7 妖精に微笑を
首都住まいのとある裁縫を生業に暮らすお針子は、『彼』のことだけは好きだった。紳士的な彼も、お針子を愛していてくれることは知っていた。
それでも、彼からとうとう求婚されたとき。即答できないお針子を抱きしめようと彼の手が伸びたとき。お針子は反射的に彼のほおを平手で打っていた。
さみしげに別れを告げ、去っていく彼を見送った後。身震いが止まらなかった。なぜだろう、自分は寒いのが好きなのに。
文字通り、心に冷たい穴が開いた。村はずれの閑散とした林に、お針子は膝をついていた。
熱いものが目からほおへと流れた。
叫んでいた。
「わたしなんて、ひとりで生きていくしひとりで死ぬの。ほっといて!」
粉雪まばらに舞い落ちる冬の夕暮れ、声は林に空に虚しく数回、こだまして消えていった。うすら寒さに、ぞっとした。
そのときだった。そっと触れるものを感じた。ぬくもり、だった。純粋な優しさのかけら、とでもいうものが流れ込んだのだ。なぜか切なさを感じた。それを放ったなにものかに、憐みを感じた。
喪失感を埋め合わせてくれる、不思議な加護の力……お針子は胸にしたロザリオをぎゅっと握りしめた。
冬の突き刺すような寒さを好んでいた、その理由はわかっていた。
何も知らない子供を乱暴しようと、地主の権力者の道楽息子が人気のない夕暮れの草むらで、お針子を襲ったのは、十四の冬だった。
お針子は母から聞いていた護身術――王家の娘の絶対の嗜み――を用い恐怖して気絶したふりを装い倒れ、衣服を裂きにかかった男の刃を、隙をみて逸らし男の喉を突いた。
生暖かい、鮮血が全身にふりかかるおぞましい感触は、忘れられない。自分は、ひとを殺したのだ。
罪悪感が、嫌悪感より大きく痛く胸を締め付けた。
大騒ぎとなった。お針子は、死を意識した。
地主は激怒し、悪魔に魂を売った魔女だ、わしの息子はたぶらかされたのだとわめきちらし、死の極刑を訴えた。旧王都から追放しようとした。
裁判にかけられた。悪い証拠は次々と集まった。放蕩息子の暴虐の数々が。お針子は正当防衛として無罪となった。
それ以来、まとわりつくような春の温かさは気持ち悪かった。
それ以来、男の手が身体に触れるなど怖気がした。しかし潔癖で清廉な淑女だとして、真剣で真摯な交際の申し込みはたびたびあったのだが。すべて断ってきた。
それでも『彼』だけは……言葉を交わすだけで心が満たされたのに。忌まわしいあの事件から遠く過ぎて知り合って以来もう、七年になるのに。
美貌とだけはよく形容されるが、こんな汚点ある経歴の単なるお針子の過去を受け入れてくれた彼なのに。
でも、『秘密』は明かせなかった。とほうもない戯言。
自分が『王女』なのだという……。
お針子はあたりまえに、戦乱の中に生れ、戦乱と共に育った。ちょうど解放戦争勃発時に生まれたのだ。国民を支配する王国に、反旗を翻した地方の農民や郷士。
戦争は結局、反乱軍……解放軍の勝利に終わった。国王は断頭台に掛けられ、王族は流刑された。王国は共和国へとなった。
王侯貴族は民衆から搾取する憎むべき敵だと、教えられて育った。戦火により父を失った、自分のような平凡な旧王都の民家の裁縫娘にとっての敵。そのはず……なのに。
「おまえはね、ほんとうは国王陛下の娘なんだよ」
と母に打ち明けられたのは、十三の冬だった。もう遠い少女時代の、だが鮮明な記憶だ。その日まで母だと思っていたのは、実は乳母なのだと。
夫と息子は王族を護る近衛兵として反乱軍と戦って死んだから、おまえのことはほんとうの娘のつもりで育ててきたのだと。
おまえは国王の娘、それも庶子などではなく王妃様の正当な末の王女なのだと。
でも。旧王都の平凡で古ぼけた小さな一軒家に育ち。財産と呼べるものはこの家とわずかな家具くらい。それに、ロザリオ。
自分が王女だなんて、嘘なのかも知れない。しかし、母の実の娘ではないことを打ち明けられた。
証拠はなにもない。なにを信じたら良いのか、わからない。
乳母だという育ての母は、お針子が十六の時に亡くなった。病床にあっても、最後まで義理の娘の身を案じてくれていた。真実など、確かめようもなかった。お針子はひとり、取り残された。
唯一の遺品といえば、ずいぶんと高価な煌く石の宝飾をたくさん施された銀のロザリオだが、これは乳母が当時赤子のお針子を連れて逃げる朝に、泉に沈んでいるのを偶然見つけたものだと。だから王家とはなんら縁はないはず。
ロザリオ、神への信仰の象徴。
いまでこそ共和国では信仰の自由は認められているが、かつて教会は王国と同然の敵だとして、クロスや肖像を持っているものは火あぶりにされたとか。お針子は別に神など信じてはいない。
だが、このロザリオだけは手放せなかった。
林から出、街道を歩き旧王都、共和国首都の自宅へと帰る。さっき胸を満たした、不思議な感覚はなんだったのだろう。
生のままの愛と呼べるもの、誠実な祈りと祝福、人から人への――神なんかではない。まるでおとぎ話に聞く妖精がささやいたかのような――馬鹿な、埒もない。
……帰路、偶然泉の傍らで幼い女の子を見かけた。母がロザリオを拾ったとされる泉で。
ほんの十歳くらいだろうか、声を出さず、泣いている少女。着ている簡素な布の衣服は、もとは白かったのだろうが、夕暮れでもわかるくらい灰色に汚れている。
ふだんはそんなことしないはずなのに、お針子はなぜかその子に語りかけていた。
「どうしたの、きみ」
少女は戸惑ったように答えた。
「おまえなんかいない、いなくていいって言われたの。わたしどうすればいいの? わたしなにもわからない」
「きみ、名前は?」
「わからない……」
「じゃあ、どこに住んでいたの」
「なにも知らないの、わたし」
「きみにそんな仕打ちしたの、お母さん、お父さん?」
「ちがう。知らないひとなの。旅商人のおじさんなの」
「知らないおじさんか。なにか手がかりはないかしら」
「おじさん、その首飾りつけていたの。自分では神なんて信じない、なんていっていたのに。それを泉に投げ捨てたの」
? ありえない。商人のおじさんどころか、この少女が生まれるずっと前から、ロザリオは乳母が持っていたはずだ。それとも同じ型のものだろうか。
「そのひと、どうしたの」
「妖精なんていないっていっていた。わたしが護るって決めていたひとだったのに。それを思うたび、胸が苦しくなるの」
「守る? 知らないおじさんじゃなかったの」
「わからない。でもわたしにとって、大切なひとなの。きっと彼、妖精なの。だからもう、気に溶けてしまったわ」
妖精……さっきこころに触れた存在は、それだったのだろうか。証拠はなにもないのに、なぜかお針子は確信していた。
だから――冬の寒さに震えるこの子は、決して見放すことはできない――お針子は微笑みかけていた。
「わかったわ、わたしの家へいらっしゃい。あなたが元気でいてくれれば、妖精はきっと、どこかで微笑んでくれるわ」
少女は思いもかけない、という素振りでお針子の目を覗き込んだ。
「いいの? わたしなにも知らない、なにもできないのに……」
潤んだ切なげな視線。その瞳にお針子は家族が欲しかったのだ、という事実を改めて感じる。
この子はよくある浮浪児とは違い、すれたところがない。よほど厳格に、それともよほど愛情に包まれて育ったのだろう。なのに過酷な環境に置かれ、孤独の中信じられるひとを待っていたのか。
「子どもはもっと甘えるものよ。裁縫に読み書き、教えてあげるから。それにあなたに物語を語ってあげるわ」
お針子は少女のかじかんだ手を取った。少女はおずおずと、握り返してくる。それから二人して歩き、お針子の自宅へと戻った。
居間の暖炉の火を灯す。たちまち全身に、くすぐるような温かさが染み込んでくる。
少女はもう、泣いてはいない。炎に照らされる顔がほころんだ。それに、お針子もつられて笑う。
自分はもう、ひとりではないんだ。いままでなにを恐れていたのだろう。誰しもひとはひとりで生きているわけではないのに。
いつになくうきうきと、手早く作った心ばかりの晩餐。
温かい穀物の煮物と川魚入りの野菜スープを前に、少女は明るい声で、楽しげに歌っていた。
「きみの瞳で見つけよう きみの瞳で見つめよう ♪
いまにできること 明日にできること
いまのきみから始めよう いまのきみから続けよう
きみができること きみにできること ♪
きみが笑ってくれるから わたし幸せでいられるの
みんな優しいひとだから 世界はきっと動いてる ♪
きみにきっとできるから いま一歩を踏み出そう」
童謡だが、お針子は聞いたことがなかった。どこで覚えた歌だろう、この子が自分で作ったのかもしれない。
自分は幸せだ。この少女よりずっと長く、母が生きていてくれて。何にもない身を愛してくれる人がそばにいてくれて。
ロザリオを壊そう。散りばめられた宝石と銀を切り売りすれば、この子ひとり養うくらいできるはず。
神は――ほんとうにいたとして――そんなこと、冒涜とみなさないだろうから。
それから……まだ、遅くはない。彼に逢いに行こう。