第2話 もし、君にまた出会えたならば
「えー……では、十二ページの英文を……黒澤さん、読んでもらえるかな? ……黒澤さん?」
「…………」
ーー返事がない。ただの屍のようだーー。
というのは冗談にしても、白鐘が頭真っ白な状態で座っているであろう事は、後ろを振り返らずともなんとなく見えてはいた。
あの後、クラスの副担任が実は自分の叔母であり、なおかつ偽名であることを知った白鐘は、情報量の多さにまるで魂が抜けたかのように固まってしまったのだ。俺とシャルエッテで娘の手を引いて教室までは連れて行けたものの、それからもしばらくはこの状態が続いているのである。
さらにタイミングが悪いことに、一時間目は件の彼女が担当する英語。正直な話、白鐘が自身の叔母に疑念の視線を向けるぐらいなら、このままボーッとしてもらった方がマシなのかもしれない。
「黒澤さん? 黒澤白鐘さん?」
「…………えっ? ……はい?」
どうやら正気を取り戻したみたいだが、反応からするに未だ心ここにあらずといった感じのようだった。
「大丈夫? 授業聞けてた?」
「あっ、えっと……いえ、聞いてませんでした……」
「……真面目な黒澤さんが、ずいぶんと珍しい事もあるのね。具合でも悪いのかしら?」
チラッと後ろを見ると、実に気まずげな表情で白鐘は先生から目をそらしていた。
「いえ、ちょっとボーッとしてただけです……ごめんなさい」
「そう……具合が悪かったら、無理せず保健室に行っていいからね?」
先生の心配げな視線にも、白鐘は向き合うことができなかった。
東野先生は少し重くなった空気を切りかえるように、すぐさま他の生徒を指名して授業をスムーズに進めていく。教壇に立ち、生徒たちにわかりやすく丁寧に指導するその姿は、まさに理想的な教師そのものであった。
俺が本来の高校時代の時、碧の家に行っていたころは彼女はまだ小学生ぐらいの小さな女の子だったのだが、人見知りだったのか、兄である葵司や姉の碧のそばによくひっついていたのを覚えている。俺と碧が結婚してからは会う機会がほとんどなくなったゆえ、こうして大人の女性になって教師をしている姿を見ると感慨深いものを感じた。
「…………」
先ほど、彼女が俺を見た際に口走った呼び名を思い出す。彼女はたしかにこう呼んだのだーー諏方お兄ちゃんーーっと。
彼女がどの程度俺のことを覚えているかはわからないが、少なくともこの姿を見て一瞬でも黒澤諏方なのだと認識していたという事になる。つまりは、彼女が担当する生徒の中に俺と同じ姓で同じ銀髪である白鐘が、自身の姪である事に気づいている可能性も十分にありえるのだ。
だが、白鐘の様子からして、少なくともその手の会話を彼女としていないのは明白だった。
「……まあ、偽名まで使ってるのに、自分の正体を明かすわけねえよな……」
彼女が育った家、蒼龍寺家はかなり特殊な家庭である。蒼龍寺青葉がなぜ東野青葉という偽名を使っているのか……彼女が一ヶ月ほど家庭の事情で休みを取っていたのとあわせて考えれば、その答えは自ずと予想はできた。
だがーー、
「ーー以上が、不定詞と動名詞の簡単な説明になります。近いうちに小テストとして出す予定だから、ちゃんと予習しておくようにね」
小テストと聞いて生徒たちからブーイングが飛びかう中で、彼らの反応を楽しむ子供のような彼女の笑みが輝いた。見ているだけで、自然となんでも許せてしまいそうな魅力がその笑顔にはあった。
「……ま、あれこれ詮索するのはヤボってやつだな」
俺にとっては彼女の一回目の授業となるこのわずかな時間だけでも、彼女が教師という職業を心から楽しんでいるのは十分に理解できた。結局、俺の考察も憶測の域から出るものではないし、無理に詮索しても彼女の楽しみに水をさす行為にしかなりえないだろう。
口走ってしまった諏方お兄ちゃん呼びは気になりはするが、ここはいったん胸にしまっておいてーー、
「ーーはい、今日の授業はここまで。それと、黒澤くんとシャルエッテさんにはちょっとだけ質問したいことがあるから、お昼休みに職員室に来てもらってもいいかな?」
急な呼び出しに、俺とシャルエッテは揃って顔を見合わせる。
「……まあ、大丈夫っす」
「大丈夫なのです!」
「それじゃあ、よろしくね?」
そう言い残して、東野先生は笑顔のまま教室を去っていった。
彼女の様子からして、特に重大な呼び出しというわけでもなさそうだ。なるべく彼女のことを意識しないためにも、距離を置いておきたいというのが本音ではあったのだが、それよりも今の問題はーー、
「おい、黒澤! お前、東野先生とどういう関係なんだ⁉︎」
「お昼休みに先生のとこ行くみたいだけど、もしかして……⁉︎」
「お兄ちゃんって呼ばれてたけど、そういうプレイなのか⁉︎」
「……まあ、こうなるよなぁ」
お兄ちゃん呼びと急な呼び出しが重なった事による、クラスメイトたちからの怒涛の質問責め。
五月病自体は吹っ飛んだものの、彼らからの質問責めにどう対処するかを考えると頭が重くなり、現実逃避をかねたため息を俺は吐き出すしかなかった。
◯
「ーーはい、二人ともありがとう。おかげで、今後の授業をどう進めるか参考になったわ」
昼休み、東野先生に言われた通りに俺とシャルエッテは職員室を訪れた。
何を訊かれるのかと少しばかり警戒してはいたのだが、単純に前の学校でどこまで英語を学んでいたのかを軽く問われただけであった。
すでに大学を出てる俺はもちろんだが、意外な事にシャルエッテも英語はある程度できていたようでーー人間界に来る際、この世界での言語は魔法界で学んでいるとのことだったーー質疑応答自体は数分程度ですぐに終えられた。
「二人とも、まだ転校して一ヶ月だから戸惑う事も多いと思うけれど、ここの生徒はいい子たちが多いからすぐに馴染めると思うわ」
「はい! クラスメイトの皆さんにはいつも優しくしてもらってます!」
「あはは……」
嫌味ひとつなく、学校生活を謳歌しているであろうシャルエッテに対し、先ほどまでクラスメイトからの質問責めをごまかすのに精一杯だった俺は言葉を濁してしまうーー白鐘は未だ考えの整理がついていないらしく、彼女からは何も訊かれなかったのは不幸中の幸いではあったのだがーー。
「それじゃあ、シャルエッテさんはお昼休みに戻ってもいいわよ。黒澤くんは、その……もうちょっとだけ残ってもらってもいいかな?」
少し申し訳なさげに、先生は俺に目配せをする。
……まあ、呼び出された時点でなんとなくこういう展開になるのは予想できてはいた。
「シャルエッテ、先に白鐘たちとメシ食っててくれ」
「あっ……はい……!」
いつもハイテンションなシャルエッテが珍しく戸惑いを見せたが空気を察してか、わりとあっさり彼女は一礼して職員室をあとにした。
「…………」
「…………」
シャルエッテが去った後、俺も先生も口を開けず、実に気まずい空気が流れていく。
「その……朝は変な呼び方をしちゃってごめんね、黒澤くん?」
少しして、先生は俺から目線をそらしつつも、朝のホームルームでの出来事を謝罪した。
「っ……」
少しだけ、俺はここでどうするべきかを考える。
彼女との関係を穏便なものにするのなら、俺はここで「気にしていません」と言うだけで話は終えられる。白鐘にもある程度説明すれば、娘なら納得はしてくれるだろうとも思う。
ーーだけど、本当に大事なことから目をそむけたままでいいのだろうか?
「……変な事で引き止めちゃってごめんね? それじゃあ、黒澤くんもお昼休みに戻ってーー」
「ーー先生は、諏方おじさんとお知り合いなのですか?」
「っーー⁉︎」
今朝の事はなかったことにするのもできる。俺も中身は大人だ。変にでしゃばらない方が互いのためだとは十分にわかっていた。
ーーそれでも、タイミングは今しかなかった。今を逃せば、俺と白鐘と先生ーー青葉ちゃんとの関係はこじれたままになってしまうかもしれない。特に白鐘とっては、青葉ちゃんも立派な親戚の一員なのだ。
青葉ちゃんが俺や白鐘のことをどこまで把握しているかを知るために、俺は彼女に切りこむことにしたのだ。
青葉ちゃんーー東野先生は俺の問いに答えるべきかしばらく逡巡していたようだったが、少しして諦めた様子を見せるとともに、ゆっくりと口を開く。
「……あんまり深くは言えないのだけれど、あなたの叔父さまーー諏方さんには、子供のころに少しお世話になった事があるの。ただ……もう何年もあの人には会っていないから、向こうは私のことを覚えてはくれていないだろうけどね……」
どこか寂しげに、彼女はそうつぶやいた。
ーー青葉ちゃんと最後に会ったのは妻の葬式の時だった。
そのころには彼女は中学生にまで成長はしていたが、見た目以上にとても物静かながらも、十代の少女とは思えないほどに威厳に満ちた雰囲気をまとっていたのをよく覚えている。ゆえに、今朝のホームルームで再会した彼女のやわらかい印象が、過去の蒼龍寺青葉と重ねるのに少しばかり時間がかかってしまったのだ。
「……この事、白鐘には?」
「……話してないわ。話しても混乱するだけかもしれないし、彼女と同じ学校になったのは偶然だったしね。……それで、その……」
まだ少し気まずいのか、彼女は続きを口にするのに間を空けてしまう。それでも意を決したように、彼女は真剣な眼差しで俺を見つめる。
「……諏方さんは……元気にしてるかな?」
「っ……」
青葉ちゃんが俺に対してどういう感情を抱いているのかはわからない。それでも、こうして俺の現状を尋ねるのが今の彼女の精一杯なのだろう。
「……申し訳ないっすけど、諏方おじさんとはすれ違いになる形で黒澤家に居候する事になったんで、よくはわからないっす。……元気ではいると思いますけど」
今目の前にいるのが、魔法で若返った黒澤諏方本人です! ーーなんて言えるわけがない以上、俺はあいまいな言葉でごまかすしかなかった。
それでも、その答えに満足してくれたのか、不安げだった彼女の表情に少しだけ笑顔が戻った。
「変なこと訊いちゃってごめんね? お昼ごはん食べる時間もあるだろうし、もう戻って大丈夫よ」
ひとまず、ここまでが彼女に踏みこめる限界といったところだろう。俺の正体が明かせない以上、ここからさらに彼女に踏みこめば変に警戒されてしまう。俺はもちろん、白鐘にとってもそれはよくない方向に突き進む事になってしまう。
俺は「失礼します」と一言残して、いさぎよく出口へと身体を向ける。
ーーその寸前、先生の笑顔に一瞬だけ寂しく、悲しげな色が浮かんでいたのを俺は見てしまった。
「っ……」
もちろん、見て見ぬふりをすることはできた。それでもーー俺は彼女に向けて余計な言葉が口から出ようするのを抑えきれなかった。
「諏方おじさんが、先生のことを覚えているかはわかりませんが……もし先生に久々に会えたなら、きっとこう言ってたと思います」
「えっ……?」
声からして、先生が驚いているのは感じ取れた。そんな彼女に、俺は笑顔で振り返りながらーー、
「ーー美人になったね、青葉ちゃんーーって」
呆然と目を見開いてる先生の顔が、みるみるうちに赤く染まる。
「そっ……それじゃあ、失礼します!」
今度こそ、俺は急ぎ足で職員室をあとにした。
職員室を出てすぐの廊下で、俺は胸を押さえながら一度立ち止まる。
「……なにカッコつけてんだよ、俺?」
思わず口にしてしまった、彼女への本心からの言葉。
実際、彼女は俺の妻とは顔こそ似ていないものの、美しい容姿に優しげな雰囲気、そして、海のような青い髪の色は、たしかに彼女が妻の妹であると改めて認識せざるをえないほどによく似ていたのだ。
「……今さら、あんな美人になって再会するのは反則だろ?」
今にも口から心臓が飛び出てしまいそうになるほど、恥ずかしさで鼓動が胸を強く打つ。
「……昼メシ、今日はいいや」
この状態で教室に戻っても、白鐘たちからは怪しまれかねないし、娘の弁当も喉を通らないだろう。
俺は青葉ちゃんとのやり取りを後悔しつつ気をまぎらわせるために、昼休み中は適当に校内をふらつくことにしたのであった。




