第一章 堕落者の都
1
本土から六千マイル以上離れたアメリカ五十一番目の州〝ニホン〟。
この極東の地の北の片隅――アキタ市近海に浮かぶ〝モリクニ島〟は、幾つもの非合法組織がひしめくアンダーグラウンドの見本市だ。
中でも最大勢力とされるのが、日系マフィア〝金鹿組〟。ニホンのみならず、本土にも百を超える支部を持つ、世界有数の組織である。
〝事件〟が起きたのは、組が経営する〝アルテミス・カジノ〟の記念式典が催される最中だった。
「本日二〇一九年六月二十八日を以て、当カジノは五周年を迎えました」
壇上でスピーチするのは、カジノの総支配人である五十嵐清純。
ストライプ柄のスリーピーススーツに、オールバックが似合う伊達男。金鹿組組長の三男でもあり、二十八歳という若さでこの島の支配を一任されていた。
場内にはスーツやドレス姿の男女が集い、この島を名実ともに支配するプリンスの言葉に、誰もが耳を傾けていた。
「ここモリクニ島でのカジノ建設が決まった当初、様々な不安の声が上がりました。州の本土からも離れた島に、本当に客が来るのか? 失敗すれば、巨額の赤字を抱えることになる。では、彼らの不安は現実のものになったでしょうか?」
問いかけながら、賓客らの顔を見渡した。同調するように、何人かが首を横に振る。
自分に異を唱える者は居ない――それを客達自身に再確認させると、五十嵐は身を乗り出し、ボルテージを上げた。
「そう、結果は皆さんもご存知の通り! 本日も当カジノは大盛況! 連日山のような人だかりが出来、ホテルも常に満室状態! これを失敗と呼べる者は居ない! またカジノの盛況に伴い、飲食店やホテルなどの売上も倍増! 当初の不安は杞憂に終わり、雇用の創出、経済の活性化などの点でも地域への貢献を果たしています」
並び立てられる言葉は、どれもが自らに都合のいいことばかりだ。
カジノ建設に伴い強引な用地買収が行われ、島の一部はスラム化している。この男が謳う雇用創出など実際には微々たるもので、街中にも失業者やホームレスが溢れていた。
しかしそんな事実は、この場に居る者らに何の関係もない。下層階級の窮状など、遠くの国の出来事のようにどうでも良かった。彼らに興味があるのは、自らに利があるか否か――ただそれだけだ。
「今後ますますの発展をこの私、五十嵐清純がお約束します。では、今日という節目とこの島の栄えある未来を祝して――」
シャンパンを掲げ、「乾杯!」と五十嵐。皆も一斉に声を上げ、杯を傾ける。
スピーチが終えると五十嵐は席に戻り、続けて有名バンドの演奏が始まる。満足げな顔で場内の盛り上がりを眺めていると、眼鏡をかけた四十絡みの秘書が彼に近づき、耳打ちした。
「支配人、お耳に入れたいことが……」
淀むような口振りから、良い報せではないと察しが付く。内心の不快さを口許の笑みで隠し、「言え」と短く促す。
「その……たった今ご自宅に賊が入ったと、警備の者から報告がありまして。北棟のコレクションルームへ侵入し、数十点の美術品を奪い逃走したとのことです」
視線のみを向け、「何だと?」と五十嵐。口許の笑みは崩さず、しかし細めた目に冷たい眼光を宿して。委縮したように秘書は続ける。
「詳細は不明ですが、外部からのハッキングで管理システムはダウン。邸内は停電し、センサーや監視カメラも無力化。暗闇に乗じての襲撃に、現場も混乱状態だったと……」
「笑わせるな」
横目で睨みつつ、五十嵐は断じた。
有事に備え、邸内の守りは徹底させていた。二十名近い若衆を常駐させ、フルオートの銃器も人数分揃えてある。
万一警備を破られたとしても、あの部屋には厳重なセキュリティが施されている。入口の扉には大銀行同様の金庫扉が採用され、ロケット弾の直撃にさえ耐えうる。ハッキング対策のため施錠装置はダイヤル式であり、開錠番号を揃えられる確率は一億分の一以下――正答を知るのは、自分とこの秘書のみだ。
「それが突破されるなど、まずありえん話だ」
ほとんど何の疑いもなく、五十嵐はそう断言した。襲撃の報告そのものが、身内を名乗る何者かの嘘とする方が理にかなっている。
「まずは警備主任に裏を取れ。何者かが偽の情報を流した可能性が――」
その時、場内が急にざわめいた。視線を向けると窓の近くに客が集まり、下界を見下ろしている。何事かと思い目を凝らすと、彼らの身体の隙間から赤い光が瞬いているのが見えた。
すぐ傍で携帯端末の鳴動音がした。秘書は懐から端末を取り出し、画面上の番号を確かめると、五十嵐に尋ねた。
「あの、支配人。署から連絡が入っておりますが……」
無言のままひったくるように端末を取る。
通話相手の警官は、信じ難い事実を告げた。
「被害状況は死亡者三名、重軽傷者十五名。犯人集団は邸内の美術品を強奪し、高速道路を北に進行中。マスクを被っていたため人着は不明ですが、証言によれば直接襲撃に参加したのは三人組の男とのこと。逃走車に控えたメンバーを含め、恐らく四、五人かと。現在主要幹線道路を封鎖し、パトカー三台で追跡にあたっています。では、また――」
通信切れのディスプレイを見つめながら、五十嵐は愕然となった。
「バカな……五人……いや、実質三人の賊相手に警備隊が壊滅だと?」
「それがその……」
警官とのやり取りを終えた雇い主に、言い淀みつつも秘書は説明を補足した。
「私への報告が事実であれば、他二人は援護射撃や荷積みの手伝いのみで、警備隊は殆どたった一人に壊滅させられたとのことです。その男は雨のように銃弾を浴びているにも拘わらず、まるで効いた様子がなかったと。その上、何重にもロックの掛かった金庫扉を直接手で触れることもなく開錠したとも……」
バカな。馬鹿の一つ覚えみたいに同じフレーズを反芻しかけて、はたとある可能性に気付いた。
「まさか、その賊というのは――」
秘書は頷き返し、五十嵐の言葉を継いだ。
「……ご想像通りでしょう。恐らく、賊の主犯格は〝堕術使い〟です」
紫色の空に蒼ざめた月が浮かぶ夜。
街灯の並木が照らす高速道路に、赤色灯を点したパトカーが三台、逃走中の軍用高機動車を追っていた。
「オラ、止まれェ! 止まらんと撃つぞォ!」
五十絡みの男が片手でハンドルを回しつつ、拡声器でだみ声を張り上げる。
濃紺の制服に、警部補の階級を示すメダル型のバッジ。しかし人相の悪い髭面は、むしろ筋者を思わせる。
元海兵隊二等軍曹であり、退役後は警官として本土きっての犯罪都市デトロイトへ勤務。二年前に起きた強盗団との銃撃戦の末に左の腕と耳を失い、ハンドルを握る左腕はチタン合金製の筋電義手。側頭部にも生々しい傷跡が残っている。
一方、助手席の巡査部長はまだ二十代前半の若者だが、彼もまた元海兵隊員という経歴の持ち主。現役時代は狙撃手を務め、今もM4カービンを携えたまま撃発の機会を伺っている。
警告は建前にすぎない。この島での犯罪取り締まりは殺し合いと同義だ。反撃しようと誰かが顔を出した瞬間にハチの巣にしてやるつもりでいた。それが連中への、せめてもの慈悲にもなる。
この島の支配者――ヤクザに弓を引いた奴らの末路は、留置場で〝不審死〟するか、保釈中に〝謎の失踪〟を遂げるかの二通り。
裏で異端審問並みの拷問が行われようが、警察も司法も知らぬ存ぜぬで通す。ここで自分達に撃ち殺される方が、連中にとっても遥かにマシという訳だ。
組織の腐敗体質に反感は無い。上の連中同様、男自身もまた真っ当な警官とは言い難かった。金払いが良ければヤクの売人だって見逃すし、不法就労者を恐喝することもある。
今奴らを追うのも、正義や信念といった一文の得にもならぬ動機からじゃない。連中からブツを取り戻せば、ヤクザに恩を売れる。多少のリスクを犯そうが、この好機を逃す手はない。
「止まれっつってんだろが! このボケ!」
拡声器を拳銃に持ち替え宙に向け発砲するも、やはりHMVは止まらない。
無線を手に、髭面は口許を歪ませた。
「全車両、発砲を許可する。野郎共、鉛玉大放出のバーゲンセールだ! 連中の身体をケツ穴だらけに全身整形してやれ!」
サー・イエスサーの応答とともに、二台のパトカーがHMVの左右に出ると、窓から身を乗り出した警官達がトリガーを絞った。
盗品を載せた荷台を避け、車体側面を狙い、撃ち続ける。防弾仕様に改造されているようだが、それにも限度がある。7.62ミリNATO弾の掃射を受ける内、徐々に車体がへこみ始める。
こうなれば貫通も時間の問題だ。そう高を括った時、上部ハッチが開いた。
野郎、反撃に出る気か? いい的だぜ。
内心でほくそ笑み、髭面は部下に発砲を命じようとしたが――現れた敵の姿を見た瞬間、言葉を失った。
そいつは、異様な風体をした巨漢だった。腹と胸の区別がつかぬほど肥え太り、首が肩の肉で隠れ切っている。
異様なのは体形ばかりではない。殆ど球体に近い身体は黒光りするラバースーツに包まれ、頭部は豚をモチーフにしたガスマスクに覆われていた。
性的倒錯者が好む特殊なコスチューム。そう形容する他ない、あまりに奇怪なファッション。
「け、警部補……撃ちますか?」
照準を豚男の胸部に定めたまま、相棒の青年が問う。問いに答えることなく、髭面は凍りついた表情で、呻くように呟いた。
「〝ピギー〟……〝ピギー・ザ・ハードラバー〟……奴が、何故ここに?」
青年は怪訝そうに顔をしかめ、「警部補? 今何て」
「…………て」
「えっ?」
「撃てぇ! 今すぐ奴に、鉛玉をぶち込め! ハチの巣程度じゃ生温い! 肉のコマ切れになるまで、撃って撃って撃ちまくれぇ!」
豹変した上司の叫びに応じ、青年は弾かれたように人差し指を動かした。
殺到する銃弾の雨。しかしその直後、信じ難いことが起こる。
標的の身を包む軟質のスーツが、着弾と同時にたわんだかと思えば、ゴムそのものの反発力で銃弾を弾き返していくのだ。
コマ切れどころか傷一つ負った様子も無く、蝿でも払うように豚男が左腕を振るう。するとその動きに合わせて嵐が吹いたかのように、右斜め前方を走っていた僚車が宙に浮き上がり、横転した。
髭面は咄嗟にブレーキを踏み、ハンドルを切った。車体がフェンスに激突する音が背後に響く。
「け、警部補……まさか今のは奴が……だとすれば奴は、堕術使い……――」
髭面は狼狽える部下を無視して、残るもう一台の僚車に無線で指示を飛ばした。
「五〇フィート(十五メートル)圏内は奴の能力の――〝堕術〟の間合いだ! 速度を落として距離を取れ! 離れて撃ち続けろ! ……あぁん? 撃っても無駄だぁ? 知ったことか! お前らは黙って、俺の指示に従ってりゃいいんだよ!」
無線を乱暴に切ると、今度は助手席へ視線を戻し、
「向こうは囮だ。奴の注意を逸らすためのな。てめえはその間に奴の目を――マスクのレンズ部分を狙い撃て。スーツほどの防弾性はないはずだ。上手くいきゃ一発で仕留められる」
「ですが……車上からでは、そんな精密な射撃など……」
髭面は運転を自動に切り替え、左の義手で青年の首を掴むと、こめかみに拳銃を突きつけた。威嚇射撃の際、薬室に弾が装填され、人差し指に僅かでも力が加われば、頭が吹き飛ぶという状態にある。
「今、何か言ったか? すまんが、二年前あのブタ野郎に潰されて以来左耳の調子が悪くてな。何か言いてぇことがあるなら、もっとボリューム上げてくれや」
チタン合金の五指が、万力そのものの力で締めつけてくる。髭面の顔面は、怒りとも怯えともつかぬ表情を浮かべたまま紅潮していた。左の側頭部は一部禿げ上がり、欠損した耳がピンク色の瘢痕に縁どられた耳道を覗かせている。
「なァ、オイ。まさかとは思うが、俺に口答えしやがったのか? 〝however〟も〝but〟もねぇんだよ。上司の命令には常に〝Yes〟だろうが、このド低能野郎!」
鬼そのものの形相を前に、青年は締め付けられた喉から、サー・イエスサー! のフレーズを辛うじて絞り出した。義手の拘束から解放されると、咳き込みつつもM4に照準器を装着。既に左前方では、味方の援護射撃が始まっている。
青年は窓からM4を構えた。小刻みな車体の揺れと手元の震えが照準をブレさせるが、スコープを覗き込む内、徐々に冷静さが戻ってくる。ストックを肩にしっかり付け、頬に寄せる。ハンドガードに沿える左手首から力を抜き、脇をしめる。何度も繰り返したルーティンをこなすことで感情はリセットされ、やがてピタリと照準が合う。
捉えた、そう思い人差し指を曲げかけた時、標的が思わぬ行動に出た。
「な……っ!」
髭面と青年の驚愕の声が重なった直後、豚男はHMVから飛び降りていた。
宙に投げ出された球状の胴体が、高圧ガスを注入された風船の如く一瞬にして膨張する。両手足と首が埋もれて完全な球体へ変じたかと思えば、空中で急加速――援護射撃を行っていた僚車に、砲弾の勢いで突撃した。
握り潰された紙屑のようにひしゃげ、回転しつつ放物線状に飛んでいく残骸。衝撃音とともに地面に激突すると、そのまま動かなくなる。
青年は狙撃体勢のまま固まり、髭面はバックミラーを注視したまま口を半開きにしていた。鏡面には、彼らを追走する黒い球体が映っている。
如何な原理で動いているのか、地面から十数センチほど宙に浮き、こちらを追い越さんばかりの速度で迫ってくる。髭面は咄嗟にアクセルを踏み込んだが、間に合わず――、
後方から強い衝撃が来たかと思うと、パトカーは宙を舞っていた。
フロントガラスがひび割れ、透明な破片が舞う。二人揃ってエアバッグに顔面を埋もれさせたまま、彼らの意識はブラックアウトし、次に目覚めた時は病室のベッドの上だった。
2
肉の器に生命と意識をもたらすエネルギー体――〝霊魂〟。近年の研究によれば、肉体を離れたそれはイオンに似た性質を持つという。
希ガスを除くあらゆる原子は最外殻における電子が過剰、或いは欠損しており、電離すると同時に電子を放出、或いは受け取ることでイオン化する。そうしてイオン化した原子は単体では安定性を欠くため、他のイオンと電子を共有し、結びつこうとする極性を持つ。
肉体の喪失により安定性を失った死者の魂もまた、ある種の極性を持ち、多様な霊的磁場に誘導される。ここで言う〝磁場〟とは、所謂〝死後の世界〟と同義だ。
獄界、冥界、陰府――様々な名で呼び表せられる世界。現在〝ダーコーヴァ〟の呼称で知られる霊的磁場には、生前大罪を犯した者らの霊が集う。イオン同士の共有結合同様、それらは安定を求めて他の魂と融合を繰り返し、やがて霊的結晶体と称すべき高次元存在と化す。
〝Disembodied Anima that Migrate from Darkover(ダーコーヴァより来たりし、実体無き意識体)〟――通称〝DAMD〟。古来より悪魔や邪神と称されたものの正体がそれだ。
ニホン州では〝堕落した魂が群れ、形を成したモノ〟という意味合いから、〝堕群人〟などという当て字が使われる場合もある。
十一年前――二〇〇七年に起きた〝災厄〟を機に、現世と獄界の境界は薄れつつあり、堕群人と契約を結んだ現世の人間も数多く現れている。
契約者には魔の力が宿り、人の域を超越した肉体を得ると同時に、堕群人が有する異能――〝堕術〟を行使可能となる。
現在、堕群人の契約者――〝堕術使い〟の総数は、確認されているだけでも一万人を超え、実際にはその十倍は存在するとされる。
かつて想像の産物とされた〝悪魔〟と〝魔女〟らの実在は、今や世界中の人々が知るところとなり、彼らが起こす犯罪は既存の社会秩序をも破壊しつつあった。
*
「警官隊が全滅だと……?」
主催者の席を一時立ち、五十嵐は最上階の支配人室で報告を受けていた。内心で怒りが燻っているだろう上司に戦々恐々としつつも、秘書は警察からの連絡を伝えた。
「追走するパトカーを撃退後、大型車両による道路封鎖を突破。今尚北へ進行中とのことです」
「能無し共め! 時間稼ぎも出来んとは!」
執務机に叩きつけられた拳が、クリスタル製の灰皿を跳ね上げさせる。皿の内では真新しい葉巻がにじり潰され、濛々《もうもう》と煙を噴き上げていた。
「け、警官隊に対処可能なのは、せいぜいが緑冠級までです。青冠級以上のダムドと契約を結んだ者となれば、軍の一個小隊でも対処は困難かと」
堕群人の頭上には光の冠が浮いており、その発光色によって魔力の強さ――即ち、位階が決まる。紫冠級、青冠級、緑冠級、黄冠級、赤冠級の全五種が存在し、光のスペクトラム同様に波長が短い色ほど内包する魔力は増す。
契約を交わした堕群人の位階が高まるほどに強大な力が行使可能となり、堕術使いの格も上がる。ただし堕群人の姿は普通の人間には見えないので、他の堕術使いからの証言か自己申告が無ければ、その等級は知りようもないのだが。
「犯人が契約を結んだ堕群人は青冠級以上だと? 何故そんなことが分かる?」
「〝ピギー・ザ・ハードラバー〟という名をご存知でしょうか?」
〝ゴム性愛者のブタ野郎〟だと……? 奇異な響きを頭の中で反芻する内、かつてアメリカ全土を騒がせた伝説的ギャングの逸話が思い起こされる。
黒光りするラバースーツを纏い、豚をモチーフとしたガスマスクで顔を覆った正体不明の犯罪者。名前はおろか人種も年齢も国籍も不明。この男について分かっている点は二つ。
一つ、青冠級の契約者であること。二つ、〝磁力操作〟能力を持つこと。〝ブタ野郎〟なる名前も本人が名乗った訳ではなく、タブロイド紙が付けた通称に過ぎない。
奴の堕術は、まさに強盗に打って付けと言えた。如何に堅牢な金庫であっても内部構造を磁気センサーで看破し、磁力による操作でこじ開けてしまう。また赤外線センサーなどのセキュリティも、光の構成要素である磁気振動を変調させることで無力化が可能。
ピギーの代名詞とも言うべきラバースーツは液状金属と衝撃吸収材の二層から成る防護服であり、銃器による攻撃を一切無効化する。総重量は推定四四〇ポンド(二〇〇キログラム)前後――常人では動くことはおろか、立ち上がることさえままならぬだろう、超人的膂力を持つ堕術使いならではの専用装備である。
奥の手は、自身を一個の砲弾に見立てた〝電磁投射砲〟。進行方向に磁界トンネルを形成し、液状金属に包まれた重質量を高速推進――対象を粉砕する。
その名を不動のものとしたのが、二年前デトロイトで起きたノースエンド銀行襲撃事件である。当時既にピギーは悪名を轟かせており、行員の通報により駆けつけた警官隊は全員が自動小銃を携行していた。銃撃戦は四〇分に渡って続き、二千発を超える銃弾がばら撒かれたとされる。強盗団のメンバーは殆どが射殺され、ピギー自身も何百発もの弾を浴びたという。
にも拘わらずピギーは一切手傷を負わず、逆に警官隊を鏖殺して逃走。現場に残された死体の山はプレス機にかけられたみたいに圧殺されていたそうだ。
「警備の者の証言からも、件の強盗犯の外見的特徴は奴に一致します。もし本当に強盗犯がピギー本人であれば、奴を倒せるのは青冠級以上の堕術使いのみでしょう」
「……分かった。もういい、下がれ」
「は? いや、しかし……――」
おどおどした四十男の表情や言動が、一層癇に障る。こちらの苛立ちがはっきり伝わるよう強く舌を打ち、思いきり声にドスを利かせてやる。
「さ、が、れ、と言った! 二度も言わすな……!」
秘書は短く悲鳴を上げると、五十嵐の眼光に追い立てられるように部屋を出た。
一人きりになった部屋の中、深く息を吐く。部屋の外で足音が遠ざかるのを見計らうと、やおら立ち上がり――、
「クソがっ‼ クソがクソがクソがクソがクソがクソがぁっ‼」
机の上に整然と置かれていたペン立てを、灰皿を、電話器を、パソコンを、手当たり次第に薙ぎ払う。卓上に物が無くなると今度は床に転がった灰皿を拾い、何度も机へ叩きつけた。
「クソゴミカス共がぁぁ‼ よりにもよって、この俺のブツを盗りやがって! 殺してやる! この手でブチ殺してやる!」
灰皿に亀裂が入る音がして、ようやく我に返る。割れた水晶の破片が刺さり、掌に血が滲んでいた。半壊した灰皿を床に捨てると、天井を仰ぎながら座り直す。
奴らが向かう先は、恐らくこの島の北端にある港。あそこは海外マフィアのシマだ。そこまで逃げられれば、打つ手はなくなる。邸宅を襲撃されたのが八分近く前。HMVの最高時速から計算するに、あと十数分で到達するだろう。もう一刻の猶予もない。
無自覚に膝が震え、貧乏ゆすりをしていた。……どうする? どうする? どうすればブツを取り戻せる? 奴らを捕らえ、この怒りを叩きつけるにはどうすればいい?
その時、懐で携帯端末が鳴動した。ディスプレイには、見知った電話番号が表示されている。耳元にスピーカーを近づけると、若い男の声がした。
「よぉ、五十嵐さん。久しぶりだな」
「……何の用だ?」
「いや、別に。ただ、オタクに何かお困りのことでもないかと思ってよ」
相変わらずの、遠回しな飄々とした口調。馴染みの〝賞金稼ぎ〟だ。人を食ったような、例の笑みが頭に浮かぶようだった。
「どこから嗅ぎつけやがった? このハイエナめ」
「随分な物言いじゃねぇか。俺はただ、仕事の話を持ってきただけだぜ?」
「何……?」
「不甲斐ないあんたの部下や、サツ共の尻拭いをしてやろうって話さ。コソ泥共に大事なコレクションとやらを盗まれたんだろ? 今ちょうどウチの〝相棒〟が、奴らの進路上付近に待機している。正式に依頼を受ければ、奴らをぶちのめして盗まれたブツを取り戻してやるのもやぶさかじゃないが――どうする?」
どうやってまだ一部にしか伝わっていない情報を手にし、どのような手段で連中を先回り出来たのか? 頭に渦巻く疑問を、敢えて口には出さなかった。
この男がその手の質問に一切答えないことを、経験上知っていた。そして今重要なのは、強盗共を叩ける場所に奴の〝相棒〟とやらが居ることだ。
「……ブツは無傷で回収。コソ泥共は生け捕りにしろ。お前の相棒なら、やれるはずだ」
「やれねぇとは言わねぇさ。だが、その条件だと高くつくぜ? 何せターゲットの一人はあの〝ピギー・ザ・ハードラバー〟――百万ドルの賞金首だ。賞金そのものは保安局に要求するとして、あんた個人にも三十万払って貰おうか」
「三十万だと……? テメェ、ふっかける気か。この俺を怒らせてタダで済むと――」
「おうおう、怖ぇ声だな」そう言って笑うと、賞金稼ぎは声のトーンを一段落とし、「だが、思い違いをするな。こちとら慈善事業でやってる訳じゃねぇんだ。その額を払わねぇってんなら、この話は無しだ。第一、三十万なんざあんたにとっちゃ端金だろ? ブツが盗まれりゃ、そこにゼロが二つはつくほどの大損失だ。端金渋って大損失を被るか、大人しく言われた額を払うか、選ぶのはあんただ。ただでさえ時間がねぇんだろうが。犬の糞みてぇな脅し文句を垂れてる暇があったら、とっとと決めろや」
五十嵐は強く唇を噛んだ。盗まれた美術品の中には、闇オークションで競り落とした盗品や訳ありの品も含まれている。非正規ルートでの購入品に盗難保険など掛けようもなく、盗人共を逃がせば購入時と同額の金を失うことになる。単純な損得勘定からも、この申し出を渋る理由はない。それに何より己が所有物を奪われた屈辱に、自分自身が耐えられそうにない。
「……いいだろう。ただしそれも、こちらの条件を全て満たせばの話だ」
「毎度あり!」元の調子に戻った男が、声を弾ませる。「心配しなくても、もう十分もすりゃあ強盗団逮捕のニュースが流れるだろうよ。その後は、あんたの気が済むまで拷問にでもかけりゃいい。ま、女でも口説きながら吉報を待ってなよ。支払いはいつもの方法で頼むぜ」
通話を終えると、履歴を消去。ディスプレイを閉じ、窓辺へと向かう。
外ではサイレンが響き、窓に映る顔を赤く照らしている。
「クソが……!」短く呟くと、怒りに歪んだ顔に拳を振り下ろした。掌に滲んだ血が飛び散り、数条の赤い筋がガラスを伝った。
「――という訳で、先方さんから正式に依頼が降りた。〝ブツは無傷で回収〟、〝敵は生け捕りにしろ〟とのことだ。よろしく頼んだぜ」
耳元の携帯端末が、少年に雇い主の声を届ける。「了解」と返すと、それで通話は切れた。
道路沿いに聳えるビルの屋上から、少年は下界の様子を見渡していた。交通規制により高速道路には殆ど車が走っておらず、南からはサイレンの音が鳴り響いている。
燃え尽きた灰を思わせる色素の薄い髪に、焼けた鉄のような赤銅色の肌、そしてゴーグルの奥に光る、アイスブルーの瞳――多様な人種が入り乱れるこの土地においてさえ、少年の顔貌は一際目立つものだった。
多数のポーチを備えたチェストリグに、ケブラー素材のボディスーツ。古傷を隠すためだろうか、襟元から覗く頸部には包帯が巻かれている。
スーツは皮膚に吸い付くようにフィットし、セラミックプレートに保護された胴部を除いて筋肉のラインがくっきり浮き出ている。背丈は五フィート半にも満たず線も細いが、脆弱な印象はなく、極限まで鍛えたアスリートを思わせる締まった体つきをしていた。
彼の着用するゴーグルは装身端末であり、下界に向けられた視界には端末とリンクしたドローンの操作用パネルと、そのカメラ画像に連動したサブウィンドウがAR表示されている。
円盤型ドローンは光学迷彩を展開しつつ、標的を乗せたHMVを追って飛行中。車体上部に着地させると、スキャンモードで内部の様子を探らせる。
サブウィンドウに、壁透過センサーの白黒画像が分割表示された。荷台には大量の盗品、キャビンには運転手を含め計四人分の影が映っている。
キャビン後部は鉄道車両よろしく左右各三席が横並びになり、左側には二人、右側のシートには小脇にアタッシュケースを抱えた巨漢が独占していた。恐らくこの男が今回の襲撃の主犯格――ピギー・ザ・ハードラバーだろう。
画像がレンズに投影される一方、ゴーグルのフレームに内蔵された骨伝導スピーカーは彼らの会話内容を音声出力していた。警察を撒いたことでもう逃げ切った気らしい。男達は金の使い道で盛り上がっていた。海外で女を買うとある男が言うと、別の男が売春をするならアジアがいいと口にし、具体的な国名を列挙した。
(その気になりゃ、毛も生えてねぇガキだって買えるぜ。その上、どんな遊び方をしようがお咎めなしだ。最高だろ?)
(……ったく、このロリコン野郎が)
(人のこと言えんのかよ。テメェも股間膨らませてんじゃねぇのか?)
(見てんじゃねぇよ。俺にそっちの趣味はないっての)
珍しくもない会話だ、と少年は思う。彼の故郷でも少女は男達の慰み者だった。少年の養い親など、十にも満たぬ幼女相手に腰を振っていたこともある。
『我欲の為に盗みを働き、年端も行かぬ娘との姦淫を望むとは、何と罪深く愚かな者達でしょう』
少年の背後で声がした。一人の人間が発した言葉を複数の録音機で同時再生したような、何重にも声が重なった奇妙な響きだ。侮蔑の色はなく、むしろその声音には男達への憐みと、彼らの愚行に対する嘆きが籠っていた。
声とともに、黒い霧が集まるようにして異形が姿を現す。それは普通の人間には見えず、声も聞こえない、契約を結んだ者にのみ認識可能な霊的存在だった。
首から下は闇色の外套に隠れ、頭部は羊の頭蓋骨を象った仮面に覆われている。見た目からは殆ど性別の判断はつかず――そもそも霊に、厳密な意味での性別があるかも謎だが――背中に垂れた銀色の頭髪や重なる声の高さから、辛うじて女であることが読み取れる。
首から提げたロザリオを、人形の如く関節の露出した手で握り締め、異形は続ける。
『自らの罪を悔い改めぬまま死ねば、きっと彼らは地獄へ堕ちるでしょう。カルル、決して彼らを殺してはなりませんよ』
彼らの考えや行いの何が〝罪〟なのか、実感もないまま頷き返し、
「分かってるよ、ナル。情次にも〝ブツは無傷で回収〟、〝敵は生け捕り〟って言われたし」
カルルと呼ばれた少年が、雇い主の台詞をそのまま反復すると、『それは良かった』と骨頭の異形――ナルが返す。
『神の愛は無限です。たとえそれが愚かで野蛮な罪人であっても、己が罪を悔い改め、主の教えを知れば、天の道は開かれるでしょう。神の僕たるこの私が主に代わり、彼らにその教えを説かねばなりません』
熱の籠った口調で、神の愛を説く異形。カルルにはこの相棒の言葉が一から十まで分からず、「ねぇ、ナル――」そう訊きかけて、すぐに言葉を引っ込めた。
『どうしたのです、カルル?』
「……いや、何でもない」
カルルには誰かを殺して金品を奪うことも、年端の行かぬ少女を犯すことも、何が間違っているか分からなかった。それを判断するための基準が、決定的に欠如していた。
敵が徐々に近づいてくる。少年は考えるのを止め、準備を再開した。
ポーチから折り畳み式のフルフェイスマスクを取り出し、装着する。下顎を保護するチンガードとヘルメットが別個になっており、ゴーグルを挟んで着用することで完全に頭部が覆われる。チンガードは面頬の如く、牙を剥いた鬼の意匠が施され、暗色系で統一された戦闘装束も相まって禍々しい印象があった。
「ナル、コード〝LR-003〟。使用弾頭は機動阻害弾(Mobility Denial Bullet)を選択」
『コード承認。LR-003〈イントロイタス〉召喚』
カルルがそう告げると頭蓋骨の頭頂に紫に輝く光の冠が浮かび、闇色の外套に覆われた足元から、煤のように真っ黒な霧が噴き出してくる。
カルルが右手をかざすとそこへ霧は凝集し、長大な筒の形状を取った。
全長一メートル超のロケットランチャー。円筒型の砲身には翼を広げた天使のエングレービングが施され、後端部のカートリッジ式弾倉には計五発の砲弾が装填可能となっている。
標的の予測到達時間は残り僅かとなり、視認可能な距離にまで迫っていた。カルルはゴーグルのAR表示と音声出力をオフすると、身の丈に合わぬ重武装を軽々と肩づけした。
スコープを覗き込み、HMVに照準をセット。サイト内にロックオン表示が出て、標的との距離と弾頭の到達時間が示される。全ての窓にスモークフィルムが貼られ、内側が見えなくなっていたが、狙うのは車体そのものなので問題にならない。
〈イントロイタス〉の最大射程は一マイル半(約二キロメートル)。とうに獲物は射程圏内だが、狩場にはまだ入っていない。赤くマーカー表示された車体に狙いを定めたまま、少年はじっとその時を待った。
3
雇い主の連絡を受けた少年が、戦闘の備えを始める頃。荷台に戦利品を満載し、ほぼ無人となった高速道路を我が物顔でHMVが爆走していた。
運転席に座るロシア系はミハイル。ドライブ中は音楽が欠かせない生粋のロック中毒者。オーディオから流れるお気に入りの曲を聞きながら、伸びきった縮れ毛をリズムに合わせ揺らしている。
指向性スピーカーの音は運転席以外には届かないが、当人が口ずさむ〝death〟や〝kill〟、〝fuck〟といったワードからも趣味の悪さが窺える。
後部座席の左側に座る二人の内、延々と喋り続けるのはピアス面のオリヴァー。聞き手に回っているのは、左隣りに座る中国系のロン。オリヴァーが好むセックスやドラッグの話題を、引き攣った笑みで受け止めている。
『ねぇ、坊や。耳が腐りそうだわ』
ピギーの右隣りで、エレクトラがそう漏らした。その声は何重にも重なっているように、奇妙な響きを伴っていた。
鈍色の光沢を放つ肌に、束ねた針金を思わせる銀色の髪。胸元と肩がはだけたドレスは何千枚もの銀貨から成り、曇り一つない表面の一つ一つにギリシャ数字の〝Ⅴ〟が刻印されている。
照明の点いた車内で、その女にのみ影がなかった。彼女の姿にも発する声にも気付く者は居ない。たった一人を除いて。
ガスマスクから、ぶもっと豚の鳴き声のような鼻息を漏らし、「どうじだの、ママ?」と濁点混じりの言葉遣いで、彼女の契約者――ピギー・ザ・ハードラバーは訊き返した。
『向かいの席に座ってるピアス面、会話が下品すぎだわ』
長い脚を組み替えつつ、エレクトラはオリヴァーを見遣った。
『ブツを売った金で女を買うだの、ヤク漬けにして遊ぶだの、聞いてるこっちがどうにかなりそうよ。私の言いたいこと分かるわよね、坊や?』
物憂げな女にピギーは首肯を返すと、ニヤけ面のオリヴァーに「おい」と声を掛けた。
「おっ、どうしたンすか? 旦那もこの手に話題に興味がおありで?」
何を勘違いしたのか、愛想を振りまいてくるオリヴァー。ニヤけた顔はマゾ野郎かと思うほどピアスだらけで、瞼や鼻、上唇にまで金具がぶら下がっていた。
ピギーはピアス面の上唇に視線を向けると、そこに磁力を集中させた。すると見えない手に引っ張られるようにピアスが吊り上がり、オリヴァーの唇がめくれ上がった。
「ひぎっ! は、何を……!」
「ママに謝れ」
「へ……一体、何を言っへ……?」
訳の分からぬといった風情の相手を無視し、オリヴァーはピアスを引く力を強めた。
「痛い痛い痛い痛いっ!」
引っ張られるピアスに合わせ、釣られた魚のようにオリヴァーが立ち上がる。突如始まった制裁をロンは固唾を呑んで見守り、運転席のミハイルもミラー越しに様子を窺っている。
「説明しだろうが。おでの隣にはいづもママが居るっでな。でめぇが顔面に空いだゲヅ穴がらグゾみでぇな言葉を垂れやがるぜいで、ママは気を悪ぐじだ。二度ど口が利げねぇようにじでやろうが? ごのゲツ穴野郎が」
「ひゅいまへん! ひゅいまへんへひたっ!」
「いいが、おでの言う通りに繰り返せ。〝わだじの吐いだ汚い言葉で、貴女の気分を悪ぐざぜてじまい、申じ訳ありまぜんでじだ。今後二度どごのような無礼を働がないと誓いまず〟」
オリヴァーは涙目でピギーを見返しつつ、「わ、わらひのはひたひはらひほほ……ひぎぃ!」
全て言い終える前に、ピギーは更に数センチ分ピアスを上昇させた。ピアスを通した孔は横に広がり、血が滲んでいる。ミハイルもロンも止めることさえ出来ず、つま先立ちで耐えるオリヴァーを見守るしかなかった。
「謝る相手が違うだろうが。おでじゃなぐママに謝れよっ!」
「ひゃ、ひゃい!」
右隣りに向いたピギーの視線を追い、オリヴァーは必死に謝罪の言葉を紡いだ。歯肉が露出しているせいで誰にも何を言っているか分からなかったが、満足げにエレクトラは笑んでいた。
『いいわ、許しましょう』
女の声を合図に、拘束が解かれる。口許を押さえて床にへたり込むオリヴァー。指と指の隙間からは血交じりの唾液が垂れていた。
『よくやってくれたわね、坊や』
「ぞんなの当だり前だよ。ママを不快にさせる奴を懲らじめるのは、おでの役目だがらね」
『まぁ、嬉しいこと言ってくれるのね。けど坊や、〝クソ〟とか〝ケツ穴〟みたいなこと言っちゃだめよ。そういう汚い言葉を使ってると、あそこのクズみたいに心まで穢れちゃうわ』
「ごめんね、ママ。づい頭に血が昇っぢゃっで」
『いいのよ、私のために怒ってくれたんでしょう? 次から気を付けてくれればいいわ』
女はシートに膝をつき、巨漢の頭を抱き竦める仕草をした。感触の無い腕の中、歓喜の嘶きを上げるピギー。
周囲の男達には霊体たる堕群人の姿は見えず、機関銃を手にした精神病者でも見るように、嫌悪と恐怖の入り混じった視線をラバースーツの巨漢に向けていた。
『ところで坊や。もう随分走ってるようだけど、まだ目的地には着かないの?』
「ぞれもぞうだね、ぢょっと聞いてみるよ。おい、ミハイル」
「は、はいっ!」
急に声を掛けられた運転手が、今度は自分に矛先が向いたのかと思い身を強張らせる。
「目的地まで、あどどの程度だ?」
「ご、五分足らずってとこです。サツの奴らも旦那がのしてくれましたし、もう逃げ切ったも同然ですよ。ハハ……」
『何か拍子抜けだわ』どこか残念そうにエレクトラは言った。『もっと手厚い歓迎を期待してたけど、蓋を開けてみればあっけないものね。あとは例のブツをあの連中に渡すだけかしら』
女の視線を追って、ピギーは小脇に抱えたアタッシュケースを見遣った。ケースの中身は、ロシアの巨匠が描いたとされる十九世紀の絵画だ。荷台に積んだ他の美術品はついでのようなもので、〝黒幕〟から奪うよう指示されたのはこの一枚の絵のみだった。
現地で雇ったメンバーには単なる強盗と思わせているが、今回の襲撃にはピギーを雇った〝黒幕〟が存在する。
成功報酬は三百万ドル。絵そのものの価値を考えても、大破格の値だ。逃走車両や襲撃用の銃器、人件費なども用立てされ、絵以外の盗品も相場で買い取ると約束されていた。
話が上手すぎる気はした。名画とはいえ、たかが絵一枚にそこまで拘る理由も気になった。……或いは単なる〝名画〟という以上の、隠れた価値がこの絵にはあるのかもしれない。
まぁそれも、自分達にはどうでもいいことだ、とピギーは思う。多額の報酬にも、本当は然程興味なかった。自分達がこの仕事を受けたのは、単純にあの連中が持ちかけた話を面白いと感じたからだ。
この依頼を受けた当初、ヤクザの邸宅を襲撃し、警官隊と一戦交えるのを想像し、スリルに胸を躍らせていた。……しかし実際には拍子抜けするほど敵は弱く、特に計画に狂いもないまま、残り五分足らずで仕事は終わろうとしている。
女の腕に抱かれながらピギーが欠伸を漏らしていると、
「そんなに上手く行くかな……」
助手席からの声に、皆の注目が集まる。五十嵐邸の管理システムを無力化させるために雇った、タカシという名のハッカーだ。
車内だというのにレインコートを羽織り、目深にフードを被った、如何にも陰気そうな青年。作戦中も最低限の言葉しか発さず、自分から喋ったのも今回が初めてだった。
「何だ、コミュ障野郎。やっと口を利いたかと思いきや、バカげたこと言いやがって。とっくにサツ共の包囲は抜けたんだぜ? 今更どこのどいつが邪魔しに来るってんだ」
ミハイルがそう指摘すると、タカシは顔を俯いたままぶつぶつ何かを呟き出した。
「誰だって……? そんなの、決まってる」
「はァ、何だって?」
怪訝そうにミハイルが訊き返すと顔を上げ、はっきりタカシは言った。
「〝ブギーマン〟だよ……」
彼がその名を口にした途端、車内に流れる空気が変わった。ミハイルは目を丸くし、ロンは口を押えたままのオリヴァーと顔を見合わせ、驚いたような表情をしている。
『何かしらね、ブギーマンって』
エレクトラが気にするような素振りを見せると、ピギーがその疑問を代弁した。
「おい、何だ? ぞのブギーマンっでのは?」
「何って、ブギーマンはブギーマンですよ」背を向けたまま、小声でぼそぼそとタカシが答える。「昔から言うでしょ。子供が悪さをすると夜にブギーマンが来て、お仕置きされるって」
「……ふざげでんのが、おめえ」
「あ、オレその話知ってます」
向かいの席に座るロンが、要領を得ないタカシに代わり説明を継いだ。
「この街で最近噂になってる賞金稼ぎのことですよ。サイボーグや堕術使いの賞金首を片っ端から狩っていて、本人も堕術使いらしいんですが、マスクを被っていて素性も性別も不明。ただ戦う前に〝罪を悔い改めろ〟とか言ってくるらしくて、それを断ると、死ぬほど痛い目に遭わされて〝仕置き〟されるとか。〝ブギーマン〟って呼び名もそこから来てるらしいです」
「どんだ偽善野郎もいだもんだぜ。おい、お前。堕術使いの力の根源は何だど思う?」
「え、そりゃあ契約した堕群人の強さ次第じゃ……」
「ぞうだ。ぞじで強い堕群人ほど欲深い魂と惹がれ合う。ママどおでみでぇにな」
同意するように、エレクトラが微笑む。
「下らねぇ題目で欲望を否定する偽善野郎に、強ぇ堕群人が寄り付ぐはずがねぇ。ブギーマンだが何だが知らねぇが、噂になるほどの強ざなのがよ?」
「えーと……その噂なんですが……何ていうかその……」
「何口籠ってやがる?」
「いや、ただの与太話とは思うんですけど、空飛ぶバイクに跨って、魔法の銃を撃つとか……」
「……魔法の銃だぁ?」
「そいつが撃つと銃口が明後日の方向を向いていても、空中で勝手に弾が曲がって標的に当たるらしいんですよ。その上、敵が放った弾に弾を当てて撃ち落としたこともあるとか。どう考えても魔法にしか見えないから、それで魔法の銃って呼ばれてて……。他にも光線銃を使うとか、C4の爆発をバリアで防いだとか」
『まるで宇宙人ね』
ピギーにしか聞こえない声で、エレクトラがそう感想を漏らした。
堕群人の契約者が行使する異能――堕術は、魔法や超能力めいたものが多く、ロンが口にするような荒唐無稽な現象さえ、個々の内容に限れば現実に起こりうる。
しかし、それら全てを一人の契約者が使うとなれば話は別だ。何故なら堕群人との契約には厳密なルールが存在し――仮に堕群人自身が複数の堕術を使えるとしても――契約者が行使可能な堕術は一人につき一つのみ。たった一人で複数の堕術を扱うなど、ありえるはずがなかった。
「そいつに狙われて、逃げ切れた奴は居ないって話です。まぁ……いくら堕術使いでも、そんなもんありえねぇってことで、半分都市伝説みてぇな――」
下らない噂だとロンが笑い飛ばそうとした時、頭上で何かが爆ぜる音がして、突然車体が大きく揺れた。
金切り声のようにヒステリックな音を響かせ、アスファルトの地面にタイヤが擦れる。急停車の反動でアタッシュケースが地面に転がり、向かいに座るロンとオリヴァーが前方へつんのめった。ピギーは殆ど身じろぎすることなく、素早く席を立つや運転席を睨み、
「おい、急に何止まっでやがる!」
怒声に震えながらもミハイルは後ろを振り返り、
「い、いや、俺は何も……。ていうか、アクセル踏んでンのに、急に進まなくって」
エンジンが空回る音を立てながらも、車は全く動く気配がない。よく見ると、フロントガラスに橙色の粘液がへばりついていた。
「こっちも、ドアが開きません!」
ロックが開いているはずのドアをガタつかせ、ロンが喚く。オリヴァーも立ち上がり、上部ハッチを開こうとしているが、びくともしない。
例の粘液は側面の窓にも付着していた。外気に触れて硬化する性質なのか、どろりとした流体はあっという間に固まり、樹脂のような質感に変化していく。恐らくこの速乾性の流体が車体を覆い、車軸に絡まったのだろう。間違いなく、これは自分達を狙う何者かの仕業だ。
『マズいことになったわね』
走行不能となったHMVから、脱出不能という状況――ほぼ全員がパニックに陥いる中、言葉と裏腹にエレクトラの声はどこか弾んでいる。彼女が何を考えているか、ピギーには分かっていた。ピギー自身もまた同じ気持ちだったからだ。
ふいに運転席から、「あっ!」と頓狂な声が上がった。振り向けば、ミハイルが口を半開きにしてフロントガラスの向こうを指さしている。
硬化した樹脂の隙間から、黒いバイクのような乗り物が飛んでくるのが見えた。
タイヤはおろか噴射器やプロペラさえ見当たらず、まるで地上との間に斥力が生じているかのように、音もなく浮遊していた。流線形のフロントマスクには天使を象ったフィギュアヘッドが鎮座していたが、車体同様黒一色に染め上げられ、優美さよりは不吉な印象が先立つ。
ロンは目を大きく開き、漆黒の鉄馬に跨る怪人の名を口にした。
「ブギーマン……」
怪人が地上に降り立つ。無人のまま数メートルほど飛行した後、バイクは黒い霧となって消えた。背後に闇色のローブを纏った異形を引き連れ、ブギーマンがこちらへ歩み寄ってくる。武器らしい物は何も持たず、完全に丸腰のようだ。
「相棒から伝言がある」
変声機にでもかけたように、歪んだ声でブギーマンは言った。男にしては線も細く、鍛え抜かれた女兵士のようにも見える。声からも外見からも性別は測りかねた。
「〝このまま警察が来るのを待ち、縛にお就きなさい〟」
声が聞こえぬ者達に伝えるためだろう、背後に佇む堕群人の言葉をブギーマンがそのまま繰り返す。
「〝そして獄中にて自らの罪と向き合い、主に懺悔するのです。神は全てを見ておいでです。もし心の底から自らの罪を悔いれば、貴方々にも天へ至る道が開けましょう〟」
声のトーンはどこまでも平板で、まるで感情を持たない人形のようだった。噂とは違いブギーマンはただ喋らされているだけで、偽善者は堕群人の方らしい。暗がりに目を凝らすと、禍々しい外見に反してロザリオを身に着けている。
堕群人を形成する無数の魂の内、最も強い魂がその意識を司る〝核〟となる。奴の〝核〟となった魂は、敬虔な信者だったらしい。生前何をしでかしたか知らないが、地獄に堕ちて尚、神の僕を気取っているようだ。
一方、突然の事態に車内は混乱をきたし、怯えたように背を丸めたタカシを除いて、男達はざわつき始めていた。
「クソッ、車も動かねぇ、ドアも開かねぇ! 八方塞がりじゃねぇか!」
ロンが喚きたてると、血交じりの唾を飛ばし、オリヴァーも叫んだ。
「ライフルだ! ライフルなら、ドアぐれぇ簡単にぶち抜ける!」
「脳腐ってんのか、てめえは!」長髪を振り乱し、ミハイルが怒声を上げる。「HMVが防弾仕様だってのを忘れてんのか! 跳弾でくたばりてぇんなら、てめえ一人でやってろや!」
「なら、てめえに何か考えがあんのかよ! このまま車ン中に閉じ籠って、奴の言う通りサツにパクられろってのか! 冗談じゃねぇ! 留置場にブチこまれたら、一〇〇パーヤクザ共に殺されっぞ! ……チクショウ、こんなことになんなら、最初から――」
オリヴァーの泣き言を遮るように、がんっと強い音がして、一瞬車が揺れる。席を立ったピギーの拳が、ドアにめり込んでいた。
「オリヴァー……でめぇ、まだやられ足りねぇのが? ごれ以上がだがだ言いやがるなら、二度ど喋れねぇように唇ごど引ぎ裂いでやるど」
悲鳴を発すると、オリヴァーは後退りつつ口許を押さえた。
一喝で混乱を鎮めるや、ピギーは再度拳をドアに叩き込んだ。樹脂が剥がれる手応えとともに拳型に陥没した金属板が吹き飛び、アスファルトの路面に転がる。
人間離れした堕術使いの怪力を目の当たりにし、再度車内は沈黙に包まれた。
ピギーは床に転がっていたアタッシュケースを拾うと、シートの傍に置き直し、磁力で固定させた。これで自分が死ぬか意識を失わない限り、誰にもケースを持ち逃げすることは出来ない。いざ仲間が裏切った場合に備えての保険だ。
「オリヴァー! ロン! づいて来い!」
戦闘要員二人にのみ声を掛け、ピギーは自ら開けた出口から外へ出た。恐怖は人を従順な僕に変える。視線を向けずとも、足音で男達がついてくるのが分かった。
機動阻害弾を撃ち込まれ、速乾性ベークライトで塞がれていたドアが内側から吹き飛ばされると、ピアス面の白人とアジア系の男を連れ、ピギー・ザ・ハードラバーが降り立った。その背後に立つ鈍色の肌の女は、恐らくピギーの契約相手だろう。
凄まじい力だ、とカルルは思った。契約による身体能力向上を鑑みても、ベークライトで固定されたドアを素手で破壊しうる堕術使いはそういない。接近戦は避けた方が良さそうだ。
『投降……しに来た訳ではないようですね』
訊くまでもないナルの問いに、ピギーは鼻を鳴らした。
「分がり切っだごど訊いでんじゃねぇよ。でめえらごぞ、正面がらやり合っで本気で勝でる気でいるのがよ」
丸腰のカルルに向け、左右に侍るピギーの子分達は既に自動小銃を構えていた。
『神意の代行者たる我々に、敗北はありえません』
「ほざげ。どんな堕術を使うが知らねぇが、丸腰で鉛玉を防げるもんならやっでみろよ!」
親指を下に向け、サムダウン。殺意を意味するサインに子分達が反応するのと同時に、カルルもまた右手を前方に突き出していた。
するとナルの頭頂に紫光の冠が浮かび、黒衣の奥から黒々とした霧が噴き出す。霧は少年の手元へと凝集し、二連装のドラムマガジンを備えた自動小銃と化した。
開発コードAR-M79〈キリエ〉――AI制御による追尾弾を放ち、演算結果から所有者が被弾すると判断した際は、敵弾を自動で迎撃する〝迎撃モード〟へ移行する。
銃身下部には三つのレンズが埋め込まれたボール型のセンサーが付属し、敵が向ける銃口の向きや風向き、筋肉の緊張などから予測弾道をコンマゼロ秒以下で算出。男達がトリガーを絞るタイミングを合わせ、〈キリエ〉もまた火を噴いていた。
使用者は一切トリガーに触れない、AI主体の完全自動射撃――放たれた銃弾はスラスターや重心制御により軌道を修正し、殺到する敵弾を次々撃ち落としていく。三秒間の斉射を終えて硝煙が晴れた時、地面には正面衝突で先端の潰れた弾同士が二つ一組になり、百発以上も地面に転がっていた。
何が起きたかも分からず、目を見張る男達。迎撃モードの解除とともにカルルは弾倉下部のセレクターを捻り、使用弾を電圧弾に切り替えると、トリガーを二度絞った。
銃口の向きを変えることなく、人差し指に軽く力を入れるだけで追尾弾は標的の肩や脚をめがけ飛んでいく。プスッ、プスッ、と空気が抜けるような音が続くと、ピギーの左右に控えていた男達が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
ドラムを左右に並べたような二連装弾倉には対ボディアーマーの徹甲弾と非致死性電圧弾が別個に装填され、後者が標的に命中した場合、着弾と同時に相手は高圧電流で失神する。
陸に上がった魚のように痙攣する子分達と、地面に転がる正面衝突した無数の弾丸を見比べ、ピギーはしばし押し黙っていた。やがて顔を上げるとナルを仰ぎ見て、
「お前……紫冠級か」マスクに隠れて表情は見えないが、濁点混じりの言葉に動揺が滲んでいる。「どんな堕術を使っでやがる? ぞの銃どいい、あのバイグどいい……」
『答える義務はありませんね。ともあれ、これで残るは貴方一人』淡々とナルが告げる。『罪を犯せば必ず報いを受け、その魂は地獄へと堕ちるのです。唯一罪人が赦される道は、神への懺悔のみ。それすらも拒むというのであれば、身を以て自らの罪の重さを知って貰わねばなりません』
ぶもっ、ぶももっ、と豚鼻を象った排気口から奇妙な吐息が漏れる。笑っているらしかった。
相手の反応が気に障ったのか、ナルが声のトーンを下げる。
『……何を笑うのです? 代行者たる私の言葉は、神の言葉――それを嘲るというのですか?』
『別にそういうんじゃないわよ』
ピギーの背後で、鈍色の肌の女が代弁した。
『彼ね、ドMなの。死の瀬戸際まで追い詰められなきゃ生の実感を得られない、根っからのスリル中毒者なのよ。自らを窮地へ追い込んで快楽を得るため、これまでにも色んな人間を敵に回してきたわ。でも、誰も私達の相手にならなかった。デトロイトの銃撃戦でも、傷一つ負わなかったわ。彼、ずっと退屈してたわ。欲求不満だったのよ。だから嬉しいのよ。こうして、久しぶりに期待できる相手に巡り合えて。その証拠に、ほら。これを見て頂戴』
ラバースーツの股間辺りが不自然に膨らみ、背後から伸びた女の手がそれを撫でていた。淫靡に笑む女を睨み、ナルが赤く目を光らせる。
『そこな淫魔。貴女がこの男を罪の道に引きずり込んだのですか』
『あら、人聞きが悪いわね。あたしはただ坊やの願いを叶えているだけよ。まぁ、ついでにこちらの願いも叶えて貰ってるのは否定しないけど。あなたも同類なら知ってるでしょ。〝契約者は力を得るのと引き換えに、堕群人の願いを一つ叶えねばならない〟ってね。あたしが願ったのは〝強盗で総額一億ドル以上稼ぐ〟こと。尤もそれも、契約してものの二年で達成されたから、今して貰ってるのは付き合いみたいなものね』
『解せませんね。財を奪ったところで、肉体を持たない貴女には何の意味もないでしょうに』
『そうね、別にあんな紙切れや金属の板に興味はないわ。人の共通認識がそこに価値を与えてるだけで、本質的にはただの〝物〟でしかない。所詮〝ごっこ遊び〟よ。何の力もない人間が、それを持ってるだけで強者を気取るなんてお笑い草だわ。だから遊び道具を取り上げて、夢から醒まさせてやるの。何日か後のニュースで、散々偉ぶってた連中が死人みたいな顔で出てくるのは傑作だったわ。中には首を吊ったり、一家心中したのも居たわね。ごっこ遊びで祭り上げられた裸の王様が身ぐるみ剥がされて破滅するなんて、最高の娯楽じゃなくて?』
銀貨のドレスを着た女は、鈍色の肌に皴を刻み、口許を歪ませていた。
『よく分かりました……貴方々に、更生の余地はないようですね。どうやら彼らは審判の日に業火で焼かれるべき者のようです。今この場で、速やかな断罪を』
こちらに視線を移し、ナルが告げる。カルルは弾倉下部のセレクターを捻った。
あのスーツを貫くには、低威力の電圧弾では心もとない。徹甲弾の貫通力が必要だ。当然、殺す気はなかった。堕術使いは多少撃たれた程度で死にはしないのだから。
着弾箇所を膝に設定し、トリガーを絞った。秒間二十発の速度で銃弾が打ち出される。ギルディングメタルで被甲された弾頭は、レベルⅢのボディアーマーをも貫きうる威力――しかし、その全てが悉くラバースーツの表面で弾かれていく。
『……これは恐らく〝ダイラタンシー効果〟ですね』
声に若干の苛立ちを滲ませ、ナルが分析を口にする。
『ある種の液体と固体粒子の化合物は、衝撃を与えると数百倍にまで硬度を高めます。恐らくはあの男の着る奇妙なスーツも、ダイラタント流体を素材にしているのでしょう』
「正解だぜ、紫冠級! おでを倒じでぇんなら、もっどデガいエモノを用意ずるんだな!」
言いながら、掌に魔力を集中させるピギー。すると引力が生じたかのように、破壊されたHMVのドアが手元に吸い寄せられていく。
咄嗟にカルルが身を低くした直後、投擲されたドアが背を掠める。その隙を見計らい、ピギーが左手首のスイッチ押した。瞬時にスーツが膨張し、頭と四肢が埋没――完全な球体と化したピギーが、砲弾の如くカルルに迫った。辛うじて横へ跳んで躱すも、Uターンして再度突撃してくる。頭が埋まり、目が塞がっているはずなのに、その狙いは正確だった。
『高周波の磁気を周囲一帯に放射し、原子との磁気共鳴により環境を把握しているのでしょう。MRIと同様の原理です』
契約相手の危機を横目に、冷静な分析を行うナル。具体的なことは分からないが、敵が狙いを外すことはないとカルルも直感していた。
「ぞの程度がよ、ブギーマン!」
全方位から、ドップラー効果で歪んだ声が聞こえてくる。
「おでどママは無敵のゴンビだ! 紫冠級相手だろうが、負げやじねぇ!」
殆ど息つく間もなく、敵は突進を繰り返す。反撃の暇はなく、紙一重で避け続けるのがやっと。ただの重荷と化した銃は、既に捨てていた。
とはいえ、あの防護スーツに有効と思われる武器なら幾つかある。しかし着用者を殺さず倒せるものとなると、二つしか思いつかない。その内一つである〝鎧〟は霊力の消費量が多く、一度使用すれば数日は召喚不能となるため、出来うる限り使用を控えたかった。
もう一方の〝銃〟は高威力な分、〈キリエ〉のような追尾機能を持たず、高速で動き回る敵相手に当てるのは困難と言える。ならば――とカルルは別の方向へ発想を飛ばした。
「ナル、〝SH-008〟召喚。一秒後に〝NS-666〟右腕部、〝SG-02GA〟を追加召喚。使用弾頭はスラッグ弾」
『コード承認――』
黒い霧がカルルの右手に集まり、掌サイズの円筒を形成する。
前方から砲弾と化したピギーが突撃してくる。カルルはその場から一歩も動かぬまま、生体認証センサーに親指で触れつつ円筒を地面に突き立てた。
ロック解除を示す青い光を点し、円筒が外装を展開――SH-008〈トラクトゥス〉がハニカム構造のアシンメトリック・マテリアルを発生させ、半径三メートル圏内をドーム状に覆った。
物理学の常識を超越した超物質の盾は、内部からの攻撃を透過させる一方、実体弾を含め外部からのあらゆる攻撃を阻害する。カノン砲並みの一撃を受けながらも半透明の障壁は砕けることなく、逆に威力を殺されたピギーの突撃形態が解ける。
想定通り動きを止めた標的に向けてカルルが右腕を突き出すと、再びそこへ霧が凝集し、背中や胸へと広がっていく。
霧が晴れた時、その右半身は装甲に覆われていた。それは煤塗れの骨片を寄せ集めて作ったような、禍々しく歪な漆黒の籠手と胸当てであり、鎧われた手には巨大な銃が握られていた。
SG-02GA〈グラデュアーレ〉――規格外の威力を誇る2ゲージ散弾銃。使用される実包は軍で使用される12ゲージの六倍の質量を持ち、その外観は最早銃器より砲塔に近い。
直径四十ミリに達する大口径が標的の腹部を睨む。引き金を絞った瞬間、落雷の如き閃光と轟音が迸った。常人であれば肩が吹き飛ぶであろう暴力的な反動を、装甲下に内蔵された単分子結晶の人工筋肉が受け止める。
射出されるのは、散弾を内包した実包とは異なる単発式のスラッグ弾。AMの障壁を透過し、重質量の暴威が標的の腹部に深々と突き刺さる。
腹を波打たせながら、吹き飛んでいくピギー。球体に近い身体が地面で何回転もして、後方へ遠ざかっていく。三十メートルを超えたところでようやく止まり、そのまま動かなくなった。
『どうやら、これで終わりのようですね』
ナルがそう口にした時だった。倒れ伏していたピギーが排気口から血を滴らせながら起き上がり、喜色の滲んだ声を発した。
「少じはやるじゃねぇが」
間髪入れずもう一度トリガーを絞るカルル。しかし、放たれた弾は遥か後方の路面を抉った。
『これはまさか……強磁界シールド?』
『ご明察ね、紫冠級』
青く輝く冠を頭上に浮かべ、鈍色の肌の女が答える。
『前方に発生させた強磁界で鉄やタングステンのような強磁性体は勿論、鉛のような非磁性体さえも磁化させ、こちらの体表を覆う逆向きの磁場で反発させて威力を減衰させる――一あたし達の奥の手よ。相性が悪かったわね? 他にどんな武器を持ってるか知らないけど、実体弾を使う限りこの盾は破れないわ。さて、十分愉しめたことだし、そろそろ下剋上させて貰おうかしら』
勝ち誇った女の笑みとともに、再度突撃形態に変じるピギー。こちらの中心に円を描くような軌道で、高速運動を始める。高速回転の壁でこちらの逃げ場を奪った上で、極限まで加速した状態で突進を仕掛ける気らしい。この攻撃に〈トラクトゥス〉が耐え抜けるか否かは、際どいところだ。こうなった以上、任務を果たすにはこちらも奥の手を使う他なさそうだった。
「……ナル、〝NS-666〟――フルスケール」
『コード承認。NS-666〈御稜威の王〉、完全開放』
瞬間、ナルを包んでいた闇色のローブがはだける。
露わになったローブの内側には大小様々な黒い歯車がひしめき、その中央には直径三十センチほどの漆黒の環が鎮座する。環には複雑な幾何学模様が刻まれ、空洞になった内側に現世とは位相を異にする暗黒の亜空間を覗かせていた。歯車が回り出すと環に刻まれた紋様が紫色に発光し、その深淵から霧が噴き出してくる。濃密な霊力を含んだ黒霧はカルルの全身を包み、次第に全身鎧の形状を取り始めた。
十分に加速をつけ、亜音速のスピードで重質量の砲弾が迫る。何十枚もの六角形から成るハニカム構造の障壁は、その威力を減衰させながらも軋みを上げていた。
崩壊寸前の〈トラクトゥス〉の内側で、全身を霧に覆われたカルルは拳を握った。
右足で地を蹴り、左足を踏み込む。踏み込んだ衝撃で、アスファルトが陥没した。
半透明の六角形が砕け、障壁が消失。少年は踏み込みの勢いを拳に乗せ、眼前の砲弾めがけ全力で振り抜いた――。
4
「し、失礼します! たった今警察署から、ピギー・ザ・ハードラバーを含め計四名が捕縛されたと連絡が!」
支配人室に秘書が再び戻ってきたのは、五十嵐が賞金稼ぎからの電話を受け取った三十分後のことだった。五十嵐は報告を受けるなり、開口一番、
「それで、私のコレクションはどうなった! 無事回収されたんだろうな!」
「ハ、ハイ……強奪された美術品にも目立った損傷はなかったと」
安堵の吐息を漏らすと、胸元のポケットからケースを取り出し、葉巻に火をつけた。平面に切り取った吸い口から、キューバ産タバコ葉の芳醇な香りを肺に取り込み、盛大に吐く。咳き込む相手に構わず、そのまま報告を続けるよう促した。
「警察が駆けつけた時は既に、全員意識を失い拘束されていたそうです。連中を倒したのが何者か、警察側の目撃者は居ないそうですが、〝|ブギーマンがやった《It's the work of Bogeyman》〟と印字された書置きが残され、その下に懸賞金の振込先が記載されていたと……」
「ふむ、分かった。次にまた署から連絡があれば、私に繋いでくれ。それと例の口座に、三〇万ドルを振り込んでおけ」
煙を吹かしつつ、予め打っておいた文面を事件屋の端末に送信。依頼完了の確認を伝える。
ひび割れた灰皿に葉巻を押し付けると、五十嵐は席を立った。多少のアクシデントには見舞われたが、今日は祝いの日だ。いつまでも主役である自分が戻らねば、客が不安がるだろう。
「あ、あの……」
「何だ、まだ何かあるのか?」
「支配人がお雇いになった〝ブギーマン〟という賞金稼ぎは何者なので? この街に居ると、しばしばその名を耳にしますが、あのピギーを倒すほどの堕術使いとは一体……?」
「さてな、私も直に会ったことはない。奴の上司とは何度か顔を合わせているがな」
「上司……ですか?」
秘書は怪訝そうな顔をした。ブギーマンは毎回単独で戦闘を行う。故に一匹狼という印象があったのだろう。
「その方はどんなお人で?」
「……下らん奴さ。外面がいいだけの、金の亡者だ」
吐き捨てるように言うと、五十嵐は足早にパーティ会場に戻った。
ならず者共が牛耳る悪徳の街にも教会はある。
――いや、理不尽が支配する土地だからこそ、弱者は神に縋ろうとするのかもしれない。
戦いを終えたカルルが帰った時も、東部スラム街に位置するレンガ造りの教会には、大勢の人々が夜のミサに訪れていた。
身なりの良い者は決して多くない。明らかにホームレスと思われる者もいる。貧しくも信仰に厚い彼らを見渡し、感極まったようにナルは地面に膝をついた。
『主を讃える心を持つ者達が今日もまたこんなに……カルル、私は嬉しさで胸が一杯になっています。ああ、主よ!』
入り口で主に祈りを捧げる相方を尻目に、カルルは礼拝堂の裏手に回った。
尾行を避けるため回り道をし、隠れ家でボディスーツから私服に着替えたため、時刻は既に七時過ぎ。式次第は中盤に差し掛かり、神父の説教が始まっている。
侍者服に着替え礼拝堂へ入ると、祭壇に向かって一礼し、カルルも講壇の横に並んだ。
「――〝あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである〟そうイエス様はおっしゃいました」
ブラウンに近いブロンドに、青みがかった瞳。その美貌を柔和に綻ばせ、『ルカによる福音書 六章』を引用する神父。二〇代後半ほどの年若き聖職者に、一部の女性信者などはスター俳優や歌手に向けるような、熱っぽい視線を向けている。
「我欲に囚われ、他者の窮状を見て見ぬ振りをすれば、自らを天から遠ざけることになります。対して貧しくとも清き心を持ち、主への信仰を貫く者こそが神の国で報われるのです」
一歩間違えれば偽善と受け取られかねない麗句。そこに説得力を持たせるのは、神父という肩書きだけではない。俗人が抱く欲求とは無縁であるかのような、知的さと寛容さを窺わせる表情と声――全てが完璧であり、万人が思い描く理想の神父像がそこにはあった。
説教を終えると、〝信仰宣言〟と〝共同祈願〟、次いで〝感謝の典礼〟と〝交わりの儀〟に移る。ナルも長椅子の空いたスペースに座り、他の信者と一緒に主に祈りを捧げたり、賛歌を歌ったりしていた。ミサの式次第は一時間以上にも及び、途中退出が許されていたが、カルルは席を立つ者を一人も見なかった。
「感謝の祭儀を終わります。行きましょう、主の平和のうちに」
神父が閉祭の挨拶を口にすると、「神に感謝」の言葉とともに一同起立。閉祭の歌が歌われる。
閉祭後、教会の玄関口では炊き出しが行われた。ミサに訪れる信徒以外にも開放しているので、あっという間に長蛇の列が出来る。
今日の献立はカレーライス。大鍋で煮込まれた具材には、カルルが刻んだ不揃いなジャガイモやニンジンも紛れている。銘々、神父への感謝を口にしながらそれを受け取った。
時折、包帯の巻かれた首に視線が向けられるのをカルルは感じた。視界の端に映る彼らは、何故か憐れむような表情をしていた。
三十分と掛からず鍋は空になり、カルル達も炊き出しのテントの下で食事を始めた。
「今日は遅かったですね、カルル。何か問題でもありましたか?」
口許に冷めかけたカレーを運び、神父が尋ねてくる。カルルは無言で頭を振った。
「そうですか。何事もなかったのでしたら、それが一番です。何かと物騒な街ですから、不要なトラブルには巻き込まれないよう気を付けて下さいね」
何を訊かれてもカルルは声を発さず、ただ首を縦か横に振るだけ。
神父が口にする日本語はちゃんと分かっていたし、ある程度なら話すことも出来た。それでも人前で無言を貫くのは、少年なりの処世術だった。
彼の生まれ故郷はこの島に輪をかけて治安の悪い土地だった。ただ口を利いただけで初対面の相手に殴られたり、些細な口喧嘩で殺し合いになることさえある――そんな場所だ。日本語の諺に〝口は禍の元〟というのがあるが、少年は身を以てそれを実感していた。
中には舌先三寸で他人の懐に入り込み、上手くやっていく者も居たが、自身にその手の才能はないと自覚していた。彼が口を開くと――ただ思ったままを言葉にしているだけなのに――相手の怒りを買うことの方が多かったのだ。
故に物心ついた頃から必要最低限の言葉しか発しなくなり、この島に来てからも特定の相手以外とは殆ど何も話さなかった。やがて周囲の大人達も、少年は首に負った傷が原因で喋れなくなったと考えるようになっていた。
カルル自身その誤解を却って好都合に思い、今も〝言葉を失くした哀れな少年〟の仮面を被り続けている。とはいえ、素顔を隠して生きる人間は、この島では決して珍しくない。現にこの場にも、もう一人――仮面を着けた人間が居るのだから。
食事を終えて皆帰ると、カルル達は後片付けを始めた。
何人かの信徒が手伝ってくれたので、十分前後で作業は終わる。皆を見送りカルルと二人きりになると、神父は懐から携帯端末を取り出した。
液晶画面を見つめる内、ふいにその横顔が口端を歪ませる。
きっと依頼人からの振り込みを確認したのだろう。信徒達の前で見せる微笑みとはまるで別種の――大金を前にした時に見せる、いつもの嫌らしい笑みだ。
カルルの肩にポンと手を置くと、耳元で神父は囁いた。
「今日は祝杯だ。お前も付き合え」
5
教会の離れには、聖職者らが暮らすための司祭館がある。
元はワインの貯蔵庫だという、四〇〇スクエアフィート――日系人に馴染みの単位で言えば約十畳――の地下室に、「ぎゃはは!」という品のない笑声と、大画面テレビが流すゾンビの唸り声や、逃げ惑う人々の悲鳴が響く。
CATVのB級映画を、ソファに寝そべりながら神父は眺めていた。
人をゾンビに変える細菌兵器がタンクから漏れ出し、街中がゾンビだらけになるというパニックもの。劇中の人物が下ネタを飛ばす度、嬉しそうに神父は目を細め、ゾンビが獲物を追って猛ダッシュすると、膝を打って笑う。時々ポップコーン感覚でキャビア乗せのクラッカーを齧っては、ワインのラッパ飲みでそれを流し込んでいる。
ソファは神父が独占しているので、カルルはテーブルに座り、温めた冷凍ピザを貪っていた。一応食事は摂っていたが、カレー一杯程度では腹四分目にもならなかった。
「それ、観てて〝楽しい〟の?」
何となしにカルルが尋ねると視線だけを寄越し、「まぁな」と神父。
「平和ボケした連中が地獄に叩き落されるのを観てると、すっきり爽快な気分になれるってもんよ」
凡そ聖職者とは思えぬ発言に、『何という男でしょう』と隣でナルがため息をつく。
「それに今日は、特別気分がいい。何せ報奨金と合わせて一三〇万ドルの稼ぎだ。ブギーマン様様ってもんよ。どうだ、カルル。お前も一杯やるか?」
カルルが頭を振ると、「あ、そう」とだけ言って、情次は空に近いボトルを傾けた。
『全く、あれでも聖職者でしょうか。カルル、あの男に酒を控えるように言いなさない』
次のボトルを取りに行った情次を見て、呆れたようにナルが言った。常人には聞こえない言葉をカルルが代弁すると、神父は振り返り、
「あぁん? 聖書読めや、馬鹿野郎。我らがイエス様が最初に為された奇跡は水をワインに変えることだろうが。イエス様がお作りになられたものを口にするのが罪だってのか、テメェは?」
『何事も程度によると言っているのです』
「そりゃお前の理屈だろうが。第一、聖書に禁酒を謳う文言があるか?」
『確かに禁酒に関する具体的記述はありません。しかし酒に酔った者が理性を失い、愚行に走る話なら幾つもあります。過度な飲酒が心身ともに人を堕落させるというのは、聖書をつぶさに読めば誰にでも分かることです。第一貴方は神に仕える身――そのような醜態を晒すことが許されるはずもないでしょう』
「へっ、ンなもんプロテスタント共の戯言だ。こっちは生憎カトリックなんでね」
『ミサは翌朝もあるのですよ。酒臭い息を吐きながら、信徒達の前で説教する気ですか?』
「堕群人に心配されるほど落ちぶれちゃいねぇよ。こちとら、ちょっとした特異体質なもんでな。浴びるほど飲もうが、一時間もすりゃアルコールは勝手に抜けちまうのさ」
『馬鹿にするのもいい加減になさい! 堕術使いじゃあるまいし、そんな人間が居るものですか! それとこの私を、他の悪魔共と一緒にするなといつも言ってるでしょう!』
「だーっ、もう! うっせー、うっせー! カルル、もうこの女の言葉を繰り返さなくていいからな。せっかくの酒がマズくならぁ」
『カルル、この男の言葉に耳を貸してはなりませんよ! この際、聖職者に相応しい品性を身に着けるよう言って聞かせるべきです!』
カルルを介して口論を繰り広げる、酔いどれ神父と自称〝神意の代行者〟の堕群人。少年にとっては見慣れた光景である。
神父の本名は〝悪戸情次〟。出会った当時、男は神父としての肩書を持たず、祭服の代わりにタクティカルベストを身に着け、アサルトライフルやクラッドチタンナイフで武装していた。
あの日、アフリカ中部の戦場に自分達はいた。情次は反政府組織の残党狩りを行う民間軍事会社の社員であり、カルルは壊滅させられた組織の元少年兵。敵同士として戦場で出会い、銃火を交えた。男は強かった。堕術使いでさえない人間だというのに、カルルと互角に渡り合った。そして死闘の果て、男は少年にある提案をした。
〝俺と一緒に来い。お前に新たらしい行き場をくれてやる〟
こうしてカルルの戦う相手は、政府軍や外国人部隊から、堕術使いの賞金首に変わった。
それから一年以上が経ち、稼いだ額は一千万ドルを下らない。諸々の支出を差し引いても、一生遊んで暮らせるだけの大金が情次の手元にあるはずだった。
けれどカルルが知る限り普段の情次は神父の仮面を被っており、カジノに通うことも、女を買い漁るようなこともしない。具体的な使い道については、殆ど謎だった。
いつだったか冗談めかして、〝自分は不治の病に罹っていて、その治療には大金が必要〟などと宣っていたが……あれはまあ嘘だろう。日頃そんな素振りは全く見せないし、そもそも酒好きの重病人など見たことも聞いたこともない。
たまの贅沢といったら、せいぜい浴びるように高級ワインを飲む程度だ。
今日は特にペースが早く、足元には大量の空瓶が転がっている。ナルも匙を投げたのか、途中から何も言わず姿を消していた。
映画も終盤に差し掛かり、街の異変を知った米軍は感染の拡大を防ぐため、核攻撃を決定する。スイッチが押され、街全体が真っ白な光に包まれていくのを見るともなしに見ながら、情次はもう何本目になるかも分からないボトルを口に運んでいた。
何でそんなに飲むのかと尋ねると、情次は胡乱な目をこちらへ向け、
「あン、おめぇも俺の趣味にケチつけようってのか?」
「いや、別に」
別にそんな気はない。ただ何となくだ。しかし向こうは気に障ったらしく、舌打ちするとそのまま何も言わなくなった。やがて画面が暗転し、スタッフロールが流れ始めると、
「……埋め合わせみてぇなもんだよ」と小声で情次は呟いた。「さっきの答えだよ。酒を飲む理由だ。飯食って、クソ垂れて、寝るだけじゃ死ぬまでの暇潰しにゃ退屈すぎる。退屈ってのは、人生最大の敵だ。退屈すると思い出したくねぇことを思い出して、急に虚しくなる。生きることに意味なんてあンのか? なんて下らねぇことを考えちまう。そいつは主の御言葉でも癒せねぇ、胸に空いたデケェ穴みてぇなもんだ。何をしようが、そいつを塞ぐ方法はねぇ。だからこうしてたまにバカみてぇに騒いで、忘れる努力をするのさ。……何だ、きょとんしやがって。言ってる意味、分からねぇか?」
首肯した。死ぬまでの暇潰しとか、生きる意味とか、情次が言っていることは、殆ど何も分からない。それに、胸に大穴が空くとはどういう意味だろう? そんな状態で生きていられる人間など、居るとは思えない。そうカルルが指摘すると、情次は眉を顰め、
「物理的にって意味じゃねぇ。物の喩えって奴だ。ほら、あれだ。〝人はパンのみにて生きるにあらず〟だ。敬虔な信徒にゃ、そいつは主の御言葉。俺にとっちゃ、樽一杯の葡萄酒だ。お前にゃねぇのかよ、そういうの? 服や食い物、家――そいつがなきゃ生きてけねぇって物以外、欲しい物はねぇのかよ? 分け前は十分渡してる。大抵のもんなら、手に入るだろうよ」
少し考えてから、カルルは首を横に振った。「だろうな」と言って情次は鼻を鳴らした。
「……ったく、余計なことまでベラベラ喋っちまった。お前の相方が言う通り、今日はどうも深酒が過ぎたらしい。お前もそろそろ部屋へ戻れ、ガキはもう寝る時間だ」
5
カルルの自室にはトレーニングマシンが置かれている。一台でベンチプレスやスクワット、ラットプルなどのトレーニングが可能なマルチタイプのマシンだ。
壁際には小さな冷蔵庫、その脇に袋詰めのプロテインが五つとシェイカーボトルが無造作に置かれている。本もテレビもなく、私物らしい私物と言えばその程度だった。それも自発的に欲した物ではなく、情次から買い与えられた物だ。
マシンのフレーム部にはバーベル専用のホルダーがあり、長大なシャフトがそこに置かれている。カルルはラックからプレートを取り出すと、一枚ずつ左右交互に取り付けていった。
プレートを付け終えると、ベンチ台に仰向けになり、ブリッジの姿勢を取る。
床につけた足と腹に力を入れつつ、肩幅の広さにシャフトを握り、ホルダーからバーベルを外した。両端に掛かった重量のあまり、持ち上げた瞬間シャフトがたわむ。
シャフトの重量と合わせ、計四四〇ポンド(約二〇〇キログラム)――トップクラスのボディビルダーや格闘家でさえ数度持ち上げるのがやっとの重量を、少年は安定したフォームでみぞおちまで下ろし、軽々持ち上げた。
堕群人との契約によって堕術使いの全身には魔力が巡り、身体能力が向上する。カルルもまた、契約前と比べ何倍もの膂力を手にし、腕立て伏せや懸垂など、通常のトレーニングでは殆ど効果を得られなくなっていた。その点、このトレーニングマシンの存在は有難かった。専用のプレートさえ追加すれば、好きなだけ重量を増やせるのだから。
幼い頃、育ての親から〝お前は俺の道具だ〟と言われた。
〝力〟こそが道具の価値であり、存在意義だ。だから暇さえあれば、いつも身体を鍛えた。道具としての価値を高めるために。
道具は簡単に壊れる。生き残っても、手足を失えばそれはもう〝不良品〟だ。錆びた銃や刃こぼれしたナイフが打ち捨てられるように、不良品となった義兄弟は地雷原を歩かされたり、弾除けにされたりして容赦なく見殺しにされた。
何十もの戦場を経て壊れずにいる道具もいれば、数度の戦いで壊れる道具もあった。自らはそうならぬよう、カルルは常に力を欲していた。
当時の習慣は、組織が壊滅した今も身に染み付いている。就寝前に鍛錬をこなさずには、落ち着いて眠ることも出来なかった。十回上げ下げを繰り返し、一旦カルルはバーベルを置いた。再びラックからプレートを取り出し、更に重量を加算させていく。
六六〇ポンド――最早世界でも、数えるほどの人間にしか扱えぬ重量。これまでのはほんのウォーミングアップに過ぎず、少年にとってはここからが本番だった。
大きく息を吸い、バーベルをホルダーから外す。さっきとは比べ物にならないほどの重みが、上半身と足腰に掛かってくる。腹筋を固く締め、両足で床を踏みしめる。みぞおちに下ろすと同時に奥歯を食いしばり、両腕を伸ばす。
七度繰り返して定位置に戻すと一分のインターバルを置き、更にもう二セットこなした。午前と午後に済ませた他種目のトレーニングを含め、これで全身を鍛え終えたことになる。
カルルは冷蔵庫からミルクを取り出すと、シェイカーボトルに注いでプロテインと混ぜ、一息に飲み干した。あとは汗を洗い流し、床に就くだけ。
汗まみれのシャツと短パン、首に巻いた包帯を洗濯籠に脱ぎ捨てた。
脂肪という概念が入り込む余地のない、締まった肉体が露になる。数々の戦場を渡り歩いてきたにも拘わらず、銃痕や切創などの古傷は殆ど見当たらない。
そして包帯を取り去った首には、漆黒の円環が嵌っていた。それは装飾品というよりは、皮膚の如く肉体と一体化しているようだった。
浴室に入るとバルブを捻り、まだ温まり切らないシャワーを頭から浴びた。火照った身体に、冷めた水が心地良い。
一日の終わりに身体を洗うのは情次の言いつけで、まだ故郷に居た頃はそんな習慣はなかった。月に数度、匂いが酷くなると大人達が水をかけて自分達の汚れを落とすのだ。シャワーではなく、ホースを使って。豚でも洗うみたいに。
温かなシャワーに、柔らかな寝床、十分に腹を満たす食事――ここでの暮らしは、これまでとは何もかもが違う。
〝仕事〟に駆り出されるのは月に数えるほどで、普段は掃除やミサや炊き出しを手伝い、一日を過ごしている。訓練と戦闘で忙殺されてきた頃とは、かけ離れた日常だ。
世間が言うところの〝人間らしい生活〟を送りながらも、少年の自己認識は変わらなかった。今も己を道具と捉え、所有者の願いを叶えることを使命としていた。
水滴を軽く拭き、寝間着姿で部屋に戻ると、さっきまで消えていたナルが窓辺に佇んでいた。
『お疲れ様でした、カルル。これでまた、今日という日が終わりますね』
カルルが頷き返すと、ナルは少し声音を弾ませた。
『あのピギーという男も、今頃は留置場の中で自らの行いを悔いていることでしょう。貴方は正しい行いをしたのですよ、カルル。これでまた神の国へ一歩近づいたと言えるでしょう』
カルルはただ黙って頷き返した。何が正しいかそうでないかなど道具には関係のないことだ。
『人はいずれ肉体の死を迎えます。重要なのはいずれ来るその時までに自らの罪を省みて、神の導きに身を委ねることです』
魂同士が結合する過程で、堕群人の核となる魂の多くは記憶や人格などに損傷が生じるとされるが、ナルはこのダメージの度合いが比較的軽度なようだった。自伝的記憶に幾らか欠落はあるものの、生前の知識や人格とともに神への信仰心も今尚持ち続けていた。
何故神を信仰しながら獄界へ堕ちたのか、どんな罪を犯したのか、ナルは多くを語ろうとしないが、契約してすぐあることを教えてくれた。
一つは、彼女の堕術によって召喚される兵器群は、生前の彼女自身が開発したものということ。そしてもう一つは、天才的な頭脳とともに彼女が先天的に有していた、〝予知能力〟についてだった。
『……あと五八九日、ですね』
一日の終わりが来ると、いつもナルは〝終末の日〟が訪れるまでの日数を告げる。カルルは首肯を返しつつ、窓の外に広がる風景へ目を向けた。
青白い月が浮かぶ、紫色の夜空――カルルが物心ついた頃から、空は本来の色を失っていた。
堕群人が使用する堕術は、獄界に蔓延するガス状物質〝瘴気〟を利用したものであり、堕術使いの増加とともに現世にまで溢れ出ていた。空の色の変化もその影響の一つだ。
本来、死者の世界である獄界と現世は位相を異にし、殆ど交わりを持たなかった。しかしある時期を境に両者は接近を始め、次第にその境界は消えつつあった。
堕術使いは霊的存在を感知する第六感を持つ。また音を色として認知する共感覚者ように、第六感により得た情報を視覚野に投影することも可能である。
額に三番目の目があると想像し、それを開くよう意識するのがコツだ。カルルは月を見上げつつ、想像上の目を開いた。すると夜空がフェードアウトし、入れ替わるように逆さまになった獄界の光景が視界に現れる。
喩えるならそれは、衝突寸前にまで接近した紅蓮色の天体。地表には奇怪な建造物群が同心円状に層を成し、バウムクーヘン型の都市を形成する。
建造物は鉄やコンクリートではなく、巨蟲の死骸を寄せ集めて建てられたようなグロテスクな外観をしていた。体毛が生えた殻や筋張った翅を継ぎ接いで造った壁には、窓代わりに赤黒い複眼が埋め込まれ、屋上からは触角のアンテナが伸びている。建物同士の隙間を縫って動く住人達の姿は、遠目には判然とせず蛆が這いずり回っているようだ。
都市の中心には暗く深い奈落の如きクレーターが穿たれ、その奥に巨大な六つの目が光って見える。あのクレーターの奥に、あらゆる堕群人を凌駕する〈破滅の翅者〉と呼ばれる存在が封じられているそうだ。
〈破滅の翅者〉は蛾の如き眼状紋に彩られた六枚の〝翅〟を有し、その一枚一枚が強大な霊力を内包した別個の堕群人でもある。
現在地上には、〈破滅の翅者〉を召喚するための六つの〝鍵〟が存在し、これを手にした者は〈翅者〉の〝翅〟と契約する資格を持つとされる。
また〝翅〟と本体との間にはある種の引力があり、現世で〝翅〟が解放されるほどに本体が封じられた獄界との距離も縮まる。現に二つの世界が接近し始めたのも、十一年前に南米で〝翅〟の契約者が現れたことが原因だった。
そして今日から五八九日後の二〇二一年六月二八日――全ての〝翅〟が解放され、〈破滅の翅者〉が降臨し、現世と獄界は完全なる同化を果たすという。
初めて出会った時、ナルは生前に予知した〝世界の終末〟をカルルに語り、契約を結ぶ対価として、ある願いを告げた。
『我が使命は〈破滅の翅者〉の降臨を阻止し、終末を回避すること。しかし肉体を持たぬ私に、現世に干渉する術はありません。故に契約者たる貴方の協力がほしいのです』
どうやって? そうカルルが聞き返すと、彼女は答えた。
『〈破滅の翅者〉が降臨するのは、六つ全ての〝翅〟の封印が解けた時です。逆に言えば、たった一つでも解放を阻止できれば、他五つが解放されても本体は復活しない。そして私は、〈翅の鍵〉の一つがどこにあるかを知っています』
その場所こそがニホン州北端にある、このモリクニ島だった。契約から数日後に悪戸情次と出会い、この島に来るよう提案されたのは、まさに奇跡的な偶然と言えた。またあの男が教会経営を隠れ蓑に賞金稼ぎを営み、島内に独自の情報網を築いていたことも好都合だった。
『分かっているのは島の何処かにあることのみで、詳細な位置までは不明です。またその場所は厳重に秘匿され、何の手が掛かりもない状態では発見は困難と言えます』
残念そうにそう告げると、『ですが』とナルは続けた。
『未来において〈破滅の翅者〉本体が復活するなら、それまでの間に何者かがこの島に隠された〈翅の鍵〉を見つけ出すはず。事前にその動きを追い、我々がその者に先じて鍵を見つけ出し、完全な封印を施すのです』
アメリカを始め各国の諜報機関、企業、犯罪組織など、〈翅の鍵〉の存在を知り、入手を目論む勢力は多い。また隠し場所の機密性から、件の鍵を個人が見つけ出すのは困難であり、この島で鍵を得る者は何らかの組織に属している目算が高い。
一つの組織が動けば、その情報を掴んだ対立勢力も動き、島内で衝突を起こすだろう。そしてその動きは、必ず情次に伝わる。
賞金稼ぎとして島で起こる事件を追えば、〈翅の鍵〉を狙う勢力にいずれ辿り着ける――そんなナルの考えから、カルルは情次の提案を受け入れたのだ。
情次の下で働くのもそれが理由であり、カルル自身はあの男を自分の所有者とは認めていない。契約を結んだあの日から、この堕群人のみを自らの主と定めていた。
無論、計画通りに事が運ぶとは限らず、自分達より先に誰かが鍵を手にする可能性もある。仮にそうなれば、〝翅〟の契約者との戦闘は避けられない。〝翅〟一枚につき、どれほどの霊力が秘められているかは未知数だが、それが紫冠級以上の力だとすれば、自分達が敗北する可能性は否定できない。その場合に備え、ナルはある〝保険〟を用意していた。
裸身のままベッドのへりに腰掛けると、カルルの首に嵌った漆黒の円環を、血のように赤い目でナルは見つめた。
『生前に予知した、あの悪夢のような未来を決して現実のものにしてはなりません。喩えどれほど多くの犠牲を出そうとも』
確認の言葉に、カルルはただ黙って頷きを返した。
DG-000〈怒りの日〉――それがこの円環の正式名称だ。
装着者であるカルル自身の生命反応消失と同時にワームホールを発生させ、半径約一キロ圏内に存在する全てを重力の渦に引き込み、外宇宙へと追放する。
ワームホールの重力は光を呑み込むほどに強く、敵が如何な存在であれ、物理的な実体を持つ限りは逃れられず、時空の穴を通過する過程で圧壊させられる。仮に契約者の死亡後に〈翅の鍵〉が残ったとしても、誰も到達しえない外宇宙の彼方へ飛ばされているため、新たな契約者が誕生することはない。
ただしこの兵器には欠陥が存在し、ワームホール消失の際、ホーキング輻射により膨大な熱エネルギーが放出され、半径百キロ圏内は焦土と化す。仮にこの島で発動すれば、ここに生きる三十万もの住人は皆死ぬだろう。
『多数を生かすために、少数を死なせる――私のしようとすることは、大いなる罪に違いありません。しかしこれ以外に方法がないのならば、私は大罪を負ってでも使命を全うしましょう』
罪……? 罪とは何だろう? ナルは事あるごとにその単語を口にするが、そこにどんな意味が込められているのか、カルルには分からなかった。
してはならないことだと聖書には書かれている。けれど何故してはならないのか、理由が分からない。これまでだって、自分の身の周りで数えきれない人間が死んできた。世界はいつも死で溢れている。死ぬのが一人だろうと、三十万だろうと、死そのものに意味がない以上、大した変わりなどないように思える。
『おやすみなさい、カルル』
「おやすみ、ナル」
照明を消し、床に就いた。少年の心の中のように真っ暗な闇が視界を包む。
いつかは皆死ぬ。この島で権勢を誇るならず者達も、スラム住む貧しい人々も。
生きているということは、まだ死んでいないということにすぎない。それ以上の意味など、少年には想像も出来なかった。