8 妖精との約束 1
その日は、ある春の柔らかく穏やかな昼だった。
青年は、街道を歩き旧王都である首都に向かっていた。それも共和国防衛軍の、募兵局へ。この国ではどのみち男はみな、十八歳で二年間の兵役を義務付けられる。青年はまだ十六歳、志願兵だ。
嫌でもどうせ兵役をいずれ務めるのならば、単なる一兵卒よりは、戦線に赴く十八歳までに下士官にでもなっていたほうが良いではないか。それが理由だった。親は反対していたが。父は家業を継いでほしいというし、母は泣いていた。
かつての王国が内乱により滅んでから、もう十二年が過ぎていた。そのときの決戦そのものはものの一週間で大局は決した。しかし余波といえる戦禍は五年間近くにも及び、戦火は到る所で燻り続け、世界は混沌とした中にあったという。
それも収まり、青年が軍に志願する時にはすでに平和となっていた。生まれ育ちは、旧王都の外れの、街道沿いにある宿場村だ。
青年は都市に入った。旧王都の表通りを歩く市民は、みな小奇麗な衣服を瀟洒に着こなしている。それを思うと田舎者まるだしの青年の平凡な簡素な服は気が引けたが、青年は知っていた。都市なんて裏街道に入れば陋巷もいいところ、薄汚れているし治安も悪い。
ふいに、見知らぬ少女が語りかけてきた。青年と同い年くらいだろうか、真っ白に洗濯された、飾り気のない布の服を着ている。
「ふうん。あなた、自ら兵士になるなんて。物好きね」少女は悪戯っぽく笑った。「親から、志願なんてするなって言われなかった?」
なんだ、この子は。なにかの商売か? 青年は疑ったが少女は言ってのける。
「兵士なんてしょせんは人を殺す職業よ。あなたに人が殺せるの? ただ敵とされているだけで、個人的には憎んでもいない人を」
「覚悟はしている。しかし兵士の任務は、単に敵兵と戦うだけではないはずだ」
「兵士は戦いの道具よ。人格すら奪われるような職業なのに」
「違うよ、俺は戦士になるんだ。家族を、友を、領民を護るための戦士に。強くなりたいんだ、力が欲しい」
「強さってなんですか、力って強さですか?」
少女はからかうように聞いてくる。こんな質問に答える義務があるだろうか。が、改めて考えると答えを知らない自分がいた。
なにも言い返せない青年に、少女はたたみかける。
「優しさって弱さですか、弱さっていけないことですか?
厳しさって強さですか、強いって尊いことですか?
愛情は弱さですか、非情って強さですか?
誠実さは美徳ですか、嘘って常にいけないことですか?
正直は美徳ですか、正義には欺瞞はありませんか?」
なんなんだ? 宗教の勧誘にしては妙な問いだ。とにかく答えた。
「どれも正しいし、どれもどこか間違っているのではないか?」
少女はにっこりと笑った。
「そうよ、あなたにはそれがわかっている。なのに、兵士なんかになれるの? 軍隊では上官の命令は絶対で、下された任務はどんな理不尽なものであれ断れないのに」
「そうだな。民主共和国であれ、軍隊は専制だ」青年は断言した。「たとえそうであれ、俺は兵士になる。だが、それは国を護るためではない、平和を護るためだ。民の平和を守れずして、軍の意味も国の意味もない」
「そう……軍隊なんて存在しなければ、戦争は起こらないのに。皮肉なものね」
少女は少しさみしげな目線を送った。青年は反論した。
「異国との戦いは、だろ。軍隊の任務はまず自国の治安を守ること。犯罪が起きないように努めること、犯罪者を取り締まること」
「そうね、先日も連続強盗殺人犯が逮捕されたものね」
「そういうやつを断罪するのが、法ってものさ。苦痛の少ない絞首刑になるな。過去に聞く王国の火炙りに比べたらはるかに温情措置だ」
「でも、その犯人の経歴を知って悲しくなったわ。戦災孤児。盗み食す以外に生きられなかったのね……」
「なまじ都市の生まれなのが悪かったな、田舎なら自然の山林に食せるものはたくさんある。密猟は罰せられるだろうが、うまく領主に取り入れれば正規の猟師にもなれたろうに」
「でもむかしはね、山賊どもが縄張りを張っては、地元の農民から武力を盾に租税を徴収し、商人や旅人からも通行税を受けていたわ。その末裔が、いま豪族の地主をしているものも多い」
「犯罪も、大義名分を作れば法として通るってわけか」
「だから、約束して。自分を偽らない名誉ある兵士になるって」
「ああ、誓うよ。ところでもう時間だ。俺は行かなくては」
「じゃあね、お元気で。名前も知らない兵隊さん」
少女は都市の表通りの雑踏の中に入り、たちまち見えなくなった。青年も、募兵局の門へ急いだ。
入るやすぐに名前に生れを報告させられ、身体検査が始まった。次いで、体力測定の数々が待っていた。
全てが終わると、青年は正規兵部隊の見習い新兵として、予備役部隊に配属された。徴兵新兵とは違う正規兵見習いとしての、過酷な訓練の毎日が始まった。
持久走に筋力鍛錬、格闘技に剣術。射撃に砲術。数学、力学、化学等の学問に試験。次々と脱落者も出た。青年は耐えていた。
青年が兵士になって、七年が過ぎた。もっとも前線勤務ではなく、都市の呑気な警備兵。制服に警棒の装備で、街を巡回し。時には住民の困りごとの相談を受けたりする。
取り締まるのは、喧嘩騒ぎや万引きがせいぜいだ。報告を受け、現場に駆けつけて事情聴取する。
乱闘沙汰になることもあったが、警備兵は腕には自信があった。警棒など使うまでもなく、相手の腕をひねりねじふせる。大抵は、それで済んでいた。仕事が早く有能として、街ではそこそこ顔を知られていた。荒くれを仕切る裏街道の昔堅気な強持ての顔役も、青年には一目置いてくれていた。
戦乱のない、平和な街。文字通り必死に兵士としての厳しい訓練を受けていた二年間が嘘みたいだ。
しかし事件は、青年が警備兵隊中隊長に昇進した時に起こった。
警備兵の宿舎を、夜訪ねて来るものがいるのだ。『手土産』を持って。銀貨五十枚。警備兵の給与の二カ月分以上もの額だ。そいつは、商店街の一角を牛耳る地主店長の子分だった。つまり、贈賄だ。この金の代わりに、関税の脱税を見逃してくれというのだ。
「どういうことか、これは」
警備兵は渋面を作り厳しく言い捨てた。男はかしこまっている。
「悪い話ではないでしょう、あなたの上官だって受け取っています。額が足りないというのでしたら、多少は融通を」
「贈収賄が罪になることは、知っているな?」
「え!? そんな」
「現行犯だ。おまえを逮捕する。共和国都市警備兵中隊長として、こんな犯罪を見逃すわけにいくか!」
手早く男を拘束する。部下を呼び、留置所へ送るように命じた。