プロローグ 路地裏の魔女
「ハァ……ハァ……」
夕闇に染まる城山市商店街では、帰宅途中の学生やサラリーマン、買い物目的の主婦たちが道を行き交い、それらを呼び込むように、八百屋や魚屋などの呼び込みがあちらこちらに響き渡る。
その中を、ランドセルを背負った黒縁眼鏡の女の子が一人、焦り顔で走っていた。
「ゆきちゃんたちと遊びすぎちゃった……このままじゃ塾に遅れちゃうよー」
少女は一度立ち止まり、赤色の春用ジャケットのポケットからスマホを取り出し、時間を確認する。
「やっぱり……もうこの時間じゃ間に合わない」
途方に暮れながら、また一分と刻まれるデジタル数字を、少女はただ見つめる。
ふと、横に視線を向ければ、奥底まで暗闇が続く路地裏があった。
少女はこの道を知っている。ここを通れば、彼女の目的地である塾までの道のりがかなり短縮される。所謂近道というやつだ。
再び視線をスマホに戻す。現時刻から計算しても、この路地裏を使えば塾には十分に間に合うだろう。
しかし、少女は時たま使うこの道に対して、通るに躊躇せざるを得ない理由があった。
――最近、この城山市の小学生の間で流行っている噂があった。曰く『この町の路地裏には、女の子をさらう魔女がいる』っと。
実際に、少女の学校でも行方不明になった女の子が何人かいる。少女たちには、事の詳細は聞かされていないものの、彼女たちは魔女にさらわれたのだと、専ら話題になっていた。
塾までの近道として、時折使用していたこの路地裏が、少女にとって今は恐怖の対象になってしまっていた。
――この道に入れば、魔女にさらわれて食べられてしまう――っと。
もう一度時間を確認する。こうしてる間にも時間は進んでゆき、塾の授業が始まる時間まで十分を切っていた。ここから通常の道を全速力で走っても、十分以上はどうしてもかかってしまう。
少女の頭に思い浮かぶは、非現実的な魔女の存在よりも、塾の先生や両親の怒る顔であった――。
「……よしっ」
意を決した少女は、はやる気持ちとは真反対にゆっくりと、路地裏に足を踏み入れた。
まだ夕暮れ時だというのに、ビルの影に覆われた路地裏の薄暗闇は、地面が見えないほどでもなかったが、いつもと比べて異様なまでに黒く深い。よく使う道のはずなのに、まるで異世界に迷い込んだかのような錯覚を受けるのは、路地裏の魔女という噂への恐怖ゆえか。
「……まーじょなんてなーいさ! まーじょなんてうーそさ!」
とある童謡をもじった歌を、少女は自身の恐怖心を紛らわすために大声で歌い上げる。路地裏の魔女の噂が流れ始めたと同時に、魔よけのような役割として、女の子たちの間で流行り始めた歌だった。
この道からなら、歩いてでも間に合う距離ではあったが、少女は気持ち早めの小走りで、路地裏を渡っていく。
少しして、道の先に光が見え始める。路地裏から大通りへの出口が見えて、少女の心が安堵していっ――、
――トンッ。
「――っ!?」
背後から音が聞こえ、少女は立ち止まってしまう。
トンッ――トントンッ――。
またも聞こえるは靴の音。少女に向かってくるような音ではない。ソレはまるで、少女のすぐ後ろで、わざと聞こえるようにステップしているような、あまりにも近くて甲高い靴の音だった。
――誰かが、すぐ後ろにいるような気配を感じられた。
「…………ごくっ」
思わず唾を飲み込む少女の心臓は、今にも破裂せんが勢いで、バクバクと鼓動を鳴らしている。少女の脳内では、ここで立ち止まってはいけないと、警告の電波を流していた。
だが――意に反して少女の足は、その場から踏み出すことができなかった。
「…………」
体が少しずつ、背後の方へと振り返ろうとしている。頭の警告音はさらに高鳴っているのに、それでも体は止まろうとしなかった。
――何かがいるかもしれない。怖い……。
すでに恐怖心で喉を締め付けられているような息苦しさを感じるのに、それでも少女は背後へと振り返ってしまった――。
「…………っ」
振り返った視線の先には何もなかった――。入ってきた時と同じような薄暗闇が続くだけで、誰かがいたような気配もなくなっていた。
「……ふぅ」
自然と、少女は安堵のため息を吐く。緊張が和らぎ、心臓の鼓動もおとなしくなっていく。
「……いけない! 早くしないと遅刻しちゃう!」
未だ恐怖心が拭えぬというのもあったが、塾へと急ぐために前へと向き直した少女の視界――光さす出口が、一瞬で闇に覆われた。
「――むぐッ!?」
少女の顔の後ろから伸びた二つの手が、彼女の目と口を塞ぐように覆ったのだ。
「――――ッッッ!?」
口元を強く捕まれ、叫び声を上げることも許されなかった。
「ンンンンンンッッッ――――!!!」
謎の腕に引っ張られた少女は、暗闇へと姿を消していく。
――後に残されたのは、彼女が辛うじて発せたくぐもった叫びと、落ちた衝撃でレンズの割れた、少女の眼鏡だけだった。




