11 妖精が紡ぐ絆
同盟都市海軍艦隊の勝利。この報は街中を賑わせていた。卑劣な王国の残党、海賊どもを撃滅させてやったと、口々に叫ばれている。
なにが勝利なものか。内心、嘲笑する壮年の共和国軍人だった。共和国軍旗に唾棄すべき事実を知っていのだ。
あの辺境に位置する港湾都市を支配する王国海軍に同盟都市の艦隊があえて戦闘を挑んだのは、王国が善政を敷いた、などという事実を作りたくなかっただけなのだ。
以前、港湾都市は劣悪な領主が支配していた。治安が悪く、その都市へ位置する辺境への街道は、「一歩進むたびに命の値段が銅貨一枚分下がる」などと称され忌諱されていた。
王国軍はその都市に乗り込み、解放軍として皮肉にも、都市に秩序と平和、自由と権利をもたらした。なにより物心両面での豊かさを。
女王を僭称した王国提督は、若くして怜悧な公正な女性だった。だから。
戦闘は建前だけの無意味だ。避けてもよかった、避けるべきだった、避けられたはずのものなのだ。三倍もの兵力差は戦争の抑止のために誇示すべきだった。
それなのに戦死した兵士は味方四百名強、敵に至っては七百名にも達する。
凄惨な海戦が軍人の脳裏に駆け巡る。一生忘れられるはずもない。
砲撃を浴び爆発、轟沈した敵旗艦に、敵強襲揚陸艦により制圧された味方旗艦。艦船数では敵は七割余り、味方は三割近い犠牲を払った。勝利とは言い切れない。痛み分けだ。
いや、王国港湾都市が同盟都市の傘下に収まらなかったとあっては、敵にとっては名誉の戦死。対して味方の同盟都市艦隊はなんら戦果の無い犬死にもいいところだ。
軍人は同盟都市艦隊第四砲艦の、砲術士官だった。敵旗艦の戦艦に致命的な一撃を見舞ったのは、かれの指揮する砲門群だ。
この決定的な功により、軍人は将官に昇進した。それから――態度には口には出さなかったが――怒りに任せて、退役した。
かりそめの太平の世。もはや戦う必要なんてないのに、たやすく狩れるカモを見つけるや戦争ごっこをしては、優越に浸る。
政治は十年にして腐敗す、というが。腐敗した王国を打倒したが建て前の解放軍の瞞着ぶりには目に余るものがある。堕落も失墜も甚だしい。
退役将官はそこそこまとまった退職金の給与を手に、これからどう過ごそうか、思案に暮れていた。
想い人――真面目で知的、清廉潔癖な気品のある、美徳の宝石のような魅力的な女性――には、この前の冬、出撃前に思い切って求婚したのだが。無様に振られた。
自分に気があると思っていたとは、思い上がりだった。彼女に七年も片思いしてきたかと思うと、失意や憤りより哀しみを覚える。
ともあれ退役将官は久しぶりに、共和国首都に戻っていた。旧王国首都であるその町並みは、中央の王城から大通りが伸び、幾何学的に美しく意匠をこらして造り上げられている。『彼女』の暮らすこの都市へ戻るとは、未練がましいというものだが。
宿の手配を済ませると、昼過ぎ繁華街へ踏み込む。とても楽しげな喧騒が、ところどころに聞こえる。首都ともなると栄えているものだ。戦勝記念の凱旋が派手に行われている。いい気なものだ、前線へ赴かなかったものたちなのに。戦死者は帰ってこないのに。
「おじさん、大丈夫?」
ふと子供の声がした。誰がおじさんだ。閣下の呼称で呼ばれる退役将官に向かって。この軍服を見てわからないか……しかし相手を見て納得する。普通の平民らしき衣服の、ものの十歳くらいの女の子。こんなガキから見れば、三十三歳は立派なおじさんだ。
「なんでそんなことを聞くんだい、お嬢さん」
「さみしそうで、辛そうだったから」
「きみこそどうしているんだい? 知らないおじさんについて行ってはだめだって、教わっているだろう」
「わたしね、妖精を探しているの」
「妖精なんて、いるわけがないだろ」
「不思議ね、その言葉誰かに言われたような記憶あるわ、ずっと昔……何十年も前」
「きみはそんな歳じゃないだろ」
「そうかしら。わたし、自分の歳知らないの」
なにか不思議な子だな。この子そのものが、妖精みたいに見える。世間ずれしていないし、身の振りも落ち着いているから、きちんとした家庭で育てられているように思えるが。
「なんで妖精を探しているのかな?」
「妖精は人の子の幸せのために在るっていうから」
「そうか」退役将官は胸がたまらなくうずいていた。「そんな妖精ならば、知っているよ。妖精の女王として知られていた」
「妖精の女王様?! その女王様、どこにいるの」
「どこだろうね、いまではきっと素晴らしいところにいるといいな。殺し合いも奪い合いもないところに。ずっといつも穏やかに、満ち足りた生活が続くところに」
「またつらそうにしている。おじさん、なんでなの?」
「世の中にはね、知らないほうがいいことだって、あるんだよ」
答えられるはずもなかった。彼女を殺したのは退役将官なのだ。妖精の名で親しまれていた、王国海軍女提督を砲撃したのは。
「大人はそういう言い訳するのね。わたしにはわからないけど。でも」少女はにっこりと笑った。「妖精に出会えたなら、おじさんはきっと幸せになれるわ」
「そうかな」
虚しさが、胸中渦巻く。自分の半生はなんだったのだろう。首都の平民家庭に生まれ、当たり前に学校へ行き、優等な成績から抜擢され士官学校への進学を許された。
別に軍人になるつもりはなかったが、戦争なんて自分が幼児のときに終わったもう起こらないことと信じていたから、学費免除の士官学校を断る理由はなかった。
卒業し、ものの二十歳でいきなり士官ともなると、その権限の大きさに驚かされる。徴募兵からみれば天と地の差なのだ。しかし、それに驕ることはなかった。
むかしの戦乱の世とは違い、滅多に正規軍など動かない太平の世。むしろ平和な街のお荷物になったかのような引け目を感じていた。
生きる意味を失っていた……探していた。
そんなとき、「彼女」と出会った。護身のために暴漢を殺めた、孤独な、さみしげなかなしい過去を抱える愛らしい女性。彼女のために生きようと決意した。
しかし自分が軍人であることは、明かせなかった。彼女は嫌悪するだろうから。
この海戦は、ほとんど初陣といえた。大勢の士官兵士にとって、初めての実戦。憶するもの頻発し、軍からの脱退者が相次いだ。それで自分は砲術士官に抜擢されたのだ、前任者が辞めたから。
軍からの脱退など、一昔前では死の厳罰ものだが、今の世は違っていた。いや、将官になったのだって、前線指揮官の席が辞任と戦死で空いていたからに過ぎない。
退役将官はこの海戦で、戦艦一隻、突撃艦二隻を沈めていた。幾人を殺したろう。大義無き戦いで。軍隊に栄光なんてありはしない。自分は欺瞞を押し通してきたのだ。
こんな人間に、微笑みかけるような妖精はいやしない……
「おじさん、これから時間あるの? わたしのお姉さんを紹介してあげるよ」
少女は無邪気な瞳で微笑んでいた。
退役将官はなぜか断れず、少女に連れられ、住宅街の中へ入って行った。首都の雑多な路地裏は見なれた光景だった。
思わず、困惑する。ここは、「彼女」の家に続く道ではないか。近づくにつれ、気まずくなる。
少女はまさに、その家に向かっていた。間違いない、少女は知っているのだ。家の扉を開ける少女。
「ただいま、お姉さん。お客さん連れてきたよ」
駆け寄る足音。いつかのように、いつものように「彼女」は家にいた。驚いて見つめる。見つめ合う。
「あなた!」彼女は家から歩み出、おずおずと近づいた。「どこへ行っていたのか、ずっと探していたのに。あなた軍人だったのね、やっぱり」
退役将官は高鳴る胸を抱えたまま、控え目に語りかけた。
「海軍は退役したよ、これからは平穏に暮らしたいんだ。よければ、きみと」
「わたしなんかで、いいの?」
「俺の方こそ。軍を辞めて恩給暮らしの、ただのあぶれものだけど」
「わたしは、過去に囚われていて、ずっと自分のことしか考えていなかった。あなたの苦労も知らずにいたのね。いままでいつも誠実にいてくれたのに」
「関係ないさ」ふと問う。「でも、きみに妹はいなかったはずだけど、この子は?」
「この前の冬からわたしが引き取って、育てているんです」
「それは大変だったろうね、お金に困ったんじゃないか?」
「それは……持っていたロザリオを売り払ったんです。だからなんとか」
「ロザリオはきみの母の形見じゃないか、手放すなんて」
「いいんです。この子はここにいて、微笑んでいてくれるから」
「そうだね」退役将官は右手を伸ばした。彼女も右手を伸ばし、互いにそっと触れた。「過去に囚われていては、いけないんだ。俺の軍服も売ってしまおうか、将官の制服ともなるといい値がつくはず」
退役将官と彼女は、しばし無言だった。人は過去を捨ててでも、未来へと進むべきなのかもしれないな。
退役将官はかつてない、幸福の絶頂にあった。引き合わせてくれた運命に――微笑みの妖精に――心からの感謝を。