第3話 怪しい男
『ーー美人になったね、青葉ちゃん……青葉ちゃん……ちゃん』
「…………はぁ」
東野ーー蒼龍寺青葉は、自身の担当するクラスの男子生徒の言葉を頭の中で何度も反芻していた。
これがただのいち男子生徒の言葉なら、ちょっとキザっぽいところが若々しくて微笑ましいと思えるだけで済んだのだが、相手は彼女が幼いころに恋をした相手と瓜二つの姿をした少年。意識から無理に追い出そうとしても、彼の爽やかな笑顔が頭の隅からかき消えないのであった。
もちろん、黒澤四郎が彼と別人だというのは彼女も理解している。黒澤諏方と最後に出会ったのは、彼女の姉の葬式の時。すでに姉と結婚していた諏方は、今の四郎と比べてもずいぶんと大人の姿になっていたのだ。
ましてや、その時からもう十数年が経っている。黒澤諏方の年齢はすでに四十代。どう考えても、黒澤四郎が彼と同一人物であるはずがないのだ。
そんなことはわかっている。わかってはいるのに、それでもーー、
「なんで……こんなに胸がドキドキしてるんだろう……」
ーー自身もすでに立派な教師。生徒相手に、心を熱くしていい理由などあってはいけないーー。
頭では理解していても、彼女の胸は痛いほどに締めつけられる。口に運ぶ自作のお弁当の味も、今は何も感じられなかった。
「ーー先生? ーー東野先生?」
「ーーあっ、はい⁉︎」
突如声をかけられ、青葉は思わずその場から勢いよく立ち上がってしまう。彼女に声をかけたのは、この学校の教頭である初老の男性だった。
「大丈夫ですか、東野先生? 先ほどからずっとボーッとしながらごはんを食べてましたが、風邪でもひきましたかな?」
「あっ、いえ……なんでもないんです……」
普段は無口な教頭に心配をかけさせてしまい、青葉は恥ずかしさで目線をそらしてしまう。気づけば、お昼休みも半分を過ぎており、職員室内のほとんどの教師が昼食を終えて次の授業の準備に入っていた。手元の小さなお弁当箱の中身はまだ半分ほど残っていたが、とうに食欲は失せてしまい、静かにフタを閉じ始める。
「少し考え事をしていただけなので、ご心配をおかけしてすみません」
「ああ、いえ、特に問題がないのなら構わないのです。そうだ! リフレッシュついでに、一つ頼まれごとをお願いしたいのですが……」
申し訳なさげな表情の教頭先生。彼女を心配して声をかけたというよりは、その頼みごとが主題であったのだろう。
「放課後の職員会議で使う資料を資料室から取ってきてほしいのです。他の先生がたは手が離せないとの事なので。もちろん、無理強いはしませんが……」
「……いいえ、ぜひ任せてください!」
教頭にとっては、今一番手が空いているであろう彼女なら都合がいいと判断して頼んだのだろうが、青葉としても今は机でじっとしているより身体を動かしたほうが変に考え事をせずに済むので、彼女は笑顔で快く引き受けたのであった。
◯
職員室から資料室までは校舎の端から端までとそこそこの距離はあったが、階段を使わない分、行き来自体は楽ではある。
青葉は向かいながら、教頭から渡された紙に目を通す。紙には職員会議で必要な資料のリストが載っていた。ざっと見ただけでも、かなりの冊数がある。
まだお昼休みの終わりまで時間に余裕はあるものの、資料を探すのに多少手間がかかりそうだと彼女は判断し、気持ち早めに足を進ませていく。
「ーーひ、東野先生……!」
「ーーっ⁉︎」
突如、何者かが背後から青葉に声をかけた。ーーその声を、彼女はよく知っていた。知っているからこそ、その男の声に応えずにこの場から走り去りたい衝動にかられる。
だが、立場上彼を無視するわけにもいかなく、青葉は精一杯のにこやかな笑みを作って彼に振り返った。
「おはようございます……馬金先生」
彼女の反応に、馬金と呼ばれた白衣の男は満足げな表情を浮かべる。
彼は青葉と同じこの学校の教師であり、化学を担当としている。くたびれ気味の髪はゴムで乱雑に束ねており、病人のような痩せ細った頬に小さな丸メガネをかけた風貌は、白衣と相まって映画に出てくるようなマッドサイエンティストをイメージさせる見た目をしていた。
「お、お元気そうで、な、何よりです……。い、一ヶ月もお休みになって、さ、寂しくはあったのですが……ひ、久しぶりにお顔が見れて、あ、あ、安心しました……」
しゃがれた声でたどたどしく話す彼の喋り方は、人によっては生理的に嫌悪してしまいそうになるほどに、ねっとりとした粘っこさを感じさせた。
青葉は基本的に人を嫌うという事があまりない。人の嫌なところを見ても、それ以上にその人のいいところを見いだす優しさを持っているからだ。
だがそんな彼女でも、馬金は明確に苦手といえるタイプの人種であった。
彼には多くの噂が付きまとっている。
昔は大学の教授職だったらしいのだが、研究費の私的な利用や人体実験まがいの過激な研究が発覚して学会を追放。紆余曲折あってこの学校に流れついてからも、授業を適当に済ましがちなせいで生徒たちからの評判は悪く、奇怪な行動が目立つために教師たちからも避けられがちであった。
この学校では大きな問題こそ起こした事はないものの、生徒に寄りそうという教師としての当たり前の理念を青葉は彼から感じられなかった。
なにより、彼は青葉のことを気に入っているようでよく話しかけるのだが、彼女と話す彼のメガネの奥のいやらしいものを見るかのような視線にあてられるたびに、彼女は言いようのない吐き気に襲われるのであった。
「……ご心配をおかけしましたところ申し訳ないのですが、教頭先生から資料を持ってくるように頼まれているので、ここで失礼させていただきますね」
なるべく穏便に青葉は馬金から距離を離そうとするも、そんな彼女の心情を彼が理解できるはずもなく、なんとか彼女に食い下がろうとする。
「で、でしたら、じ、自分もお手伝いいたしましょう……! ふ、二人での共同作業……あっ! いえいえ、ふ、二人でやれば、し、資料探しなんて、あ、あっという間に終わりますよ……!」
「……お気持ちはありがたいのですが、私一人でも十分ですので……」
青葉なりの精一杯の拒絶の言葉。それに気づくか気づかずか、なんとか彼女を引き止められないかと彼は思案し、白衣のポケットに入っていたある紙切れの存在を思い出し、それを取り出した。
「そ、そうだ……! ひ、東野先生……よ、よければ、こ、今度一緒に、え、映画を観に行きませんか……?」
馬金が差し出したのは、二枚の映画の前売りチケットだった。
「……ひいっ⁉︎」
映画のタイトルは『サイエンスハザード』。チケットの表面には、おどろおどろしい大量のゾンビがこちらに襲いかかってくるような映画のパッケージが写っていた。
「き、近日公開予定のゾンビ映画です。……監督はゾンビ映画の基礎を作り上げた偉大な方なのですが、そんな彼が今作はバイオテロによるパンデミック系のゾンビ映画を撮ったとの事で、今話題になっている作品ですね。ゾンビといえば、墓から蘇るだなんて怪奇じみた古臭いイメージにとらわれがちですが、昨今のウィルス等が原因となるSFチックなパンデミックものこそ、リアリティな怖さがあると自分は思っているのですが……ひ、東野先生?」
長々とゾンビ映画の定義を語るさなか、青葉の表情が青くなっていた事に彼はようやく気づいた。
「……ごめんなさい。私、ホラー映画は苦手で……」
本当に苦手だったのだろう。チケットの表紙だけで身体を震わせる彼女を見て、馬金はニヤリと気持ちの悪い笑みを浮かべた。
「だ、大丈夫です! ……え、映画にはもちろん、じ、自分も一緒ですから! こ、怖いシーンが出ても、じ、自分が東野先生を、ま、守りますよ……!」
言葉の勢いあまって、彼はチケットを持ったまま青葉の手を唐突に握りしめた。
「ひっーー⁉︎」
彼女がなるべく隠そうとした明らかな拒絶の反応。だが、無我夢中となった馬金には彼女のそんな反応にも気づけず、彼女に向かってじりじりと身を乗り出していく。
「や、やっぱり東野先生は、か、可愛いですね……! ど! どうです? よ、よければ、が、学校が終わった後に、じ、自分の家でいくつかオススメのゾンビ映画を……い! 一緒に観ません……か⁉︎」
馬金の鼻息がどんどんと荒くなる。青葉は彼の手を払いのけたかったが、そんな事をすれば逆上され、余計危険な目に遭いかねない。
「だっ……誰か助けーー」
気づけば、口から助けを求める声が小さく漏れ出てしまっていた。
ーーそんな彼女の肩を、誰かが優しく叩いた。
「東野せーんせ?」
この場の空気にはそぐわない無邪気なようなその声はしかし、彼女にはどこか懐かしさを感じてしまっていた。
「くっ、黒澤くん……⁉︎」
青葉が振り向いた先にいたのは、先ほど職員室で別れたばかりの黒澤四郎であった。不自然なまでににこやかな笑みを見せる彼は、少し申し訳なさげに声のトーンを落としながら、
「わりぃんだけど、さっきの英語の授業でわかんなかった部分があってさ。できたらでいいんだけど、復習がてらもっかい教えてくんねえかな?」
先ほどまではどこか歯切れの悪かった彼の口調が、今はなぜか軽やかなものになっていた。
「なっ⁉︎ なんだね、き、君は? い、今自分と東野先生は、だ、大事な話し合いの最中なんだぞ……?」
話を中断され、あからさまに不機嫌さを見せる馬金。そんな彼に対し、四郎は動じた様子を見せることもなく、まっすぐに彼の瞳をとらえた。
「あれれー? 誰かと思えば、化学の馬金先生じゃないですかー。何をお話ししてたかは存じませんが、いいんすか? 教師が生徒の学ぶ機会を削ぐような事しちゃって?」
「ぐっ……」
身勝手な振る舞いが目立つ馬金といえど、教師という立場上、生徒の真っ当な意見には言い返しづらいものがあった。何よりーー、
「……ごめんなさい、馬金先生。今回の話はひとまずなかったことに。いち教師として、学ぼうと励む生徒を無碍にするわけにはいきませんので、ここで失礼させていただきます。……行こうか、黒澤くん?」
ーー教師として模範的な彼女が、勉学について悩める生徒の頼みを断るはずもなかったのだ。
一刻も早くこの場を離れたかった青葉は、四郎の手を取って小走りで去ってゆく。その最中、四郎は顔を馬金の方に向けると、べーっと小さく舌を出したのだった。
「…………くそっ!」
二人の姿が見えなくなると、怒りで頭に血がのぼった馬金は廊下に置かれたロッカーを勢いよく蹴りだした。
「チクショウが!! ……東野先生が一ヶ月ぶりに学校に復帰したから、勇気を出してデートに誘っていたというのに……あんな不良みたいな見た目のガキに邪魔されやがった……!」
とても教師のものとは思えない身勝手な怒りを、彼は何度も誰のものともわからないロッカーにぶつけ続ける。
「ちくしょう……女ってやつは、なんであんなあからさまに悪そうな男に惹かれていくんだ? そんな女は基本的に頭の悪い女だと決まってはいるんだが……いやいや、東野先生みたいな天使のような女性に限って、そんな事はーー」
「見ぃちゃった、みーちゃった。せんせーいに言ってやろー」
ふいに、何人かの人影が廊下の角から顔を出し、ゆっくりと馬金に近づいっていった。
「あー、でも、うまがねっちも一応先生なんだっけ?」
「ねえねえ、今の動画、あたピのスマホにも送ってよ〜」
「俺にも送ってくれよ。あとでピックポックにでも晒すべ」
「デートに誘ったのに、転校生に取られてフラれるとか、最高にダッサ」
馬金の横に立った生徒たちは五人。真ん中の茶髪を逆立て、スマホを馬金に向けるリーダーらしき少年と、彼の腕に抱きつく彼女らしきギャルが一人。他の三人も真ん中の少年と同様、明らかに健全とは言いがたい格好で馬金をニヤニヤとあざ笑っていた。
「まっ……まさか……さ、さっきのやり取りを、み、見ていたのか……?」
再びたどたどしい口調になった馬金の疑問に、リーダー格の少年が鼻で笑いながら答える。
「いやー、たまたま教室に戻ろうとここを通ったら面白そうなもんが見えてな?」
少年はスマホの画面を馬金に向けると、先ほど彼が青葉の手を掴みながら身を乗りだす映像がバッチリと撮影されていた。
「と……盗撮していたのか……⁉︎」
絶望的な映像を観せられ、膝を床につける馬金に少年たちは指をさしながらさらに笑い上げた。
「安心しろよ? 今のところは誰にもこの映像を観せる気はねえよ。……まあとりあえず、静かなところで楽しいお話でもしようか?」
「うっ……」
自身が見下している生徒たちにニヤニヤと笑顔で見下ろされ、馬金のプライドは粉々に砕かれてしまう。
そんな彼にさらなる絶望が待っているのがわかっていても、スマホに流れる映像を観て、彼は少年の指示に従わざるをえないのであった。




