという企画らしい。
サングラスを掛けた如何にも胡散臭そうな男がスポットライトに照らされ、足を組みながら暗室に佇んでいる。カメラ目線のまま男の顔がアップになり、何かを口にしかけたタイミングで、急に情次がテレビの電源を切った。
『あー、いいところだったのに! 何でいきなり切るんです!』とナル。
カルルが相棒の台詞を代弁すると、情次は呆れた風に肩を竦め、
「そいつのツラ、別の番組でも見たぜ。そん時は霊能力者って触れ込みだったな。元FBIで霊能力者ってどんな肩書だよ。ったく、名前や髪形やら格好やらを変えたぐらいで誤魔化せると思ってんのかね。視聴者を舐めんじゃねぇっての。カルル、お前もいつまでもちんたらコーヒー牛乳飲んでんじゃねぇぞ。時計を見てみろ。おら、仕事だ仕事」
急かされるように飲み干すと、カルルは情次とともに玄関へ向かった。
2
ナルとの契約からほどなく情次と出会い、以後八ヵ月間カルルはこの島で暮らしている。
人種構成は日系が七割、韓国や中国などアジア系にロシア人が三割。日本人民共和国からの亡命者らしき者も稀に見かけるが、アメリカ本土からの移住者は殆ど見ない。
人々の肌の色も、価値観も、生まれ育った環境とは何もかもが違っていた。特に面食らったのは言葉の違いだ。
母国ではフランス語が公用語だったが、住んでいた地域が英語圏の国と隣り合っていたため、ネイティブ同様に英語も話せた。アメリカの一部であるニホンでも、当然英語が話されているものと高を括っていたのだが、実際現地に来てみれば、見事予想は裏切られた。この州では、未だ旧日本の母国語が使われていたのだ。
恐らくは根本的に言語体系が異なるためだ、とナルは言う。戦後、GHQ主導で新言語導入が進められたが、かつてイギリス領だった香港と同じく、公用語として扱われながらも英語がかつての母国語に取って代わることはなかった。
近年では国内におけるニホンの存在感が増し、本土の幾つかの州でも、日本語が必修科目に指定されるという逆転現象まで起きているそうだ。
本土の若者の間では〝Japan as cool〟なる価値観が広がり、漢字に英語の意味や読みを当てはめるという言葉遊びが流行。ニホンで広まった〝堕群人〟なる当て字も、彼らが生んだネット発祥のミームを逆輸入したものだという。
不思議な州だ。礼拝堂の床をモップ掛けしつつ、カルルは思う。
契約後、ナルからは様々なことを教わった。自身の祖国がかつて植民地化だったことも、今尚続く内戦の原因の一端が米ソの対立にあることも、今は知っている。
同じく隷属の歴史を辿ったはずのニホンは、今尚文化の独自性を保ち続け、アメリカへの強い影響力を持つに至っている。
ナルによれば、背景の一つは人口の多さだという。州人口は一億強。アメリカ全体の四分の一弱に達し、有権者の割合から政界における発言力も高い。ニホン州の支持が無ければ大統領になれないとさえ言われ、実際過去何人か日系の大統領が選出されている。
議会での発言力が強まれば、州に有利な法律も作れる。優秀な人材が、差別のハンディを受けることなく活躍の機会を得られる。
政治、経済、科学、スポーツ――幾つもの分野で、日系の著名人が名を連ねている。さっきニュースで紹介された、東儀要もそうだ。
窓の外に目を向ける。紫色の空に銀色の朝日が昇り、東側は灰色に染まっていた。
カルルの記憶にはないが、十一年前の〝災厄〟以前、空は青かったそうだ。瘴気が光の屈折率を変化させ、本来の色を損なわせているのだ。
〝災厄〟を機に何万もの堕群人が降臨し、その中にナルもいた。
堕群人との契約によって、少年は力を得た。その源泉こそが瘴気であり、東儀要曰く、その実体は〝QuIDD〟という極小の装置の集合体だという。
これまで堕術は人の理解の及ばない力と思い込んできたが、あのように科学的な説明をされると、その原理を把握したい欲求が湧いてくる。
カルルはナルを呼び出し、詳しい話を聞くことにした。しかし――
『残念ながら、私にも堕術の原理は分かりません』
話を振るなり、そんな答えが返ってくる。
自分で使う力のことが分からないとは、どういうことだろう? 首を傾げるカルルの懐を指さし、ナルは続けた。
『例えば貴方は、そのポケットに入った携帯端末が如何に音声を発し、映像を流し、ネットに接続するのか、深く考えてみたことはありますか?」
何故今そんなことを訊くのか訝しみつつ、カルルは頭を振った。
『何故ですか?』
「知らなくても使えるから」
と答えた後で、ナルの言わんとすることが何となく分かった。
『堕群人にとっての堕術もそのようなものです。現世に数多ある文明の利器同様、特に意識するまでもなく自在に操れるのですから、わざわざ原理を知ろうとする者は殆どいません。分かっていることと言えば、〝堕群人が放射する魔力に瘴気が反応し、堕術が生じる〟という程度。有体に言って、現世の方が遥かに獄界に関する研究は進んでますよ。特にあの東儀要という人物の見解は、非常に興味深い。私が生きていた頃はまだ獄界と現世の接近が始まったばかりでしたが、あれから十数年後の現代においてこれほどまでに研究が深まっていたとは、正直驚きを禁じ得ませんね』
「そういえばナルが生きてた頃って、十年ぐらい前だっけ?」
『ええ、あの当時はまだ瘴気も蔓延しておらず、空もこんな色ではありませんでした。あの透き通るような青い色を、願わくばもう一度見てみたいものです』
「青でも灰でもどっちでもいいと思うけど、空の色がそんなに気になる?」
『はい、あの美しさはまさに神の御業です! 晴れ渡る空の鮮やかさもさることながら、雲間から指す天の梯子の神々しさや、黄昏時に見える藍と緋色のグラデーション、星が瞬く満天の夜空――私が地上に居られたのはほんの僅かでしたが、本物の空が見せる表情は、今でも忘れることは出来ません』
まるでずっと地の底で暮らしてきたかのような口振りに、以前ナルから聞いた話を思い出す。生前の彼女はとある地下施設で生まれ育ち、予知能力で得た未来の知識を元に、兵器開発を強いられていたという。
ナルが堕術を行使して具現化する兵器群も、彼女やその仲間が開発したものらしい。
初めてこの話を聞いた時に思い出したのは、組織が崩壊した夜のことだ。あの夜自分達を追跡した三体の人形は、明らかに既存の無人兵器と一線を画していた。
――あれは、生きていた頃のナルに何か関係があるんじゃないか?
ナルの堕術を使う度、そんな考えがカルルの頭をよぎったが、直接訊いたことはない。仮にそうだったにせよ、全ては過去のことだ。拘る理由もない。
主人に捨てられ、存在意義を無くした道具を拾った者――カルルにとって重要なのはその一点のみだ。道具を必要とし、新たな命令を与えてくれるなら、人でなかろうと然したる問題ではなかった。それだけで、この堕群人との契約を結ぶに十分な理由だったのだ。
そこからは無駄口を叩かずに掃除に集中した。
モップ掛けを終えると、次は花の水遣り。玄関では、派手な身なりの女達に囲まれ、情次が談笑していた。
よく見る顔。朝ミサの常連だ。直接話し掛けられたことは殆どないが、以前立ち聞きした話や服装から、ショークラブのダンサーと思われた。夜通し酔っ払い共の相手をした後、仕事帰りに朝ミサに寄るのが日課らしい。恐らく目当ては情次だろう。
一人の女が腕にしがみついて胸を押し当てると、別の女が「ちょっと、抜け駆けはよしなさいよ!」と眉間にしわを寄せ、他の女達も「神父様が困ってらっしゃるじゃない!」「そーよ! そーよ!」などと抗議の声を上げる。
〝彼女らは情次に惚れているようですね。あの男、外面だけは完璧ですから〟
前にナルもそう言っていた。〝惚れる〟という意味はよく分からないが、要は情次と性交渉をしたいのだろう。尤も向こうの立場上、彼女らの欲求が叶うことはないのだが。
〝外面だけは完璧〟というナルの言に違わず、一歩司祭館を出た時から情次は別人のようになる。女が柔らかな肢体を押し付けてきても、ただ困ったような顔をするのみで、好色さの欠片さえ見せようとしない。
〝チクショー、デケェパイオツしやがって! あの女共、ぜってぇ俺に気があんのによォ! あー、もうマジ××××してぇ!〟
夜な夜なそんな叫びを上げては、ナルに軽蔑の視線を向けられる男と同一人物とは、到底思えない。
『〝知らぬが花〟ですね』というナルの言を、カルルも首肯する。
すれ違い様、カルルに気付いた女の何人かがこちらを一瞥する。ぺこりと会釈を返して通り過ぎると、関心を無くしたようにすぐまた情次との会話に戻った。
口の利けない〝ガイジン〟の子供への態度など、大抵こんなものだ。基本的に誰も、進んで自分に関わろうとはしない。……尤も、ごく一部に例外もいるのだが。
礼拝堂を出て裏に回ると、そこには芝生が広がり、二十基近い墓石が林立している。墓石の手前にはそれぞれ花が植えられており、季節ごとに様々な花を咲かせる。この季節に咲くのは、ラッフルドスワンというアネモネの種類だ。
死体を埋めるためだけの場所をこんな風に飾り立てる理由も、ここに度々人が訪れる理由もカルルには分からなかったが、人目に付く以上はここの花を枯らす訳にはいかず、毎朝こうしてミサ前には水を遣っていた。
蛇口を捻り、ジョウロを水で満たす。跳ねる飛沫が生温い。年間を通して気温が低いこの島も、初夏を迎えれば多少は暖かくなるようだ。少年がこの島に住み始めた頃はちょうど冬場で、肌に刺すような水の冷たさには驚かされたものだった。
時折遠くから車のエンジン音や、ゴミを漁るカラスの鳴き声が聞こえてくる。そろそろ街が起き始める時間帯のようだ。
この島での生活にはリズムがある。朝起きるとニュースを見ながらコーヒーを飲み、その後は礼拝堂の掃除。掃除を終えると仕事帰りの女達が情次と談笑し、カルルは墓場の花に水遣りを始める。するとそこへ――
『そろそろあの娘が来る頃ですね』
ナルがそう口にした時、裏の通りで、ちりりんとチャイムの音が鳴った。
格子状のフェンスの手前で自転車を止めると、籠に積んだバスケットを手にして、少女がこちらへ近づいてくる。
栗色の髪は短く切り揃えられて、ノースリーブから覗く肩口や、スカートから伸びたタイツ履きの脚が活発な印象を与える。ニッと白い歯を覗かせながら、「おはよう、カルル!」と少女はこちらへ手を振った。
彼女の名は双見百合。近所のパン屋で働く娘だ。歳を訊いたことはないが(というよりは、向こうはこちらが喋れることさえ知らないのだが)、見た目から察するに、多分一つか二つ年下だろう、とカルルは辺りをつけている。毎朝カフェやダイナーにパンを届けているのだが、度々その帰りにミサに参加する常連の一人だった。
声を発さないカルルに代わり、『おはようございます、百合』とナルが、相手に聞こえることのない挨拶を返す。
情次目当ての女達と違い、純粋な信仰心でミサに参加しているからか、彼女もこの少女には好感を抱いているらしい。カルルもまた挨拶代わりに軽く会釈をしたが、バスケットから漂うパンの香りを嗅いだ途端、ぐぅと腹が鳴った。
朝はミサがあるので、いつも朝食は後回しになる。目覚ましに飲んだコーヒー以外、胃の中には何も入っておらず、香ばしい匂いを嗅いだことで空腹を思い出したのだ。
するとこちらの反応を読んでいたかのように、「待ってて」と百合はバスケットを開くと、そこから包装紙に包まれたパンを一つ取り出し、
「はい、今日の差し入れだよ」とウインクをして、手渡してくる。
パンを受け取ると、フェンス際に置かれた休憩用のベンチにカルルは腰かけた。百合も自分の分を手に隣に座る。
「主よ、あなたの慈しみに感謝します――」
いつものように、食前に百合は祈りを捧げる。特に信心はないが、立場上カルルもそれに付き合った。本当はただのフリで、祈りの文句を心中で唱えたりもしないのだが。
見せ掛けの祈りを終えると、包装を半分外してかぶりつく。具材にベーコンとレタス、トマトを使ったBLTサンドだった。黙々と口を動かすカルルを横目に、百合は嬉しそうに微笑んでいる。
「良かった、気に入ってくれたみたいで」
はむ、と少女もサンドを齧る。少しずつ食べる様子は、どことなく小動物を思わせた。
口いっぱいに頬張ったカルルが、ぐむぐむと咀嚼して飲み下すと、百合は水筒から冷たい紅茶を注いでくれた。
彼女との交流が始まったのは、カルルがこの教会に住み始めて間もない、ある朝だった。
今朝と同じく墓掃除と花への水遣りをしていると、突然見知らぬ少女が話しかけてきた。
カルルは面倒に思い、包帯の巻かれた咽喉を指さし、喋れないことを相手に伝えた。そうすれば他の人間同様、自分を避けると思ったのだ。
しかし会話が成立しないと分かっていながら、何故か少女は話しかけるのを止めようとせず、次の日も、また次の日も、この場所へ来た。
あまり邪険にしないようナルからも言われたが、カルルは少女を避け続けた。
構わなければ、その内向こうも諦めるだろうと思っていた。けれど、どんなに無視しても彼女の態度が変わることはなく――そんなある日、ちょっとした事件が起きた。
それは朝ミサの最中。情次が説教をする傍で、盛大に腹の音が鳴ったのだ。
原因はここでの食生活に身体が慣れたせいだろう。故郷に居た頃と違い、一日三食腹が膨れるまで食べられるのが当たり前になったせいで、朝食を抜かしたままだと空腹を感じるようになっていたのだ。後でこってりと情次に絞られたのは言うまでもない。
百合がカルルにパンを持ってくるようになったのは、その翌日からだった。
以来、カルルも百合を無視しなくなり、何か訊かれたら最低限の意思表示はするようになっていた。……要は餌付けである。
三口ほどで食べ終え、多少腹の虫も収まる。カルルが水遣りを再開しようとすると、
「待ってて、もうすぐ食べ終わるから!」
慌てた様子でサンドイッチの残りを食べ終えると、百合ももう一つのジョウロに水を注ぎ、いつものように水遣りに加わる。
活発そうな外見や声に反して、こういう時の百合は意外なほど物静かだ。他の誰かと一緒に居ると、大抵の相手は沈黙を埋めるようにひたすら喋ったり、嫌そうな顔をしてどこかへ行くかの二通りだが、百合は無駄に口を開かずただ静かに微笑むだけだった。
水遣りを終えるとジョウロを元の位置に戻し、百合は一基の墓石に近づいた。
両手で十字を切ると、心の中で何かを念じるように瞼を閉じる。ややあって目を開くと、うんと伸びをしてカルルの方へ向き直り、
「よいしょっと……じゃあそろそろ行くけど、その前に〝今日の質問〟してもいい?」
カルルが首肯すると、少女は墓石を彩る白い花に目を向け、
「――花は好き?」
投げかけられた問いに、カルルは間を置いて頷いた。好きという感情はよく分からないが、少なくとも嫌いではなかった。
「うん、そっか」百合は白い歯を覗かせ、満足げに笑んでいた。
去り際になると、こんな風に彼女は質問をしてくる。いつからか恒例になったやり取りで、今回で多分二十三回目だ。
そのどれもが〝晴れの日は好き?〟とか、〝コーヒーには砂糖やミルクは入れる?〟といった他愛のないもので、何故そんなことを訊くかは分からないが、こちらが頷いたり頭を振って応じると、嬉しそうな顔をして去っていくのだ。
「いつもお墓の花の世話をしてくれてありがとう。じゃ、また後で!」
チャイムを鳴らし、駐輪場へと自転車が駆けていく。その背を見送りながら、カルルは一人首を傾げた。……〝ありがとう〟だって? 何で今、礼を言われたんだろう?
『花は故人への手向けなのです』
カルルが独り言ちた疑問に、ナルが答えた。
『人生を共に生きてくれたことへの感謝、そして天に召されたことに対する祝福の証です。恐らくこの墓には、百合にとって大事な誰かが眠っているのでしょう』
「墓は死体を埋めるためだけの場所じゃないの?」
『確かに死者の魂は天へと召され、肉体は抜け殻となります。ここに眠っているのも単なる骸にすぎません。しかし残された者にとって、親しい者の死は受け入れ難いもの――死者は生者の心に、空白を残していくのです』
「空白?」
『死は現世での別れであり、日常からその存在が失われることと同義なのです。それは心の空白を生み、その空白を埋めるために、故人を愛した者は墓を訪れる。もうそこには居ないと分かっていながら、死者との繋がりを僅かでも感じるために』
やっぱりよく分からないな、と思う。小難しいナルの話し方にも問題はあったが、それ以前に、人が死んで何かを思うということが彼には理解できなかった。
時計台でミサの十五分前を報せる鐘が鳴る。墓地を出て、カルルも礼拝堂に向かった。
3
人は誰しも先入観に囚われる。
聖職者の肩書きは犯罪や暴力のイメージを遠ざけ、人々に敬意を抱かせる。時としてならず者の心さえ開き、ひた隠しにしていた罪をも告解させる。信者らの告解から得た断片的な情報を繋ぎ合わせ、大物の賞金首を捕らえたというケースも少なくない。
全ては先入観故だ。肩書や上辺の笑顔に騙されて、誰もその本質を疑おうとしない。
男の名は悪戸情次――〝ノーマネー・ノーライフ〟を信条とする守銭奴である。
金は好きだ。国や他人と違って、決して自分の心を裏切らない。善人が持とうが、悪人が持とうが、汗水垂らして得ようが、他人を利用して得ようが、その価値は変わらない。
その点、賞金稼ぎほど旨味のある仕事はなかった。
何年か前まで〝賞金稼ぎ〟と言えば、保釈金を踏み倒して逃亡したベイルジャンパーを逮捕する業者の呼び名だった。あくまで犯罪者逮捕は市警察や保安官の仕事であり、明確な棲み分けがなされていたのだが、近年では少々事情が変わっていた。
サイボーグ技術の普及や堕術使いの増加に伴い、最早凶悪犯罪は警察のみでは対処不能となっていたのだ。そこでアメリカは〝特別報奨金制度〟を全州にて施行。保安局によって犯罪者に懸賞金が設けられるとともに賞金稼ぎの権限も大幅に拡大され、逮捕権が認められるようになった。
傭兵稼業の引退後、情次は偽装IDで資格を取得し、自身の代わりにカルルを戦わせ、何人もの賞金首を狩らせてきた。この島でこれまでに稼いだ総額は一千万以上にも上る。
時々だが、賞金首の写真を目にすると、そいつの身体一杯に札束が詰まっているような錯覚に陥る。ピギーを見た時もそうなった。大量のベンジャミン・フランクリンが詰まった豚の貯金箱だ。そして賞金を手にした途端、そいつはただの空箱になり、興味も失せる。件の豚野郎のことも、既に忘れかけていた。
昨日の事件がまだ終わっていないことを知ったのは、朝ミサと朝食を終え、昼の祈りを捧げていた時だった。
懐で裏稼業用の携帯端末が鳴動する。番号を確認すると、五十嵐清純からだった。
念のため、周囲を確認する。表玄関を掃き掃除するカルル以外、誰も居ない。
人が来たら報せるようカルルに念を押し、情次は堂内奥の告解室に入った。告解者のプライバシー保護のため、室内は防音仕様となっており、外へ声が漏れる不安はない。情次は舌打ち交じりに、通話アイコンをタップした。
「よぉ、五十嵐さんよ。昼間はそっちから掛けてくるなって言ってるだろうが。こちとら、主に祈りを捧げてる最中だぜ」
「そいつぁ悪かったな。ま、事後報告って奴だ。ウチの若いのがあの豚共を痛めつけた結果、色々と面白いことが分かったんでな」
裸に剥かれて椅子に拘束された男達の姿が頭に浮かぶ。
表向き、逮捕された連中は留置場に一時収監され、警察の取り調べを受けているはずだが、実際には金鹿組に身柄が引き渡され、拷問を受けているに違いない。
組の奴らも仲間を殺されてる。その怒りの度合いを鑑みるに、連中が生還出来る可能性はフィフティフィフティってとこだろう。仮に生きて戻れたとしても、五体満足では済むまい。まあ、自分には関係のない話だが。
「豚野郎の扱いには苦労したぜ。象用の麻酔で眠らせる間に、首輪やら拘束衣やら着させてよ。ああ、首輪ってのは堕術使い用の特注品でな。奴らが堕術を使おうとするとだ、センサーが神経電位を読み取って神経毒を注入――」
「ンな話、興味ねぇよ。とっとと要件を言えや」
五十嵐の声は珍しく弾んでいた。こういう〝らしくなさ〟は却って気味が悪い。何んとなく嫌な予感がする。
「ああ、実はな。昨日テメェの相棒が捕まえたのは豚野郎を含めて計四人だったが、奴らの話では、五人目が居たらしい」
「ハァ……?」
ありえない。車の中に居たのは初めから四人だったと、カルルも言っていた。
「確かなのか?」
「信じようが、信じまいが事実だぜ。連中のガラもすでに割れている。〝ピギー・ザ・ハードラバー〟――本名クレイグ・ランドール。元海兵隊員。イラクにおける民間人殺害を機に除隊されている。他の連中も全員が軍人崩れだ。豚野郎が闇サイトで募った連中で、つい最近まで互いに面識はなかったらしい。奴らが言うには、五人目の男は〝タカシ〟とかいうアジア系の優男。ハッキングのエキスパートだが、口数が少ねぇ、コミュ障野郎だったとよ」
情次は片眉を上げた。対人恐怖症の軍人など、存在自体が矛盾している。軍でモノを言うのは、つまるところ協調性だ。如何に優秀な技能があろうが、他人とろくに口が利けないような〝お嬢ちゃん〟に現場は務まらない。
考えうるとすれば、何年か前に設立されたサイバー軍だろうか? 内情は詳しく知らないが、民間からの登用も多いという。仮にそうだとすれば、デスクワークばかりのモヤシ野郎にカルルは逃げられたということになるのだが。
「で、結局そのタカシってのは何者なんだ? そいつも堕術使いなのか?」
「さぁな。さっきの情報も連中から吐かせた情報を元にウチで調べた結果で、サイトには登録者のガラを特定出来るような情報はなかった。タカシってのも、まあ偽名だろ。日系かどうかも怪しいもんだぜ。……さて、こっからが本題だ。俺がテメェに出した依頼は、コレクションの回収とコソ泥共の生け捕り。半分は達成済み、だがもう半分はまだ終わっちゃいねぇ。俺が何を言いてぇか、テメェにも分かるよな?」
予想通りの展開だ。この五十嵐という男はその自尊心の高さ故に、こちらが少しでも弱みを見せれば、普段の仕返しとばかりにそこへつけ込み、優位に立とうとする。
「一週間以内にそのタカシって奴を見つけ出して、俺の前に引きずり出してこい。出来なけりゃ報酬の半額分十五万ドル、利子付きで返して貰うぜ」
「オイオイ、一度受け取ったもんを返せってのか? 冗談は止してくれよ」
「冗談言ってんのはお前だろうが。テメェの落ち度棚に上げてナマ言いやがって。金鹿の代紋ナメてんじゃねぇぞ。この島で俺に目ェ付けられて、タダで済むと思ってんのか?」
溜息が出てくる。こいつの俺様気質は生まれつきなのか、環境のせいなのか。まあ、両方だろう。放任主義のパパに代わって、誰かがこのガキをしつけてやる必要がありそうだ。
「……なぁオイ、分かんねぇか? 今なら冗談で済ませてやるって言ってんだよ。マジにやりてぇんなら、いつでも相手ンなるぜ。何なら本家から兵隊連れてこりゃいい。そん時ゃテメェの親父や兄貴共々、俺らを的にかけたことを死ぬほど後悔させてやるからよ」
息を呑む気配があった。こいつは精神的にはガキだが、衝動任せに破滅を選ぶようなバカじゃない。組を束ねる親父にこの島の支配を任されるぐらいだ、最低限の損得勘定ぐらいは出来る。ややあって、舌打ちとともに五十嵐は口を開いた。
「マジになってんじゃねぇよ。今のはちょっとしたジャレ合いみてぇなもんだろ? こっちもたかが十五万でテメェらと事を構える気はねぇよ。だがこいつは、やりかけの仕事だ。最後までやり通すのが筋ってもんじゃねぇか?」
つまり、無報酬でそのタカシって野郎を見つけろ、という意味らしい。まあ、ここらが落としどころだろう。落ち度がこちらにあるのも確かだ。
「確かに、こっちも中途半端で仕事を終わらすのは主義に合わねぇ。アフターフォローは無償でやってやる。だが、必要経費はそっち持ちだ。情報提供も頼むぜ」
「ああ、分かってる。豚野郎共から新たに情報が聞き出せ次第連絡する。早速、証言を元に作ったモンタージュをそちらへ送る。確認してくれ」
通話が切れ、情次は頭をがりがり掻いた。仕事をミスるというのは、この稼業を始めて初の経験だった。信用とは実績の上に成り立ち、それは百パーセントに近いほど望ましいのだが……とにかくやってしまったものは仕方がない。今すべきは、失敗の穴埋めだ。
一方で妙な違和感もあった。あのカルルが標的の一人を見逃したということもそうだが、たかがコソ泥一匹に五十嵐がこうも拘る理由が分からなかった。
奪われたブツは既に取り戻せたし、主犯であるピギーも捕らえている。タカシだかいう根暗野郎など、せいぜいオマケ程度の価値しかないはず。普通に考えれば今更捕まえたところで、拷問で憂さ晴らしをするぐらいにしか使い道もなさそうだが……。
通話の切れた端末が鳴動した。メール画面を開き、添付された画像ファイルを見てみる。
男の似顔絵だ。下がった目尻に、起伏の少ない目鼻立ち。可も不可もなく、特徴がない。目の下を縁取る濃い隈だけが異様に目立っていた。
「んー……気のせいか? コイツのツラ、どっかで見たような気が――」
その時、コツコツ、と告解室のドアを叩く音がした。返事をすると、向かいの小部屋からカルルが顔を出した。その後ろに、誰かが立っている。ヨレヨレのワイシャツを着た、如何にも冴えない印象の三十男だ。カルルが部屋を出ると、男は席に着き、
「ああっ、神父様! どうぞ私の犯した罪を告白させて下さい!」
嘆くように額を片手で覆い、芝居がかった調子で言った。
「……あー、神は如何なる罪をお許しになられるでしょう。どうぞお話し下さい」
「はい……実は私、町で医院を経営しておりまして」
「ほう、お医者様ですか」
「ええ。この界隈では数少ない医院ですので、小さいながらも毎日多くの患者が来院します。人の命を救うという医者の本分に則り、これまでどんな相手も分け隔てなく受け入れて参りました。家を持たぬ人々や、不法就労の外国人労働者、抗争で傷を負ったギャングの治療をしたこともあります」
「ご立派なことです。主も説かれているように、人の命に貴賤はありません。その行いは正しいものです」
「ありがとうございます……ですが私は、その立場を利用してさる罪を重ねてきたのです」
「と言うと?」
「この町には、無数の〝目〟があります。即ち、人の目です。一人一人が目にする世界は、狭く限定的なものです。しかし個々から得た情報を収集し、統合させれば、そこから様々な真実が見えてきます。
神父様……私は欲に塗れた人間です。医師と言う立場を利用し、治療費の代わりに私の〝目〟になるよう患者達に要求してきたのです。そうしてこれまで様々な情報を得ては、それを売ることで大金を得てきました。そして実を言うと、ここへ来た本当の理由も罪の告白ではございません」
小窓の奥で、ニヤリと男が口許を歪める。同じ穴の狢の――守銭奴ならではの嫌らしい笑みだ。
「そこの彼、昨日も大活躍だったそうですね。……分け前を貰いに来たぜ、神父様」
男の名は三善二郎。スラムで闇医者を営む傍ら、情報屋の顔を持つ情次のビジネスパートナーだ。
専属契約を結んでおり、この島で変わったことが起きれば真っ先にこちらに伝える約束だった。この間もこの男の情報から、ピギー達の動きに気付くことが出来た。そして今回は、その代金を頂きに来たということだ。
情次は昼の祈りを済ませた後、カルルと三善を連れて司祭館に向かった。
カルルに見張るよう言いつけ、応接間に待たせておく。地下の隠し扉の奥から札束を取って部屋に戻ると、勝手に冷蔵庫を開けて酒を飲んでいた。
「あっ、三善テメェ! 勝手に飲ってじゃねぇ!」
「ハハ、堅ぇこと言うなって、こちとら客だぜ。そうカッカせずにお前も飲めよ」
「うっせぇ、このヤブ医者が。俺はテメェと違って、仕事とプライベートは分けてんだよ。仕事中に飲むかっての」
「流石は近所で評判の神父様だ。ま、こっちは好きなようにやらせてもらうぜ」
ソファに寝そべりながら、三善はぐびりと喉を鳴らした。
「だーかーらー、それ俺の酒な! 勝手に飲むなっての! オイ、カルル! テメェも見てないで、コイツ止めろよ!」
「止めた方がいいの?」
「当たり前だろうが! てか、何で止めねぇんだよ!」
「ナルが〝冷蔵庫の酒を処分するにはいい機会だ〟って」
「お馬鹿野郎! 酒は俺の生き甲斐だっていつも言ってンだろが! オイ、三善! 笑いながら飲んでんじゃねぇ!」
「いや、ワリイワリイ。お前らの漫談が面白くて、ついな。ゴット・タレントにでも出たらどうだ? いい線まで行くかもしれねぇぜ」
「テメェの下らねぇジョークよりは受けるかもな。ほらよ、分け前だ」
やれやれ、と言いたげに肩を竦め、テーブルに置かれた札束を手に取る三善。人差し指で弾いて枚数を確認すると、満足げに歯を剥いた。
「確かに、きっちりいただいたぜ。しっかし、大したもんだよな。お前んとこのカルル君。あのピギーをやっちまうんだからよ。あいつ〝ネームド〟の中でもかなりの大物なんだぜ」
賞金首の一部には、その話題性などからタブロイド紙で異名を付けられる者がいる。そういった手合いを世間では〝名前持ち〟と呼んでいた。中には警官隊が束になっても敵わない奴もいる。捕まえれば、一生遊んで暮らせるような大物だ。
「この町で〝ブギーマン〟の名を知らない奴はいねぇ。〝ネームド食らい〟なんて呼ぶ奴もいるぐらいだ。ピギーを倒したことで、更に株は上がったろうよ。きっと他のネームド共もピリピリしてやがるぜ。〝ブギーマン〟が自分の所に来るんじゃねぇか、ってな」
「その豚野郎の件だがよ」
「うん?」
「お前、あいつの情報を前々から掴んでたんだよな?」
「まあな。最初の内は、野郎がピギーだってことにも気付かなかったがな。ただ見慣れねぇ奴が居るって話を小耳に挟んだ程度だ。この島の連中は余所者の匂いにゃ敏感だからな」
「なら、奴のことで何か分かったら情報を頼む」
「ああ、そりゃまあ問題ないが……何で今更そんなことが気になる? とっくにこの件は終わったはずだろ?」
「いいや、まだだ。この件にゃ、まだ裏がある」
言いながら情次は、懐から追加の札束を取り出した。目を丸くして三善が聞き返す。
「おい……お前、そいつぁ一体何のつもりだ?」
「今後の調査費用だ。足りないってんなら、もっとくれてやるぜ。いいか、三善。俺の勘じゃあ、こいつはただの強盗じゃねぇ。もっとデケェ何かだ。上手く行きゃあ、大金に化けるるぜ。テメェも一口乗ってみろよ」
圧倒されたように、三善が身を引いた。見開いた目の中に自分の目が移り込んでいる。 決して信徒の前では見せられぬ、欲にぎらついた目。この目を見れば、誰もが自分に幻滅するだろう。〝守銭奴〟、〝金の亡者〟、〝人でなし〟――好きなように呼べばいい。
――金、金、金……。俺には金が要る。一千万ドルでさえ、まだ足りない。マイナスをゼロに戻すには――この身体を元に戻すには。
……その時点では、まだ情次も事態の全容を把握してはいなかった。
ピギーの裏で糸を引く黒幕の正体にも、その真の目的にも、そしてこの事件が如何な決着を見るのかも――
人と人の欲が絡み合い、物語は紡がれる。
彼らが動き始めた傍ら、もう一方の勢力もまた新たな動きを見せようとしていた。
4
モリクニ島の面積は約二二〇スクエアマイル。首都東京市の二三区とほぼ同程度である。
島を縦断する高速道路を境に、その領域は明暗に二分される。即ち、西と東に。ヤクザが牛耳る歓楽街とともに発展を遂げた新市街と、搾取され続ける人々が住まう旧市街に。
地場産業衰退に伴い旧市街はスラム化が進み、所有者不在の建築物が点在している。浮浪者や犯罪者など、脛に疵を持つ者らが身を隠すには、絶好の場所である。そんな数ある廃屋の一つ――元はラブホテルだったビルの広間に、六人の男達が集まっていた。
ブラインドの降りた大部屋の中、携帯用ランプが彼らの顔を照らしている。全員がアジア系の顔立ち。各々身体が薄汚れ、垢や汗の染みついた服を着ているが、目付きや身に纏う空気は浮浪者のそれではなかった。
「では、改めて報告を訊こうか。准尉」
丸太のように太い首を微かに震わせ、男の一人が重々しい声を発する。日本語だった。
メンバーの中では最も年嵩の男だ。背丈は一八〇センチ程度と、他のメンツに比べてそう高くない代わり、一際屈強な体つきをしていた。
首も、胴も、四肢も、全てが太い。重戦車のような体躯からは、隠しようのない血と暴力の匂いが立ち昇っている。
「サー、イワイ大尉」
男と相対するのはパーカー姿の優男。ピギーらが〝タカシ〟と呼んだ、あの青年である。
しかしそこにはピギーらの前で見せた、卑屈で陰気な印象はない。大尉と呼ばれた男の威圧的オーラを前に、淡々とした口調で青年は報告を始めた。
「五十嵐邸の襲撃に成功後、ピギー・ザ・ハードラバーは北を目指し、逃走。警官隊の追跡を振り切るも、その後賞金稼ぎの襲撃に遭いました」
「〝ブギーマン〟だったか? この島では随分有名なようだな。〝ネームド食らい〟とは聞いていたが、よもやあの男が敗れるほどとはな。我々にとっても不測の事態だ」
本来であれば、北の倉庫街で強盗団と合流し、〝ブツ〟の受け取り後はロシアンマフィアの手引きで海の外へ逃れるはずだった。
しかしピギーが捕まったことで、予定は大幅に狂った。敵に居場所が知られた危険性を鑑み、倉庫街に築いたアジトは放棄。旧市街地のスラムへ拠点を移さざるをえなくなった。
目立たぬよう皆別行動を取り、この場所に全員が合流した時点で、ピギーの逮捕から既に二十時間以上経っていた。
「申し訳ありません。私がついていながら、このような結果に」
「構わん、奴の敗北は私の見立て違いだ。だが――」
ほぼ何の予備動作もなく、大尉が右拳を突き出した。金属がぶち当たるような打音とともに、青年の顔面が変形する。
周囲の男達に反応はない。吹き飛ばされ、コンクリートの床に尻餅をついた仲間を、機械のように無機質な眼差しで見下ろしていた。
「何故ケースを持って逃げなかった? 何のために身分を偽らせた上で、貴様を奴らに同行させたと思う? いざとなれば、〝ブツ〟だけでも回収しろと命じたはずだ」
手の甲で鼻血を拭いつつ、准尉と呼ばれた青年が立ち上がる。怒りや恐れといった感情はおろか、痛みさえ忘れてしまっているかのように、変化のない表情で。
「ピギーの磁力操作能力です。奴は存外に慎重な男でした。仲間の持ち逃げを警戒し、戦闘中も〝ブツ〟の入ったケースを磁力で固定させていたのです」
大尉は舌を打った。表立った行動を避けるため、外部の人間を雇ったことが裏目に出たのだ。
「それで……奴は今どこへ?」
「警察から金鹿組に引き渡された模様。その後、拷問用の施設に移送されたと思われます」
「場所は?」
「不明です。噂によれば、新市街のどこかにあるそうですが」
――新市街……ヤクザ共のシマか。そうなれば、こちらで探し出すのは難しい。ただでさえ地理に疎い上、自分達のような人間がうろつくには目立ちすぎる。
「……准尉、奴が我々の事を喋る可能性はどの程度と見る?」
「低いでしょう。仮にも奴はプロです」
「〝低い〟……か」
だがゼロではない。僅かでも可能性があるのなら、徹底してそれを排除せねばならない。そしてそれを可能とする手段が、たった一つ存在する。
「……カミラ・ロマノヴィチに連絡を取れ」
大尉がその名を口にした瞬間、鉄面皮の男達に明らかな動揺が走った。
「本当に、よろしいのですか?」
准尉の確認に一瞥を寄越し、「他に選択肢があるのか?」と大尉。
「いえ……大尉のおっしゃる通りです。現有戦力の中では、彼女が適任……いや、彼女しかこの任務を成し得る者は居ないでしょう」
僅かに准尉の表情が歪む。嫌悪の色だった。
「では、私の方から彼女に――」
「いや、奴もまた我が部下だ。命令は私が下す」
部下達の心情が、大尉には手に取るように分かる。この場に居る誰もがあの女を嫌悪し、使役することに抵抗を感じている。だが奴は、この場に居る誰よりも強大な力を有してもいるのだ。
登録した番号をタップし、相手が出るのを待った。耳元にコール音が響く。何度目かのコールの後、荒い女の息遣いが耳に届いた。
「なん、だ?」
「事態が動いた。カミラ・ロマノヴィチ、お前に任務を命じる」
「ハァ……ハッハッ! あん? なん、ハハッ、オゥ……オオッ! ハッ、ハ……ッ! な、んだ、って?」
荒い息遣いに混じる、喜悦に満ちた喘ぎ声と、肉に肉がぶつかる湿り気を含んだ音。微かに、すすり泣く少年の声が聞こえた気もした。
「貴様……こんな時に何をやっている?」
「ハ……ハハッ! 馬鹿か、お前? 何って、決まってんだろ? ナニしてるに決まってんじゃねぇか。まあ、待ってろよ。今! すぐ! イクからよォおおォォおお!」
感極まったカミラの声に、少年の断末魔がオーバーラップする。スピーカー越しに、何かが蠢く音。怖気が走った。鼓膜の奥に蛭が入り込んでくるような不快感。
束の間の静寂の後、気怠げな女の吐息。少年の声はもう聞こえなかった。
「で、何つった? 任務、だったか? いいぜぇ……ここんところ暇だったんだ。暇で、暇で、暇すぎて、ついつい犯って殺っちまうぐらいになぁ」
込み上げる吐き気と怒りを堪えつつ、大尉は話を切り出した。これ以上、一分一秒だろうとこの外道と会話するのは耐えられそうにない。
「ピギー・ザ・ハードラバーが金鹿組に連行された。詳細な位置は不明だが、恐らくは新市街の何処かだ。……探し出して奴を殺せ。誰にも気付かれずに、だ」
「へぇ噂にゃ聞いてたが、あの豚捕まったってマジかよ。つーか、ガチに殺っちまっていいのか? あいつ、多分何も吐かねぇぜ。ドМ野郎は口が堅てぇからな」
「だが、その可能性もゼロではあるまい。この任務に予断は許されんのだ」
「ま、別にいいけどよ。こっちも飽き飽きしてたとこだ。人間相手じゃ、ちょっといびっただけで死んじまうからな。その点、契約者はしぶといからよぉ。あの豚、ビジュアルはクソだが、遊び道具にゃ使えそうだ。へへ……イイねぇ。どうやって遊ぶか考えただけでも、イタしたくなってくるぜェ!」
「おい、分かっているだろうが、人目に付くことは許さん! 速やかに任務を遂行しろ!」
「へいへい、りょーかい、りょーかい。要はバレずに殺りゃいいんだろ? オレらの堕術なら訳はねぇ。せいぜいマスでもかいて待ってな」
嘲るような笑声とともに通話が切れる。
視界がぐらついていた。叫びを上げ、何もかも壊したい衝動に駆られる。傍に立つ円柱に手を当て、身を支えた。
大きな物音をさせれば、付近にたむろする浮浪者共が怪しむ。口を封じ、拠点を移動させることは可能だが、そんな無駄なことで時間を費やす余裕はない。何より、部下共の前で醜態を晒すのはプライドが許さない。
カミラ・ロマノヴィチ――大尉はあの女を、蛇蝎の如く嫌悪していた。
自らの欲のために他人の命を弄ぶ外道なら、戦場に腐るほど居たが、ああいった手合いにも上下関係や軍内の秩序を理解する程度の頭はあった。
だがあの女には、そんな最低限の理性さえない。誰にも頭を垂れず、国家権力さえ意に介そうとしない。端正な顔に常に嘲笑を浮かべ、世界の全てをその欲望の贄に巻き込もうとする、正真正銘の狂人――
端末越しの奴の顔を想像するだけで、熱がこみあげてくる。奥歯を噛み、感情を抑えた。無自覚の内に、指先に力が入る。超硬チタン合金の骨格と、高分子アクチュエーターの筋肉から成る義手が、五〇〇キロの握力でコンクリート柱を拳大に抉り取った。
深く息を吐き、掌を開いた。粉末と化した破片がさらさらと音を立て、床に落ちていく。
――奴は危険だ。如何に強大な力を有していようとも、いや……そうであるからこそ、あんな化け物を使うべきではないと考えていた。本国からの要請がなければ、奴をこの作戦に参加させるなどありえないことだった。
……だが、状況が変わった。こちらの独断で雇ったピギー・ザ・ハードラバーは任務に失敗し、依然〝ブツ〟は五十嵐の手にある。
「……ピギーの件はこれでカタがつく。問題は例の〝ブギーマン〟とやらだ。奴は何故、あの場に現れた? 金鹿組にもこちらの動きは気取られていなかったはずだ」
「恐らく、独自の情報源を持っているのでしょう。そして五十嵐清純との間にも、何らかの繋がりがある。今回奴が動いたのも、五十嵐から依頼があったためと思われます」
准尉の返答に、しばし大尉は思案を巡らせた。ブギーマンが五十嵐の指示で動くとすれば、今後もこの一件に関わる可能性は高い。
「優先すべきは障害の排除だ。准尉、方法は任せる。何としてもブギーマンの正体を突き止めろ」
「サー・イエス・サー!」直立不動で敬礼の姿勢を取る准尉。
真の軍人は人ではない。軍属となった瞬間から、個を捨て、組織という巨大な有機体の一部となる。
上位の命令系統が指示を出せば、あらゆる感情を排して実行に当たる。任務を遂行するためであれば、己の命さえ切り捨てられる。敵の可能性があれば、女子供を手にかけることにさえ躊躇いを持たない。そこに下劣な快楽はなく、己をも殺す強大な理性のみがある。
大尉は軍人を愛する。組織に殉じ、国家に殉じる愛国者を愛する。愛国心は人のみが持ちうる崇高なる精神の在り方であり、この世界に秩序の光をもたらしてきた。
……だが今、その秩序が崩れ去ろうとしている。堕群人という名の異物によって。
悪魔と契約を交わしたエゴイスト共は自らの欲のままに力を振るい、各国の警察機構は形骸化。治安悪化に伴い、犯罪組織が我が物顔でのさばるようになった。この国では政府もさじを投げ、あろうことか民間人共に警察権を与えているという。
この国は堕落した。少なくとも、かつて自分が愛したアメリカは既に死んでいる。悪魔使いと、奴らを狩るハイエナ共が跋扈する、悪徳の園と化した。
堕術使いを殺しうる者は堕術使いのみだ。〝毒を以て毒を制す〟――唾棄すべきその手段に、自らも手を染めねばならぬことに嫌悪感を覚える。
あの女にブギーマン――クズ同士、せいぜい殺し合うがいい。共倒れは高望みにしても、互いにただでは済むまい。その時が来れば、生き残った方をこの手で殺してやる。
*
通話切れの端末を床に置くと、カミラは股間から生えたモノを〝穴〟から引き抜いた。男の拳大もあるそれは数十の触手が絡み合って形成され、赤黒い体表が血で斑に染まっていた。触手の束が抜けるなり溶け出した内臓と肉が〝穴〟から滴り落ち、タンパク質が溶解する強烈な臭気がまき散らされる。
快楽の余韻と虚しさの入り混じった顔で、カミラは原形を留めぬ死体に語り掛けた。
「よぉ悪かったな、殺しちまって。けど、仕方ねぇんだ。ライオンやらトラだって、草食って生きてる奴らを食うだろ? あいつらにベジタリアンになれっつっても、そりゃ無理な相談じゃねぇか。俺だってそうさ。ま、食うつったって、〝性的に〟って意味でだがよ!」
ひゃはははは! 血塗れの手で額を覆い、笑声を上げる。
窓の外からは青紫色の夕映えが差し、先端が赤く染まったブロンドの髪と、ボンテージに包まれた肢体を照らしていた。
その出で立ちは全裸に近く、胸から下はほぼ完全に露出している。女の柔肌を黒革の帯で縛るかのような意匠で、セクシュアリティを強調するデザイン。しかし本来男の情欲を昂らせるはずのコスチュームは、むしろ肉体の異形性を際立たせていた。
『ヒッヒッヒッ……言い得て妙だのぉ、カミラ』
股間から生えたモノに口吻が生じ、人語を発した。次いで目鼻が生じ、触手の先端が髭の形を取り、老爺の顔貌へと変じていく。
『人もまた獣よ。糧無くして生きてはいけぬ。主の場合、他人とはその対象が違う――ただそれだけのことよ』
「知るかよ、ブラッキオ。小難しいこたぁ別にどーだっていいんだ、本当は。この世に生まれたからにはやりてぇことを好きなだけやる。そうでなきゃ嘘だろ? 他人がどうなろうが、知ったこっちゃねぇ。つーか、軍人ってのは何でああウゼぇんだろうな? あれするなこれするなとかよ。あいつの子分、全員マゾじゃねぇか? 他人に指図されて我慢するだけの人生の何が楽しいんだ?」
亀頭に生じた顔面が、しゃがれた声で答える。
『兵の自我は個に宿らず、集団にこそ宿る。奴らは人に非ず、むしろ蟻や蜂の如きものよ』
「要は虫けら同然ってことかよ。犯しても殺しても愉しめそうにねぇな。にしても、やけに詳しそうじゃねぇか。そいつも生前の知識って奴か?」
『ヒーッヒッ! こう見えて、儂もかつては兵共を従える立場じゃったからのう。奴らにとって、主命は絶対のもの。儂が命ずれば、自らの妻や子すらも差し出しおったわ!』
ブラッキオの核となった者は、歴史に名を遺すほどの暗君だったらしい。
女子供を捕らえては身体中の穴という穴を蹂躙し、切り裂いた腹や、眼球をくりぬいた後の眼窩をも犯したという。
この国の偽善者共であれば〝悪魔の所業〟とでも呼ぶだろう。その形容は間違ってはいない。現にその魂は地の底へと堕ち、正真正銘の悪魔と化したのだから。そして悪魔に共感を抱く己もまた悪魔なのだと、カミラは自覚していた。
「さぁて……息抜きも終わったこった。あのオヤジにアゴで使われるようでシャクだが、そろそろ仕事でもすっか。オメェも働けよ、ブラッキオ」
『ヒヒッ、任せておけ!』
亀頭の上に紫色の光輪が浮かぶと、カリ首に当たる部位が蠕動し、ブラッキオの口内から黒と赤の斑模様をした、何十匹もの蛭のような生き物が吐き出される。床に落ちた蛭はそこら中を這い回り、割れた窓やドアと床の隙間から外へ出て行った。
『これで準備は整った。夜明けまでには、我が眷属共が奴を見つけ出すじゃろうて。しかし、少々驚いたわい』
「あ? 何がだ」
『あの豚の如き男が敗けたことじゃ。あ奴の契約したエレクトラという女は、獄界でもかなりの実力者でな。冠の色こそ青じゃが、限りなく紫冠級に近い力を持っておった。向こうの世界でも紫冠級の数はそう多くない。現世に降り立った堕群人の中でなら、最上位の強さじゃろうな』
「珍しいじゃねぇか。オメェが同族を褒めるなんてよ」
『ヒヒヒッ! ついでに体つきも実に好みじゃった! 機会があれば、一晩ぐらいは褥を共にしたいものよ』
「ハッ、結局それかよ。ま、気持ちは分からなくはないがよ。……にしても、その豚野郎を倒した奴……ブギーマン、だったか? そいつ、どんな化け物だろうな」
『さてのう。じゃが、青冠級でも奴に勝ちうる者は一握りじゃ。儂と同じ紫冠級の契約者かもしれんな』
「俺らと同じか……そりゃ、楽しみだぜ」
契約を結んで以来、幾人もの男を殺してきた。逞しい肉体の美丈夫も、贅肉だらけのデブも、枯れ枝のような老人も、年端も行かぬ少年も、老若美醜問わず。
殺す前は殆どいつも嬲り犯した。逝き死ぬ時の慟哭を聞いていると、相手の魂を舌先で転がしているような、得も言われぬ甘美な気持ちに浸れるのだ。
強力な堕群人ほど業深い魂に惹かれるという。ブギーマンの魂はどんな味がするのだろう? どんな顔をして、どんな声で鳴くのだろう? 薄く形のいい唇を歪め、カミラは舌なめずりをした。
既に陽は沈み、空は暗くなり始めている。ほぼ闇に近い部屋の中に、異形達のシルエットだけが薄っすら浮かび上がる。カミラの相手を務めた少年の亡骸は今や完全に溶解し、コンクリートの床に人型のシミを作っていた。