第8話 パンデミック
「ーーおい、馬金! 俺の彼女に何をしやがった⁉︎」
化学実験室の扉を勢いよく開き、怒りで顔を赤くさせた不良五人組のリーダー格の男が部屋中を見回していた。
「落ち着いてくださいよ、リーダー。彼女さんの悪ふざけかなんかじゃないっすか?」
「抜かしたこと言ってんじゃねえぞ! 俺の彼女はバカだが、こんなふざけたメッセージを送るような女じゃねえ!」
体育の授業の後、リーダー格の男のスマホに恋人であるギャルからのメッセージが送られてきた。その文面は『助けて! 今、化学実験室で馬金に襲われてるの!』というもの。
このメッセージを目にした直後、彼は仲間を引き連れてダッシュで化学実験室に突撃したのであった。
明かりは点いておらず、カーテンも閉めきっていたために中は薄暗い。明かりを点けようにも、普段から関心のない教室の明かりのスイッチがどこにあるかなど、彼らにわかるはずもなかった。
「おい! どこにいるんだ、返事しろ⁉︎」
教室の中を呼びかけるも、返ってくる声はなし。彼の仲間の一人が冷静にカーテンを開けるために室内に踏みこむと、生徒が使う机の奥側に人影があるのを見つけた。
「おい! リーダー、あれ!」
仲間の指さす方向にリーダー格の男が目をこらすと、そこには彼に助けを呼んだ恋人であるギャルが、一人席に座っていた。頭がうつむいてるために顔は見えなかったが、特徴的なウェーブのかかった金髪は、自身の恋人だとリーダー格の男が確信づけるには十分であった。
「大丈夫か⁉︎ 馬金に何かされたのか⁉︎」
すぐさま彼女に駆け寄るリーダー格の男。だが、彼の呼びかけにギャルは反応を見せなかった。
「おい、聞こえてんのかよ? まさか、気でも失ってんのか……?」
返事のしない彼女に胸騒ぎを覚えながらも、彼は恋人に向けて手を伸ばしていく。
「……いっーー⁉︎」
ーーその腕を、ギャルは顔をうつむけたまま力強く握り返した。
「いでっ⁉︎ なっ、何をすんーー」
言葉が止まる。彼氏の腕を潰さんがごとく握っていたギャルが顔を上げると、その瞳は白目をむき、だらしなく開いた口からはよだれをダラダラと流していた。
「ウウ……アアアアア…………」
あまりも異様な恋人の変貌ぶりに、リーダー格の男は一瞬、痛みも忘れて呆然としてしまった。
その隙を突かれ、気を狂わせたギャルは大きく口を開いて、恋人の腕に噛みついたのだった。
「だッ! アアアアアッッッーーーー⁉︎ なっ、何すんだよ⁉︎」
いきなり噛みついてきた恋人の頭を振り払おうとするも、あまりの力強さに引きはがすことができなかった。
「ぐっ……クソッ!」
腕に走る激痛に何も考えられなくなったリーダー格の男は、思わず恋人の顔面を殴り飛ばしてしまった。
「アガッーー!」
まるで獣のような声をあげながら、ギャルは壁の方にまで吹っ飛ばされていく。
「はぁ……はぁ……」
そこにいた誰もが事態を飲みこめずに立ち尽くし、部屋の中はリーダー格の男の荒い吐息だけが静かに流れていく。
「お、おい……大丈夫か、リーダー?」
彼の仲間のうち一人がリーダー格の男の背中に近づき、声をかける。
「…………アッ……ガッ」
リーダー格の男が振り向くと、彼も先ほどのギャルと同じように白目をむいており、口を開けてよだれがタラタラと床にこぼれていった。
「ひっーー⁉︎」
声をかけた男がとっさに身を引こうとするも、彼にのしかかる形でリーダー格の男が飛びかかる。
「たっ、助けて⁉︎ ひぃあッーー」
倒れた男の首すじに向かって、リーダー格の男が力いっぱいにかぶりついた。
「うっ、うわあああああ⁉︎」
「バッ、バケモンだあああああ⁉︎」
残り二人の男たちは一斉に扉の方へ逃げようとする。しかし、先ほどまで鍵がかかっていなかったはずの扉がなぜか開かなかった。
「あ、開かねえ⁉︎ どうして、どうして⁉︎」
「い、嫌だ! 俺、噛まれたくないよ⁉︎」
必死に横開きの扉を引こうとしてもビクともしない。ーー混乱する彼らは気づいていなかったが、扉はなぜか紫色に淡く光っていたのだった。
「アアアア……ウウウウッッ…………」
そうこうしているうちに、彼らの背後をリーダー格の男が両腕を伸ばしながらゆっくりと近づいていく。彼だけじゃない。彼に噛みつかれた男や、殴り飛ばされたギャルも一緒になって二人に徐々に近づいてきているのだ。
「……嫌だ……まだ死にたくねえよ……」
「助けて……助けてママ……」
恐怖で全身がすくみ、その場から動けなくなってしまう二人。やがて、怪物と化した三人が彼らに覆いかぶさり、その視界も意識も闇に覆われたのであった。
〇
不良五人組たち全員が近くにいる人間を襲う怪物へとなり果ててしまい、彼らは化学実験室から解放される。彼らはすぐに昼休みで校内を歩いていた生徒たちを次々に襲い、襲われた生徒たちも彼らと同様に怪物に変わり、また近くの生徒たちを襲っていった。
その魔手はやがて教師たちにまで及び、わずか三十分で校内は阿鼻叫喚の地獄絵図と化してしまったのだった。
「素晴らしい……素晴らしい光景だ…………」
化学実験室の扉を開き、その先の景色に馬金は感動を覚えていた。
廊下を埋め尽くすのは生徒教師問わず、この学校内にいた者たちが皆白目をむき、獲物を求めるように腕を伸ばしながら行進していた。ゾンビパニック映画でよく見られた惨状が、この現実に繰り広げられていたのだ。
「……このUGウイルスを注入されたあの野蛮なギャルは理性を失い、誰かれ構わず噛みつく凶暴性を身につけた。そして、噛みつかれた者は彼女と同じく理性を失われて、また同じように他者へと襲いかかる。まさに……映画のゾンビそのものへと死に変わるのだ!」
彼は白衣のポケットから、ギャルに使ったものとは別の注射器を取り出し、中に入っているピンク色の液体を愛おしそうに眺める。
「しかも、ただのゾンビではない。この自分の意思一つで思い通りに動く、まさに自分の手足となる最高の奴隷ゾンビなのだ……! さらに、わずか三十分で校内にいる人間のほとんどをゾンビ化できた凄まじいほどの感染力……これがあれば、この世界そのものを我が物とするのも夢ではない。これこそが……これこそが、自分の追い求めた理想郷なのだ!!」
変わり果てた者たちの前で高らかに笑う馬金。その背後の窓辺で、紫髪の黒衣の女性は可愛いものを見るかのように、くすりと小さく笑った。
「フフ……実験が成功したようで何よりですわ」
相変わらず室内であっても、彼女は黒い日傘をさしたままでいた。
そんな彼女に、馬金は気まずげな表情で振り向く。
「ひ、日傘の魔女、さん……その……き、協力してくれたのは、と、とてもありがたいのだが……ア、アナタが、こ、このUGウイルスに混ぜた『白い粉』……あ、あれは一体なんだったのだ……?」
彼女の眼を見た途端、言いようのない緊張が馬金の全身を駆け抜けていく。
日傘をさした黒衣の女性は微笑んだまま右の手のひらを開くと、ほんのりと輝く白い粉が現れた。
「これは私の魔力の一部を結晶化したもの。これにとある魔法をかけて、貴方様のその液体に混ぜたものを体内に注入することで、注入された者に魔法がかかるようにしたのです」
日傘の女性の説明に、しかし馬金は頭がより混乱するばかりであった。
「魔法か……非科学的な言葉は聞くだけで頭が痛くなるものだが……いや、せっかく実験に成功したのだ。過程をくわしく調べるのはまだ先でもいいだろう。彼らをいくつか被験体にして調べれば、おのずと答えもわかるかもしれないしな」
それは化学者にあるまじき思考放棄ではあったのだが、当の馬金にとっては、今は何よりこの成功体験の方が重要であったのだろう。
「……も、もう一つお尋ねしていいかな? そ、その……ア、アナタの目的は、い、いったいなんなのだ? ……な、なぜ自分なんかに協力を、し、してくれたのだ……?」
「…………」
日傘の女性は、その質問にすぐには答えられないでいた。少し思案するようなそぶりを見せた後、彼女は再び妖艶な笑みを馬金に向ける。
「別に大した理由などありはしませんよ。たまたまこの学校に通りがかり、たまたま面白そうな事をしようとしている人を手伝ってあげた……たったそれだけのことです」
その言葉が真実か偽りか、彼女の表情からは読み取れなかった。
「……ああ、でも、強いて理由をあげるとすれば……この学校に試してみたい相手がいるーーといったところでしょうか?」
彼女の笑みから妖艶さが消え、かわりに子供のような無邪気な笑顔へと変わる。
ーーどれが彼女の本当の顔なのか、どれが真実の彼女なのか……知ろうとすれば、底なしの沼に引きずりこまれてしまいそうな錯覚を覚え、やはり馬金は彼女に対しての思考も放棄する。
ーーこの思考放棄は、あくまで彼女という未知に対しての無意識下での自己防衛であった。彼女という沼を深く潜ろうとすれば、二度と這い上がることはできないーーそれは、馬金の確信にも近い勘であった。
「……や、やはり理由はわかりかねますが、す、少なくとも、アナタのおかげで実験が成功したこと自体は真実。……ここより、自分は新たな国家を築きあげ、自分に逆らう全ての野蛮人どもを奴隷に変えてみせましょう!」
彼女に対する言いようのない恐れへのごまかしと、これからの展望への期待がないまぜになった高笑いをあげる馬金に、日傘の女性は変わらず微笑むだけであった。
ーーしかし、その瞳はすでに馬金へと向けられてはいなかった。
「さて、この状況を貴方はどう打破するのか……楽しみにしておくわーー黒澤諏方」




