第21話 駆け昇れ!
――ほんのわずかな一時、視界は灰色で覆われた。何も見えない、ただ灰色なだけの世界。
もし天国と地獄に境があるとするならば、あるいはこんなふうに灰色なだけの、何もない世界のことなのかもしれない。
だが――、
「…………はぁ……はぁ……」
――生きている。たしかに、シャルエッテ・ヴィラリーヌは呼吸をしていた。
全身は、とうに痛みで悲鳴をあげている。このまま倒れれば意識も失って、あるいは痛みからも逃がれられるのかもしれない。
それでも――少女は倒れなかった。全身に走る痛みを歯噛みしながら堪え、杖を支えに、彼女は立ち続けた。
やがて風が吹き、空間内を支配した灰色の煙がわずかに払われていく。
「…………」
シャルエッテの見上げる先、工場の二階にて煙が払われた向こうに、路地裏の魔女は手の平を突き出した姿勢で立っていた。金色の髪と黒い羽根のローブが多少ボロボロになり、シャルエッテと同じように息を切らしつつも、バースト魔法が直撃したはずの彼女は健在なままであった。
「……今、自分で自分を褒めたい気分だわ。結界魔法のスペシャリストと呼ばれたワタクシですら、断片とはいえ、魔女の魔力が乗ったバースト魔法を防げる自信は薄かったもの。でも――さすがはワタクシ。結界でアナタのバースト魔法を包み込んだことで、爆発の規模を最小限にまで押さえ込んであげたわ」
「…………」
シャルエッテはただ無言で、階上のシルドヴェールを睨み上げる。
「……そんな怖い眼で見ないでくれるかしら? むしろ感謝してほしいぐらいだわ。ワタクシがアナタのバースト魔法を防がなければ、アナタのお友達である黒澤白鐘も、ここに捕らわれた子供たちも、みんな巻き込まれて死んでいたでしょうからね。……それにしても、アナタの友人ごと巻き込んでまでワタクシに勝とうだなんて……アナタがそこまで狂っていたとは、予想外だったわ」
「…………」
シャルエッテは何を言われようと、ただ無言を貫き続けている。それは痛みと疲労故か、それとも――、
「とはいえ、ワタクシも魔力の半分以上は使ったけど、アナタはそれ以上に消耗している。今のワタクシでも、アナタと、友人である黒澤白鐘を殺すのは容易――」
――再び強めの風が吹き、工場内の煙のほとんどが払われた。
「――っ!?」
――そして気づく。シャルエッテの後ろにいるべきはずの、銀髪の少女がいない事に。
「……爆風に巻き込まれた? ……いえ、ワタクシの結界魔法は完璧だった。死体がその場に転がっているならともかく、外にまで吹っ飛ぶほどの火力は抑えられていたはず……いったい、どこに――」
――そして、シルドヴェールの周りに漂っていた煙も晴れた事で、彼女はもう一つの違和感に気づいた。
「っ――!? 梯子が……ない……!?」
シルドヴェールの足元にかかっていた、上の階に昇るための梯子がなくなっていたのだ。
「……たしかに、お師匠様の魔力を使っても、あなたを倒す事はできませんでした。ですが――」
ここにきて、ようやくシャルエッテが口を開く。――その表情には、勝利を確信した笑みがたたえられていた。
「――賭けには……勝ちましたっ!」
「……っ!? まさか――」
シルドヴェールは、自身から見て右奥――さらった子供たちの方へと視線を向け、驚きで目を見開いた。
子供たちが倒れている鉄床の真下に、本来はシルドヴェールの足元にかかっていた梯子がかけられていたのだ。そして、いなくなったはずの少女――黒澤白鐘が、子供たちへと向かって梯子を昇っていたのだった。
「まさか……貴様ら!?」
「――そうです! バースト魔法はあなたを倒すためではなく、あなたの視界を奪い、隙を作るためだけに使ったのです!」
先程まで弱々しく、身体をケリュケイオンで支えていたシャルエッテが、力強くまっすぐに背を伸ばした。
「ここは廃墟となった古い工場の中。周りは煤や埃だらけです。その中で、あなたの結界で防がれたバースト魔法の爆風によって発生した、埃まじりの煙で視界を防いだ後、魔法で梯子を移動させて、あらかじめ暗視魔法をかけていた白鐘さんに子供たちを助けに向かわせたのです!」
「なっ……でも! アナタたちは、ワタクシを倒しに来たのではなかったの!?」
「言いましたよね! 私たちは、あなたに勝ちに来たのだと。なにも、相手を倒すだけが勝利ではありません。あなたを出し抜き、子供たちを助けられれば、それで私たちの勝利なのですっ!」
これが――白鐘とシャルエッテの考えた作戦だった。
そもそも、実力で相手に適わないのなら、相手を倒すのではなく、あくまで子供たちを助ける。
黒澤白鐘を連れてきたのも、真正面から戦いを挑んだのも、魔力札を使用したのも、バースト魔法も――全てが子供たちへたどり着くための布石であった。
「ば……バカじゃないの!? そんな事のために、貴重な魔女の魔力が込められた魔力札を使ったというの!? ……それに、アナタのバースト魔法をワタクシが防げなかったら、アナタたちも死ぬかもしれないと考えはしなかったの!?」
信じられないといった表情のシルドヴェールに対し、シャルエッテは真剣な眼差しでまっすぐに見つめ返し、
「大丈夫です! 結界魔法のスペシャリストである、あなたの実力を信じていましたから! あっ、万が一にもシロガネさんや子供たちを巻き込まないように、実は威力や撃つ方向などは調整していたんですよ?」
「くっ……狂ってるわ……」
真下にいる魔法使いの少女、そして今も梯子を昇っている人間の少女の理解の外にある行動に、シルドヴェールは頭を痛ませながらも――その視線は、梯子の方の少女へと向けられた。
「チッ……させるか――」
「――させません!」
白鐘に魔力砲を放とうとしたシルドヴェール目掛けて、先にシャルエッテが魔力砲を撃ち放った。
「なっ――!? 貴様、どこにまだそんな魔力が!?」
シルドヴェールは慌てて攻撃を中断し、結界魔法でシャルエッテの魔力砲を防ぐ。さらに彼女に白鐘を攻撃させまいと、シャルエッテは間髪いれずに魔力砲を連続で撃ち続ける。
「ぐっ……クソガキめが……!」
シャルエッテの魔力砲は防げているものの、結界を張っている間は攻撃に転じるのが難しい。少しでも結界の強度を緩めれば、魔力砲がシルドヴェールへと直撃してしまうだろうからだ。
「シロガネさん! 私も、もう魔力はほとんど残っていません! 早く……子供たちを助けてくださいっ……!」
「わかってる! だから、もうちょっとだけ堪えてて!」
白鐘は、所々錆びている梯子が折れないかと慎重になりつつ、できるだけ早く上へと駆け上がる。
「チッ……人間の娘如きがぁ……!」
シルドヴェールは左手で結界魔法を展開しつつ、かろうじて突き出した右手の人差し指で、細長い魔力砲を白鐘に向けて撃ち放った。
「シロガネさん、危ない!?」
「っ――!?」
シルドヴェールの魔力砲は、梯子にかかっていた白鐘の右腕を掠め、血しぶきを直線上へと空に走らせた。
「いだっ――!?」
それほど深く抉れはしなかったものの、腕に走る激痛に彼女は思わず、梯子から腕を離してしまった。
「ぐっ――!!」
足も踏み外し、身体が落ちそうになるも、梯子を掴んでいた左腕の握力を強め、腕一本でなんとか落下せずに済んだ。
「大丈夫ですか、シロガネさん!?」
「いたた……うん……すごく痛いけど……我慢できない痛さじゃないっ!」
傷口からボタボタと血が流れる腕を振り上げて、なんとか梯子に両腕をかけられた。
「チッ……人間の小娘が、なんでそうまでして他人を助けようとするのよ……!?」
踏み外した足で梯子を踏み締め、痛みに耐えながら白鐘は再び、子供たちの元へと昇り進んでゆく。
「あんたも……加賀宮くんを騙した執事も……笑いながら人間を食い物にしようとしていた。でも……お父さんも叔母さまも、そんな悪い魔法使いに正面から立ち向かった……」
明らかに右腕の握る力が落ちている。――それでも、ここで踏みとどまるわけにはいかないと、力を振り絞ってさらに上へとあがる。
「……だからあたしだって、人間だからって理由で……あんたたちみたいな悪い魔法使いを相手に、目の前で助けを求めてる子供たちを見捨てるような弱い人間には……なりたくないのよっ!」
自らを鼓舞するように声をあげ、梯子の先をさらに駆け上がっていく。
「……くだらない理由ね。さっきは外したけど、今度こそ――があっ――!?」
シャルエッテの放つ魔力砲がさらに威力を強め、依然結界で防げてはいるものの、シルドヴェールの身体をよろめかした。
「もうこれ以上……絶対にシロガネさんには、手出しさせませんっ!」
とうに限界は超えているであろう。先ほど以上に、身体に走る痛みはより強さを増した。――シャルエッテはそれでも、さらに魔力を引き出し、魔力砲を撃ってシルドヴェールの動きを封じる。
「バカな……もうアナタに、魔力砲を撃つ魔力なんて残っていないはずなのに…………まさか……! 眠っていた潜在魔力があるとでもいうの!?」
さらに激しさを増したシャルエッテの魔力砲を防ぐのに手一杯となり、これ以上白鐘を追撃することができなくなってしまった。
白鐘はさらに梯子の先を進むと、ようやく二階の床が見える位置にまで顔を出すことができた。その先に――見知った顔の少女が、虚ろな瞳で床に横たわっていたのが見えた。
「……夕紀ちゃん!」
名前を呼びかけるも、死に体同然となった少女からの返事は返ってこない。――だが、目の前にまで来てようやく、少女の身体が浮き沈みしているのが、より明確に確認できた。夕紀ちゃんの周りで倒れている少女たちも同じように、確かにまだ息はしていたのだ。
「……もうちょっとの辛抱だからね。待ってて、夕紀ちゃん、みんな……!」
――路地裏の魔女の妨害に阻まれつつも、なんとか二階へと昇りきった白鐘は少女たちを救うため、彼女たちの元へと駆け出して行くのであった。




