3 魔女の祝詞 後
何年が過ぎ去ったろう。魔女はもう涙は、枯れていた。さみしさもときおり、やるせなくなるが、魔女は強く生きることを決めていた。
狩猟番の青年は、兵役の期間を過ぎても戻ってこなかった。戦死したのだろうか。だが、魔女は待つことにした。
新しい目標ができていたのだ。未来への希望が。
魔女は料理を作っていたのだ。限られた具材から、できる限りの意匠をこらした山の幸の料理を。
山すその街道に、小さな店を開いた。安くて味わい深い料理の店を。客はしだいに魔女の料理に魅せられていくようになった。
それこそが魔女の狙いだったのだ。人を惹きつける料理。魔女は研究し、媚薬を作っていたのだ。人々を魅了する。愛を手に入れる。
が、自分が食べていくうちに、心を病んでいた痛みは和らいでいった。魔女の顔を歪めていた険の相は消え、もう忘れかけていた純真な幼少のころの、笑みが戻った。
誰かを魅了する、そんなこともうどうでもよくなった。魔女は世界を愛するようになった。店は盛況を極め客でごったがえし、みんなが魔女の料理に満足した。
魔女の作った魔法の料理、これはしだいにうわさになっていった。
そんなある日、とつぜん軍馬に乗った、街道巡視員の役人がやってきた。中年のでっぷりした小男で、一見馬に乗れるなんて思えない。
そいつは魔女を睥睨するや、横柄にいった。「共和国司法当局に、報告があった。この店で麻薬が使われていると。至急調査させてもらう。魔女裁判を覚悟せよ!」
店は騒然となった。客たちは口々に、そんなはずはない、ここの料理は絶品だと言い交わしている。役人は尊大な素振りで椅子に着いた。
困惑し立ちすくむ魔女に、その役人は怒鳴った。「とっとと食事を運んで来い! わしの舌で毒見してやる」
魔女は料理を運んだ。魔女だけでなく馴染みの客たちも、心配そうになりゆきを見守っている。
役人はゆっくりと味わうように食べ、舌鼓を打っていた。食べ終わるや、役人は感嘆と息を漏らした。「素晴らしい……」
「え?! いまなんと」
「魔女裁判なんて、冗談だよ。いまの時代魔女狩りなんてない。みんな迷信は信じないからね」
「役人さま、それでは……」
「飯代踏み倒そうと思ったんだ。が、やめておく。これは正当な代価を払わねば惜しい」
街道巡視員は、ぴかぴか光る純銀貨を二枚、手渡した。魔女は驚いた。ここの料金は銅貨二枚なのだ。銀貨二枚とは銅貨四十枚分だ。はっとその役人の顔を見るが、かれは悪戯っぽく笑っていた。
「わしは巡視員中隊長だ。これからわしの部下がこの店の安全を保証することを約束する。部下どもは貧乏なのでな、銀貨は当面のツケ分だ。どうかよしなに頼む」
共和国当局に街道巡視員中隊長の報告が届き、魔女の店は共和国公認の料理店となった。もとは街道を往く旅人のためのちっぽけな店だったのに次第に大きくなり、果てや旅人を泊める宿まで建った。店の周囲は、宿場村に成長していった。
馴染みの客は、足しげく通ってくる。街道巡視員たちもそうだった。いつも店内は平和で、笑い声と活気にあふれていた。
そんないつか。魔女は求婚された。断る理由はなかった。
魔女はもう若くはなかったが、結局街道巡視員中隊長と結婚していた。子宝にも恵まれた。家庭を営むとはなんという至福だろう。
店に村は栄えた。家族だけでなく、多くが魔女のかけがえのない親友となっていた。
すべてが、幸せに包まれた。月日は流れ……魔女は世界を愛したまま、幸せの中で死んだ。多くの人が、魔女を悼んだ。しかし、哀しみではなく心からの賛辞を込め魔女を送った。
魔女の料理はやがて、国中に広まった。国中のひとびとが、秘伝の味に驚嘆した。食材と流通路は確保され、日常の家庭料理としても手軽に作れるようになり定着していった。
それから。『世界が』少しだけ、みんなを愛してくれるようになった。みんなが少しだけ、世界を愛するようになった。
だから、この国はしだいに幸せに包まれていった。だれかが愛と呼ぶものが確かに芽生えた。いつかその芽成長し花開けば、世界は生まれ変わるかもしれない。
誰かがささやいた……魔女は素敵な魔法を掛けてくれたと。みんなが同意した……この混沌とした世界に、真の慈悲を注いでくれたと。
戦乱を招いた恐ろしい魔女を生みだしたのは、人の心の闇の恥ずべき悪意だが、魅惑的な料理をこしらえた魔女の誠意などの小さな愛の積み重ねで、人の世はなんとか動いている。動いてきた。
魔女はこれからも現れるかもしれない。それは――その魔女が世界を呪うか、祝福するかは――ひとびとの意志しだいだろう。