4 魔女の誓い 前
――これもいつかの時代、誰かがどこかで見た世界。ちっぽけな島国の誠実な誓いの物語――
上官から突然伝書を命ぜられた一兵士の青年は一人、野戦場の前線を離れ後方基地となっている宿場村に向かっていた。雪積る何日も凍える、過酷な進退極まる膠着した塹壕戦任務を離れて。
昼夜問わず銃撃の応酬と砲火飛び交う、泥沼の地獄と化した前線を生きたまま離れられたのは、幸いだった。
なんで自分なんかに、それも自分一人に伝令が任されたのか兵士は疑問だった。しかも重要な要件らしい。任務は明かされなかったが、密書は丁寧に封筒に収められ、封蝋で閉じられている。
青年は一夜歩き、黎明を待って村に入った。しかし様子がおかしい。門にも見張り台にも、兵士の姿はない。どういうことだ?
村の守備隊兵士たちは、一兵足りといなかった。撤収した痕が窺える……裏切ったな! 民間人を見捨てて。前線に取り残されたものたちはどうなるんだ!? これでは補給も休息も受けられない。
村内は静まり返っていた。どの家も扉と窓の鎧戸を堅く閉ざしている。が、視線を隙間からたくさん感じる……兵士に対するそれは、決して温かいものではない。青年兵は胸がきりきりと痛んだ。
無理やり軍隊一個大隊の駐屯地にさせられ、物資を徴発され支援を強要される後方基地にされたのだから、当前か。おまけにその軍が村を捨てたとあれば。
「なにをしにいらしたの、貴方」女の声。
声に振り返る。と、妙齢の女性が一人、訝しげに兵士を見ている。深刻な事実の前に、声をかけるのをためらった。
女は詰め寄る。「軍は村を守ってくれるのではなかったの? まさか前線の兵士はこの村を戦場にするつもり?」
そうだ、問題はこれからだ。どうしよう。密書を預けるべき指揮官はいない。気が引けるが前線に戻って密書を上官に返すか。
いや、そうなればこの女の言葉通り、前線の軍は陣地を引き払ってこの村に立てこもるのは確実だ。迷っている時間はない。
この密書の内容さえわかれば対策は練れるかもしれないが、青年兵は文字をろくに知らなかった。だいいち、封を開けるのは厳罰だ。
「貴方伝令なんだ」女は声を掛けてくる。「何が命じられているの?」
「ぼくは知らないよ、なにも。ただこの密書を村の大隊長殿に託すだけで」
「大隊長?」女はふっと嘲った。「そいつなら真っ先に口実作って消えたわよ。残りの兵士たちも蜘蛛の子を散らすみたいに去った。さんざん村人に乱暴狼藉働いた揚句にね!」
「そんな! 上層部は前線の兵士たちもここの村人も見殺しか」
「こうなったら、その密書もはや無用のものね。中を拝読させてもらっていいかしら」
「軍の機密を漏らすことも、一兵士が勝手に閲覧するのも死の厳罰なんだよ」
「大丈夫。その封書、封印が無いわね、これなら開けてから中身見ても、封蝋をし直せるわよ。私病院の書記官やっているから、お手のものよ。まかせて」
軍紀違反だ。発覚すれば銃殺だ。だが……多くを見捨てるよりも、座して死を待つよりもましか。覚悟し、丁重にいう。
「お願いする。ぼくは無学なものでね、あまり文字を読めないんだ」
「貸してみて。私の事務室についてきなさい」
書記官に誘導され、兵士は病院に入った。問う。「きみは文字に詳しいのか?」
「書記官って言ったでしょ。私なんて学生のころは、魔女って呼ばれていたくらいよ」
「ぼくは山林を守る狩猟番上がりでね、狩りと山のことしか知らない。それにしても、魔女、か」
「薄気味悪いかしら? 私は気に入っているあだ名よ、兵隊さん」
「ああ、いや。ぼくが恋している女性も自称魔女でね。早くこんな戦争、終わらないかなあ。任期を終えたら、求婚したいんだ」
「のろけてくれるわね」
女書記官は兵士に初めて笑みを見せた。しかし、見事な手際で机に置いた封書の封蝋を剥がし、中の書面を見た彼女の顔は、蒼白に血の気が引いていた。書記官は兵士に沈痛にいった。「これはこの村を敵の手に落とさないよう、焼却する命令よ! 家屋のすべてと食糧飼料に家畜野菜穀物に畑、前線への武器弾薬医療品。直ちに実行しろとしか……村人の安否や処遇までは記されていないわ」
「なんだって?!」青年は度を失った。「ぼくは……こんなことをするために兵士になったんじゃない」
「それはそうよ! 誰だって。どうしたらいいの?」
青年兵は苦しげに、しかし断言していた。「軍では上官の命令は絶対だ。従わないものは即処刑。どんな理不尽な……非情な命令であれ」
「覚えて。知ることと、感じることは違うの。考えるのではなく想い胸に抱いて」魔女は切実に訴えていた。「魔女の言葉が信じられない、というならそれもいいわ。こんどばかりは貴方の人間としての心に誓って欲しいの。兵士としてではなく」
「ぼくは……前線に戻る。中隊長に出頭するよ。誓って、その間に村のみんなは、なんとか逃げのびて」
「そんなのってないわ!」
「刑を甘んじる、それもいいだろう。ぼく一人の命で大勢が生き延びられるというなら」
「貴方一人、死ぬことはないわよ。一緒に行きましょう、こんな戦乱、あと数日で決着はつく。だからこの密書を口実に共和国都市へ入った方がいいわ、しばらく戦線を離れられる」
「そうはいかない! ありがたいお誘いだが、ぼくが消えてもまた別の伝令が同じ命令を運ぶ。それに戦友を見殺しにはできない」
魔女は悲しげにかぶりをふった。「貴方は誠実なのね。味方の兵士や士官のみんなが貴方ほど献身的であれば、敵に対して……こんな苦汁を飲まされることはなかった」
「そんな。違うよ。ぼくたち軍隊、兵士は貴女の村に駐屯し、多大な負担を強いてきた。貴女たちは、逃げて。余裕があるうちに。前線の軍はそれまで戦線を突破されないよう維持するよう試みるから」
「補給はないのよ?! 輜重物資まで焼き捨てるのだから」
「残念だけど」青年兵は踵を返した。「兵士は義務を放棄することはできない。たとえ堕落した軍であれ。好意には感謝するよ、いままでありがとうと、村のみんなに伝えて」
青年兵士は意志を新たにするや、来た道を警戒しつつ前線へ帰って行った。