第11話 隠れ潜みし者
ゾンビあふれる一階の廊下にある女子トイレに、俺とシャルエッテの二人で入室する。入室後はすぐに中を進まず、扉を背にして廊下側の様子を探る。
「ウウウ……アッ、アッ、アッッ……」
外からうなり声は聞こえるも、ゾンビたちがここに近づいてくる気配は感じられなかった。
やはりなぜだかはわからないが、ゾンビはこの女子トイレを意図的に避けているようだった。ゾンビ状態の思考能力ではドアノブを回せないというのはあるかもしれないが、それにしても俺たちがここに入室しているのを確認しているのに、彼らがこの女子トイレに一切近づかないというのは彼らの行動原理としてあまりにも不自然だった。
ーーっと、考えたところで結論が出るわけでもない。この女子トイレの先へ進めば、自ずと答えも見えてくるかもしれない。
改めて、女子トイレの内装を確認する。とはいっても、男子トイレとの違いは小便器があるかないかだけで、あとはタイル張りの壁と個室が三つほどあるのみ。意外にも、女の子が好きそうなファンシーな雰囲気は特に見受けられなかった。
……別にガッカリというほどでもないのだが、男子たるもの、やはり女子トイレというのはある種の聖域のようなものであり、こうも男子トイレと変わり映えないものを目にしてしまうと、少しだけ残念という気持ちもわいてしまう。
しかし……実年齢にして四十になる人生の中で、こうして女子トイレに入る日が来るとは思わなかった。緊急事態ゆえ仕方のない事ではあるのだがーーっと、誰かに向けたわけではないが心の中で言い訳をしておく。
ともかく今は、ゾンビたちから逃れてこの中にいるであろう誰かを救出するのが先決だ。
だがーーこの先にいる人物が敵ではないという保証はどこにもない。
シャルエッテの推測通りなら、今回の騒動を引き起こした人物は少なくとも二人存在する事になる。元凶となった人間と、その人間に手を貸した魔法使い。その二人のどちらかとゾンビたちの魔力が繋がっていたとして、もう片方も魔力が繋がっているとは限らないのだ。
この先にいる誰かは十中八九人間だとは思われる。もし魔法使いなのだとしたら、シャルエッテがその魔力とやらに気づけていないとは思えないのだ。
……どちらにしろ、相手が敵であってもすぐに反撃できるように、最大限に警戒心を強めておく。
「……シャルエッテ、この女子トイレにいるその誰か、今どこに隠れているかわかるか?」
そう尋ねると、彼女は杖を握りしめて瞳を閉じ、おそらくこの女子トイレ内での魔力探知に集中する。
「……っ! 一番奥側、三番目の個室から微小な魔力を感知しました……!」
俺は言われた通り、奥側三番目の個室に視線を集中させる。シャルエッテの魔力探知のように正確ではないが、たしかにあの個室からわずかながら人の気配を感じ取れた。
「よし、慎重に行くぞ……」
俺は足音を立てないよう、三番目の個室へと向けてそっと足を踏み出した。
三番目のトイレといえば、やはり有名な『トイレの花子さん』を思い出す。俺がガキの頃は女子たちが噂しては怖がるという光景をよく見られたものだが、現代の若い子たちにもこの手の怪談話で盛り上がる事はあるのだろうか?
などと閑話休題を挟みつつ、俺は三番目の個室の前にまでたどり着く。
扉に近づいたことで、その向こうに何者かが息を潜めている気配をより濃く感じ取れた。……向こうも、すでに誰かが扉の前まで来ていることには気づいているだろう。
俺は小さく息を吐き出し、心を引き締めて扉を軽くノックした。
「えいっ!!」
「ーーっ⁉︎」
瞬間ーー扉が開くと同時に細長い何かが俺の頭上目がけて振り下ろされる。
最大限にまで警戒心を高めていた俺は、軽い動作でそれをかわす。同時に、こちらに攻撃した何者かの顔をすぐさま確認する。
振り下ろされたのはトイレの清掃などに使う柄の長いモップ。それを握りしめていた人物はーー、
「ーー東野先生⁉︎」
名を呼ばれ、東野先生はハッとした表情でモップを振り下ろした体制のまま俺を見上げた。
「く、黒澤くん⁉︎ どうしてここに……?」
混乱した表情を見せる東野先生。彼女の綺麗な青髪は、汗に濡れて少しばかり乱れていた。
「先生こそ、どうしてこんなところに?」
彼女はすぐには質問に答えず、警戒心を宿した瞳で俺の顔をまじまじと見つめる。
「ゾンビ……にはなっていないのよね?」
なるほど。彼女の様子からして、予想していた通りゾンビとなった生徒や先生たちから逃げてここに隠れていたのだろう。誰か確認せずにモップを振り下ろしたのも、彼女の精神が極限状態で冷静になれていないのなら仕方のない事だ。
「……落ち着いてください、先生。俺は真っ当な、東野先生の生徒ですよ」
彼女を安心させるため、俺は優しめの口調で彼女の問いに答える。俺がゾンビでないことを確認すると、彼女はようやくホッと息をつけた。
「よかった……私以外にも、ちゃんと無事な人がいてくれてたのね。黒澤くんと……それにシャルエッテさんも無事だったのねーーって、どうしたのその格好?」
「ふえ?」
ああ……俺からしたら、シャルエッテのローブ姿はすっかり見慣れたもんだったが、一般的にはおよそ見る事のない格好だものな。普段は制服を着ているこの学校の生徒ならば、その違和感はなおさらだろう。
東野先生ーー青葉のシャルエッテへと向ける瞳に、わずかに疑念の影が差しこむ。
「こっ、これは……」
当然、一般人である青葉にシャルエッテが魔法使いだというのをバレるわけにはいかないだろう。彼女はなんとかごまかせないかと必死に考えた結果ーー、
「こ、コ、コスプレですっ!」
「この非常事態で⁉︎」
ーーっと、まあなんともツッコミどころのあるごまかし方になってしまったのだった。
「あー……先生、言う通り今は非常事態ですし、彼女の格好についてはとりあえず気にしないでやってください」
ここでグダグダしていてもしょうがないので、ひとまずはこのやり取りを無理やりにでも断ち切る。あとでまた彼女の格好について訊かれたら、その時なんとごまかすか考えておこう……。
「……そうよ。他に無事な生徒たちがいるのに、こんな所に隠れている場合じゃないわ。二人だけでも逃してあげなくちゃ……」
まあ……生徒優先の教師ならそういう考え方になるよな。まだ幼かった頃の青葉を知っている分、彼女の成長に涙が出そうになる。
だが、もちろん俺とシャルエッテだけで逃げるわけにはいかない。そもそも、この学校に結界が張られている以上、安易に外へと向かうのは逆に危険だ。
ならば、なぜかゾンビたちが近づかないこの女子トイレの中に、引き続き先生に隠れてもらうのが一番安全ではあるだろう。
だがそもそも……なぜゾンビたちがここに入りたがらないかの理由がわからない以上、ここが絶対に安全であるという保証なんてどこにもない。それに、自分以外に無事である人間がいるのがわかってしまった先生が、俺たちを放ってここでおとなしく隠れてくれるとも思えなかった。
ーー考える。今取るべき最善の選択。
時間に余裕はない。今は被害が学校内に留まっているかもしれないが、いずれゾンビたちが外に流出すれば、町の方にも被害が広まってしまう。そうなる前に、この騒動のケリをつけなければ……。
「……シャルエッテ、黒幕の居場所はここからあとどれぐらいだ?」
シャルエッテに尋ねると、彼女は一度扉の向こう側へと視線を移した。
「魔力の濃度から計算して、もうそれほど距離はないと思われます。ゾンビさんたちの密度にもよりますが、彼らを退けながらでも一分もあれば到着はできるかと」
……この先になんの部屋があったかは覚えていないが、ともすれば選ぶべき選択肢は俺の中で一つとなった。
「先生……今は何も言わず、俺たちについてきてくれねえか?」
女子トイレに入る前の当初の予定通りであった俺の提案に、案の定青葉は驚きで目を丸くした。
「……今俺たちは、この騒動を起こした奴を止めるためにそいつの元に向かってるんだ。そいつを倒せば、もしかしたらゾンビになったみんなを元に戻せるかもしれねえ」
俺はなんとか青葉をここから連れ出し、共に行動するために彼女を説得する。
女子トイレに隠れていても、必ず安全であるという保証はない。ならば、彼女を護衛しながら連れて行った方が安全であると俺は判断した。
もちろん、彼女を死地に直接連れて行くような無謀な選択だとも言える。だが、少なくとも目の届く範囲にいれば彼女を守ることはできるし、命を懸けてでも彼女を傷つけさせはしない。
ここから黒幕の居所まではもうそれほど遠くはない。黒幕が何者かはまだわからないが、それも含めてゾンビからもまとめて青葉を守ってみせる。
だがーー、
「なっ……ダメに決まってるでしょ! あなたたちは私の生徒で、まだ子供なのよ! 自分の生徒が危険な場所に行こうとしているのを、教師として許可するわけにはいきません……!」
……そりゃそうだよな。逆の立場だったとしても、同じように反対していただろう。
だが、今は一刻を争う状態。ここで青葉と押し問答をしている時間はない。
しかし、論理的に彼女を説得する言葉はすぐには思いつかない。だからーー、
「ーー俺を信じてくれ、先生」
……情けない話だが、今は彼女の情に訴えるしか方法が思いつかなかった。
先生の生徒を思う気持ちはもちろんわかる。俺たちがここを出ようとすれば、彼女は必ず俺たちを引き止めようとするだろう。
彼女を気絶させて、女子トイレの個室に隠すこともできなくはないが、やはり女子トイレが安全である保証がないのと、何より彼女を傷つけるような行為はしたくなかったのだ。
……あとは、青葉が素直に俺の説得を聞き入れる事を願うしかなかった。
「っ……」
「……ん?」
先ほどまで俺たちを止めようと必死になっていた青葉が、なぜか呆然と俺の顔を見つめていた。
「…………どうしーーどうしてそんなにーーいるのよ……」
彼女はうつむき、何かをつぶやくが、何を言っているのかは聞き取れなかった。
「……東野先生?」
「…………」
恐るおそる先生の名を呼ぶと、彼女はゆっくりと顔を上げた。その表情にはどこか吹っ切れたような、先ほどまでの混乱していた様子が嘘のように、何かを決心をした力強さを感じられた。
「……先生には、この状況をどうすればいいかわからないし、本当はあなたたちを危険な目に遭わせたくはない。でも……黒澤諏方さんの甥であるあなたが信じろというのなら、私はそれを信じてあげたい」
彼女は背筋を伸ばし、モップをさらに強く握りしめた。
……彼女の心境にどのような変化があったのかはわからないが、とにもかくにも俺らと同行してもらえるようで、ひとまずは安心した。
「勝手に話を進めちまったけど、先生を連れて行っても大丈夫だよな?」
一応シャルエッテにも確認しておくと、彼女も笑顔でうなずいた。
「元々、ここに隠れていた方を救出しましょうと言ったのはわたしですから文句はありません。二人で先生を守りながら進みましょう!」
「ちょっと、二人とも。生徒を守るのが教師の役目なんだから、あなたたちが私を守るんじゃなくて、私があなたたちを守るんです。わかった?」
そういうと、先生はモップを槍のように軽やかに振り回す。さながら、それはアクション映画などで見られる演舞のようであった。
「これでも、武術はちょっと心得てるんだからね?」
「はは、頼もしいッス……」
青葉の家柄からして、彼女が武術を学んでいてもおかしくはないと思うが、果たしてそれが魔法使いに通じるのだろうか? まあ、素手で魔法使いと戦ってる俺が言えることでもないのだが……。
「……今さらだけどよ、もし先生に魔法のことがバレたらどうするか?」
「……その時もなんとかごまかしましょう。最悪の場合ではありますが、ウィンディーナさんに頼んで記憶消去魔法をかける方法もありますので」
俺とシャルエッテは、青葉に聞こえないように小声で耳うちする。
記憶消去魔法……なんとか、それには頼らないように注意しなければな。
ーーひとまず方針も決まったところで、そろそろ動いた方がいいだろう。
「それじゃあ引き続き案内を頼むぞ、シャルエッテ?」
「任せてください!」
「先生も、俺たちから離れないようにしっかりとついてきてくださーー先生?」
「…………」
青葉の方へと振り返ると、彼女は何かを考えているような瞳で、まっすぐ俺を見つめていた。
「黒澤くん……あなたは……」
その先を言いかけて、彼女は首を横に振って言葉を止める。
「……ううん、なんでもないの。それじゃあ、あなたたちを信じて一緒に行くけど、無茶だけはしないでね……」
俺は彼女の言葉にうなずくと、トイレの出入り口の方へと視線を向ける。
気絶させたことで、半分ほど外のゾンビは減ってはいるだろうが、それでも依然数は多いままだ。シャルエッテの言う通り、黒幕までそれほど距離はなかったとしても、決して油断しないように心を引き締める。
「それじゃあ先生、シャルエッテ……扉を開いたら、すぐにゾンビたちをかわしながら走り抜けるぞ……!」
「わかりました!」
「わかったわ……」
二人の返事を聞き届け、俺はドアノブに手をかけて勢いよく扉を開け放ったーー。




