17 妖精への手向け
それはいつかの時代。解放戦争とやらから三十年は過ぎていた。世界の東の最果てにある島国を統治する、自由自治権都市同盟の一都市にて。
同盟都市太守は柔弱な男ではなかった。平民の生まれからものの少年時代に一兵士として解放戦争に参加、勇猛な戦果から下士官に野戦任官、さらには終戦後厳しい試験を通り士官学校へ入り、士官として前線掃討勤務の戦後事後処理を果たした。その功績から警備兵隊長に転部、警備兵総監を経て選出されたのだ。
士官学校は、入学枠の半数は入試ではなく推薦だ。推薦で入るのは地主や郷士の金持ちのお坊ちゃんだ。たいていはろくに勉強なんかしてやいない。身体も鍛え方からいって違う。
卒業してみると、格差ははっきりする。前線勤務に回されるのはかれのような平民上がり、金持ち連中は後方勤務。しかも補給経費の事務任務すらろくにできない無能だ。かれは誓っていた。そいつらを出し抜く地位を。権謀術数を尽くしなったのだ、都市太守に。
初夏梅雨前の蒸し暑い夕刻だった。太守は行政宮の執務室で葡萄酒のグラスを手にしながら、椅子にかけてまどろんでいた。
先の冬の、王国港湾都市との戦いがうやむやに終わっての事後処理を終え、空虚な気持に苛まれる。
都市からの命令を無視した将軍の采配により、戦線を維持したまま戦端を開かず、両軍ともさして犠牲を払うことなく収束した戦争。そのいちばんの功労者である『裏切り者』の将軍を処刑したのは、太守の本意ではなかった。決して。
しかしこの『生贄』のおかげで、太守の権力はさらに高まっていた。太守は力を求めていた。世界を改革しうる力を。……われは誰にも負けない力を手に入れる。戦うからには必ず勝つ。そして……
「そう。閣下はなんら後ろ盾なく自らの才覚を持ってして、太守になられた。平坦な道のりではなかったはず」
突然、声がした。はっとして部屋を見れば、十五歳にもならないほどの少女が立っていた。驚いて問う。
「誰だ、きみは。ここは子供の遊び場ではないぞ」
「ひとにとっての法など、わたしには無縁だもの」少女はクスクスと笑う。「だってわたし、妖精なんだもん」
妖精だと? 太守は、ふっと嘲った。
「餓鬼の悪ふざけにつきあうほど、太守というのは暇ではない」
「暇に見えますけど、ずいぶんと」
「待機も立派な仕事の内だ!」太守はいらいらと叫んでいた。「なんの用があって入った、小娘」
「わたしの友人の信愛していた商人が亡くなったのです。彼女がいずれまた仕える人を探さなくては」
「そんなことか。しょせん小汚い金を扱うだけの商人風情なんて、取る道は二つだ。背信と裏切りに満ちた人生か、それが嫌なら乞食」
「例外もいるでしょう?」
少女の言葉に、はっと太守は思い返していた。大商人、その名も『巨獣使い』。大金の動く大取引にすら飽き飽きし、もはや刺激を感じない。冒険商人として新たな交易品を、新たな交易路を目指し自ら陣頭で指揮を執り商船隊を仕切っていた。禁制品の煙草の流通を推し進め、莫大な権益を握ったあの男を。
「閣下はあえてそれを見逃していた。繁栄のための必要悪と」
少女の言葉に、太守はどきり、とした。まるで心を見透かされたかのようだ。落ち着こうと、ゆっくりと断言する。
「かの商人はばくち打ちなのだ。博徒。われと対等に決闘できるかもな、そうか、亡くなったとは惜しいことだ」
あの大商人は私心の無い男だ。称賛に価する。炯眼と見識、度量を有するたいへんな辣腕家だ。しかし凡人はそうではない。
苦々しい思い出が脳裏を過ぎる。警備兵隊長時代。捕らえた連続強盗殺人犯に、その他のかれの犯した罪ではない事件まで負わせ処刑した。功により警備兵総監に昇進でき、いまの太守への地位の足がかりとなった。
やむなかったのだ、司法当局では一族郎党、近隣住民全員の処刑を望んでいたのだから。回避せねば。横暴だ、かつての教会の繰り返しだ。一味は貧民の乞食や遊女、浪人の食い詰めものに過ぎない。そうした小悪党を飼えないような社会は、恐怖政治だ。
同じく、警備兵総監時代。収賄を断った部下に、自分の罪を着せたこともあった。目を掛けておいたというに、ばかな男だ。
少女は笑いながら、意地悪っぽく語っていた。
「そいつをお人好しにも、かの大商人に助けられるよう仕向けた閣下も存外ばかかもね」
太守はぎくり、とした。また心を読まれたのか。この少女、どこぞの回しものの密偵か。われを憎むもの、妬むものならいくらでもいるからな。慎重に問う。
「なぜそれを知っている?」
「だって」自称妖精の少女は悪戯に笑った。「わたしは閣下の守護精霊だもの。その警備兵はいまや大商人の跡を継ぎ、王国港湾都市総督となっている。彼にはわたしの別の友人が妖精となっている」
「それは事実か? あいつが総督……」
「旧交を取り戻したいと思っているのでしょう? かれを敏腕な警備兵に育て上げたのは、閣下だった。実績主義の公正な選抜で、隊長に抜擢してあげたのも」
「なんでもお見通しなんだな、きみは」
太守は願っていた。かれらと共存さえできれば。しかし理想論だ。ひとには欲がある、正しい理解と信頼の上に成り立てるはずもない。おめおめと仰ぐ旗を変えられるものではないし、立身出世を目指す男は他の同格の力量のものの下風に立てるものではない。
太守は毅然と言い放った。
「腐敗し切った世を正すには、力が必要なんだ! 力、それを金と呼んでもいい。汚職か? 小役人が少しばかり贈収賄したとて、どれだけのことがある。都市の高官の俸給、大商人の交易に比べたら微々たるものだ。われは力を持ってして、この世界を支配してやる」
「そのために」少女は一変し実直な目を向けた。「閣下一人地獄へ堕ちることなど、些細なことだと?」
「そのとおりだ。いいか、人間にもともと正義なんてない。そんなにこの世界が嫌なら、自分で命を断つがいい」
「そんなことはない」少女はさみしげにかぶりを振った。「閣下、あなたは正義の体現者。あなたなりの」
「きみはなぜわれを認めるのだ」
「閣下はなぜご自身を認められないの」少女は切なげに訴えた。「一年前の夏……王国港湾都市に、同盟都市は艦隊を派遣された。あのとき軍からの脱退者が相次いだというのに、閣下はそれを処罰なさらなかった」
「あんなお祭りごと。平和の世にあって死に逝くだけばからしい。遊びたいやつらに踊らせただけのことだ」
「結果、閣下は海戦の責任を押し付けられましたわ。形だけ勝利でも意味はなかったと。対して敵の女提督は偉大だったと」
「偉大な提督、か。彼女はたしかに有能で勇敢だったが、決定的に前線指揮官として過ちを犯している」
「過ち? あの提督が。どんな?」
「必死になるというね。将としていちばん陥ってはならないことだ。将が必ず死ぬ気でいるのでは、なまじ人望と度量があるだけ心服し死を共にする兵ばかりになり、討ち死にするだけだ。だから王国艦隊は多大な犠牲を払い敗れた」
「でも彼女の勇戦のおかげで、敵港湾都市は独立したわ。その功績は大きい。決して軽視できない」
「対するに、同盟都市艦隊は戦力差で三倍、必勝の自負があった。だから猛攻に尻込みするものがいたとしても、攻勢を掛け押し切った。兵力差からいくと、無駄死にが多かったがな」
「閣下にはもっと良い解決策があったというの?」
「戦争とは、外交政策が失敗した後の、最後の手段だよ。下策中の下策だ。絶対に避けるべきものなのだ」
「だとすると戦争の責任は、艦隊を動かした同盟都市側にある」
「外交努力が失敗したとしても、敵提督は情報操作をすべきだった。艦隊決戦など挑まず、要所を抑えてわれらの艦隊の動きを封じる。なまじ遠征する艦隊を迎え撃つのだから、地の利は最大に利用すべきだ。加えて密偵を散らし扇動させ、後方を攪乱する。われならそうしたが」
「でも閣下にしても、海戦を止めることはできなかった」
「犠牲が必要だったのだよ、平和の無為の中に退廃し、血という刺激を求めていた民衆の目を覚ますだけの犠牲が。生贄となったものには、悪いことをしたが」
そのときだ。別の女の凛とした声がした。
「そうしてあなたは私を生贄にしようとしたのですね、太守閣下」
すらりとした長身の少女。こんな夏の陽気というのに、丈夫な皮革の上着を纏っている。腰には小太刀。先の冬、敵王国都市太守への生贄にした勲爵士、伝書官の小娘!
ほう、討つ気か。澄んだ実直な瞳が睨みつける。太守は皮肉に嗤った……その目に欲望の野心に燃え盛るわれの瞳はどう映るかな。
伝書官の少女は声高に叫んだ。
「あの将軍は、扇動者は死ぬべき人ではなかった! 護民官として職務を全うした。私はあなたを許せない」
「死して職務を全うしたまでのこと。われになんの責があるか」
「それに王国都市総督は聡明で寛大な方だった。なぜかれらと戦う理由があるのか」
切実な声に、太守は朗々と言い放った。
「われは舞台を用意したまで。その壇上で踊ったのは血を見たかった民衆自身」
「そんな理屈!」伝書官の少女は、腰にした小太刀に手を掛けていた。「騎士の礼は、存じていような?」
「無論承知している。私的決闘は禁止、戦いは専守防衛を旨とすべし、だ。武器をしまいたまえ」
「騎士は名誉に掛けての決闘は権利としてある!」
「そうだ。女子供を相手にするのは、騎士として不名誉なのでな」
「騎士は弁解をしないものぞ!」
叫ぶや、勲爵士の少女は小太刀を抜き正眼に構えた。
やむを得ないか。太守は椅子から立ち上がるや堂々たる広刃剣を抜き、下段に構えた。少女の実力を値踏みする。小太刀、か。
両刃の剣に比べ片刃の刀は重さの割に峰を厚くできるから、意外と頑強だ。それでも、叩き斬るのが目的の剣と違い、切り裂くのが目的の刀は刃こぼれを起こすととたんに弱る。
となると小太刀戦術は読める。受け太刀をせず。退いて払ってかわすはず。そして、返す反撃は踏み込み鋭く迅速。相手が構える前に呼吸を合わせ一気に斬る。
小太刀で礼をするや、気合の声と共に少女は撃ち込んできた。太守は軽く広刃剣を構えるだけで、その一撃を封じていた。やはり少女は受け太刀をせず、小太刀を引いたのだ。
太守はもはや初老、体力は衰えているとはいえ技に掛けては練達していた。こんな少女の太刀筋など、簡単に見切れる。若いころから幾多の死線を越えてきたのだ。心技体そろわなくして覇者となれるはずもないのだ。
勲爵士の少女が次の手を打つ前に、太守は思い切り踏み込んで、至近距離から広刃剣を大胆に払った。少女に退く余裕を与えなかった。広刃剣を小太刀と打ち合わせ、派手に火花を散らした。
小太刀は刃が吹き飛び、使いものにならなくなっていた。それでも少女は突きを繰り出した。すかさず太守は広刃剣を打ち下ろす。小太刀は真っ二つに折れた。少女は茫然と立ちつくした。
太守は悠々と、広刃剣を鞘に戻した。
「一介の勲爵士が都市の太守に決闘を挑むなど、不当な挑戦」太守は冷厳に宣告した。「騎士として、敗者の矜持は自覚しているな? その手で命召されよ。われの目の届かない場所でな」
「待ってください、閣下」自称妖精の少女が割って入った。「どうか、お慈悲を。閣下は優しい方ですわ、私心の無い」
「きみはわれを、この小娘を止めなかったではないか?」
「閣下が負けるはずはないと、信じていたからです。虚心にお聞きください」少女は滔々と語った。「戦えることは強さかもしれない。しかし戦うことが強さとは限らない。戦えないことは弱さかもしれない。しかし戦わないことが弱さとは限らない」
「ほう、このわれに説教するか」
「閣下は支配者として生きてこられた。すると自然、身につけたのは建て前と本音を使い分けることだったはず。真顔で嘘を吐くことだったはず。閣下ご自身の本音を思ってください」
「そうか」太守はふっと息をついた。こんな小娘を死なせるなど、無論本意ではない……「少しばかり剣術試合をしてしまったな」
「閣下! それでは」
「では、二人ともお引き取り願おう。われには太守としての仕事が残っている」
『妖精』は太守に満面の笑みを見せ、嬉しそうにおじぎすると、『騎士』の手を引き去って行った。
苦笑する。まったく、無礼な小娘どもにのこのこ職場に入られて。太守の権威はどうなってしまうのだ? そもそもこんな闖入を許すとは、警備兵どもはなにをしていた?
奇妙な邂逅は、こうして終わった。
やや迷ってから太守は、文官を呼んだ。厳粛に命じる。
「あの退役海軍将官についての手配は、取りやめにする。それから、捕らえた王国偵察艦については……」
時は流れ。太守は変わらず厳格で堅物な偏屈為政者。平和な街を治める必要悪。冷厳だが公正な統治で知られていた。しかしいつまでもその地位に甘んじる気はなかった。
太守の次に目指すは、最高評議会議長だ。しかし人の世でどれほどの覇権を握ったところで、なんの意味があろう。天も地も海もひとのものではない。ひとはひとのものではない、自分自身ですら。それでも彼女は太守を愛してくれた。それで十分だ。
だからときおり思い返すのだ。道を外れようとしていた自分を、助けてくれた妖精を。