第13話 虚像の女神
「黒……さわくん……」
東野青葉は青ざめた表情で、目の前で自分の生徒が他の生徒たちに喰われる光景をただ見つめるしかなかった。
彼女の担当は英語で、この化学実験室に来る機会はそうはなかったが、それでもこの教室の後ろ側に化学実験準備室に続く扉がある事ぐらいは知っていたはずだった。それなのに、つい先ほどまで彼女は化学実験準備室そのものの存在を忘れていた――いや、正確には認識できていなかったのだ。
「これは……化学実験準備室とゾンビさんたちに認識遮断の魔法をかけて、向こうの部屋にゾンビさんたちを隠していたのですね……。結界魔法の中でも難度の高い認識遮断の魔法を二つ以上同時に展開するだなんて……結界魔法のスペシャリストであるジングルベールさんレベルでの魔力コントロール力がなければできない芸当です……」
青葉にはシャルエッテのつぶやく言葉の意味は理解できていなかったが、その絶望的な表情から、彼女でもこの状況をどうにかできないのだけはわかってしまう。
「……くっ……!」
青葉は目の前のゾンビとなった生徒たちを四郎から払おうと、モップを両手に構える。――しかし、彼らも馬金に操られているだけであって、この学校の生徒である事に変わりはない。たとえゾンビのようになってしまおうと、彼女に生徒たちを傷つけるような事はできなかった。
「……馬金先生! あなたの言う通り、私はあなたに従います。ですから……どうか生徒たちだけでも、元に戻してあげてくださいっ!」
青葉は馬金に頭を下げながら、生徒たちの解放を彼に懇願する。そんな彼女の必死な願いを聞き、馬金は感動で身体を打ち震わせた。
「素晴らしい……貴方は本当に女神のような女性だ……! この状況においてなお、自分より生徒たちを心配する優しさがあるだなんて……やはり、自分の目に狂いはなかった……!!」
あまりにも感動的であったのか、馬金は両腕を上げて目一杯に雄叫びをあげた。
「自分はこれまでの人生で、ほぼ全ての人間に見下されてきました……! 同級生、教師、不良、ギャル、同じ学会の教授たち。そして、この学校の野蛮な生徒たち……老若男女問わず、自分と関わってきた人間たちはもちろん、道ゆく知らない誰かにさえ笑われ、蔑まれる日々を過ごしてきた……! そんな不合理な日常の中で、東野先生――貴方だけが常に自分に対しても笑顔を絶やす事がなかった。貴方だけが、自分を普通の人間のように扱い、優しく接してくれた……」
「それは……」
「貴方だけが……野蛮な人間が多いこの世界の中でも、常に誰かのために優しくあってくれた。まさに女神――そう、貴方こそ! 自分にとっての最高の女神なのですっ!」
まるでエセ宗教で教えを説く信者のように、およそ理解から遠い言葉で彼は演説をする。
たしかに青葉は、同僚である教師たちに忌避されがちな馬金にも他の教師と変わらないように接してきたが、それはあくまで彼女が良くも悪くも彼を特別視していなかっただけの話であって、他の教師たち以上の感情など、彼には抱いた事もなかった。
彼がこの騒動の元凶であったと知った時には、その凶行に本気で彼女は悲しんだ。だがそれはあくまで同僚の教師としてであって、他の教師が同じ事をしようとも、同様に彼女はその行いを嘆いていたであろう。
「……貴方のような女神の願いならば、それはとても尊いもの。貴方に思われ、この学校の生徒たちは皆幸せなことでしょう……」
「っ――⁉︎ それじゃあ――」
「――ですが、それとこれとは話が別です。たとえ女神である貴方でも、生徒たちをゾンビから元に戻すという願いは聞き入れられません」
ピシャリと、彼は女神の願いをあっさりと跳ね除けてしまう。そんな彼の残酷さに、青葉をもう言葉を失うしかなかった。
「この世界を我が物とするためには、一人でも多くの戦力が必要になるのです。それに、この学校の生徒であろうと贔屓するのは差別を助長します。ゾンビの扱いはあくまで平等に。ああ、素晴らしい……この世界の野蛮な人間たちが皆ゾンビになれば、貧富の差も地位も人種差別もない、真なる平等で平和な世の中が来るのですっ! ぐふふ……もしかして、自分ってこの世界の救世主だったのでは?」
一人勝手に舞い上がる馬金は、もう青葉にとっては知らない言語を話す誰かにしか思えなくなった。
「そうだ! ゾンビ化を解除はしませんが、かわりにお気に入りであろう黒澤四郎は、あなたのペットにでもする事を許可しましょう。黒澤四郎のような不良生徒はただのゴミです。生きている価値などありません。そんなただのゴミである野蛮人どもが、ゾンビとなって自分に貢献できるようになるのだから、これはむしろ彼らを真人間にするための救済とも言えます。素晴らしいとは思いませんか⁉︎ 生きる価値のないただの野蛮人が、優秀な戦力に生まれ変われるのですから!!」
人を人とも思わないようなその言葉は、青葉にとってはあまりにも聞きたくなかった、悪辣で下衆な言葉であった。それを聞いた瞬間、プツン――っと、彼女の中で何かが切れるような音がした。
「……人が下手に出てりゃ、調子に乗りやがって……あんま舐めた態度取ってると、その舌引っこ抜くぞゴラァッ!!」
瞬間――まるで人が変わったように、常に優しさをにじませていた青葉の瞳が、鬼のごとき鋭さを帯びて馬金を睨みつけた。
「ひっ――⁉︎」
その唐突であまりの変わりように、先ほどまで興奮状態だった馬金の表情が一気に青ざめる。
「さっきから聞いてりゃ、やれ自分が不幸だの、世の中が不公平だの……テメェがこれまでどれだけつらい思いをしたのかは知らねえけどな、ひどい目にあっても何も改善してこなかったのはただの自業自得だろうが⁉︎ 自分自身が変わろうとしないくせに、世界はテメェの思い通りに変えようだ? テメェ歳いくつだよ? いい歳こいて、ガキみてぇな甘ったれたこと抜かしてんじゃねえぞゴラ⁉︎」
「だっ、だっ、だっ、誰ですかアナタは⁉︎」
馬金がそう戸惑うのも無理はなかった。目の前でモップ片手に仁王立ちする青葉の姿は、朗らかな雰囲気漂う普段の彼女からは想像できないほどに、あまりにも別人の様相を纏っていたのだ。
「あと、不良が生きる価値のないゴミとも抜かしたな? ……あたしだって教師だ。不良生徒たちの悪行を肯定するつもりはねえ。だかな……その不良生徒たちの存在を否定せず、更生させるのがあたしたち教師の役目だろうが⁉︎ ゾンビに変えて無理やり人間をやめさせるんじゃなく、生徒たちと向き合って、彼らの行いを正すのが教師のやるべき事だろうが! なのに……なんでテメェは同じ教師なのに、平気な顔してこうやって生徒たちを傷つける事ができるんだよ、あ⁉︎」
青葉の怒りによる罵倒のマシンガンは止まらない。その凄まじいまでの言葉による圧に、馬金は先ほどのような感動からではなく、恐怖で身体を震わせていた。
「わかったら、さっさとこの学校にいるゾンビたちをみんな元に戻せ! じゃねえと、モップでテメェの脳天ぶち割るぞ、ゴラァ⁉︎」
「カ、カッコいいです……」
その迫力と有無を言わさぬ啖呵に、近くで見ていたシャルエッテは見惚れてしまっていた。
「…………あっ、ごめんなさい⁉︎ 私ったら、ついブチギレて昔みたいに戻っちゃいました。うぅ……こうならないために、常に心を穏やかにを心がけていたのにぃ……」
いつものおとなしめな雰囲気に戻った青葉のテンションの高低差に、シャルエッテも馬金もついていけずにただ唖然となってしまっていた。
「……コホン。それはともかく馬金先生、再度お願いします! この学校にいるみんなをゾンビから元に戻してあげてください。……あなたにまだ人の心が――いえ、教師としての矜持がまだ残っているのなら、こんなやり方じゃなく、真摯な心で生徒たちと向き合ってくださ――」
「――――萎えた」
ただ一言、馬金は感情をなくした声でそう吐き捨てた。
「いやー、ないっすわー。東野先生のことはずっと女神だと思っていたのに、そこらの野蛮人と同じような本性を隠し持っていたなんて……ギャップ萌えとか、そういう次元じゃないんですよ? そういうキャラ、東野先生には求めていなかったんで」
またしてもよくわからない言語を喋り始めた馬金に、青葉は再度戸惑うことしかできなかった。
「はああああぁぁぁぁ…………東野先生なら、自分とともに新しい世界を歩んでいけると期待していたのですがねぇ……まあいいや。ゾンビたち、彼女も仲間にしてあげなさい」
馬金がそう命令すると、諏方を襲っていたゾンビたちの一部が立ち上がって、青葉の方へとゆっくり近づいてゆく。
「うっ……みんな……」
青葉はモップを構えるも、やはりそれを生徒たちへと振りかざす事はできなかった。柄の部分をゾンビたちに向けたまま、ゆっくりと後退していく。それもすぐ、教室の扉を背にする形となって、それ以上進むことができなくなってしまった。
「先生! ここはわたしが食い止めます! 先生だけでも、この学校から逃げてください!」
青葉の目の前に、シャルエッテがローブをひるがえしながら割りこんだ。両手に複雑な装飾の杖を握りしめ、それをゾンビたちへと彼女は向ける。
「ダメよ! 教師である私が、生徒を放って逃げるわけにはいかないわ! それに……あの中には黒澤くんが……」
未だゾンビたちにのしかけられ、彼の姿はまだ見えなかった。だがあの様子では、彼もすでに他の生徒たちと同じようにゾンビとなってしまっている事だろう。
「わたしも……スガタさんを放っておくわけにはいかないのです。ですが……先生は魔法使いと関係のないただの一般人。せめて、先生だけでもここから逃さなくては――」
「――おっと、誰が逃すと思っていたかね?」
馬金がパチンと指を鳴らすと、扉の向こう側から唸り声が聞こえてきた。おそらく、廊下の方でさ迷っていたであろう他のゾンビたちが、馬金に呼ばれてこの教室にまで近づいてきているのであろう。
シャルエッテと青葉は、ゾンビたちに挟み撃ちされる形となってしまった。
「…………お願い、助けて……兄さん……諏方お兄ちゃん……!」
――思い浮かべるは、幼い青葉を守ってくれた二人の『兄』。本来ならば叶うはずのない願い。それでも――また同じように助けに来てくれる事を願わずにはいられなかった。
「無駄ですよ! もうすでに、この学校はゾンビたちによって占拠された! そして、これは映画ではなく現実! あなたたちを助ける都合のいいヒーローなんて、どこにもいやしな――」
「――――知るかぁああああああっ!!」
雄叫びとともに、集団でのしかかっていたゾンビたちが一斉に吹っ飛ばされた。その中心には、銀髪の少年が腕を振り上げた格好のまま立ち上がっていたのだった。
「黒澤くん⁉︎」
「スガタさんっ!!」
シャルエッテと青葉が、驚きと歓喜が入り混じった声で彼の名を呼んだ。
「黒澤くん……ゾンビにはなっていないの?」
声をかけられると諏方はキョトンとした表情で、噛み跡だらけの自分の全身を見回した。
「あちこち全力で噛まれたからさすがに身体中痛えっスけど、とりあえずゾンビみたいにあーあー言わなきゃいけないって事もなさそうっスよ?」
あっけらかんとした口調ではあったが、それが逆に彼女たちを安心させるのであった。
「ばっ、馬鹿な……ど、ど、ど、どうして……ゾ、ゾ、ゾ、ゾンビたちに襲われたのに、な、な、な、なんで貴様はゾンビ化し、し、し、してないんだ……⁉︎」
一方の馬金は予想しえなかった事態に慌て、いつものたどたどしい口調に戻りながら彼に問いただす。
諏方はどう答えようかと少し考えた後、前髪をかき上げ、馬金を睨みながら堂々とした声で言い放つ。
「――――気合いッ!!」




