6 魔女の祈り
隣接国との戦争が『敗戦』に終わったこの一時期、無政府下の卑劣で残酷な暴虐事件が多発していた。前線付近の村々の惨状といったらなかった。
敵たちどころか味方のはずの兵士崩れどもは若い女性――自分……書記官の『魔女』はこれには該当しなかったらしい――を辱め、敵国士官は正当な褒賞の封地と称して土地と財産を農奴ごと乗っ取った。圧政者……ここの国が? を打倒したが大義の自称『解放軍』が聞いて呆れる。
さりとて、非難もできない。彼らは――その敵味方を問わず――命を賭けて死と隣り合わせの戦場にいたのだ。
大半は貧しい農奴上がりで満足に衣食も与えられず無学に育ち、異性との体験も無く死んでいたのだろうから。十五歳から二十歳そこそこの兵士の紅顔に切なくなる。
もっともいちばん功績のある兵士は、死んでいったものたちの中にいるだろう……『彼』のように。
そんなことを鬱々と考える前線に近かった村の病院の女事務書記官だった。書記の仕事には慣れている。
しかしいままでで自分がしたためたもっとも重大な書類が、『彼』の『処刑判決の執行状』と事実上なってしまったことに、気が滅入る。書記官の心は自分自身を苛んでいた。針の鋭さで痛む。
おそらくは……否、絶対に戦死した『彼』のことを未練がましく待ち、何週間が過ぎたろう。彼は自由を謳う共和国軍の普通の一兵士、それも職務は狙撃手……。
一般兵の手にする連発できる軽快な突撃銃と、限られた敏腕の扱う単発の狙撃銃とでは、威力も命中率も格段に違う。
突撃銃ではよほどの接近した危険距離でなければ、狙い撃ちなんてできたものではない。お祭りみたいにたくさんの弾をばら撒くだけだ。
派手な音を限りなくたくさんうならし敵を威嚇し、戦意を挫くのが主眼の兵器だ。塹壕戦で威嚇だけに留まるなら、千発撃って一人敵兵を殺せるかも怪しい。
しかし熟練者の扱う狙撃銃なら、一発必中で敵兵の頭を超長距離から吹き飛ばす。長く重く小回りが利かず、連発できないのが狙撃銃である。一般の兵士なら機動力を重視し、ひたすら弾丸をばら撒ける突撃銃ばかり選ぶものだが。
狙撃兵はその銃の重さ故に動きが鈍い。だから戦場に在れば、弾丸尽きるまで戦い抜くしかない。その時にまだ敵が圧していれば……死だ。
なんでこんな兵士たち当人ですら自覚しているか怪しいことを一介の村娘の女性書記官が知っているか?
書記官は少女時、教師から「結婚できなくなるぞ」と脅されても進学を続け、読み書き計算だけでなく歴史に地理に錬金術占星術と、知識だけは豊富な女性だった。
しかし、普通数え十五歳で結婚する村娘と違い、二十半ばとなっても浮いた話は無かった。
そんな経緯で書記官は『魔女』などとあだ名にされていた。こんな自分がほんとうに結婚できるか疑問だった。だが魔女と呼ばれるのはむしろ誇りだった。
病院の老医師は、この少しばかり知識と事務の才のある書記官を重宝し、優遇してくれていた。
負傷兵がまるで女っ気、要は色気のない書記官に物好きにも乱暴を働こうとした事件があったが、医師はお抱えの用心棒に命じ直ちに兵士を取り押さえた。
魔女は異性経験が無いわけではなかった。性への好奇心募る思春期に、仲の良い少年とベッドを共にしたことがある。しかし、それは恋愛とは違った。単に快楽を貪る行為で、いまにしてみると軽率だった。
栄養不良で発育が悪かったため、月の物が来る前だったから、子供を作らないで済んだだけの話だ。
その少年とは性生活を止めると友人関係すら崩れ、どちらからともなく疎遠になって消えていた。女友達はそのときに、「貴女って将来の生活よりも学問が大切なのね、不思議ね、童話の魔女みたい」と笑っていた。
その台詞は不本意だった。つい激してしまい「学が在って生計を立てるのであって、男の付属品になって養われて生きるのは義務と自由と権利の放棄です。男に捨てられたら終わりではない!」と突っぱねたらかなり友人が減ったのが痛い記憶だ。
といっても。書記官は魔女と呼ばれるだけの魅力は兼ね備えていた。女っぽさこそないが、清楚で純粋な面を思わせるので、村の男たちからは好まれている。決して性愛の対象としてではなく。
戦争が終わって三カ月がたったころ。季節は移り桜が開花していた。その散る花びらに胸が詰まる、魔女……書記官は狙撃兵のことをようやく諦めた。同時に、勇敢で誠実な彼を愛していた自分に気付く。ここで初めて涙した。否、だから自分は魔女なのだ。
このころにはもはや戦乱の影は薄まり、みんな貧しく困窮しつつとも平和を享受していた。法秩序は少しずつ戻り、無法な兵士崩れも故郷の村へ帰って行った。
代りに銃を持たない警棒装備の警備員や騎乗した巡視員が穏やかに日々を護った。
狙撃兵はもと狩猟番だといっていたな……もしや帰郷したのか? 王侯貴族の領地だった、いまや豪族の地主の仕切る動植物豊かな森林はいくつもある。絶対的な国土面積比にしたら少ないのだが、それでも一人の狩猟番を探すのは大変そうだ。
まずけっしてあり得ないと知りつつ。でももしも帰郷できたのなら、想い人という狙撃兵の言う『自称魔女』と結ばれたのかもしれないな……
追及はすまい。だとしたらきっと幸せになれたのだから。自分の罪を免れたいだけの想いかも知れないが。書記官の職権を濫用し敵軍への偽の命令書を作り狙撃兵に渡し敵陣に紛れ込ませたのは、魔女なのだから。
書記官がとても落ち込んでいることに、村のみんなは気付いていた。だから対応はみんな優しくなった……これが都市とは違う、民意高い小さな村の結束の証拠だ。
そんなある日。病院の老医師は、書記官にある問題を出した。
「人間の子はなぜ泣いて産まれるのか」、と。
その問いに。書記官はいささか自嘲気味に魔女らしく(?)は、「人は死の運命を知るからと。神になりそこねたからだと。痛みを知るからだと。哀しみを知るからだ」、と、つらつらと答えていた。
とげのあるセリフだが実の子を見るような微笑ましい面持ちで、老医師は聴いていた。
書記官の痛みは和らいでいた。そして最後に魔女が行き着いた答えが。
「生き物のなかで唯一、笑える存在ということをまだ知らないから」、となっていたのに、魔女自身驚いていた。
老医師は魔女を賞賛した。老医師は語った。
「動物も痛みを知る。怒りを知る。哀しみを知る。だから跳ね、鳴き、吠える。しかし、喜びを表す笑いを知るものは人間以外にそうはいない。一般論ではどうやっても、死は不幸であり哀しみだ。対してたとえ苦痛であれ辛くとも生は幸福であり喜びであるべきだ」
「ですが、生きるのが嫌になることも、ときにはありますよね」
「そうさ。この対比に生きることに臆病になるものもいる。死ぬことに恐怖し、死から逃れるために自ら命を断つ者すら。矛盾している。しかしたとえ少なかれ幸福というものがたしかに実在するのに、最期にはなぜすべてが失われると信じるのだ。その理由もないはず」
「先生が死後の世界を信じるとは意外でした……私と同じく、宗教を持たないのに」
穏やかにかぶりを振る老医師。
「わしは無宗教だがけっして信仰を抱かないわけではないのさ。死は人生の完成として迎えるのが理想であり、決して自殺や他殺、事故であってはいけない。病気であればまだ仕方ないが。ほんらいは寿命とともに迎えるものだ。わしはそのために生きている限り医師を務める……それだけ」
はっと気づく魔女だった。持論を述べる。
「仮に前提すると、機械や人形にこころ、たましいといったものが宿るのかは、人間には解らない。これは事実ですよね」
「ああ、そのとおり。同様に生き物、人間にこころ、たましい、そうしたものがあるのかは、神にはわからないのかも知れないね」
「だから神は人間を試そうとして惨たらしい天災を引き起こすのだとしたら……これは禍々しい邪教だが。ありえないかな」
老医師はただ好意的に微笑んだだけだった。
書記官に笑みが戻った。魔法を解かれた魔女みたいな気分だった。
魔女はその書記官としての職務に復帰できた。今日も当たり前の日常は続いて行く。明日はもっと好い日であるように。
――それはいつかの時代、誰かがどこかで見た世界。『太陽の麓』に位置する、ちっぽけな王国のちっぽけな奇跡の物語――