22 妖精たちの帰郷
澄んだ穏やかな微風さわやかな、なだらかな平原の上に、十二歳ほどになる小柄な少女はひとり立っていた。
辺り一面、ぼんやりと薄明かりに包まれているが、太陽は見えない。殺風景ではあるが、不思議と心地よさを感じる。
「あれ……わたし、どうしたんだろう」
……ここはどこで、わたしはどうして……なにも思い出せない。わたしは誰?
違う……わたしはたしか、旅に出たのだった。でも、どこへ? なんのために? それにいつだっけ……。
そんな少女に優しく呼びかける声があった。見れば声の主の男性は、古びた司教の衣をまとっていた。
「お帰りなさい、お嬢さん」
「おじさん、いえ司教さま見憶えがある……何十年も前に」
はっとする少女だった。わたしは何歳? お帰りなさいって、ここは……。
困惑する少女に司教は微笑んでいた。
「それはありがとう。でも忘れていてよかったのに、わたしのことなんか」
「さみしいこと言わないで。司教さまが実直な人だってことは、なぜか憶えているわ」
「過分です。わたしは罪人として自ら命を絶ったのですから」
この言葉に、少女は、はっと事情を呑みこんでいた。記憶が半ば戻ってくる。
「わかったわ、思い出した。ここはすべてのたましいの故郷へ続く門。わたし、死んだのね」
司教は少女に、恭しくお辞儀した。
「人間の娘としてね。人々に愛をふりまいて。多くの大きなきずなを結んで。あなたは立派です」
「人間……でも、そのまえのわたしは。なんだろう」
「人々の守護精霊を務められていましたよ。その役回りはときおり、『妖精』などと呼ばれましたね」
「妖精……」少女はつぶやいてみた。「そう、わたしは妖精だった。ある商人の守護精霊。でも、たしかかれは誓いを破り、妖精としてのわたしは消えた」
やんわりと、司教は諭した。
「その通りです。その責もわたしにあります、戦乱のきっかけとなったのは教会の長たる……長だったわたしなのですから。かの商人に罪はありません。あの方もまた、とても人の世に貢献された」
「わたしは人間の娘に生まれながら、なんら貢献できなかったわ」
「それは違います」司教はあくまで優しげだった。「医師の言葉を思い出されますか?」
「あの素敵なお医者様ね。ええ、人生とはその人個人を対象にした、相対的に評価されるもの。だからわたしは」少女は嬉しげにいった。「妖精に戻るために帰って来た」
司教は少女の言葉に、いささか驚いていた。
「また妖精に戻られる? 人の好いことですね、しばらく眠りにつく選択肢もあるはずですよ」
穏やかに語る司教に、少女は元気よく反論していた。
「わたしは眠くないもの。独りで寝るのもさみしいし。そういえば、司教さま、あなたはここの番をたったお独りで務められて?」
「確かに、孤独な任務でした。耐えがたい時も長かったです。ですがわたしの跡を継ぎたいというものが、物好きにも幾人も現れましてね。というか、そうした業の深い人間しか、ここの狭間には気付かないのです」
「ではわたしも番人になる資格があるのね。他の人たちは、わたしの知っている人かしら」
「王国の女提督、裏街道の顔役、護民官の将軍などそうそうたる顔ぶれがそろっています」
「知っている……うわさを聞いていた」少女はにこやかに司教に答えていた。「とすると、司教のおじさんは神さまなのね」
少女は好意的にいったが、司教は苦笑し反論していた。
「いいえ、それはわたしの主ですよ」
「神の子はすべての人間の罪を、一身に背負って亡くなったといいます」少女は引用していた。「司教さま、あなたこそは神の子でしょう? 内乱の責任をすべて引き受けて自害された」
「いいえ」司教はあくまでかぶりを振る。「誰しもが神の子ですよ、なにも人間だけではない。生きとし生きるものすべて。逆にいえば、森羅万象この世界すべてが神なのです」
「同時にすべてが妖精なのよね。妖精ならば、なにものにも束縛されず自由。司教さまも自らに科した任を解かれては?」
「わたしは当面のところ、もっとも罪深い存在なのです。比べたら、生きるためにやむない強盗殺人を犯した魂も。いまはすべてを忘れ、安らかに眠っている」
「司教さまの罪だって、忘れていいのではないの」
「おそらく」司教は微妙な笑みを浮かべた。「わたしは忘れたくないのでしょう」
「なぜ? 悲しいだけじゃない」
「この任の時を刻む無聊を慰むには、心を満たすものが必要だったのです。たとえ苦痛であれ」
「司教さま、あなたこそ休息が必要だわ」
「わたしの業が深すぎるのでしょう」
「司教さまは決して悪人ではなかった。教会は、ほんとうに飢え死ぬ貧民は保護していたのですから」
少女は切なげだが、司教は穏やかに反論していた。
「助けたのは救済を求めるもののごく一部です。当時教会は明らかに腐敗していました。王国は滅びるべくして滅んだのです」
少女は眉根を寄せ、訴えた。
「防ぎようがなかったのかしら。でも、変わるひとは変わる。なぜかしら。哀しみの多い人ほど変わるみたい」
司教は共感の笑みを浮かべていた。
「ひとは哀しみの感情を無くしてはいけない。そこから痛みを知り、他人の痛み、心を知り愛が生まれる」
「死後の世界は哀しみの無い大空って、聞いていたけれど」
「やはり死は悲しいことです。しかし悲しみの感情こそが生きる者の原点です。真の哀しみを乗り越えて初めて、すべては真の喜びの情に気付くのです」
「独り身のわたしを育ててくれた、王女のお母さん、それに海軍将官のお父さん。お世話になったのに。哀しみしか残さなかったのかしら、わたしは」
「決してそんなことはありません。では、お嬢さん。そろそろ、お行きなさい」
司教は変わらず穏やかだが、少女はためらい、おずおずといった。
「行かねばなりませんか?」
「あなたを待っているひとがいるかも知れませんよ」
「でも……」
「怖いのですか、門の向こうが」
「悲しみの世界とすれば、そこはきっと地獄とされる場所よね」
「広大な自然の営みの前には、人間の世に起きる人間個人の功罪などどうでもいいこと。死後の世界に、生前の行いで待遇の変わる天国や地獄などありえませんよ、おそらく」
「おそらくって?」
「わたしはこの門をくぐったことは無い身ですから」
「それではなんでここに門番がいるの、司教さまという」
「ただ人が人として生き、人として死ぬためにわたしはここにいる。いまはそう信じています」
「でもわたしが敬愛する商人のおじさんは」少女は切なげにいった。「人生に意味なんてないって言っていた」
「そう、意味なんてありませんよ、この世界すべては」
「司教さま?」
怪訝に少女は、司教を見上げる。司教は諭した。
「すべてにとって意味の無い世界。価値を見出すのは個々の心です。たとえ人間ならずとも、きっと生きていないものたちですら」
「わかったわ、自由なのね、世界のすべては。それこそが、大いなる世界の謎、無から有の理由」
「そうともいえますね、きっと。ごらんなさい、これがわたしたちの住む世界。一見混沌としているかに思えて、万物の法則はすみずみまで律序が保たれています。物の素となる極小の単位から、はるかなる天空の彼方まで等しく同じ法則で」
少女は落ち着いてこころを澄ませていた。いまになって感じる……すべての存在を、営みを。大地に降り注ぐ雨の一滴の流れから、かなたの天体の運動すら。
いつか――神々すら死に絶えてから星たちの瞬きも途絶え、もしかすると宇宙がその活動を止めるまで――世界が完結するまで連綿と続く。これが世界の理……
「でも、逆にいえば有から無へ消え失せるのも定めなのかしら」
「どうでしょうね。ただ言えることは、すべては「在る」ということです。在るべくして存在するのが、世界なのかもしれませんね。同時に矛盾ですが。無きにしてすべては存在しない、とした方が自然かも知れません」
少女は反駁した。
「でも世界はある。こころは、魂は確かに存在する」
「ですがもはや、なにが確かか。正しいか間違っているかなど、ここではどうでも良いこと」司教はにこやかに笑った。「そろそろ仕度はできましたか? ここにずっといても構うことはありませんが、この『狭間』は退屈だと思いますよ」
ふと思い当って、きょとんと聞く。
「そういえば、門ってどこにあるの?」
司教は当たり前に、さらりと答えた。
「どこにでも。ここは時間も空間も関係ないですから」
少女はもう、なにも怖くなかった。この向こうに自分を待っていてくれるひとがいるかどうかは、関係ない。
でも信じていた。あと一歩進めば死の世界があり、同じく一歩進めば生の世界が広がっているのだから。
あるのは不安だけ。自分が自分で無くなってしまうかもしれないのだ、旅というものは。それでも足を踏み出し門をくぐり抜け……
虚無と実在を零と無限を光と闇を……沈黙と嬉々の声が交差した。
*妖精伝奇 結 *
謝辞
人々の想いの神秘の軌跡……妖精たちの物語はこうして時を紡ぐのです。
私はほんらい超常現象は否定、でも神話や伝説、魔法などの物語は好きと矛盾した立場なのですが。
人間の身勝手な都合に合わせた魔法や奇跡や天国の存在なんて信じてはいません。万物の平等に反するから。
ですが私達の生きる社会の大きさ……対して宇宙に比べたら本当にちっぽけな人間の世界を思うと、信仰はしていなくとも大いなる「なにか」の存在や、死後の世界は否定しきれないのです。
だって、宇宙――私達――がここに「在る」というのはなぜかを尋ねても、どんな学者だって説明できない、理屈からですが。
ありがとうございました。末筆ですが、
あなたの傍らで妖精が微笑んでいてくれることを祈って。