8 妖精との約束 2
それからが異常だった。朝になると仲間の警備兵たちがどやどやと押しかけ、中隊長になったばかりの青年警備兵を逮捕した。
即刻裁判に掛けられた。愕然とする。収賄の罪で、だと!? 上官の仕業か! あいつが圧力をかけたのだな。てっきり任務にかけては冷厳だが、部下の登用には能力主義の公正な上官と信じていたのに……
法廷で必死に事実を訴えたが、無駄だった。誰も青年警備兵を弁護してくれるものはいなかった。地主の権力に逆らうものもいなければ、贈収賄の利益を手放したいものもいないのだ。
裁判は非情だった。他の大勢の警備兵の汚職の罪を被らされ、青年は懲戒免職となり、財産を没収され都市を追放された。
監獄行きの懲役刑とならなかったのは単に口封じに過ぎなかった。監獄の囚人たちに、街を守る警備兵の腐敗ぶりを言いふらされては困るということだ。死刑にならなかったのも、今後の汚職事件の断罪として死刑の前例を作りたくないというだけの話だ。
『元』警備兵青年はさらしものとなり、手枷をつけられたまま大通りを歩まされた。野次馬に来た大勢の市民から口々に嘲りと侮蔑の罵声が浴びせられ、幾度となく小石を投げつけられた。
都市の門をくぐると、手枷を外され。背なかを蹴り飛ばされ打ち倒された。街門は閉まった。元警備兵は着のみ一つで放り出された。
たちまち日は沈んだ。虚しい夜だった。都市の外、辺境へ向け、真っ暗な街道を道の石砂利を頼りに当てもなく歩いて行く。
春雨が静かに降っていた。忌忌しい水滴が、拷問のように青年の身体に打ち付けられる。疲弊する。
なにもかも失ってしまった。濡れ衣を被らされた『犯罪者』を雇ってくれるところはない。役人の汚職なんて単なる物盗りなんかより、はるかに社会への裏切り者で、卑怯者だ。親元へも戻れるはずもない。
これからどうやって暮せっていうのだ。辻斬りにでもなるか。そんなことはできない。乞食になるか。は、死んだ方がマシだ。
折しも雨は本降りとなり、体温と体力を奪っていた。意識が薄れていく。足が重い。
心に問う……俺は死ぬのか――自らを偽らないことを務めたなら――それも悪くないか。疲れ果て、成す術なく湿った冷たい道端に倒れて……
光と闇の奔流が、青年を取り巻いた。どこかで、嘆き悲しむ声が聞こえていた。いつかの少女の声? 憐れみ悼む切なげな慟哭……
虚空のただ中に、青年は一人いた。何も感じない……光の白さも、闇の暗ささえも。なにも聴こえない……風のうねりさえも。触れるものも。生あるいは死の臭いも。五感は麻痺しているようだ。もう取り戻せないのか。
いや、感じている。「俺は俺である」と自覚する自分がここにいる。ここは噂に聞く冥途ってやつか。ならばまだ……
はっと目が開いた。視界が開けた。ぼんやりした薄明かりに照らされ、いまどき古風な衣装の司教姿の男が広がる大地に一人、立っている。
「これは……ずいぶんと気高い魂が迷い込んで来ましたね、安心なさい」司教は誠意のこもった口調で問いかける。「あなたは夢を見ているだけです。朝になれば消えてしまう夢」
「夢、か」青年は、はっと思い返していた。「俺はいままで夢を見てきたんだな」
「目覚めるか、眠りにつくかはあなた次第ですよ。選びなさい。過酷な現実か、安らかな眠りか」
「目覚める? この夢から、そんなことができると?」
「自分の運命を、ひいては世界の運命を握るのは人の意志なのです。人の意志、夢の結晶こそがこの世界なのですよ。時として……ひとはそれを『神』だとか呼んでいましたね」
「都市では信仰は廃れている。俺は神なんて信じていないぜ」
「そう、あなたは現世を誠実に生き抜いた。十分に人のために尽くした……いまさら、選択の余地はないでしょうね」
そうだ、自分には捨てられないものがある。約束したんだ。夢……決して悪いものではなかった!
だから、答えは決まっていた。決然と司教の目を覗き込む。
司教は微笑むや、厳かに一礼した。
「ほう、これは意外です。あなたには再び時間と空間が与えられるでしょう。では、お行きなさい。わたしからの祝福とともに」
視界が開けた。空が、宇宙が見える。限りない星々が。
歓喜の声がした。無数の声が、心から激励し青年を祝福してくれていた。光があふれていき……それも去り、闇が覆った。
気付くと、停車した幌馬車の中だった。何か不思議な生々しい夢を見ていたようだが、どんどん忘れていく。朝だ。
衣服を脱がされ、濡れていたはずの身体を拭かれた上、毛布がかぶさっている。この処置のおかげで体力も多少は、回復していた。
見ると、簡素だが上等な質の衣服を着た中年過ぎの男がいる。首に掛けてあるのは、各都市への通行証に交易証だ。すると商人か。
「あなたは……俺を助けて?」
「まだ安静にしてください、事情は知っています」商人は穏やかに語った。「あの地主の仕切る、商店街の脱税の疑いなら、ぼくは証拠らしきものをなんども見てきましたよ。収賄されたにしては、あなたは倹しい生活をされ、用途不明金が証明できない。あなたは無実だ。腐敗した警備兵隊の生贄とされたのですね。ぼくはそれを知っていながら、お力になれず申し訳ないです」
「いえ、お礼をしたいのは俺の方です。なにもできない身ですが」
「いや、おまえなら大事を成せるぜ」
馬車の外から、低い磊落な声がした。聞き覚えがある。街の揉め事を解決した時とかに何回か面識がある、裏街道の顔役だ。
任侠の鑑のような仁義を重んじる男で、治安の悪い路地裏の浮浪児たちを、道外れないよう面倒見ていた。義理と礼を教え、召使いや給仕、出稼ぎ労働者や調理人、または兵士などに就くよう仕向けていた。けっして娼婦やチンピラにはしないよう。
幌の隙間から、壮年の威厳ある風貌の顔役は笑みを見せた。青年は思わず敬礼していた。顔役は快活に笑って話す。
「わしの働きも、この大商人さまさまよ。貧民に施しをしていたのは、こいつなんだからな」
「いえ、親方にはかないませんよ。あなたは盗賊や乞食に身を落としたりする人を多く救っている」
「おまえは、餓死したり自殺したりする人をな。街の平和はみんなが護らなくては。警備兵だけにまかせちゃいられないだろ?」
「そうでしょう、敏腕な警備兵隊長さん」商人は優しげに問いかける。「あなたを雇いたいのです。ぼくの商船隊の用心棒として。いずれ力をつければ、腐敗した体制にも対抗できるようになりますよ」
「おう、わしらの世界は、わしらで守らなくてはな。どうだい、若いの」
……この商人と顔役の用心棒として死ぬなら、悪くないか。
だから元警備兵は覚悟し、きっぱりといった。
「俺たちで変えていきましょう。このままでは世界はだめになる。このままではいけないんだ」




