18 妖精の挽歌
弦楽器を弾く軽やかな音色に、砂浜で酒の席のうたた寝からはっと目が覚めた船長だった。リュートか……珍しいな。
風変わりな客が夕闇の中来ていた。物好きだな、こんななにもない漁村に。客は村の門番からの誰何に答えていた。
「私はただの流れの楽師ですよ。演奏と引き換えに魚を一尾ほど……」
と、歌い始めるこの自称楽師の演奏は率直下手だった。歳は見たところ船長と同じくらいの老年というのに、いままでこんなのでよく食えていたものだ。
しかし酒のほかにろくに娯楽もない漁村、枯れ木も山のにぎわいだ。漁村のみんなで火酒の杯を手に、砂浜に敷いた竹の繊維を編んだ莚に座る。
どうせいまは、安全が保証できない梅雨の季節で漁は休みがちだし。
それより先日十五歳の水夫を馴染みの造船技師に連れて行かせたが、かれらはもはや戻らないな、と船長は結論した。
しかし後悔はしない。過酷な海の仕事には事故は付き物なのだ。人命はどれだけ練達したものでも、容易く失われる。これが自然の掟。
初老に差ししかかる船長は、仕事を終え今夜も仲間と火酒を嗜んでいた。歳はとっても、たくましい体つきは依然として衰えない。生涯現役の船乗りであるつもりだ。
そう、船乗りとして長い……いまでこそちっぽけな漁船の船長だが、過去は王国海軍の少年兵だった。軍用艦勤務ではなく偵察艦、それも新たな航路を見つけるための冒険船勤務。栄えある仕事だ。
経験を積み、実質航海士待遇であった。単なる水夫とはわけが違う。航法・操舵・測量・占星……数多の技術を身に着けていた。学歴こそないが、学識は学士にも劣らない。
加えて剣術も弓術も砲術も訓練を受けていたため、士官学校にいたわけではないのに一兵卒でありながら野戦任官され特務士官待遇だった。解放戦争では王国海軍士官として、反乱軍相手に勇猛に戦った……遠き日。
しかし王国が敗北すると……凄惨な海戦だった。王国艦隊には残存兵力がいたが、海賊に落ちぶれた。だから退役した。共和国の航海士として復職できる船は無かった。
身分を隠して漁村に入り漁船の船乗りに、次いで船長になった。多くは望まなかった。しかし理想は高い。
出資者ではないといえ、漁船十隻ほども束ねる責任者ともなっていた。漁獲量と漁場を徹底的に調査するのはたいへんな仕事だ。
一隻での漁業だけで満足している。平の水夫の内、見込みあるものを弟子にして幾名も航海士として輩出したし。
この功績で漁村の一帯を取り仕切る港湾庁役人からの信任も――もと王国海軍航海士と暴露してしまったが――厚い。私心のない志士とされ。
これらの栄誉に加えただ毎夜の火酒に魚……肴が十分にあれば、この上なにを望むか。若いころと違い冒険航海には耐えられない身体だし。
と、これら秘密を演奏の中回想していたが。いささかみんな火酒が回ってきてから、漁師たちと楽師は和やかに雑談を交わしていた。
船長は終戦後の穏やかな時代で、兵士を殺したこともあった……。こんなことすら漏らしてしまった。
「……何年前だったか……おれはな、漁の魚を共和国兵士にたかられたんだ。相手は長剣を持って脅してきたが、仕方なく、三つ又槍……漁師の使う銛で応戦したものさ。兵士崩れのごろつきは突かれて死んだ」
楽師は素直に驚いている。
「そんな! 御冗談を」
「いやいや、仮にも士族が漁師のような平民に負けるなど、士族の名誉に掛けてありえない……つまり、殺しても罪には問われないのだよ」
「士族は武器を帯び、人の命を奪う権利を握ると同時に武器によって殺されることも受け入れられなければいけない……とは聴いていましたが」
「そうさ。その兵士の持ち物を奪ってから、死体を海に投げ捨てた。戦利品の剣は護身用として身につけている。海軍を辞めて以来、帯刀するとは皮肉なものだ。これすらも共和国の港湾役人は黙認してくれている」
「酒の上、と話半分に聞きかじりますよ。船乗りには冒険譚が付き物と聴きます」
「ああ。未確認の動物は世界に多い。学説では人が知る生物は全生物の種の一割に満たないというが。しかし失われた動物は過去の記録に克明に残るが、どれも眉唾ものだ」
この意見に、楽師の目は輝いていた。かれはまくしたてた。
「西の大陸の人里離れた森で竹の葉を食べる白黒熊とか、はるか南国の平原に住む有角首長獣とか……はたまた腹の袋に子を入れ育てる素手格闘獣とか。半ば怪奇めいた吸血蝙蝠とか。ましてや全世界的に記録の存在する『竜』。これについては列記とした骨、人間より何倍も大きい巨大な化石が好事家の屋敷に展示されているのが有名です。作りものと否定する向きもありますが……」
これに同意する船長だった。
「自分の目で見ない限り、解りはしないが。しかし否定もできない。異なる意見主張するものたちの共存こそが自由民主主義だし、なにより国は文民統制だ。圧政者の抑圧に屈しては自由民主を名乗れない。暴走する政府……これに歯止め掛けるものは、自然居ていい理屈だ。この自由が弾圧され、思想犯とされるようなら恐怖政治だ」
「船長は見識ありますね。これは私見ですが人は往々にして、自らの能力ではどうしようもない状況に陥ると、それを『神』とやら呼ばれている絶対者に丸投げしてしまうのですよ。それとも悪魔かな。成功しないのは悪魔の陰謀にして神にすがる。神が応えてくれなかったら、悪魔に魂を売る……愚かしい」
「神、か。そんなに愚かしいかな。船乗りに無神論者はいないと思うがね」
「神なんて信じられない。だけど妖精なら信じても良いかな」
楽師はすっかり酔っ払って、こんな放言をしていたが。船長を始め漁師はみな、海の神……どちらかというと精霊崇拝に近いものを信じていた。
それに……共和国艦隊との海戦で先年戦死された王国港湾都市の女提督は、『妖精の女王』として高名が残っていたし。
「船乗りは海の精霊ならば妖精としても肯けるな。それは否定しないよ」
「ですが私は宇宙の意図を信じているのです。それは『神の見えざる手』とでも言えます……ならば神がいておかしくない。でもそれは擬人化されたような、人間だけに都合のいい存在ではないはず」
「神の手とはなんだ?」
「単に適者生存の法則かと思います。動植物の食物連鎖、食物網の厳しさからみても、適応しない個体、ひいては種は絶滅する理屈」
「すると逆にいえばはるか数億年過去へいけば、劣った生物ばかりで狩りに漁は楽勝なのか。ありえないな、伝説の竜、『恐竜』の時代に。品種改良されていないなら味は劣るし……これもおかしいか。たいていの動植物は無害で美味しく食べられるのだ。毒があるのはほんの一部だ。それに気をつける必要があるが」
彼方を夢想する。歴史なんて混沌の霧の中。なにが事実かなど神ならぬ人に解るものか。だから真理を自然科学に求めるのが技師。反面社会学を追及するのは学者か。人は限られた一生の中では決して万能になれない……。
と、突然割り込む声があった。凄味のある海の男が三名、あからさまに威圧するように近寄ってくる。
「神は成長する生き物を妬んで衰える老いと死をもたらした……などと神話ではされるな、あんたもその口かい?」
相手は共和国海軍の水兵だった……何故だ? 船長は王国士官だった過去から、いままで好き勝手に泳がされていたが。今回ばかりは謀殺される危険があるな。さんざん本音を暴露した上、利用価値が無くなったのだから自然だ。
……って、考え過ぎだ。こんな老いぼれ一人殺してなんになるか。すると。
やはり狙われたのは楽師だった。ここは助けてやらないと……! なんだ?
楽師に掴みかかった男は、たちまち横転して地をなめていた。続く二人も殴りかかったが、この老楽師は軽く避け払っては腕をひねり伏し……。三名の男どもは言葉もなく逃げ出していた。
「流しさん、強いんだな、あんた……」
楽師はあっさりと言う。
「武道は少年時代、貧乏とはいえ王国貴族の最低限の嗜みとして身につけました……この程度並みの兵士以下でしょう」
冗談ではない。こんな真似、余人にできるものか! 体格勝る海の男三人まとめて相手にして、息も切らせないとは……貧乏貴族? やせ細ってはいるが立派な騎士だ。
感心して船長は語りかけた……少年期抱いていた疑問をぶつけた。
「おれは王国海軍の士官だった……貴族殿に聞くが、殺人はおよそどこの社会でも最大の罪なのに、戦争では兵士が敵兵士を殺したことには、なぜ罪に問われないのか。士官が殺戮を命令したことも。略奪陵辱暴行は罪に問われるのに。ここに戦争というものの救い難い欺瞞がある。自らの意志なくして徴兵された時点で自由と権利奪われ命問われないのだ。お上は建前だけ掲げ、自分は前線へ出ない」
楽師は嬉しそうだ。
「戯曲など創作では戦争がかっこいいかのように脚色され、現実の兵士は無慈悲に殺戮される。この光景を民衆に伝えることこそ楽師の使命かと」
「ならば。旅へ……、冒険の航海へ出るかい? あんたとおれ老体引きずって、なにが事実かを知るために」
「光栄です。暴露した通り、私は共和国政府から睨まれる身ですから」
ひとまずはあの造船技師が目指したらしい謎の航路へ。なにが待っているのか。何故彼らは戻らなかったのか……余生を割いても確かめる価値はある。
この意見に、我こそも! と同意する漁村水夫は大勢いた。早くも港湾役人の認可を受けようと書類したためるものも出た。これからは派手なお祭りが待っていそうだ。