森の中の家②
時刻はいつごろだろう、天気は澄み渡るような快晴だ。
雲ひとつない空を覆い隠すような深い森の中にある我が家だけど、少なくとも二階にあるテラスは日当たりが良くて洗濯物もよく干せる。
毎日着ている血と脂が香るマントも、今はぶらんとハンガーに吊るされている。何度も洗濯をしても落ちない鮮やかな赤と血の匂い。まるで毎日新鮮な血でも被っているのではと思うほどに濃い血の匂い。……最近、実はこれ呪われているのではと小さな疑問を感じずにはいられない。
まあ、気にならない私がそんな事を考えても詮無い事だと思う。仮に人に貸したりするのならばまだしも、個人用の道具だ。どんな匂いで色だろうとも着心地以上の価値はない。
「赤ずきん、ぼうっとしてるけどどうしたの?」
突然、真上から声が聞こえてくる。どうやら屋根の上にいるらしい。ミシミシと音を立てるようなことはないが、やはり少しばかり気にならない訳でもない。普通に考えれば、この巨大質量狼が乗れば屋根の板をぶち抜いて落ちる可能性を考えずにはいられないと思う。
その場合私達は家なき子だ。安定供給される食事も、真昼に干してふかふかの布団も、雨風凌げる屋根さえも全部なくして生活したいかと言われれば全力でノーだ。彼がいる以上サバイバルが出来ないとは思わないが、したいとは思わない程度には私は自分が可愛い。
そんな事をぼんやりと考えていると、屋根の上から頭だけを出した狼は子供らしい笑顔を浮かべてこちらを屋根の上へと誘ってくる。
どうせ家事仕事は終わったところだ。彼の日向ぼっこに付き合うのもたまにはいいだろう。
誰が吊るしたか分からない縄梯子に足を掛けて、私は少し戸惑いながらも上へと登っていく。初めて登ってみたが、固定されていない梯子を登るという行為は下手なバンジージャンプと比べても怖いのではないだろうか。まあ、バンジージャンプとは何かを理解していない私としてはどう違うのかすらもわからないのだけど。
どうにかこうにか登った私を待っていたのは、屋根で敷物のようにぐでーっとした狼だった。此処だけ見ると最早犬のようだ。あたたかぁーいとほのぼのバリトンボイスでのほほんとしているのは最早ギャグのようにも見える。
「日向ぼっこは楽しい?」
「楽しいよりもきもちいいかなぁ。それよりも赤ずきんはやらないの?」
「うん、私寝転がるよりも座ってるほうが好きだから」
寝転がるのは無防備がすぎる。ひと目がなくとも、周囲に視線を感じるときはなるべくそういうのはしたくない。
なにせ、──なにせあちらの木の上の猿なんぞ、小石を弾けば百発百中の腕前だ。化物の筋力で撃ち出す小石の速度も馬鹿にならない。
普段は彼をシールド代わりにしているがこうも無防備に寝転がられるとシールドにしようにも難しい。百獣の王よりもおっかないからなのか、彼はどうにも危機感と呼ばれる感覚が麻痺している気がする。まあ、強者の余裕と格好良く言えなくもないか。
そんなわけで私の日向ぼっこは座って読書でもするとしよう。中身は有名な物語を一捻り半の悪意を混ぜたような奇妙な作品だ。
題名はそのままで「赤ずきん」けれど内容は腐っている。それはまるで白雪姫のリンゴのようだ。甘い香りと美味しい見た目、けれど中身は悪意の蜜入り。……これを考えた作者はよほど蜜の味が好きに違いない。
内容は至って簡単だ。何故って途中までは完璧に赤ずきんだから。
問題はその途中、改変が行われるその場所だ。事件の現場はおばあさんの家で、問題は狼がいないこと。
おばあさんを食べているのは小さくて可愛らしい女の子。──そう、赤ずきんだ。そして食べられたおばあさんのフリをした赤ずきんは、猟師に撃たれることもなく、狼に食べられることもなく、ああ美味しいとケーキをぺろりと平らげて、ぶどう酒で手を洗って頭巾を捨てていった。
残されたのは血みどろの頭巾と、全部奪われたおばあさんの家一つ。そして家に戻った赤ずきんは家族に囲まれて幸せにくらしましたとで終わりときている。なんとも狂っていると評価するべきか、それとも……まあ、どちらにしても作者の頭は蛆入りに違いない。実に蜜好きにふさわしい。
もう何度も読み直したこのお話はいつでも気分が悪くなるが、けれど妙に私の記憶にこびり付いて、おまけに心をざわめかせる。
まるで忘れるなとでも言うかのように、心臓の内側の柔らかい場所をヤスリで削るかのような不快感が脳を蕩けさせる。
これが何かは分からないし、この感情にどのような名前をつければいいのかも今の私は判断すらできない。けれど、これが少なくとも好ましいものではない事くらいは理解は出来ているつもりだ。
もやもやとする胸元に手を当てる。小さく続く鼓動の音。けれどまるで芯の部分だけが凍っているかのように冷たい。
思わず、というよりも無意識に狼の背を撫でていた。柔らかな感触に温かな身体、それはまるで暖を取ろうと火に手をかざすかのような、そんな行動に似たものだったのかもしれない。
私と彼は同居人だ。普段は私が暖を与えているのだから、たまには与えられてもいいだろう。
すこし気の抜けた私はちいさく口の中だけで笑って、前言撤回と狼の腹へと頭をおいてリラックスして寝転がる。どうも先程から感じていた猿の視界も切れたようんだし、今はこの狼の温かさを存分に堪能するとしよう。
狼の呼吸に合わせて膨らみ縮むその様はなんだか生きている実感を与えてくれる。手のひらから、頬から感じるこの温かさは火ではけして得られない、そういう大切な温かさだと心が望んでいる。
────あったかい。
ぼんやりと、空を見た。時刻はいつごろだろう、天気は染み入る程の快晴だ。
このままのんびりと一日を過ごすのも、たまにはあってもいいのかもしれない。
そう思った私はうんと体を伸ばしてから靴をテラスへと放り投げる。自由になった足先を抱えるように丸くなった私は狼を枕にゆったりと眠るように休むことにした。毎日が休日のようだけど、今日は休日の中の、休日ということで。
………そう言えば、森の向こう側に輝く塔のような物があったがアレはなんだろうか。
まあ、それは明日彼にでも聞いてみるとしよう。今はなんだか疲れているのでゆっくりと、こっくりと。
おやすみなさい。