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妖精伝奇  作者: 酒のつまみにあたりまえ
妖精はどこに
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6 妖精の憐れみ

 司教はふと思った。自分が『狭間』の番人をして、何十年が過ぎたろう、と。狭間。天界と地上の――生と死の――門といえる場所に。

 

 かつて――解放戦争に――恐ろしい罪を犯した司教には死は許されない。罪を償いきるまでここに留まらなければならないのだ。

 

 司教は本来の意味で、『生きて』すらいない。ただここに在り、この地に生まれ死に行くひとびとを見守るだけ。

 神に仕える司教の身……。名ばかりは、王国の国王に次ぐ権力をもてあます地位。

 いまにして思えば、歪んだ独善家で、盲信者だった。貧しい民衆から搾りとった税で着飾り、飢えることを知らず、汗水垂らして働くことなど一度としてなく、豪奢な教会で見た目だけ体裁を取り繕っていた。

 信仰心は忘れなかったが、神に背いた。王国に反抗した民衆を、みな処刑したのだ。それも、あろうことか神の名の下で。

 

 それが契機となり、反乱が起き王国は滅んだ。大惨事だった。幾万の兵士が民衆が犠牲となっただろう。司教はそのときからここにいる。生きることも死ぬこともできず。

 

 苦しい。この任務の永遠の無聊が、形のない苦痛となって司教を苛む。成長することもなく、老いることもなく。だが喜びはない。哀しみすら忘れそうになる。慰みに一欠の痛みすら欲していた。

 

 心に訴える。代われるものなら――もしわたし以上に罪を犯したものがいるなら――この役割を引き継いでもらいたい。わたしはもう憩いたい。

 司教にはわかっていた。自分を縛っているのは、神ではなく自分なのだと。いつか司教は自分に科した鎖を外せるのだろうか。

 

 ある長い晩秋の夜、その男はやってきた。幾たびもの人殺しと盗みの罪で、絞首刑となった若い男の魂。

 男は戦災孤児だった。いちおう孤児院に入っていたが、打ち解けないうえ満足な衣食とれずしかも虐待盗難頻発する荒れた院内の環境に耐えきれず、脱走していた。以来学ぶ機会もなく、読み書きもできない。

 まっとうに生きようにも、働き先もなかった。身元も知れないかれを雇ってくれる場所はない。

「ここはどこだ?」

 横柄に言い放つ男に、司教は静かに告げた。

「いわば、門ですよ。生と死の境界」

「は、馬鹿らしい。あんたは死神か」

「あなたは夢を見ているのです。安らかな涅槃に辿りつくまでの」

「涅槃? 俺は地獄行きだろうよ。この世界はすべて地獄でできている。呪われて、腐りきっている」

「あなたは恐れてはいないのですね」

「どうせ地獄に落ちたって、そこって俺の放り込まれた監獄より広いですか? ってなもんだ」

 

 いつかの青年の声を思い出す。

(黙って飢え死にするか、刃向って殺されるかなんて。どういう選択なんです?)

 あの青年はまっとうに生きた。両親から愛情を持って育まれ、友に恵まれ社会的に成功するまでに成長してきたから。社会に貢献し、社会から名声と信頼をかちえた。だが、今回の男は……

 この男にとって、物心ついたときから、世界は敵だったのだろう。かれが世界に背く以前に、世界はかれに背いた。それが当たり前なのだから、かれはそれを自覚してさえいない。盗み食す以外に、殺し奪う以外に生きる道はなかった。憐れな魂よ。

 司教は悟った。この男の罪は、司教の背負ったそれに比べたら、微々たるものだと。この男が孤児になったのだって、司教が引き起こした戦乱だ――いずれ誰かが番人の任を継いでくれるかもなどと、思い上がりも甚だしかった――

 

 だから。司教の言葉は決まっていた。

「あなたは弱者は狙わなかった。徒党を組み少数を一方的に虐げることもしていない。ずっとひとりで生きてきたのなら、道を外れるのはやむないことです」

「俺が罪を犯していないとでもいうのか? 何度も金持ちの屋敷に押し入り、殺しては奪いを繰り返していたこの俺が?」

 男は皮肉に嘲笑っていた。自嘲の笑いを。

「それも済んだことです。あなたの抱える苦痛は、もうあなたのものではありません」

「苦痛? それは常に俺と共にあった。俺の旧友みたいなものだ! 決して忘れられるものか!」

 この男は自身の罪を自覚している。一片の反省の言葉なくとも、法廷の場で延命を乞いすらしていない。それどころか、かれが犯したのではない別の多数の事件まで、強引に罪を着せられたのに反論もしない。懺悔は果たされた。

 

 男は決して良心を持たぬ悪魔などではない。ひとを殺すたび、心に痛みを抱えてきたのだろう。ものを奪うたび、その心を擦り減らせてきたのだろう。心餓えるだけ渇くだけ、穴開き凍えるだけ。

 ひとたび誤れば転げ落ちるしかない、人の世の愚かしい悪循環。結局だれもかれを救うことはできなかった。死するまで。

 この男は贖罪を済ませたのだ。もう、休ませなくては。

 

「わたしはここに残ります。亡霊としてでもいい、この世界を見守りたいのです。あなたはお行きなさい、すべての罪は、永遠の忘却の中に消え去ることでしょう」

「そういうことか」男は悔しげにいった。「俺は永遠の虚無、もっとも恐ろしいとされる地獄に落ちるってわけだ」

「いいえ」司教はそっという。「現世のしがらみをすべて忘れ、穏やかに眠れる場所なのですよ」

「そんなこと信じない」男は吐き捨てるように呪詛を唱えた。「神なんてものは、この世で最低の卑怯者で裏切り者だ。すべてが平等だとか救われるとか、外面だけの大嘘吐きだ。俺は悪魔なら信じるね。捕まるまでは俺を生き長らえさせてくれた」

 悲しいかな、話にならない……。

 

 生前、かれの目にしてきたものはすべて暗い見通せぬ闇だったのだ。かれの手につかんできたのはすべて冷たい砕ける氷だったのだ。それに比べれば、司教は幸せだった。

 死後の世界のことなど、司教にもわからない。だが司教は願っていた――生まれ変わり、というものがほんとうに存在するのならば――このものには何度でも生まれてきて欲しいと。

 この闇に包まれた魂に、喜びと祝福を与えてもらいたいと。そうであれば……男の人生は違ったはずなのだ。

 司教は、男の魂が気に溶けていくのを成す術なく見守った。

 心に誓う……わたしはまだ、ここに残ります。意味も目的もないまま、誰にもなにも施せないままでもここに留まります。

 神よ――もし我が内に、まだあなたがいるのなら――この男に光を一滴、授けて頂きたいのです。


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― 新着の感想 ―
 今回の盗賊の青年ですが、社会的な罪はあれど単に環境に適応した結果なわけで、それもまたやむを得ないというものでしょうね。  ただ、本当に正しく対応するのなら、彼も革命に参加するべきであったのではないで…
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