9 妖精恋物語
「不採用、か。また……」いささか不機嫌にささやく歳若い女性だった。「智に働けば角が立つ、なんて誰が言ったのかしら!」
女性は首都の有名店に勤める書記官だった。書記官といっても、会計担当だから基礎的な算術も扱うし、接客も礼儀正しくしないといけない。雑用も正直多すぎて、かなりたいへんな仕事ではあるが。
彼女の父は解放戦争時の英雄な上、かつて大商人の片腕と言われた辣腕家で、その大商人の築いた首都の本店で隠居の名誉職として監査役に居座っている。
父に家庭教師された六歳違いの母は占星術錬金術数学その他自然科学に練達する学者で、大学で教鞭を執っている。
だから偉大すぎる両親からすると、はるかに落ちこぼれな書記官は生きる意味を求めていた。自分に価値を認められないのだ。
書記、会計、薬草、航法、格闘……自然科学に社会地理歴史法学に武門、いろいろ手を出してはどれも二流の中途半端。仮にも母の教える大学についていけず中退したのがいささか屈辱だった。
そんな書記官も店で働いてみると、「貴女は真面目で有能ね」と評価してもらえる。失敗だってもちろんする。それも即座に訂正する能力がある。とはいえ父の立場からの身びいきもあるだろう。
ゆえに現状に不満なのだ。もっと『生きて』いられる仕事がしたい。
首都の広場の掲示板で求人を確認する……
共和国都市太守秘書官の募集が魅力的に映った。文官求人の最高峰だ。責任、名誉、地位、給与どれをとっても……完全実力主義だし。
しかし駄目なのだ。父の仕えている大商人は、半ば非合法な仕事をしていて王国港湾都市ともつながりがあったから。宮仕えはできない。おまけに大学を中退した身だし。
そんな書記官も、ふつうの事務職の面接では「きみのような美人なら……」と必ず言われる。これに「外見で評価するのは不公平です」と突っ返すのだから、どこも雇ってはくれないのか。
仕事はこだわりを持たなければいけない。単なる接客業なんて、若いうちしか勤まらないではないか!
女は容姿衰える年齢となる前に夫を見つけて身を固める……そんな生き方は絶対に嫌だった。男の付属品として仕えるなんて。
親の地位からのわがままな特権ではあるが。休みは大いに活用し、図書館に通い独学する。雑学は多々身についた。
軽視し蔑視すらしていた農業に漁業……街住まいの民衆の生活基盤支えるかれらの偉大さが解る。むしろ専門職には就かないふつうの街娘のほうが無学ではないか。
で、今日も単身図書館へ向かう。薬草学や地理の知識も生かし、なにか世界に貢献し協力できないものか……調べ物に熱中する。次はどんな文献を……と。
ガタタタン、と本が派手に何冊も落ちる音がした。ついでドスンと誰か倒れた音。見れば人並みの背だが痩せて、身だしなみからしてもくたびれた衣服の風采上がらない貧相な壮年男が、ぶざまに脚立から落ちていた。
「あ痛たた! 僕の研究に従わないか、この力学書め!」
男は身勝手に吠えている。なんて間抜けな責任転嫁、怒りの矛先が違うだろ、とは思ったが、とりあえず書記官は声をかけた。
「大丈夫ですか? お怪我ありません?」
「ああ、失礼。図書館は静かにしないとね」
と、我を取り戻しかろうじて立ち上がる男だった。意外にも、磯の臭いがした。
書記官はこの男が、職工の免許証を首から下げているのに気づいた。
「あなた技師なのですか?」
「ああ、造船技師を目指している。いや、腕そのものはすでに一流のつもりだ。だけど学も実績もない身、僕の設計図は取りあってもらえないんだ。まったく造船所の役人どもの見る目がないこと……そいつら船なんてなにもわかってはいないのに!」
と、まくしたてる技師だった。書記官はかれが自分の顔を直視して語っているのに、まるで動じないことに驚いていた……ふつうの男ならまず容姿を評価するのに。
ふと、心が揺らいだ書記官だった。美貌の持ち主だから評価されるのには馴染んでいたが、こういうのは初めてだ。
「技師ならば、農具の設計なんてお手の物でしょうね。少し案があるのですが。荷車に載せる貨物を釣り上げるのに多重滑車を利用したら、とても楽になるかと」
技師は驚いた顔だった。
「それ、きみが考えたの? 自分で思いついたならすごいね。でも王国の時代からとっくにそんな簡単な機械は設計図が保管されているよ。つまり、実際に作る人ははるかに少ないってこと。技師は社会的地位が低いからなあ……」
「そうなのですか……」
思わず恥ずかしくなったが、技師は好意的に語った。
「きみは港に入ったことがないね。貨物を釣り上げる機械なら、何百年も前から使われているさ。その小型版の農具はあまり無いかもしれないけれど。ふつうの農民には買う金がないからさ。きみはふつうの街人とも違うね。学生かい?」
「……中退しました。店で平の書記官を務めています」
素直に答えてしまったが、これは苦痛だった。この技師、父に伝えてみようかな。ひょっとしたらほんとうに実力ある技師で、腕を評価されるかもしれない……
「では専門職なんだね、図書館はいいな。万民に開かれている。無学なものにどんな仕事だって勤まらないさ。農夫の方が過去の王侯貴族より識字率高いしね」
「専門職というには、私は未熟に過ぎます。目下占星術を生かした航法とかも学びたいです。魅力を覚えます」
「では、よかったら僕の船に乗ってみるかい? 二人乗りの海域調査にしか使えない、単なる小さな三角帆船だけど」
海で二人きりで逢引きなんて。これって自然……
承諾して港へ向かい、すぐに出航した。書記官にとって初めての海だった。いまは昼過ぎ、まだ夜は遠い。晴天で風も波も穏やかだ。思ったよりはるかに爽快だ。揺らぐ船に陶酔感すら覚える。
技師は帆を巧みに操りながら、ひたすら海域の説明に熱中していた。波のこと、潮のこと、魚のこと、珊瑚のこと、船のこと、海賊のこと……確かに、技師の見識に力量は目を見張るものだった。しかし……
……としているうちに回遊を終えて港へ戻った。
って、若い男女が一刻以上も二人きりでなにもなしってありえない! 友人に知られたら、とんだ恥だ。
「朴念仁!」
書記官は叫ぶや思い切り技師の顔を張り叩いていた。
「痛い! うわあ、僕がなにをしたの? え、嫌だ、殴らないで!」
半泣きに叫ぶ技師をしり目に、書記官は陸へ上がり立ち去った。父への紹介は取り消しだ。だが。
……至極素敵な出逢いだった、とクスクス笑う書記官だった。技師のかれとなら真に尊敬し互いの価値を認め合える恋ができそうだ。ちなみにこの機会に、飾り眼鏡をかけることに決めた。ほかの余計な男の目から素顔を隠すために。