2 妖精なんて、いないから 4
何年が過ぎ去っただろう。解放戦争から三十年は過ぎていた……
いま。いつかのような、冬の日。
商人も、もはや老年。事業は部下たちに任せ、きままな隠居生活をしていた。愛用しているゆったりした椅子の上で。夕暮れどきの読書の後など、くつろぎまどろんでいると、ときおりいつかの少女のことを思い出す。
いまとなっては、不思議な思い出だ。ほんとうに妖精だったような気もする。
思えば、いままで刻を重ねてきた。つらい事悲しいこともあったが、それは人がみな体験すること。いまは満ち足りている。それは、お金ではなかった。
商人にはもう、財産なんて無用のものだった。ほんとうの宝物は。
緑芽生える春の息吹。青々とうねる夏の海。
黄金色に輝く早秋の畑。宝石のように降りそそぐ冬の雪。
いつも見守ってくれる遥かな空。
命を育む眩い太陽と、安らぎを与える夜の星たち。美しいこの世界。多くを目にしてきた。まだ見ぬものも限りなくあるだろう。
自然のことわりこそが、いのちなのだ。人は、大地と生命と、ともにある。
命、か。歳をとったかな。商人にはもう、自分が長くないことがわかっていた。ふしくれだった手足は、寒さにぎしぎしと痛んでいた。身体も弱くなり、食も細くなっていた。
商人には、なんとなくわかっていた。
死後空へ昇れば、自分は星になれる。永遠に輝き続けるだろう。
地の底へ沈めば、自分はこの大地と一つとなり。再び生まれ変わる時を待てる。
だが、商人はどちらも選べなかった。思い残したことがある。
あのときの少女。彼女がもし、ほんとうに妖精で、自分が殺してしまったのだとしたら?
ふと、聞き覚えのある優し気な声がした。
「道が定まったようですね」
商人は声の主を見て、驚いた。死んだはずの、あのときの司教だった。司教はうなずくと、さみしげに言う。
「わたしは神の名のもと、罪のないものを多く殺しました。その罪により、死ぬことを許されないのです。死んでいったものたちの失われた日々を、償い切るまでこの地をさまよい生き抜く事。それがわたしに科せられた罰なのです」
「あなたが……。いったい、いつまで?」
「永遠でしょうね。それとも破滅するまでか。わたしはこの呪われた生を甘んじます。ですが、あなたには幸せになってもらいたい」
「ぼくはしあわせでしたよ」
「でも、心残りがあるのでしょう?」
それはまず、もはや顔も思い出せない少女との約束のこと……
「だが、どうすれば。ぼくにはわからない」
「あなたはわたしのように罪に汚れてはいない。誰かの守護精霊になりなさい」
それはつまり……商人は、もう忘れかけていた少女の姿を思い描いていた。あの子はまさに妖精……
「でも、ぼくは神を冒涜しました」
司教の亡霊は静かにうなずいた。
「神は神自身に対するものであれば、どのような冒涜も許されます」
「そうですか」商人は言うと、切なげに辺りを見回した。「ぼくは死んだのですね」
「いいえ、解放されたのですよ」
商人の霊はそれから、国中を見て回った。
過去と変わり戦の火は稀にしかなく、人々は穏やかな平和を享受している。全体的に生活は厳しく難しいものの、過去よりは豊かになり。愛情に包まれた、暖かい家庭を持つ幸せな人も増えた。
暴利を貪る騎士の権力も失われていたことから、農夫は自分の畑仕事に専念でき、作物の収穫量も上がっていた。
戦場に散った多々の戦士たち、殺された罪なきひとたちの魂が、二度と惨劇を起こすまいと見守ってくれているのを感じる。
しかし、例外がいた。商人はある女性に目をとめた。
旧王族の、末の王女は追放されていなかった。内乱時まだ赤子だった彼女は、乳母がその身をかくまったのだ。
王女は素性を隠し、共和国首都となった元王都に暮らしていた。
乳母も早く亡くなった。財産なんて、王女は持ってはいない。ただ繊細な指を生かし、針仕事でなんとか生計を立てていた。
王女はもう若くはなかったが、美貌は衰えていなかった。有望な婚姻の申し込みも、いままでに何度となくあった。
しかし、王女は結婚しなかった。彼女はそのたびに影で泣くのだった。「わたしの父を断頭台に送った人たちの一人!」、と。
王女は早くから決め込んでいたのだ。夫も持たず友人もつくらず、一人で生きていくことを。なんと悲しいことか。
自分の運命は自分で切り開かなければならない。それがわかっていたから、商人の霊は誰より孤独な彼女の守護精霊となった。彼女に誠意を込め優しげに語りかける。
「祈りとは人から神へではなく人から人へ。
祝福とは神から人へではなく人から人へ。
あなたの為に祈りましょう。せめてわたしからの祝福を」
しかし、返ってきたのは冷たい言葉だった。
「わたしなんて、ひとりで生きていくしひとりで死ぬの。ほっといて!」
商人の霊は、自分の身体が溶けていくのを感じた。気に溶け、静寂に闇と塵とひとつになろうとしている。
そのときだ。王女の胸に下がっているものに気付いた。
これは、いつかの……。商人の霊はロザリオを見つめた。
教会は無くなった。神なんていない。自分に信仰心などない。それなのになぜ、心が洗われるような気持ちになるのだろう。
いまになってわかった。神は唯、人の心の中に。悪魔も妖精も同様。心の持ち方一つで、世界は変わっていく。この世界は、人々……生きとし生けるものすべての心で築かれているのだから。
これからの世には、神なんていらないのだろう。この王女のように心が清らかであれば、必要ない。
自らに真摯に生きる、それこそがほんとうの意味での信仰なのだ。
悪魔だって、存在しない。卑劣な、凶悪な事件を引き起こすのは悪魔の囁きではなく人間の業、心の弱さだ。
でも、妖精はいなくならないかも知れない。心に暖かさを、優しさを、哀しみを乗り越える愛情を持ってさえいれば。
……きっと、どこかで妖精は微笑んでくれる。あのときの少女のように。
商人の霊は気に流されるまま、現世を旅した。高く険しい山脈から湧き出す清らかな原水を。流れ行き大河となり海へ届く。日の光に蒸発し、雲となりまた地に舞い落ちる。
じぶんも、その一滴なのだと。
大地は生きている。この世界そのものが、祝福なのだと。いのちこそが、奇跡なのだと。
商人はやがて、司教のもとへ辿り着いた。司教はにっこり笑った。
「あなたの使命に、終わりがきたようですね。安心なさい、涅槃ではみんな安らかに憩っているのだから。怖がることはない」
「司教さま、お世話になりました。あなたは?」
「わたしはここで。あなたのような人がまたやってこないか、待つことにしますよ。世界中の夢が横たわる、この天界と地上の狭間で」
「あなたは職務に忠実だっただけです。あなただって、神と強い絆で結ばれていた」
「いえ、縛られていたのでしょうね。信仰に盲目になっていた。愚かでしたよ」
「いつか司教さまも、すべての罪が許されるときがくるでしょう。あなたを縛っているのは神ではなく、あなた自身」
「いいのです。生前盲目になっていた分、わたしはこの世界を見守らねばならないのでしょう。それが多くを目覚めの無い眠りに追いやった、さらに神に仕える身でありながら、神の名を汚した罰です」
「目覚めの無い眠り、ですか」商人はつぶやいた。「すべては無に帰するのですね」
「いいえ」司教は微笑んだ。「一つになるのですよ、大地と、空と、星々と。だから、お行きなさい。別れはいいません」
きっと人はそれを、天国と呼ぶのだろう。
人は死ねば天国へ行くが。妖精は死んだら、どこへ行くのだろう。
商人の霊は、最期にふと願った。あのときの少女がもし、妖精だったなら。もう一度きみに、逢えたらいいなと。
第二話はここまでです。
読んでいただきありがとうございました。(^^)/