第二章 終わりと始まり
1
背骨の芯にまで響く爆音とともに砂煙が舞い上がり、面白い見世物でも見たみたいに大人達が笑う。
爆心地を中心に、周囲には人体を構成していた部品が飛び散っていた。それがカルルの記憶にある、最も古い人の死だ。
親の顔は知らず、物心ついた頃には迷彩服に身を包んだ男達と、小銃を手にした少年少女に囲まれていた。詳しくは覚えていないが、その時に死んだのも少年兵の一人だったのだろう。
恐らく戦闘で負傷して〝不良品〟になった末に地雷原を歩かされ、爆発に巻き込まれて死んだのだ。その後も似たような光景を、何度も目の当たりにしてきた。
鮮烈な赤とピンク。排泄物と体液の混じり合うすえた臭い。強烈な死の印象と同時に刻みつけられたのは、大人達の表情だった。
悲しむ者など、誰一人いなかった。存在そのものが無価値であるかのように、嘲笑され、侮蔑され――肉塊と成り果てた少年を見て、そうなりたくないと心から感じた。
彼らの祖国では、鉱物資源を巡って泥沼の内戦が続いていた。国内には百を超える反政府勢力が存在し、カルルが身を寄せていた組織もその一つだった。
大人は子供達を銃やナイフと同列の〝道具〟と見なし、その多くを消耗品として扱った。価値を認められるには、自らが優秀な〝道具〟であると証明する他なかった。
政府軍や多国籍軍と銃火を交え、村を襲い、争う術を持たぬ人々をも手に掛けた。人を殺すという行為に、何かを感じた覚えはない。感じる余裕などなかった。経験を積むうちに感じなくなったのか、最初から何も感じていなかったのかは、カルル自身にも分からない。
他者の死を養分に、禍々しい才覚の花は開いていく。同年代の少年兵達が消耗品のように死んでいく中、カルルは無数の死線をほぼ無傷で潜り抜けた。単独で一個小隊を壊滅させ、政府に雇われた堕術使いの傭兵をナイフ一本で仕留めたこともある。やがて組織内でも一目置かれるようになり、リーダーからも自らの懐刀と認識されるようになっていた。
敵味方問わず夥しい死を目の当たりにする内、自らの死すらも恐ろしくなくなっていた。その境地に至って尚恐ろしかったのは、存在価値の消失だ。
意識を手放す最後の瞬間まで、己が無価値ではないと、優秀な〝道具〟であるとを証明し続けられるなら、他に何も要らなかった。
その瞬間が――一度目の死がカルルに訪れたのは、十四歳を迎えた十月初旬のことだった。
2
「カルル! テメェどこほっつき歩いてやがった! こんな時に俺の側に居ねぇでどうする!」
応戦を中断し、リーダーの元に駆け付けるなりカルルは横面を叩かれた。男が拳をふるう横で、情婦の少女がビクリと身を震わせる。
組織の長たる男とその少女以外にも、屈強な体つきをした幹部二人に、眼鏡を掛けた帳簿係の青年など、組織の中核メンバーがその場に揃っていた。
「今がどういう状況か分かってんのか、ええ!」
隔壁を隔てた背後では、間断なく銃声が鳴り響いている。
組織の本拠地は奇襲を受けていた。哨戒中の兵士も殺され、こちらが反応するより早く敵はあっという間にアジトへ侵入してきた。練度の低い政府軍の連中にしては、あまりに鮮やかな手並み。恐らく国連から派遣された平和維持軍の連中だ。
現場は混迷を極め、迎撃に向かった兵達も次々殺された。もうこの場所は終わりだ――それはこの場に居る誰もが知ることだった。
「分かってんなら、言われる前に来やがれ!」怒声とともに、男はカルルの胸ぐらを掴み上げる。「テメェは俺の道具だろうが! 肝心な時に持ち主から離れやがって!」
「――やめてっ!」
怒りのままに拳を振り上げた男を、止めにかかる者が居た。
男の情婦だった。情婦と言っても、カルルより一つか二つ年上の少女だ。カルル同様白人の血が混じっているのか、彫が深く整った顔立ちをしている。つい何ヵ月か前に襲撃した村から攫ってきた娘で、最近の男のお気に入りだった。
「あァ……? ンだ、テメェ。殺されてぇのか?」
腕にしがみつく少女に、冷眼を向ける男。拳銃を取り出そうと、彼が懐に手を差し入れようとすると、慌てて周囲の者らが止めに入った。
敵はすぐそこまで迫っている。こんな下らぬことに時間を費やす余裕はもう残されていない。それにカルルは無事にここを抜けるため、必要な存在だ。無駄に傷を負えば、その分自分達が助かる可能性も低くなる。
男自身そのことは分かっており、舌打ちをするとたった一言カルルに命じた。
「今すぐここから俺を逃がせ」
カルルは首肯を返すと、地下に続く脱出経路へと男達を先導した。
組織の本拠地は、ベルギー資本の高級ホテル跡地を再利用したものだ。
駐車用に設けられた広大な空間は本来の出入り口をコンクリートで塞いだ上で、今では武器庫として使われている。何百丁もの銃器が収納されたガンラックと、爆薬が詰まった山積みの木箱の森を通り抜け、建物の裏手から逃げられるよう増設された非常用通路へと向かう。
通路脇には四人乗りのバギーが計五台止められているはずだったが、到着した時、その内三台が無くなっていた。
旧式のモデルは、知識さえあればキーがなくともエンジンを点火させられる。自分達がここへ来るより先に、臆病風に吹かれた連中がいたらしい。
残り二台。幹部二名に、帳簿係と情婦の少女。カルルと男を含め、計六人。
「クソ共がッ、とんずらこぎやがって!」
車体を蹴飛ばす男に構わず、カルルはジープのキーを回した。一台目は問題なくエンジンが掛かる。だが二台目は、幾ら回しても動き出す気配がなかった。
ふいに男と目が合う。男はいやに冷めた表情で銃を抜くと、手早くトリガーを絞った。一人につき二発――計四発の銃声の後、胸元を赤く染めた二人の幹部が地面に倒れ伏した。
腰を抜かした帳簿係の青年が情けない声を上げる。少女の方は両手で口元を押さえ、悲鳴を堪えていた。
「……これで問題なしだ。出せ」
男は平然と言ってのけると、銃口を向けつつ少女と帳簿係をジープに乗せた。全員乗ったのを確認し、カルルはアクセルを踏んだ。
車一台がギリギリ走れるほどの隘路を百メートルほど進み、やがて地上へ出る。
陽は既に沈み、青白い月が鬱蒼とした木々を照らしていた。
辺りに生い茂る草木で出口は隠れ、外からでは通路の存在に気付けないようになっている。念のため周囲に注意を向けたが、敵の気配はない。一応の危機は脱したようだ。
とはいえ、地下に押し寄せた敵が通路の存在に気付くのも時間の問題だろう。カルルは追跡に備えブービートラップを設置するよう、男から許可を得た。カルルが罠を張る間、男は帳簿係と何やら話し込み、手持ち無沙汰になった少女が彼に話しかけてきた。
「ねぇ、こうして話すの初めてよね。あなた、わたしより幾つか年下みたいだけど、いつからここに居るの?」
カルルは手元に意識を向けたまま、言葉を返そうとしない。
「わたしね、弟がいたの。あなたと同い年ぐらいの。ちょっと内気なところがあって周りの子とはあまり打ち解けられなかったけど、絵を描くのがとても上手だったわ。将来は絵描きになるって、いつも言ってた。……ついこの間、死んじゃったけど。殺されたの、あの男に」
壁に向かって話しかけるような虚しさを感じつつも、少女は言葉を続けた。
「このままわたしと一緒に逃げない? きっと上手く行くわ。それで悪い奴らが追ってこない、どこか遠い所で暮らすの」
しかし、やはり少年は何も答えない。少女は肩を落とし、彼から背を向けた。
その時、ふと思い出したようにカルルは少女を呼び止めた。一つ気になることがあったのだ。
少女自身が言った通り、自分達はこれまで殆ど言葉を交わしたことがない。互いに互いのことなど、どうでもいいはずだ。なのに何故さっき、彼女は自分を男から庇おうとしたのか、その理由が分からなかった。自分を守るのに、彼女の側にどんな得があるというのだろう。
少年が疑問を口にすると、彼女は困ったように眉尻を下げ、
「得とか損とか、そういうのじゃないわ。あの時わたしがあなたを助けようとしたのは――」
少女が答えを口にしかけた時、カルルの背筋を冷たい感触が撫でた。
常人では聴き取れぬほど微かな飛翔音――少年が宙に視線を上げると、下部に機銃を備えた無人機が浮遊し、機体を回転させながら銃口を少女に向けようとしていた。
カルルは咄嗟に少女の身体を突き飛ばした。何故そうしたのか、彼自身にも分からない。
無人機の機銃とカルルのライフルがほぼ同時に火を噴き、銃火が交差する。ほんの僅かに、カルルがトリガーを絞るタイミングが早かった。フルオートで撃発された銃弾が皆中し、敵弾は後方の闇に消えた。
機能停止した残骸が墜落するのと同時に、誰かの呻き声が耳に届いた。振り返ると、血を吐いた帳簿係が倒れるところだった。
「オイ、しっかりしろ! オイッ!」
駆け寄った男が必死に呼びかけるが、返事はない。
この国では戦いしか能のない連中は掃いて捨てるほどいるが、学のある人間はごく一握りだ。ここでこの青年を失えば、また一から探す羽目になる。しかし彼が息を吹き返すことはなく、
「……クソ、くたばりやがった」
男は血に染まった眼鏡面に唾を吐き捨てると、腹立ち紛れに亡骸を蹴った。
「グズがッ! テメェがとっとと撃ち落としてりゃ、こうはならなかった! オラ、とっと車出せや、この役立たずが! 増援が来る前に距離を稼げ!」
男に急き立てられるようにしてカルルは運転席に、少女は後部座席に乗り込む。
アクセルを踏み、草むらから砂利道へ出た。と、数十メートルほど進んだところで、敵兵が三人正面に飛び出してくる。
「クソがぁぁあああぁああぁあぁぁ!」
助 手席の男はカルルのライフルを手に取ると、雄たけびとともに銃弾の雨を降らせた。敵兵の胸に弾を撃ち込み、車で跳ね飛ばし、道をこじ開ける。だが次の瞬間、サイドミラーに目を疑うような光景が映った。
重傷を負ったはずの兵士達がゾンビの如く起き上がると、ばきっ、ばきばきっ、と骨が折れるような嫌な音を立てて膝の関節が逆に折れ曲がっていくのだ。
男も少女も絶句していた。カルルもまた驚きとともに鏡に映る光景に見入った。
変形を終えるや兵士達は前傾姿勢を取り、獣の後ろ足の如く曲がった脚部を駆動させ、恐るべき速度で追走してくる。
「オイ、運転代われ! テメェは後ろだ! 奴らを撃ち殺せ!」大声で男が指示を飛ばす。
カルルは運転席の背もたれを股越えると、後部座席に膝立ちし、ライフルを構えた。銃身に取り付けたフラッシュライトを点灯させ、標的らの姿を改めて確認する。
明らかに通常の兵士とは異なる――人かどうかさえ疑わしい異形達。
〝異なる〟というのは、身体的にという意味だけでない。連中の目はどこまでも虚ろだった。こちらに視線を向けているようで、その実何も見ていないような目付き――あれとそっくりなものをよく知っている。死人の目だ。
生ける屍の顔に、照準を合わせた。ついさっき胸を撃たれながらも起き上がったことから、敵はNIJ基準でクラスⅢ相当のボディアーマーを着用している可能性が高い。的は小さいが、確実に無力化するにはヘッドショットを狙うより他ない。
銃床をしっかり肩口につけ、身体全体で反動を吸収するようにして引き金を絞る。銃口はぶられることなく正確に的を捉えていたが、その直前こちらの指の動きに合わせ、敵兵は素早く横へ跳んでいた。獲物を食らい損ねた銃弾が夜の闇に消えていく。
無駄撃ちを避けるため引き金を絞っては離し、一度に三発の弾丸を放つも、敵は撃発のタイミングを見計らい回避し続ける。
「外してんじゃねぇぞ、能無しが!」運転席から罵声が飛んでくる。
反応速度、敏捷性ともに獣以上だ。堕術使いでもあそこまで動ける者はそうは居まい。このままでは何十発撃とうが当たる気がしない。
不利な状況に陥れば、大抵の人間はパニックに陥り、正常な判断力を失う。平時であれば犯さぬミスを犯し、目の前にある活路にさえ気付かない。だが、カルルは違った。
真の強者は一切の感情を戦いに持ち込まない。快楽も罪悪感もなく、ただ無感動に人を殺し、銃弾が頬を掠めようが、傍で仲間が死のうが、怯えも悲しみもしない。
既に思考を切り替えていた。敵が銃弾を避けうる速度で動くのなら、動きを止めてしまえばいい。カルルはその策を実行に移すべく、男に行き先を変更するよう告げた。
「あァ? そんな場所に何の用だ?」
敵を倒すためだ。そうカルルが答えると、男は舌を打ち、手前の三叉路を左に折れた。
脇道に入ってしばらく進むと、やがて目的地が見えてくる。何年か前、男の命令で襲撃した村の一つだ。辺りには銃痕を穿たれ、榴弾で壁を吹き飛ばされた民家が骸を晒している。
怪物達が徐々に近づいている。距離は残り二十メートルほど。
先頭の敵兵が両腕を前方で交差させた。すると中指と薬指の間から手が割れて、その隙間から炭素鋼製マチェットのような黒い刃が生えてくる。
「野郎……っ、飛び掛かってくる気か! オイ、クソガキ! 何をする気か知らねぇが、策があるんなら早くしやがれ!」
喚き散らしながら、男は車を走らせる。村の入り口を過ぎ、廃屋を横切った。道の左端には電柱の並木が立ち、電線が蜘蛛の巣の如く張り巡らされている。
カルルは腰元のホルダーに左手を伸ばしつつ、右手で銃身下部に取り付けたアドオングレネードのグリップを握った。
追走する敵に背を向け、斜め前に立つ電柱を狙い引き金を絞る。爆発音が響き、ジープが走り抜けた直後、倒壊した木製の柱に引きずられ、ケーブルの束が地面に垂れ下がった。既に電線は送電の用を為さず、ポリエチレンに被膜された金属線の束に成り果てている。しかし敵の動きを止めるにはそれで十分だった。
突如進路上に出現した即席の罠に、勢いそのままに突っ込んでいく敵兵達。標的がケーブルに絡めとられる隙にカルルはライフルを手放し、ホルダーから抜いた手榴弾のピンを抜いた。
MK3手榴弾――金属片を広範囲にばら撒く破片手榴弾と異なり、爆破の衝撃により敵を殺傷するよう設計された攻撃手榴弾。殺傷範囲は破片式に劣るものの威力に優れ、範囲内の敵は確実に無力化される。
投げつけた瞬間、閃光とともに熱を孕んだ衝撃波が広がった。燃え盛る炎が動きを止めた標的を飲み込んでいく。
「ハッハァー! ざまぁみやがれ!」
先刻までの焦りようはどこへやら、歓声を上げる男。少女もまた胸を撫で下ろす。
だが次の瞬間、彼らは揃って息を呑んでいた。炎の中に蠢く影があったのだ。信じ難いことに――しかし厳然たる事実として――爆裂の嵐に晒されながら、敵の一体が生き残っていた。
炎に包まれながらも追跡を再開した怪物に、ライフルで応戦するカルル。敵は回避行動を取ることなく、真っ直ぐこちらに向かってくる。
銃弾が敵の全身を叩く。左腕が千切れ飛び、大腿部にも風穴が空くも、怯みさえしない。
男は必死の形相でアクセルに全体重を掛けている。それでも徐々に距離は縮まっていく。
残り五メートルというところで、躍りかかってきた。右手のブレードを突き出し、こちらの顔面を串刺しにしようとするのを辛うじて避ける。
ブレードが助手席を貫くのと同時に、飛び乗った敵の重量が車体にのしかかり、バランスが崩れた。横転するジープ。少女と男の悲鳴と叫びを聞きながら、少年の身は投げ出され、受け身すらままならず地面を転がった。
全身が熱を持ったように痛んだ。肩を脱臼したのか、左腕が上手く動かせない。敵の足音が近づいてくる。
拳銃を抜くと、音の方向に向け即座に発砲した。甲高い音がして、側頭部で銃弾が弾ける。
追走時の風圧で、敵を包んでいた炎は消えていた。車が横転した際に損傷したらしく、左脚は明後日の方向に折れ曲がり、顔面の皮膚も崩落している。そして剥がれた皮膚のその下には、もう一つの顔が覗いていた。しわ一つない、のっぺりとした質感の白い顔――人形の顔だ。
滑らかな額には奇妙なマークが刻まれている。三円を線で結んだ三角形型の図形であり、頂角部の円からは太陽のような放射線が幾条も伸びていた。
口の両端に亀裂状の線が走った。ばりばりと音を立てて耳元まで口が裂けると、無数に並んだ牙がそこに覗く。機械仕掛けの人形がガラス玉のような目でカルルを見下ろし、その首筋に牙を突き立てようとしたその時。両者の間に割って入る影があった。あの少女だ。
両腕で人形にしがみつきながら、少女が「逃げて!」と叫ぶ。
カルルは困惑した。あまりに少女の行動が合理性を欠いていたためだ。
敵はこちらを狙っていた。その隙に逃げようと思えば逃げられたはずだ。そうすれば、僅かであれ生き延びる確率を上げられただろう。
逆に今は自分にそのチャンスが巡ってきたのだ。敵も片脚が破損し、本来の機動力を発揮出来ない状態にある。男を連れ、このままこの少女を見捨てるのが最善の選択――そのはずだ。
なのに何故か今、カルルは彼女から目を離せなかった。エラーを起こしたCPUのように、その場から動けずにいた。
ふいに背後で銃声が鳴った。彼女の背から血が飛び散り、人形の頭部で銃弾が弾ける。その内の一発が眼球に命中すると、火花を散らして顔面が燃え上がった。
人形が機能を停止させると同時に、少女もまた仰向けに倒れた。目を大きく見開き、口元から血を溢れさせている。
「クソが……手間取らせやがって」
振り返ると、ライフルを携えた男が横転したジープの傍らに立ち、動かなくなった人形と瀕死の少女を見下ろしていた。
「もうコイツも助からねぇな。おう、クソガキ。止め刺してやれや」
カルルは頷きを返し、胸元の鞘からナイフを取り出した。
自分達のような少年兵が銃やナイフなど戦闘用の〝道具〟とすれば、この少女は性処理用の〝道具〟と言える。どちらも壊れたが最後、打ち捨てられる運命だ。
少女は口を開いたまま、荒い呼吸を繰り返している。破れた肺に血が溜まっているのだろう。
ほんの数秒前まで、生き延びる道はあった。何故その選択肢を捨て、あのような非合理的選択を取ったのか、理由が分からなかった。
どうして逃げなかった? 無自覚にカルルが口にした疑問に、少女は弱々しい笑みで応えた。震えるように唇が動き、微かな声が漏れる。
「オイ、早くしろッ!」
男の喚きが少女の囁きをかき消す。首筋に狙いを定め、カルルはナイフを一閃させた。笑みを浮かべたまま、その瞳から光が消える。
返り血を浴びぬよう、素早く身を離して背を向けた。もたついてんじゃねぇ! と男が声を荒らげる。脱臼した左肩を樹に打ち付けて嵌め直すと、声の方へと駆けていった。
3
倒れたジープを二人掛かりで起こすと、男は言った。
「お前は俺の〝道具〟だ。道具をどこでどうするか、全ては所有者の自由だ。そうだな?」
カルルは頷き返した。男は助手席の足元からずだ袋を引っ張り出し、服を脱ぎ始めた。
「直に本隊の連中が追い付いて来る。さっきみてぇな化け物共が他にもいるなら、このまま逃げ切るのは難しいだろう。だが、俺一人が逃げ延びるとなれば話は別だ」
服の上下を脱ぎ下着姿になると、ずだ袋から出した変装用の服に袖を通す。着替え終えると最後にベレー帽を外し、乱雑に畳んだ服と一緒にカルルに手渡した。
「ここからは別行動だ。俺はこのままこの森を突っ切る。お前はジープに乗って逆方向へ向かえ。囮になって奴らを陽動しろ。この意味が分かるな?」
鋭く目を細め、文字通り〝物〟を見るような目付きで男は続けた。
「俺のために死ね」
カルルはただ無表情に頷きを返すのみだった。
男はにたりと笑むと、インナーシャツの襟元に手を突っ込み、何かを首から外した。
「大昔に呪術師のババアから貰った首飾りだ。コイツを着ければ〝死が避けて通る〟って話だ。……いいか、なるべく長く生き延びろ。より多くのクズ共を道連れにして時間を稼げ。俺が逃げ延びる可能性を高めるために、だ」
男が森の奥へ消えると、カルルは男の着ていた服を袋に詰め込み、ジープを走らせた。この村で一際大きな建物――教会の中に入ると、村人たちの死体が山のように積み重なっていた。
この国は年間を通して乾季が長いため、山火事を防ぐため死体処理には火を使わない。カルルの属する組織では大抵このように死体を一箇所に集め、石灰粉を掛けることで腐敗を早める方法を採っていた。しかし粉の量が半端だと、却って保存状態が良くなる場合もある。水分を奪われた死体がミイラ化してしまうのだ。
案の定、何体かがミイラ状態で残っていた。その内なるべく身体の大きな者を選び、袋に詰めていた服を着せ、ベレー帽を被せた。
ミイラを担いで助手席に乗せると、後ろからエンジン音が聞こえてくる。敵の本隊が追い付いたのだ。男が逃げたのと逆方向に全速力でジープを走らせた。小銃の銃声が追いかけてくる。この車に男が乗り込んでいると思い込み、食いついてきたのだ。
何発かの銃弾がガラスを貫通し、車体を叩いた。徐々に車の速度が落ちてくる。燃料漏れを起こしたらしい。カルルはジープを乗り捨てると、服を着せたミイラを肩に担ぎ森に入った。
遠目には負傷したリーダーを連れているように見えたのだろう。引っ掛かった兵士らの足音が背後に続いた。人数は三十人前後。どの足音も人間のそれで、さっきのような化け物は紛れていないようだ。ならば、こちらにも十分勝機はある。
カルルはミイラを樹の根元に下すと、安全ピンを抜いた手榴弾を腰と根の間に挟ませた。化け物退治に使ったMK3とは違う、破片式の物だ。
すぐ傍の樹に隠れ、息を殺す。追いついた敵の兵がベレー帽を被ったミイラを見つけた。兵がまた別の兵を呼び、十人近い兵士達がミイラを取り囲む。
怪訝そうな顔をした兵の一人がミイラの肩をライフルの銃口でつついた。次の瞬間、ピンの外れた手榴弾が爆発し、飛散した金属片が敵の全身に突き刺さった。
カルルはライフルの撃鉄を起こすと、断末魔が響く煙の奥へとライフルを掃射した。
それから少年は、一人残らず敵を殺した。
銃弾が急所を貫き、ナイフに内臓を抉られても、〝より多くのクズ共を道連れにする〟ため、最後まで戦うのを止めなかった。
それは育ての親である男のためと言うよりは、その命令を完遂するためだった。
逃げた男の生死さえどうでも良かった。ただ男を逃がすために死ぬまで戦えれば、それで良かった。命令に従い、それを成し遂げることだけが道具の存在意義だからだ。
大木に背を預け、血生臭い空気を吸いながらゆっくり腰を下ろす。
少年は虚ろな目で、男から渡された首飾りを見つめた。麻紐の輪に錆び付いた金属片が括り付けられている。先端がぎざぎざに尖っていて、〝鍵〟のようにも見えた。
それからふと脳裏に、少女の死に顔がよぎった。
あの少女は自分を二度も庇った。一度目は男の暴力から。二度目はあの化け物じみた人形から。そして男の誤射で致命傷を負い、この手で止めを刺した。あの場で自分を庇わなければ、死なずに済んだはずだ。何故彼女はあんなことをしたのだろう?
もう死ぬからだろうか、脈絡なく記憶が蘇っては、答えのない疑問が何度も頭に浮かんだ。
何故殺し、何故奪い、何故犯すのだろう? 奪う者は、何故そこに喜びを見出すのだろう? 奪われる者は、何故涙を流すのだろう? そして何故――、
……何故自分は、ここに存在するのだろう――?
意識が暗闇に沈んでいく。全身の細胞が壊死していく冷たさにも、一人死にゆく孤独にも、少年が何かを感じることはなかった。
瞼を閉じる時にあったのは、もう二度と目覚めることはないという予感だけだ。
――だからその予感が外れた時も歓喜はなく、ただ混乱と驚きだけを感じていた。
二度と醒めるはずのない眠りから目覚めた時、鬱蒼と茂る木々も敵兵の死体も消えていた。全身に負ったはずの傷はおろか、戦闘服に空いた穴までもが塞がっている。
眼前に続くのは、白一色の床と壁に囲まれ、真っ直ぐに伸びた通路。道幅はジープが二台通れる程度に広く、天井パネルと一体化した照明が辺りを照らしていた。一部破損しているのか、奥の方が暗くて見えない。
継ぎ目のない、滑らかな質感の床と壁。左右の壁には生体認証式のスライドドアが設けられ、英語表記の表札が埋め込まれている。
知識があれば、何らかの研究施設か医療施設のように見えるだろう。しかし戦場で生まれ育った少年にとっては、まるで別世界の光景だった。
死んだはずの自分が何故無傷でここに居るのか、ここがどんな場所なのかさえ分からない。だが未知について深く考えることは、恐れや混乱に繋がりうる。故に少年は敢えてそこから目を逸らし、現状把握のみに徹することにした。
遮蔽物の無い一本道。この先に銃を持った敵が待ち構えていれば、確実にダメージを負う。まずは壁に身を寄せ、気配を絶ち、感覚のアンテナを張り巡らせる。
息遣い、物音、体臭、殺気――付近に敵の存在の痕跡は感じられない。
銃口を構えつつ、壁から背を離す。警戒は緩めず、臨戦態勢を保ったまま進む。道具としての役割を終えて尚生きようとする理由は、少年自身にも分からなかった。
進むにつれ、奥の光景がはっきり見えてくる。出発地点では傷一つ見当たらなかった床と壁にひび割れが目立ち始め、血とも錆ともつかない汚れが至る所に付着していた。
奥に行くほど破損や汚れは酷くなり、半壊した照明の明滅が、辛うじて周囲の光景を照らしていた。崩落した床や壁からは、配管やケーブルが血管の如く覗き、自身が巨大な生物の体内に取り込まれたかのような錯覚をカルルは抱いた。
ふと誰かの声が聞こえた気がした。この奥に待つ何者かに名を呼ばれた、そんな気がした。
知らないはずの声。それでいて、ずっと前から知っている気もする。こんな状況で聞こえたというのに、不思議と緊張を感じない。この先に待つのが敵ではないと、直感的に分かった。
自分でも不可解な感覚を抱きつつ、声に導かれるまま進んでいく。
天井の照明も消え、とうに視界は闇に沈んでいた。それからどれだけ歩いただろう。気が付くと、正面に大きな門が聳えていた。周囲には星の光ほどの光源すらなく、相変わらず闇に包まれているのに、門そのものが光を発しているかの如く、その細部までもがはっきり見えた。
それは宗教的な意匠を持った、巨大なオブジェのようだった。門扉を囲む柱とアーチは、象牙か大理石のような白く滑らかな素材から成り、門柱の左右には人間大の天使像が立つ。
状態が良ければ、さぞ立派な門なのだろう。しかし経年劣化のせいか、所々にひび割れや汚れが目立つ。天使像もまた手足や顔が破損し、鉄の骨格を覗かせていた。
退廃的な雰囲気を醸す錆の浮いた門に、カルルはじっと目を凝らした。そこには何か文字らしきものが、びっしりと刻まれていたのだ。
それは地上に存在する如何なる言語体系とも異なる文字列であり、母国の文字さえ読めぬ少年に判読出来るはずもなかった。しかし目を凝らす内、最初から知識があったかのように、文字は彼の脳裏で言葉へと変化していった。
「一つ。この門の名は〝退廃の門〟。〝鍵〟の所有者が死に瀕した際、現世と地獄の狭間に現れる霊門である。
二つ。門の向こうには〝魔なる者〟が待ち、門を潜りし者は魔と契約を結ぶ資格を得る。
三つ。契約を結びし者は、現世にて訪れる死の運命を免れ、人を超越した肉体と魔の力がもたらされる。尚、一つの契約につき与えられる力は一つのみである。
四つ。魔は力を貸与する見返りに、たった一つ望みを叶える権利を得る。契約後九九九日以内に、契約者はその望みを叶えねばならない。
五つ。第四項達成前に死亡するか、達成することなく九九九日目を迎えた場合、契約者の魂は魔に食われ、その肉体は新たな〝鍵〟と化す。
六つ。契約者に対して魔が危害を与えることはない。ただし、双方の同意がある場合は例外とする――」
門には全十項の〝ルール〟が書かれていた。全てを読み終えると、カルルは首に下げた金属片を手に取った。扉に書かれていた〝鍵〟とは、恐らくこれのことだろう。
鍵穴に鍵を差し込む。すると、錆びた金属同士が擦れる不快音とともに、正面を向いていた二体の天使像が門の内側へ身体の向きを変えた。
人形のように関節の露出した腕がドアハンドルを掴んだ。ぎ、ぎ、ぎ、と軋みを立てつつ扉は開け放たれ、向こう側の風景がカルルの視界に広がっていく。
それは教会だった。何十脚もの長椅子が広大な空間を占め、大理石の柱に支えられた壁にはステンドグラスが埋め込まれ、堂内の奥には十字架が掲げられていた。しかし荘厳であるはずの空間は、門と同様に錆や亀裂に覆われ、本来とは程遠い陰鬱な雰囲気を漂わせている。
いつの間にかカルルは身体ごと扉の奥へ移動しており、振り返っても、もう門はなかった。
十字架の前に跪き、祈りを捧げる者の姿があった。
何も言わず、カルルはその背に近づいた。肩に提げたライフルを構えることもなく。
少年は既にここが如何な場所か、何故自分がここに居るか、目の前に居る者が何者なのか――全てを悟っていた。
黒衣を纏った影が振り返る。それは羊の頭蓋骨の仮面を被った異形だった。
鮮血色の瞳を向け、異形が言葉を紡ぐ。幾つもの声が重なったような、奇妙な響きだった。
『初めまして、私の名は〝ナル〟。獄界へ身を堕として尚、主を愛し、天命を成さんとする者です。この門を潜りし貴方に問いましょう――この世界を救うために、自らの命を擲ち、大罪を犯す覚悟はありますか?』