21 妖精、羽ばたいて
それはいつかの時代……解放戦争から三十年以上経つが、『自由自治権都市同盟共和国』は恐ろしい災厄に見舞われていた。
戦禍なくとも天災は襲う。ひとの世界は穏やかには過ごせないものか。
伝染する恐ろしい疫病はその国を襲っていた。大勢が感染し、発病しては湿疹を生じ、高熱に見舞われる。犠牲になるのは、体力のない老人や子供が大半だ。
この事態に都市太守から極めて迅速な命で非常事態宣言が通達され、感染予防の免疫注射が無料で行われていた。
病人は都市風下の南に隔離されたが、大勢の医師と看護師が志願し、患者の治療に当たっていた。
共和国政府の処置で、なんとか病人たちが暖を取る毛布と、燃料のマキ、それに最低限の食事だけは配給されたが。
しかしその看護は志願した病人の家族が大半だ。そのみんなは、自らも感染し死ぬ危険を受け入れている。ただ死を看取るためだけに。
そんな首都でいちばん大きい病院の一室に、中年の医師とやっと十二歳ほどになる患者の女の子はいた。闇が覆う中、暖炉の明かりがせめぎ合っている。夜もふけてきた。悲しげに医師は思う。
女の子は自ら志願し、疫病患者の介護に当たっていたのだ。免疫注射をその十日前に済ませていたから、発病する危険はまずないはずだった。しかし、一週間後に倒れた。
医師はできうるだけの医療を行ってきたが、この子にはもう無理なのだ。疫病とは違う原因不明の衰弱症で、この極寒の冬高熱と発作を繰り返している。食べ物もろくに受け付けない。
それでも、病院に掛かれるだけ幸運かもしれない。金の無い病人は、隔離施設でなんら成す術なく苦痛とともに死を待つだけだ。
それに比べこの少女の父は、共和国の退役将官なのだ。病院のなんと二階に暖炉のある特製の病室に入れた。
暖炉に煌々と炎を燃え盛らせたまま、病室のすべての窓を開けしばし換気する。密閉された室内での雑菌の繁殖を防ぐためだ。余計な感染症にするわけにはいかないから。
少女に問う。
「寒いかい?」
「いいえ、大丈夫です。ねえ、先生」病床の少女は、ぽつりといった。「あなた生まれ変わりを信じる? 生まれ変われるものなら、わたし鳥になりたい」
「空を飛べるから?」
医師は優しげに答えた。
少女はつぶやく。
「世界を旅できるから。すべてを見降ろして」
痛ましく思う。これも悲しき籠の鳥たちの定めか。医師はせめてもの誠意で語った。
「人間は、翼がなくても空を飛べるんだよ」
「どうして? どうやって。わたしは飛べないわ」
「飛べないように思うのは、きみが籠の中に入っているからさ。その扉を開く鍵さえ手に入れれば、自由に大空へ飛びたてるよ」
返事はなかった。切なげな視線に、医師は続けた。
「鍵がわからないのかい、なんのことかって、どんなものかって、どこにあるかって? いまはわからないかも知れないね」医師は力強く、断言した。「鍵、それこそは失われた希望。探しに旅立とう、勇気という翼広げて。希望という鍵を」
「希望……それがあれば、なにが見つかるの?」
「夢という空、愛という宝。友という絆。きみが翼を広げたなら、きっとすべては見つかるはずさ」
「鳥になれるのね、人間って。素敵な夢だわ」
「そうだね、だからそれを忘れないで。空は遥か彼方へ続いているのだから」
「空……この宇宙ってどのくらい広いのかしら」
「無限さ。空だって占星術的に見れば、広大な宇宙に浮かぶ砂粒みたいな大地の表面を覆う、ほんの薄い膜に過ぎないんだよ」
「その果てには? きっと虚無が続いているだけ。世界は果てしない闇に覆われているのかも」
医師の胸に、ずきりとした痛みが走った。せめて誠実にいう。
「いや、神の御心とはもっと懐深いはずだよ。世界は光に満ちている。夜の闇の中でも、大地の反対側は太陽が燦然と照らしている」
「わたしは神様信じられない……」
「信じる必要はないさ」医師はつとめて穏やかに語った。「神はね、いつでも人と、すべての命とともにあるのだから」
「わたしは神も世界も永遠もいらないの! わたしを愛してくれるひとがいてくれさえすれば」
少女は切なげな声を張り上げるや、ここで激しい咳の発作に見舞われた。医師は慌てて、二階のこの病室の窓を閉めた。鍵を掛ける。霧吹きで加湿する。
「きみのご両親は、きみを案じていてくれているよ」
「そう、お母さん……」
うわ言のようにつぶやく少女に、医師は病室の扉を開け、待っていた母親を迎え入れた。解熱剤の効果が切れてきたのだ。変わって、医師は廊下へ出て椅子に座り待機する。
解熱剤は、病気を治してはくれない。単に身体自ら発する熱で、患者が衰弱するのを防ぐだけなのだ。熱が下がっている間は、病原菌は倒せない。
だから体力が回復するか、病魔が圧倒するかの勝負なのだ。その処置も、もはや一時患者の意識を戻すために過ぎない。
医師……言葉を言い繕ってもしかたない、助かる見込みのない戦傷者を安楽死させる『死の使い』を過去務めてきた報いなのか……。
医師はずっと昔、少年時代神を信仰していたのだ。といっても神官ですらなく一介の入信者。数十年前にもなる解放戦争時の記憶がいまも生々しい。
医師はそのとき、単なる衛生兵だった。戦場の掟。負傷の軽い、戦線復帰可能なものから処置をする。重傷者はその後だ。しかも助かる見込みのない、致命傷を負っても死にきれないものは、毒殺なり銃殺なりして始末する。
狂おしいまでに苦しい思い出。ぬぐい去れない、過去。
ほどなく、母親が医師を呼んだ。
少女は再び高熱を出し、昏睡状態に陥った。早くも今夜が峠か……もはや目覚めないだろう。奇跡は起こらなかったか。
医師の見守る中、少女は穏やかに逝った。母親は、少女が最期の吐息を吐いて半刻まで、じっとその手を握っていた。
思いもかけず、涙を浮かべながらも晴れやかに、母親は言った。
「先生はよくしてくれました。この子は、果てしない夢を見ながら眠ることができた。ありがとうございます」
医師はいたたまれなかった。さみしげにいう。
「私は……過去、神を信仰していました。医師の道を選んだのもその教えからです」
医師は沈痛に思った。すべての運命は神が握っているという。ならば罪なき幼い子の命を奪う、それが神の御心だとでも? そうなのだ。宗教はそれすら『原罪』とかの理屈で封じてしまう……だから言い捨てた。
「だが……神なんていやしない。天国なんてないのです」
「いえ」母親は穏やかに否定した。「あなたは違うと知っているはず。天国も地獄もこの地上に。神も悪魔もひとのこころの中に。こころの持ち方ひとつで、世界は楽園になるわ」
反駁する……だったら昼間の太陽はこうも神々しいのに、なぜ晴天の空はこんなに悲しいのだろう。光に満ち溢れているのに、なぜなのだろう。
いや、普段は青空とは爽快だ。弱気になっているだけか。
「失言でした、申し訳ありません」
「あの子は……わたしと夫の実の娘ではないのです。養女で、しかもわたしに夫を引き合わせてくれてくれたのがあの子……不思議な子だわ、おとぎ話に聞く妖精のような。妖精だとしたら、いまはもう人々の幸せのために旅立っている。だから、いいのです」
医師に向かい、母親は厳粛な礼をした。医師も深くお辞儀すると、病室を離れ病院の自室へ入った。今夜の仕事は終わりだ。
分厚いコートをまとい、ひざかけも用意する。暖房の無い、めっきり冷え込む小さな自室で医師は机を前に椅子に座り、机上で小さなランプを照らす。その灯火は真冬の包み込む夜の闇に比べ、いかにも儚げだ。
不思議なのは、安らぎを与えてくれるのはむしろ夜の空という事実。遥かなる星々。でもひとは陽光に育まれ、闇に脅える。
医師は軽く自嘲した。私はいまも暗闇が怖いのだと。空は永遠に広がっているから、彼方では光より速く果てはない。
それが劫初よりの理。延々と連綿に続く宇宙の中、なんと人とは常命で儚い。
その宇宙の星たちすら、ほんとうは完全な永遠ではなく、いずれは消えてしまうと聞く。すべてが死すべき定めの……神とは非情なのか。どうせ壊れて消えてしまうのだとしたら、なんで世界なんて創ったんだ。
虚脱感に襲われる。果てしない無力感に。自らの非力さに。自分だってもはや中年後期、いつまでも健康ではいられない。
夢見がちだった幼少の憧憬が込み上げる。いのちってなんだろう、生きるってなんだろうとしきりに夢想していた。
生きていく意味を探し……神の存在を知った。そのころは、教義をすべて信じているつもりだった。教えにはなんら間違いはないと。たとえ矛盾、二律背反する教えがあっても、もっともらしい理屈をこじつけて信じ込んでいた。まさに盲信だ。
しかしいまとなっては……偉大ななにものかが、すべての生き物の生殺与奪の権利を握っているなどとおこがましい。
神は絶対と、教会では教えられた。しかし、違うことに医師は気付いていた。人間の価値を決めるのは、その個人の持ちうる力量でどれだけの努力をしたかという、相対的なものなのだ。
決して才能で他人より勝らないとしても、自分にできうるだけのことを果たす。たとえ絶対的な総量で他人より社会的に成功しなかったとしても、貢献できなかったとしても関係ない。あくまで自分との相対的な評価なのだ。
だからあの少女は、短いなりに周りに愛を注ぐという務めを立派に果たした。私も、医師の名に恥じぬだけの務めを続けなければ。
それこそが、いまとなっては唯一の信仰……
ふと、男の声がした。聞き覚えがある、ずっと昔に。
「神を信じろ、なんていわない。自分を信じるという呪文唱えて。ひとを、世界を信じるという魔法掛けて」
解放戦争時代の旅商人の声? 医師は疲労のあまり自分が半ば眠っていたことに気づいた。はっとし、自制する。
あのときの思い出か……。医師は回想した。衛生兵時代、ものの十五歳くらいだったころ。王国軍の上官は無情な命令を下した。これから戦域を撤退するからとのことで、反乱軍の手に渡さないためだけの、貴重な医療器具の破壊と物資の処分の司令。
そんな命令は聞けなかった。医師を目指すものにとっては、負傷者は敵であろうと変わらない。だから王国軍を見限り脱走を計り、自分の軍馬で逃げ出した。しかし目につくと困るので、たまたま出会ったある旅商人の青年にその軍馬を格安で譲り渡した。
その商人が、先の励ましの言葉をかけてくれたのだ。
商人とは、一カ月ばかり共に働いた。大局は反乱軍の勝利に決まったものの、各地で小競り合い絶えない旧王国領内を駆け回り。
かれはその馬に荷を積み、医療品と食糧、衣類を調達しては各地へ届けて良心価格で売り民衆を助けた。商店街の顔役がそれを高く評価し、物資は街に課せられる税金を免除され、格安で買えることとなった。
医師と別れた後は、商いの末に荷馬車も増え、数年で商店どころか商船隊と用心棒隊まで擁する大商人になったらしい。
しかも商人は貧民保護に多大に貢献している。さらには、街や道、川に港の整備の出資にも。
なぜそこまで商人が尽力したのか。そういえば、かれは『妖精』に出会ったことがあるとかいっていたな。その妖精に助けられたと。なのに、かれはその妖精との誓いを破ってしまったとか。
「その、罪滅ぼしだよ。ぼくは自分の生きる道を生きた。きみも、きみの生きる道を生きて。いのち続く限り」
!? よほど疲弊していたらしい、また商人の声が聞こえた。幻聴とは、医者の不養生も甚だしい。声は続いていた。
「妖精の存在を信じろ、とはいわない。だけどそんなものいないなんて、言わないで。あなたの妖精が悲しむ」
確信する。あの偉大な商人は、天に召されたのだな。死してなお、私に教訓するか。彼と私。光と闇……。
戦乱の中、苦しむ民衆を助けたかれ。対して助かりようがないが、死にきれない戦傷者を毒殺して回るだけの自分。
医学知識未熟な少年期の衛生兵時代は……残酷で無慈悲な死の使いとして、立ち寄る先々では嫌悪と憎しみの対象となっていた。だが、毒殺されるときも衛生兵を非難したり抵抗したりする患者は少なかった。むしろ大勢の戦傷者が、衛生兵に心からの最期の感謝の言葉を残し逝った。
それで誓ったのだ。私は医師になるよ、愛という宝が確かに存在するこのかけがえのない世界を壊さないために、せめて尽くしたい。誰もが……哀しむことの無い世界を。たとえどんな風吹こうと。
だが医師の道は平坦ではなかった。いままでに、ふつうのひとの何倍もの生と死を見てきたことか。どれほど手を尽くしたところで、避けられない、『死』。絶対的で圧倒的な……。それにしだいに慣れていく自分はなんなのだろう。
だから、神なんていない。ひとは私欲と私怨から、悪魔とのみ取り引きする。ましてや、妖精なんていやしない……
医師が自室の椅子に座りこみ、鬱々と感傷に浸っていたときだ。少女の母親が、慌てた様子で医師を呼びに来た。
「すみません、わたし少し居眠りをしていて……」
「どうされました?」
「娘がいないんです、亡骸が」
どういうことだ? とにかく医師は病室へ急いだ……!?
少女は病室から忽然と消え失せていた。息を吹き返したのか、まさか。としても抜け出す理由はない。遺体を盗まれたのか?
どうやって二階から。母親以外が扉を開けた様子もない。窓にはすべて内側から鍵がかかっている。
ベッドを確認すると、一枚の小さな紙片が置かれていた。明らかに少女の文字で、書き置きが残されていた。
(わたしが死んだら、お姉さんとおじさんは、いえお母さんお父さんは悲しむ。だから籠の扉を開いて、旅立つことにしました。
お医者さまの不思議な言葉通り、勇気という翼を広げて。希望の鍵が見つかったの。
夢を見ていた。遥かな空から、すべてが見えたわ。
誠実な旅商人のおじさん、哀しき定めの亡霊の司教さま、聡明で凛々しき妖精の女王さま、気まぐれな手品師の少年。自ら妖精でありたい心優しいひとたち。
毅然とした勲爵士の少女に誇り高い商船隊総督、厳格で公正な太守。殉職した護民官の将軍、風変りな造船技師に純朴な漁師の少年、義を重んじる裏街道の顔役。
世界には、まだまだ知らない人もとてもたくさんいるのね。それになによりわたしを育ててくれたお母さんは、実は滅び去った王国の王女で……。わたし、しあわせでした。
それで思い出したの、わたしは妖精なんだって。いえ、妖精って誰にでもなれるのよ。妖精って誰しもにいてくれるのよ。
だからこれからみんなに逢いに行くわ。わたしにはなにもできないけれど、かまわない。
だって妖精はただ微笑んでいてくれるだけだから。)