第28話 ただひたすらに
ーー大地が揺れたと錯覚してしまうほどの衝撃音の後、しばらく時が止まったかのように世界から音が消えた。
黒澤白鐘、シャルエッテ・ヴィラリーヌ、そして境界警察のメンバーたち。爆破した工場の周りにいた全ての者たちの視線が、二人の人物に集中する。
一人は黄金色の結界の中心に立つ金髪の魔法使い、シルドヴェール・ノエイル。
そしてもう一人は、そんな彼女の結界に拳を放った銀髪の少年、黒澤諏方であった。
諏方は拳の先を黄金色の結界に触れさせたまま、その向こう側に立つシルドヴェールを強く睨み上げる。対して彼女は、目の前の光景に理解が追いつかず、戸惑いの視線で彼を見下ろしていた。
「……何をやっているの、黒澤諏方?」
結界に拳を当てられて数秒経ってからようやく、彼女は目の前の彼に疑問をぶつけた。
「まさかとは思うけど……アナタのパンチでワタクシの結界を壊すつもりだったのかしら?」
「…………」
諏方は彼女の問いには答えず、拳をゆっくり結界から離すと何かを確かめるかのように、手のひらを見つめて開けたり閉めたりを繰り返す。
「……アハハ。若返ったとはいえ、元は人生をそれなりに長く生きた大人だったのだから、もう少し思慮深くて落ち着いた人間だと思っていたのだけれど、過大評価だったようね……」
勝利を確信したかのように、彼女はニヤリとした笑みを浮かべる。
「ワタクシの完全結界魔法は相手の魔法だけじゃなく、あらゆる物理攻撃をも通さない。展開し続ける限り、どんな攻撃からも守ってくれる究極の結界魔法よ。アナタの拳が岩をも砕く破壊力があろうと、ワタクシのパーフェクトシールド魔法には一切のダメージを与えることはできないのよ!」
相手に言い聞かせるように、声を張り上げて魔法の特性を説明するシルドヴェール。しかし、諏方はまるで何も聞こえていないかのように、自身の拳を無言で見つめ続けていた。
目の前の男が何を考えているのかがわからず、戸惑いと不安がわずかに彼女の胸を過ぎる。
「……まあいいわ。結界に阻まれたとはいえ、一発殴って気は済んだでしょ? それじゃあ、ワタクシはこれでお暇させていただーー」
この場を去ろうとした彼女の言葉が、再度響いた轟音にかき消される。
びくともしなかったにも関わらず、諏方は再びシルドヴェールの結界に拳を打ち込んだのだ。
先程までシルドヴェールを睨んでいた彼の顔は今は無表情になり、そんな彼を前に結界の内側で彼女はただただ唖然としていた。
「な……何を考えているの、アナタは!? 言ったはずでしょ? アナタのその拳がどれほど強力なものであろうと、ワタクシの結界を破る事はできなーーキャッ!?」
三度目ーー諏方は無表情のまま、さらに拳を結界に打ち込んだ。
三度の打撃が加えられても、結界には傷一つ付かない。にも関わらず、重なる衝撃にシルドヴェールは思わず怯んでしまった。
「なっーーなによ!? なんなのよアナタは!? 何回も言ってるじゃない! 何度攻撃したところで、ワタクシの結界には傷一つ付く事はないの! アナタのやっていることは無意味なのよ!? ……わかったら、いい加減に諦めなさーーヒッ!?」
四度目ーー一発一発が重いにも関わらず、その威力は依然として衰えない。
だがやはり、結界にはヒビ一つでさえ付かなかった。
「……フフフ、無駄よ……無駄なのよ。パーフェクトシールド魔法はまさに完璧。どんな攻撃だろうと、この結界を突破することはできないわ! ……このまま続けても、アナタの体力が無意味に消耗していくだけなのーー」
「ーー五月蝿ぇ。少し黙ってろ」
一瞬だけ彼の瞳に鋭く睨まれ、深くドスの効いたその声に恐怖を感じ、シルドヴェールは無意識に口を手で塞いでしまった。
さらに五度六度ーー結界に彼の拳が打ち込まれる。
七度八度ーー結界に変化はないが、直接攻撃されていないにも関わらず、一発ごとにシルドヴェールの身体がビクリと震える。
「……い……いい加減にしなさいよ! た……たとえアナタの攻撃がワタクシの結界には無意味だとしても、何度も結界に触れられるのは非常に不愉快だわ。……その拳を止めないと、ワタクシもアナタに攻撃するわよ……!」
シルドヴェールは指を諏方へと向け、その先端に光が灯る。彼女の魔力はほとんど残っていないものの、ひと一人の頭なら容易に貫通しうる威力の魔力砲を撃つぐらいのことはできる。
だがーー直接脅されてなお、諏方は結界に拳で殴りつけるのをやめない。ただ無言で、無心に、結界を殴り続けることに全神経を集中させていた。
「っ……!」
胸の奥底が冷えていく感覚に襲われ、徐々にシルドヴェールの表情も青ざめていく。彼女の指はなおも光り続けているが、その光弾を彼に放つことはしなかった。
ーーパーフェクトシールド魔法はあらゆる攻撃を遮断させる完全無欠なる結界魔法。ゆえに、唯一と言ってもいい弱点があった。それは外部からの攻撃を遮断すると同時に、内部からの攻撃もまた、結界が遮断してしまうことであった。
結界が発動中の間は外からの攻撃は完全に防いでくれるものの、結界の使用者もまた、パーフェクトシールド魔法を解除しなければ相手に反撃することはできない。
つまり、彼女の目の前で結界を殴り続ける男を直接止めるためには、一時的に結界を解除するしか方法はないのだ。
当然、そんなことをすれば彼の攻撃が直接シルドヴェールに向けられてしまうのはもちろん、今の彼女の魔力ではパーフェクトシールド魔法を再展開することはできない。仮に再展開できる魔力が残っていたとしても、そんな隙を諏方や境界警察が与えてくれるはずがない。
ーーそんな結界の弱点を知ってか知らずか、銀髪の少年は変わらず結界の一点を一心に殴り続ける。
二十、三十ーー気づけば、彼の拳は何度も殴り続けたことで血にまみれてしまっていたが、そのスピードや威力は緩むことなく、拳を結界に打ち続けていく。
「っ……」
まるで機械のように一心不乱に結界を殴り続ける銀髪の少年に、シルドヴェールの心を未知の恐怖が締め付ける。
脅しは無駄だと悟った彼女は諏方に向けていた指を引っ込め、恐怖を隠すように、無理やり作った嘲りの笑みを諏方へと向ける。
「……フフ、まあいいわ。放っておいても、アナタごときにこの結界を壊すことはできない。ワタクシのパーフェクトシールド魔法は、誰にも破ることのできないパーフェクトな魔法なのーー」
ピキッーーーー、
小さいーーあまりにも小さくてか細いが、何かが割れるような音が確かに鳴った。
「…………え?」
信じられないものを見るかのような眼で、シルドヴェールは目の前で起きた出来事を呆然と見つめていた。
わずかなーー気にも留めなければ気づけないほどのわずかな亀裂が、諏方が殴り続けていた結界の一点に生じていたのだ。
諏方もそのわずかな亀裂に気づき、手応えを感じつつ一旦拳を止めて息を整え、亀裂が入った箇所に再度拳を打ち放った。
少しずつではあったが、諏方の拳が同じ箇所へと打ちつけられるたびに亀裂はさらに広がり、やがて遠目でも見えるほどに大きなヒビ割れへとなっていく。
「…………うそよ……そんなウソよ!? ワタクシの結界が! 原初の魔女ですら到達しえなかった完璧たるワタクシのパーフェクトシールド魔法が!! 人間ごときに破られるはずがないわ!?」
目の前の光景が信じられず、先程まで冷静に立ち回り続けていた人物と同じとは思えないほどにパニック状態になってしまったシルドヴェール。
「ーーヒッ!?」
殴打による轟音とともに、結界が割れていく音も少しずつ大きくなっていき、耳に響くたびに彼女の心臓がさらに締めつけられていく。身体中を伝う汗が止まらなくなり、身体の震えも抑えられない。
ーー先程までその眼に小さく映っていたはずの少年の姿はまるで、自身の何倍もある体躯をもつ獣のように彼女には見え始めていた。
○
「そんな……まさか人間の手で、パーフェクトシールド魔法に傷をつけるなんて……」
ウィンディーナ含む境界警察の魔法使いたちもまた、目の前で起きた出来事に唖然としていた。
原初の魔女が成しえなかった究極魔法の一つとされるパーフェクトシールド魔法が発動したというだけでも彼女らの頭を痛くさせる事態であったのだが、魔法理論上最強の結界魔法が一人の人間の手によってまるでガラスのようにヒビ割れていく光景は、魔法使いたちにとってあまりにも非現実的なものであったのだ。
だがーーただ一人、事態を冷静に見つめ続ける男がいた。
「……魔力と精神力は密接に繋がっている」
「……え?」
あまりにもふいだった上司の言葉に、ウィンディーナは少し遅れて反応した。
「……どれほど強大な魔力の持ち主であろうと、精神が弱まれば必然、その者の魔力も低下してしまう。シルドヴェールは今、魔法使いではおよそ経験しえない、人間の手による直接的な暴力という恐怖によって精神がすり減り、魔力が弱まっているのであろう」
確かにと、ウィンディーナはパーフェクトシールド魔法から発せられる魔力が徐々に弱まっていくのを感じ取った。
「……しかし、パーフェクトシールド魔法は一度発動すれば本人の意思でない限り、半永久的に展開し続けられる結界魔法。いくら魔力が恐怖によって低下してるとはいえ、あのように人間の手でヒビ割れるほどに弱体化してしまうものなのでしょうか?」
「魔力を十分に蓄えて発動した完成形ならともかく、アレは急場しのぎによる不完全な結界。ともすれば、人間による物理攻撃で結界にダメージが入る事も起こりえよう。……いや、先程も言ったように、魔法使いならば経験する事のない直接的な人間による攻撃だからこそ、シルドヴェールのすり減る魔力に呼応して結界にもより高いダメージが入っているのかもしれん。……ウィンディーナ、部隊をいつでも動かせるように準備しろ」
「えっ?」
突然の命令に戸惑うウィンディーナをよそに、イフレイルは眼を細めて目線の先に立つ二人をより強く注視する。
「……まもなく、あの結界は壊れるぞ」
○
ーーすでに百打は超えただろうか。
諏方はペースを崩すことなく、結界に向けて己が拳を打ちこみ続けていた。
最初こそ結界に一切の傷はつかなかったのだが、一度ヒビ割れてからはその箇所を中心として、亀裂は徐々に広がっていく。眩いまでに黄金色に輝いていた球体も、亀裂が広がるたびにその輝きを曇らせていた。
「嫌ぁ……ワタクシのパーフェクトシールド魔法が壊れていく……アリエナイ……アリエナイわ……」
両手で顔を覆い、しかし指の隙間から震える瞳で、シルドヴェールは目の前で起きる事態をじっと見つめることしかできなかった。
「……わっ、わかったわ、黒澤諏方! ワタクシの敗北を認めるわ! 境界警察にもおとなしく捕まる! だから……だからもうやめてちょうだい!!」
突如発狂したかのように彼女は声をあげ、膝を地につきながら銀髪の少年に懇願する。
「この結界はワタクシの最高傑作なの! 永遠の命題であり、ワタクシにとって最大の到達点なの! いくら緊急で展開した簡易結界とはいえ、これはワタクシが生涯をかけて追い求めていた目標なのよ!! それが……それが人間の手によって壊されるなんて……絶対あってはならない事なのよ…!」
彼女の心はすでに折れかけていた。パーフェクトシールド魔法は結界魔法のスペシャリストと呼ばれた彼女にとって、命をもかけた生涯の目標。そのために、長い年月と多くの少女たちの命に手をかけて、彼女はやっと結界を完成寸前にまで来たのだ。
多くの魔法使いが魔女の宝玉を手に入れることを目標とする中、彼女にとってレーヴァテインはパーフェクトシールド魔法を完成させた後のオマケにすぎない。
ゆえに、シルドヴェールにとってパーフェクトシールド魔法を破られるという事は、自身を殺されるも同然であった。ましてや、本来なら魔法使いにとって見下されるべきはずの人間に結界を壊されかけているのだから、それだけはなんとしても阻止しなければならなかったのだ。
「お願いよ……黒澤諏方……なんでもするから……この結界だけは、これ以上傷をつけないで……」
もはや涙すら流れようとした彼女の瞳の先で、機械のように結界を殴り続けていた少年の手がついに止まった。
「っ……!」
ようやく自身の言葉が彼に届いたのだと、彼女は希望に満ちた表情を浮かべてーー、
「ーーテメェがさらったガキどもが、今のテメェと似たように助けてくれとテメェに願った事はあるか?」
彼女を見つめ返す黒澤諏方の瞳は、闇の奥底から見つめるかのように、静かでーーしかし激しい怒りに満ちていた。
「テメェが結界から白鐘やシャルエッテを侮辱した時の、心底相手を見下したかのようなあの薄汚ねえ笑い顔……あんな表情で、テメェは同じようにガキどもの願いを踏み躙ったんじゃねえのか? ……テメェの目標だかなんだか知らねえが、そのために俺の家族を含めて、どれだけの人間を傷つけやがった?」
彼はシルドヴェールを強く睨んだまま、先程までパーフェクトシールド魔法を殴り続けた右拳を握りしめ、グッと右腕を後方に引き絞る。
「ごっ……ごめんなさい……許しーー」
「ーー許すかよ! 糞女ァッ!!」
諏方は雄叫びとともに、結界の亀裂に向かって渾身の力を込めた拳を打ち込んだーー。
ーー耳をつんざく衝撃音とともに、諏方の拳が叩き込まれた結界の中央部が硝子のように粉々に砕け散った。眩かった輝きは消え、結界は巨大な割れた水晶玉のように透明な球体と化していた。
砕かれた箇所そのものは小窓程度の小さな穴が開かれただけだが、最強の結界魔法が破られたと印象づけるには十分な損傷であった。
「うそ……うそよ……ワタクシの……ワタクシのパーフェクトシールド魔法が…………」
シルドヴェールは破壊された自身の最高傑作の中で地に膝をつけたまま、開かれた穴を絶望に満ちた瞳で見つめる。
「…………いだっ!?」
その開いた穴から諏方の腕が伸びて、シルドヴェールの頭を鷲掴みする。
「いだっ! いだいいだいいだい!?」
諏方のアイアンクローに苦悶の声をあげるシルドヴェール。彼は腕にかける力を緩めぬまま、自身よりも身長の高い彼女の体を軽々と持ち上げた。その鋭い瞳からは、彼の怒りがまだ収まっていないのは明らかであった。
「……正直な話、どんな事情があるにせよ、テメェに喧嘩を売ったのは白鐘たちだ。あいつらも、自分たちがケガする事は覚悟の上だっただろう。だから、テメェがあいつらを傷つけたのは仕方ねえと思ってる部分もある。だがなーー」
シルドヴェールを見上げる瞳がさらに鋭くなる。彼女の頭部を握る腕は、先程まで結界を殴り続け、すでに皮膚も筋肉もボロボロであるはずなのに、込められる力はさらに強まっていた。
「ーーあいつらの覚悟を笑い、尊厳を踏み躙った事だけは……絶対に許さねえッ!!」
聴くだけで鼓膜を破りかねないほどの咆哮。そんな彼への恐怖も、結界を壊された哀しみさえも頭から吹っ飛ぶほどの痛みで彼女の思考は乱れ、脚をバタつかせていた。
「わっ、わかった!! 謝るから! アナタの娘にも謝るから!? だからーー」
「知るかぁああああああああッッッッッーーーー!!」
ーー諏方はシルドヴェールの頭部を握ったまま、勢いよく腕を振り下ろした。
腕は結界の開いた口から下を削るように割りながら、最大限の力を込めて彼女の顔面を大地へと叩き潰したのだったーー。




